⑬婚約破棄_申請
ここに来るのは、もう何度目だろう。
思い返すと、最初の一回目以外は、ろくな記憶がない。
一回目は、婚約の申請に来た日。
期待と緊張で胸が張り裂けそうだった。調べた手続きに必要な手順を二人で何度もこれでいいのかを確認し合っていた。
二回目は、暫くして手続きの不備に気づいたとき。
三回目は、その不備を修正するための申請。
それ以降は、AIに向かって抗議申請をしたり、「この方法で婚約破棄が通ったらしい」という噂を聞いては、いろんな方法を試しに来た。
そして、今回は――
本当の意味で、婚約破棄をするために来ている。
ここに来るまで、彼とは一言も会話を交わさなかった。
歩幅も、呼吸の速さも、お互いに気を遣っているのに、そこに言葉だけがなかった。
私は、彼との思い出を引き出すみたいに、道すがら何度も反芻していた。
一緒に笑った日々。
言い争った夜。
そして、数時間前の、あの言葉。
(思えばこの道も、ずっと“婚約破棄についての相談ルート”みたいになってたわね)
それが、今日で最後になる。
窓口のAIモニターが起動音を立てて光を放つ。
その前に立つのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「婚約破棄の申請をしにきたんだけど」
自分の声が、わずかに震えているのが分かる。
機械の冷たい音が、すぐに返ってくる。
経費削減でこんな古い世代のAIが使われており、画質も音質もどこかくぐもっている。
こんな無機質な仕組みに、私たちの関係の“区切り”を委ねるなんて
――そう思うと、腹の底でじわじわと熱が広がるのを抑え込んだ。
『先日モ オ越シイタダイタ
鈴木 星流宙様ト
田中 零無限様デスネ』
『データサーバーニテ 確認事項ガゴザイマスノデ
少々 オ待チクダサイ』
機械のイントネーションには、皮肉にも人間らしさは一切ない。
けれど、その平坦さが、逆にこちらの感情を容赦なく浮き彫りにしてくる。
『確認ガトレマシタ。
申請内容ハ“婚約破棄”デス』
『以下ノ内容デ 申請ヲ受理シマス』
モニター上に、細かな文字列が次々と並ぶ。
白い光がまぶしくて、瞬きをすると、その残像がまぶたの裏にも焼き付いた。
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『依頼内容:婚約破棄の再申請_11回目』
『前回からの変更点、指摘事項への対応状況――』
・婚約破棄により、両名の経済状態にポジティブな影響があることを確認
・婚約破棄に対し双方の同意があることを確認
上記事項を踏まえた婚約破棄の申請が可能です
――――――――――――――――――――――――――――
『婚約破棄ヲ申請シマスカ―― はい/いいえ』
私たちは、顔を見合わせることなく、並んだ選択肢を見つめた。
これが、最後の共同作業だと、二人とも分かっていた。
私は息を吸い込み、ゆっくりと右手を上げる。
指先がタッチパネルに近づくにつれて、周りの空気が一度、薄くなったように感じる。
指紋センサーの冷たさが、皮膚の上からじわじわ伝わってきた。
「……はい」
モニターの「はい」を押した直後、いつもの機械音声よりも、わずかに長い沈黙が流れた。
システムの処理待ちマークが、古臭い砂時計アイコンでくるくると回る。
ふと、画面の表示が変わる。
そして――見慣れた、あのメッセージが表示された。
『シカシ、ソノ結果――』
『鈴木 星流宙様ト
田中 零無限様ノ、
“婚約破棄”ヲ認メルコトハデキマセンデシタ』
無機質な合成音声が、淡々と告げる。
隣で、コスモが小さく息を呑む気配がした。
複数回の茶番じみた婚約破棄計画。
そして、初めて本気で願った“正式な別れ”の11回目の申請ですら――
AIは、あっさりと却下した。
『理由ヲ開示シマスカ? ――はい/いいえ』
またしても二人ではいを押す
モニターには、いつもの事務的なフォントではない、少し違う書式の文字が浮かび上がっていた。
そこに表示されていたのは、これまで見てきた「別れるための必要条件」ではなく――
むしろ「別れないほうがいい理由」の羅列だった。




