第17話 同じ席に、触れない距離で
エスメラルダ商会の名は、
まだ出ていない。
それでも私は、
金が来る直前の空気を
はっきりと感じていた。
夜の世界でも、
同じだった。
店が一段上に行く前、
必ず“静かな時間”がある。
◇
呼び出されたのは、
王宮の庭園だった。
業務用でも、
公式でもない。
夕暮れ時。
風が、少しだけ冷たい。
――誰にも聞かせない話をする場所。
◇
「……やっぱり、
ここを選ぶと思った」
私が言うと、
アレクシアは
わずかに苦笑した。
「君には、
もう読まれているな」
「殿下の選ぶ“席”は、
分かりやすいです」
それは、
褒め言葉だった。
◇
二人で歩く。
並んでいるが、
触れない距離。
この距離が、
今の最適解だと
どちらも分かっている。
「……最近、
眠れているか」
唐突な問い。
王子としての
質問じゃない。
私は、
少しだけ驚いてから答える。
「ええ。
不思議と」
「それは、
良かった」
短い返事。
でも、
本心だ。
◇
「怖くはないか」
彼が、
もう一度聞く。
前より、
少しだけ低い声。
「王宮も、
貴族も、
……俺も」
最後だけ、
一拍置く。
◇
私は立ち止まる。
彼も、
足を止めた。
「怖いですよ」
正直に言う。
「でも」
一歩だけ、
距離を詰める。
触れない。
けれど、
近い。
「殿下が
隣に立つと決めてからは、
怖さの種類が変わりました」
彼の目が、
わずかに揺れる。
「……どう変わった?」
「守られる怖さ、です」
期待してしまう怖さ。
失いたくないと思う怖さ。
言葉にはしない。
でも、
伝わる。
◇
アレクシアは、
何も言わなかった。
ただ、
少しだけ
こちらに体を向ける。
距離が、
さらに縮まる。
「それでも?」
彼は聞く。
「……はい」
即答だった。
◇
「金が来た時」
彼は、
静かに言う。
「俺は、
王子として動く」
「分かっています」
「だが」
一拍。
「その前と後は、
一人の人間として、
君の隣にいる」
それは、
告白ではない。
でも――
逃げ道を塞ぐ言葉だった。
◇
私は、
ほんの少しだけ笑った。
夜の仕事で
“落ちた客”に
向ける笑みとは違う。
「……重いですね」
「分かっている」
「嫌いじゃありません」
それだけで、
彼の表情が
やわらぐ。
◇
「では」
私が言う。
「その時は」
一拍。
「ご指名ください」
仕事の言葉。
でも、
今は――
少しだけ違う意味を持つ。
アレクシアは、
はっきりと頷いた。
「必ず」
◇
その夜。
エスメラルダ商会が
人を探している、
という噂が流れ始めた。
王宮と市場、
両方が動く前兆。
私は、
確信する。
順番は、
間違っていない。
そしてもう一つ。
この王国で、
一番危険な席は――
彼の隣だということを。
それでも。
私は、
そこに座ると
決めていた。




