第九話 傾聴のとき
新キャラと久しぶりのキャラが登場します。なので、ややこしくなっていたらすみません
あくびを噛み殺した俺は、由命界総合病院のエレベーターに乗り三階へのボタンを押す。昨夜の一件で精神的にも身体的にも疲れが溜まったが、実験病棟の統括長である俺が仕事を休むわけにはいかない。軽いチャイムの音を聞き流し、白い床に足を付ける。
そのとき、懐かしい声が俺の鼓膜を揺らした。
「配流! 配流!」
何度も俺を呼ぶ方に振り返れば、インテリヤクザ風の男が年甲斐もなく手を振り跳び跳ねているのが見えた。俺の医大からの同期、篭野法助は満開の笑みでこちらに駆け寄る。その様子とエサを与えられた子犬に、既視感を感じたことは黙っておこう。
「配流! 六年ぶりだな! 急に病院辞めたから心配してたんだぞ。でも、元気そうで良かった」
「篭野こそ変わらないな」
眼鏡のフレームが持ち上がるほどに表情筋を使った篭野の笑顔は、あのときから一ミリも変わっていない。懐かしさが一気に込み上げ、涙が出そうになる。そのとき、ふと篭野の体つきにとある変化を認めた。
「篭野、ちょっと痩せたか?」
「え、怖……」
篭野は笑顔から一変、こちらに恐れおののく顔をする。そして白衣の上から腕を擦るが、そのおかげで体のラインが強調され、俺の勘が当たっていることを証明した。
「ほら、腕の筋肉なくなってるだろ。骨と皮しかない」
「お前、俺で良かったな。他の奴だったら今頃、殴り飛ばされてるとこだぞ」
掴んだ篭野の右腕は、俺の記憶のそれより細かった。篭野は高校生の頃から筋トレにはまり、出会った頃には既に太く逞しい男だった。記憶との乖離に唖然としていると、隙をつかれ篭野に腕を振り払われてしまう。
「……そうか。気に障ったならすまない」
「別に良いよ。忙しくて筋肉にかまう時間がなかっただけで、病気とかはしてなかったし。それに配流だって、昔に増してひょろひょろになってるじゃん。お互い様だよ」
俺たちはもつれ込むように、外科ラウンジのソファに腰かける。医師たちの休憩スペースになっているそこには、昔と変わらずコーヒーメーカーが置いてあった。篭野は二人分のコーヒーを淹れ、一つを俺に差し出す。
「今日は誰かのお見舞い?」
「いや……」
静かな篭野の問いに反射で否定しかけるが、すぐに自分の立場を認識し口を閉じる。今の自分は篭野と違い、私服を着ている。そして、実験病棟の存在を篭野は知らない。
「まあ、そんなところだ」
「何それ。歯切れ悪いね、配流」
曖昧に濁したせいで篭野は俺を怪しんだが、それ以上は何も言わなかった。一口、篭野がコーヒーを啜る。
「配流。俺は平気だから」
俺も篭野にならいコーヒーを飲もうとしたとき、唐突に彼がそう口にした。しかし意味を捉えかね、俺は篭野の顔色を窺う。
「この前、母校に関する取材依頼が来たんだ。それで一昨日、その取材を受けた。名前は伏せたけど、配流のこと話したんだよ。俺が思う本当の医者だって」
「そんなことしたのか……。確かお前、メディア苦手だったよな?」
「ああ。今回は院長に説得されて渋々了承した。でも、もうこりごりだな」
篭野はうんざりとした様子で首を振る。それでも、篭野は清々しい気配を漂わせていた。よほど有意義な時間を過ごせたのかもしれない。俺は話の続きを待った。
「それでさ、配流のこと話したら、記者に素敵な解答だって言ってもらえたんだ。素敵だとよ、お前」
「それは……。とりあえずありがとう」
それが決まり文句で、記者が心から思ったことではないと理解していたが、気持ちだけでも受け取ることにした。さすがに篭野にこのことを言うのは、子供にサンタの正体を教えるようなもので気が引ける。
「うん。だからさ、気にすんな。今は大変だろうけど、お前がすごく良い奴ってことはちゃんと知ってる。それに、俺のことも気にしなくて良い。こんな感じで、俺のことを正しく知ろうとしてくれる人たちがいるからな」
ようやく、篭野の話の要点が捉えられた。篭野は不器用に、そして愚直に、俺を励まそうとしてくれているのだ。それだけで、心がすっと軽くなる。
「篭野、あまり柄にもないことするなよ。ミスマッチで面白おかしいだろ」
「はぁ? 今のどこに笑う要素があったんだよ?」
溢れそうな笑みをなんとか塞き止め、俺は真顔を維持しようと努める。それなのに、本気で怒ってくる篭野に更なる笑いの波が呼び覚まされた。
「ごめんって。篭野、ありがとう」
言い終わる頃には、吹いていた。でもそれは、面白いからではない。安心したから。篭野という存在が、暖かかったから。
「お互いに仕事頑張ろうな」
「なあ、配流。今でも医者、やってるか?」
実験病棟に向かおうとした俺の背中に、震えた言葉が投げ掛けられる。俺はそれに、答えるべきなのだろうか。考えがまとまらないまま、篭野へ振り向いた。
「配流?」
まったくアラフォーだとは信じられないくらい、篭野は心細そうに俺の瞳を見た。静寂の院内では、彼の息づかいまで聞こえてくる。
「医者ではない。でも、命を救いたいとは思っている」
そう答えるので、精一杯だった。俺は篭野の反応を見ようともせずに、階段室に消える。実験病棟の存在を知らない篭野の前で、あの部署の鍵は開けられない。
一度外に出て勝手口から入ろうと決め、俺は階段を下った。
ーーーーー
朝川探偵社から出た僕たち四人は今、由命界総合病院ではなくSTARSプロダクションの会議室にいた。さすがにアポ無しで大病院を訪ねるわけにはいかないので、段階を踏むためだ。
「というわけで実琉さん。叔父さんに連絡とっていただきたいんです。お願いします」
「頭上げてください! マネージャーが担当アイドルにこんなことされるの、ご法度なんですよ」
僕は目の前に座る自身のマネージャー、寺島実琉に凄まじい勢いで頼み込んだ。ここからは彼の協力が必要不可欠になるのだから、これくらいはさせてもらいたい。
「璃王さん、気持ちは分かりました。だから一旦、話し合いましょう」
落ち着いた口調で実琉にたしなめられ、僕は深呼吸しながら体を起こす。険しい顔つきの実琉と目が合い、僕はようやく冷静に話をするべきだと自覚した。
「すみません。いろいろと、余裕がないもので」
「大丈夫です、分かっていますから。あんな炎上騒動が起きて、しかも自分の知人が世間に断罪されている。そんな状況で落ち着いていられる人間なんていませんよ」
「実琉さん、ありがとうございます。それで、叔父さんに繋いでいただいてもかまいませんか?」
「叔父も忙しいんですよ。由命界という大病院の院長先生なんですから」
そう言いながらも、実琉はスマホを取り出し電話をかけ始めた。甥からの着信に、仕事中の院長は気付くだろうか。少しばかり不安になりつつ、僕たちは実琉の電話が繋がるのを待った。
「あ、もしもし。叔父さん?」
長いコール音を響かせ、そろそろ留守番電話に切り替わるだろうというところで、実琉の電話は繋がった。実琉はスピーカーモードにしたスマホを、僕たちの前に置く。
「実琉くんか。どうした? こんな時間に」
おっとりと、いや、のんびりとした口調で電話口の男が質問した。それが総合病院の院長と聞いてイメージしていた人物像からだいぶかけ離れていて、面食らってしまう。
「叔父さん。今日か明日、空いている時間ない? 璃王さんと朝川探偵が話を聞きたいって」
「探偵さん? もしかして、今騒ぎになっている誘拐事件のことか? でも何故私に」
うんうんと唸る院長にしびれを切らし、愛意がスマホに顔を近づけた。
「初めまして。探偵の朝川愛意と言います。あなたを訪ねる理由は二つです。一つ、隠されている実験病棟という部署の謎を知るため。二つ、配流玲がどういう人なのかについて聞くため。確か、配流玲を由命界にスカウトしたのはあなたでしたよね?」
「なるほど。そこまで知られているとは。最近の探偵さんって優秀なんだね」
ビデオ通話ではないのに、大きく笑みを浮かべている朗らかな顔が見えてくる。あまりにも素直で、感情が声に出やすい人だ。
「それにしても、配流先生の件か。それは私からも説明させてもらいたいことだ。今からなら時間があるが、こちらには来られるかな?」
「本当ですか? ありがとうございます! 今から伺いますね」
嬉々として立ち上がった愛意がお礼をすると、優しい笑い声が聞こえた。愛意は院長から子供扱いされているらしい。明らかに院長は和んでいる。
「叔父さん、ありがとう。今度お礼させて」
「いいよいいよ。遠慮しとく。気を付けて来るように言っといてね」
「うん。ありがとう。また後でよろしく」
丁寧に挨拶をして電話を切った実琉が、ポケットから車の鍵を取り出す。今の時代には珍しい、差し込み型の鍵だ。
「由命界まで送ります。こんな暑い中、歩かせられませんから」
「ありがと、実琉さん。よろしくお願いします」
僕が微笑むと、実琉も微笑みを返してくれた。そのまま僕たちは地下駐車場に向かい、停めてあるバンに乗り込む。
後部座席で僕たちがシートベルトを締めたことを確認すると、実琉はエンジンをかけ車を発進させた。その途端、重力と慣性の法則のせいで、僕たちの体はシートに強く打ち付けられる。
「社長、平気ですか?」
「な、なんとか」
「すみません。なるべく慎重に運転しますね」
乱れた髪を整えた愛意は姿勢を正し、今度は倒れないようにアシストグリップを強く握る。そういえば、玲もタクシーなどの後部座席に乗るとき、こうやってアシストグリップを掴んでいた。体の線が細い人は、車体の揺れに振り回されやすいのだろうか。
「璃王さんってすごいですね。配流玲とも知り合いなのに、まさか由命界の院長の身内とまで知り合いだとは」
「ああ、それはね」
僕は六年前の、由命界総合病院での出来事を思い出す。僕が一番最初に出会った寺島家の人間は、実琉ではなくその兄の真都だった。
「みんなも知ってのとおり、僕は六年前、玲さんを探して由命界に出入りしていた。そこで実琉さんの兄の真都さんに会ったんです。当時の真都さんは由命界で院長秘書をしていて、玲さんのことを訪ねているうちに、まぁ仲良くというかよく話すようになりました」
「兄さんはその頃、主に病院の人事を担当していたので」
「そういえば、六年前からの一年間って璃王さんがフリーで活動していた期間ですよね? もしかしてSTARSプロダクションに所属したの、真都さんが実琉さんを紹介したからですか?」
僕は新希に首肯して、ハンドルを握る実琉の横顔を見た。この兄弟に出会わなければ、今の僕のアイドル活動はない。
「何度か会話を重ねるうちに、身の上話もする仲になりまして。そのときに事務所に所属していないアイドルだとこぼしたら、芸能事務所にマネージャーとして入社したばかりだという弟を紹介してくれました」
「新人だったので仕事がなかった俺は、なんとしてでも会社に認めてもらいたかったんです。そこで璃王さんをスカウトして、担当マネになったんですよ」
実琉の話に、懐かしい思い出が浮かび上がる。あのときは、お互い必死に他人からの評価を得ようとしていた。意気投合とはまた違う、相互利益の関係だった。
「だから、たまたま由命界の関係者と知り合いになったというより、由命界の関係者としか知り合えない状況だったって感じかな」
僕の説明に愛意たちが腑に落ちてくれたのと同時に、バンが病院の駐車場に入った。目に刺さるほど白い壁と、そこに嵌め込まれた窓ガラスが正午の太陽を反射している。
実琉に感謝しながら下車した僕たちは、花壇の間の小道を進み院内に足を踏み入れた。冷気がマスクの下の頬をさすり、ぞわりと鳥肌が立つ。さすがに冷房が効き過ぎではなかろうか。
「叔父は院長室で待っています。案内しますね」
遅れてやって来た実琉に続き、エレベーターで最上階に向かう。箱から出ると、実琉は最奥の部屋の扉を叩いた。扉の脇では、『院長室』と掘られた室名札が空調の風を受け揺れている。
「こんにちは。お待ちしておりました」
「こんにちは、栗山さん。探偵さんたちをお連れしました」
秘書と聞いて百人が揃って思い浮かべる風貌の男性が、僕たちを室内に招き入れる。途中マスクで顔を隠している僕に怪訝な目付きをしたが、マスクをずらし顔全体を見せれば、栗山はすぐに笑顔に戻った。この世界、不名誉な形でも名前と顔を売るのは正義だからと、プロダクションの社長が言っていたことを思い出す。
「やあやあ、実琉くん。久しぶりだね」
「叔父さん、相変わらず元気そうでなにより」
元気よく挨拶を交わす実琉と院長を尻目に、栗山は僕たち四人をソファに座らせる。さすが大病院の院長室ということもあり、ソファは革張りのものだ。座り心地も肌触りも良く、可能なら家に設置したい。
「それじゃあ、叔父さん。俺はこれで帰るね。仕事があるんだ」
「分かった。気を付けて」
名残惜しそうに甥を見送った院長は、僕たちに名刺を差し出し自分もソファに腰を落ち着かせる。
「定芽、ですか。珍しい名前ですね」
「はは。よく言われるよ。兄貴は比較的普通の名前なのにな」
新希の率直な感想を笑い飛ばし、定芽は栗山を見上げた。そこから定芽の言いたいことを読み取れた栗山は、胸ポケットからパスケースを出し名刺を引き抜く。かなり変わったところにしまっているが、すぐに名刺を渡せるし失くしにくいしで、効率は良さそうだ。
「院長秘書の栗山根生人と申します。以後、お見知りおきを」
「よろしくお願いします」
直角の綺麗なお辞儀をした栗山は、こちらから視線を外すことなく定芽の一歩後ろに下がる。驚くほど、その動きがその位置が、しっくりときた。
「院長先生。さっそくで申し訳ないですが、質問させていただいても?」
「ええ。どうぞ。私が答えられる範囲で、何でもお答えします」
愛意がそう切り出し、定芽は快諾して話を促す。僕はいきなり局面に突入したことについていけないまま、とりあえずマスクをとって誠意を示した。隣の新希と明日斗から、こわばった雰囲気が流れ出る。特に明日斗は、手汗を拭うように腿をこすっていた。
「ありがとうございます。まず、実験病棟について教えてください。存在を隠しているようですが、それはどうして?」
「もめたくないから」
「え?」
「それが一番の理由だよ」
特に深い意味もないらしく、定芽は柔和な顔を崩さない。だが真面目に尋ねた愛意はバカにされたと思ったのか、額に青筋を立てた。
「知ってる? 研究成果の特許問題」
「あ……」
思い当たるふしでもあったのか、明日斗は声を上げ黙り込んだ。深刻な表情で、ただ一点を震えた瞳で見つめる。
「君は……明日斗くんだね。たぶん、今君が思い浮かべたことで合ってるよ。昔の話なのに、覚えていてすごいね」
「もめたくない、ですか。それなら、実験病棟なんて作らなければ良かったのでは?」
「うん。そのとおりだよ。君が正しい」
明日斗から非難の目を向けられても、定芽は肯くだけだった。僕も記憶の海に潜るが、あいにくニュースに興味がない子供だったので何も見つからなかった。でも、この病院で何かもめ事があり、そのせいで実験病棟という秘密の部署が作られたことは会話から察せられる。
「院長先生、私にはさっぱり分かりません。説明していただいても?」
「ああ、そうだったね。君の質問に答えないと」
「十年前、この病院の研究室に勤めていた渡献大医師が、他院の研究者に襲われる事件が発生した。俺の記憶が確かなら、それ以来この病院で研究者は雇っていませんよね?」
つらつらと冷めた口調で、明日斗が言葉を並べた。それに驚いて前のめりになった栗山を、鋭い目付きの定芽が腕で押さえている。明日斗は間違いなく、これから定芽が話そうとしていたことに先回りをした。
「明日斗? どういうこと?」
「そういえば、昨日何かパソコンで調べてた……。もしかして、これを?」
うろたえながらも、愛意と新希がなんとか質問を紡ぐ。しかし明日斗はそれを聞き流し、定芽と栗山を交互に見た。
「明日斗くん、正解だよ。すごいね」
「院長!」
「良いんだ、栗山。私は質問に答えると約束した。下がってなさい」
窘められた栗山は唇を噛みしめ、院長の命令に従う。そのとき、もう定芽に、あの柔らかな雰囲気がないことに気が付いた。全身から、責任を持った大人が存在を示す。
「この病院は、もともと大学病院だったんだ。だから薬学生のための研究室もあった。だけど、二十年近く前に連携していた大学が閉校。それを受けて、ここは国立の総合病院となった」
栗山が耐えられないとばかりに、棚の上のポットでお湯を沸かし始める。
「と言っても、施設はそのまま使えたから研究室も残った。渡くんは大学からの持ち上がりという形で、ここで働くことになった。研究室で、いつも新薬の開発に勤しんでくれてね。優秀だったよ」
定芽はそこで天を仰いだ。潤んだ瞳から、雫が落ちないように。
「でも優秀過ぎて、周りに自分と同じものを求めてしまったことが、すべての始まりになった。渡くんは仲間を失い、それでも一人で研究を続けた。そんなとき、渡くんに新しい上司ができた」
栗山が僕たちの前にティーカップを置く。立つ湯気も光を反射する液面も、ゆらゆらと揺れていた。
栗山は今までの話を聞いていたようで、一冊のファイルをこちらに開く。そして一枚の写真を指した。白衣を着たやつれた男と、白のライダースを着た若い男の写真。
「渡くんと、その隣は陣内先生。陣内先生はね、今まで渡くんが接したことのないタイプの人間だった。天才と呼ぶにふさわしいほどの頭脳を持っていながら、驕ることなく人と対等に関われる。渡くんが心を開き慕った上司は、後にも先にもこの人だけだった」
「二人っきりの研究室で、いつも夜遅くまで残って研究をしていました。あんな時間が、ずっと続けば良かったのですが……」
「少し難しい話になるけど、新薬の開発にはそれなりの人員と経費が必要となる。だから二人だときつくてね、二条大学病院の研究室と合同研究をしてもらっていたんだ」
僕の腕がピクリと跳ねた。過去のことなのに、それは地獄の始まりだと忠告したい。
「その結果、由命界と二条の医師たちは新薬を開発した。そこで、例の特許問題だ。取り分や成果の帰属についてで病院同士もめてね。最初に決めておくべきだったとか、悠長なことを言っている場合でもなくなった」
なんとなく、当事者でもないのにその気持ちは理解出来た。自分の努力は報われて欲しい、そして誰よりも自分を褒めてもらいたい。人間の醜い部分を、僕は知っている。
「もめにもめて、結局何も決まらなかった。それなのに向こうが勝手にヒートアップして、我々を退けようとした」
「二条が、権利を独占するために……」
「そう。そうやって、渡くんは歩道橋の階段から突き落とされた。職員が負傷したら、そっちにかかりっきりになると思ったんだろうね。悔しいけど、私たちはそうしてしまった」
悔しさに顔を歪め、定芽の握られた拳が震える。強い怒りだけが、この場を支配した。
「新薬の特許は完全に向こうの物になった。そして、私たちはこのようなことを二度と起こさないために、由命界から研究室を撤廃した」
栗山がファイルを閉じた。それが、終わりの合図だった。
人間の欲は、どこまででも他人の人生を壊す力を持っている。そんなことみんな分かっているのに、自分には悲劇が起こらないとたかをくくっている。
「そんな大事件があったにも関わらず、どうして実験病棟を作ったのですか? あの建物は多く見積もっても、築十年以内ですよね」
「ああ。別館は八年前、実験病棟の設立とともに建設した。つい最近のことだよ」
栗山はもう院長を止めないらしく、黙って後ろで手を組んでいた。そして、しっかりと主を見守る。
「陣内先生から、渡くんが自分のせいで研究施設が廃止されたと嘆いている、そう聞いてね。薬が患者の体質に合わないという事例が多発していた時期でもあったし、ちょうど良い頃合いだと思ったんだ。私は陣内先生を統括長に指名し、実験病棟を立ち上げた」
「そのときに、私が進言したのです。また同じことが起きたら、それこそ渡さんに合わせる顔がないと。それで限られた人間にだけ存在を伝え、その者たちと患者に箝口令を敷くことになりました」
僕は息を吐いた。すべてが一直線に繋がり、現状と結び付く。明日斗も厳しい表情を解き、背もたれに全体重を預けていた。
秘密を守ることで、医師たちの命も守る。そんな場所に玲がいる事実が、僕に不安と安心を与えた。
「ちなみに、配流玲はいつから実験病棟で働いているんですか?」
僕と同じように口を挟めなかった新希が、ここぞとばかりに手を挙げた。玲の話題が出たことで、僕の肩に自然と力が入る。新希に直視された定芽が口を開こうとするが、一瞬速く栗山が答えた。
「六年前です。陣内先生からの推薦により、外科から異動していただきました」
「六年前……」
その時期なら、推薦の他に思い当たる理由があった。僕は体の震えを感じ取られぬよう、全身の筋肉を硬直させる。
「もしかして、外科を辞めたのは玲さん本人の意思ですか?」
「ええ。最初は病院自体を辞めようとしていたのですが、陣内先生がそれを引き止める形で推薦を」
やはり、そういうことなのだ。僕は六年前に思いを巡らせる。あのとき、玲は確かにそう言った。
俺はもう、誰も救えない。
白いベッドの上で、玲の心は凪いでいた。いや、そう見えた。静かに重く、玲の言葉が胸に響く。僕のせいで、玲は誇りを失った。ずっとそのことを謝りたいと思っていた。それでも、玲が命を救う仕事をしていることを喜ぶ自分もいる。
「これではっきりした。配流玲はこの病院の実験病棟にいる。院長、そういうことでよろしいですよね?」
「ああ。そうだよ」
定芽の優しい宣言で、情報の正しさが証明された。天王寺友加のあの言葉は、嘘ではない。ならば、玲本人の言葉も証明するべきだ。
「院長、寧音ちゃんが実験病棟にいるというのは、事実ですか?」
「配流先生から、そのように報告を受けている。そして昨日の実態調査で、藤條さんからも同様の報告を受けた」
僕が安堵すると同時に、隣で愛意が立ち上がり勢いを殺すことなく頭を下げた。下を向いたせいで、愛意の瞳から涙が落ちる。
「お願いします! 寧音に、妹に会わせてください! お願いします」
愛意の声に、聞いたことのない悲痛さが混じる。顔を上げようとせず、愛意はただ定芽が許可するのを待つ。引き離されていた家族とようやく会えるのだ。
僕は、期待と圧の混合視線を栗山に注ぐ。それに気付いた栗山は身じろぎ、意を決してから僕を睨んだ。怒りはなく、悲しみだけの色をしている。
「私も出来ればそうしたい。でも……」
「患者との面会許可は、院長ではなく担当医が出します。朝川寧音さんの担当医は、配流先生ですよね。彼が許可しないかぎり、我々が勝手に引き合わせることは出来ません」
定芽の言葉を引き継ぎ、栗山がきつい口調で断言した。憎まれ役を買って出たことは、彼の目を見ればすぐに理解できる。
「でしたら! 配流玲に掛け合わせてください」
愛意が、有無を言わせぬ強さで定芽をねめつける。しかし定芽も栗山も、一歩たりとも譲るつもりはない。両者の間に、見えない火花が散る。そのとき、声を割り込ませる者がいた。
「あの、それって制度であって意思ではないですよね?」
新希だった。彼は困ったように眉をひそめ、愛意の様子をちらちらと伺う。それでも固い決意を胸に、言葉を続けた。
「配流玲は、何と言っているんですか? 我々は、違法な手段で寧音さんがここにいると知りました。なので、彼は自分の患者の存在が外部に知られている、その事実を知らないはずです」
「そうだったな。院長、配流玲に伝えてください。我々は寧音さんの現況を知っている。我々からは、逃げも隠しも出来ないと。その上で、彼の意思を聞きたいです」
定芽は目を丸くした後、観念したように降参のポーズをとる。その顔は純粋な称賛で満ちていた。新希と明日斗の頭の回転の速さに驚愕した僕も、きっと定芽と同じ顔をしている。
「分かったよ、君たち。配流先生に尋ねてみるね。だから、明日まで時間をくれないかな? いくら秘密の部署だと言ってもね、実験病棟は忙しいんだ」
「了解しました。彼からの返答を得られたら、名刺に書いてある番号に電話をください。私の事務所に繋がりますから。お願いします」
愛意はもう一度、念を押すために頭を下げた。
「それでは失礼します。ありがとうございました」
退室しようと歩き出した愛意の背を、僕たちは慌てて追いかける。そしてその後を、こちらも焦って栗山が追う。
「正面まで送ります」
僕たちを追い越せた栗山が院長室の扉を開け、僕たちを先導する。そして正面玄関から出たところで、駐車している空きタクシーの運転手に声をかけた。
「すみません。彼らを乗せていただけませんか?」
「大丈夫ですよ。どちらまで?」
「朝川探偵社まで、お願いします」
栗山からの視線を受けた愛意が、行き先を告げ後部座席に座る。新希と明日斗も運転手に挨拶し、その隣に並んで座った。
「運賃、これで足ります?」
「じゅ、十分過ぎます」
栗山から万札を握らされた運転手が、上擦った声でお札を突き返そうとする。しかし栗山は聞く耳を持たず、僕を助手席につかせるとドアを閉めた。
「それでは、お気をつけて」
爽やかな笑顔で栗山が手を振るので、運転手は致し方なく車を出した。僕は小さくなる清々しい笑顔を振り返りながら、後ろで唸っている明日斗に意識を割く。
「すみません。でしゃばってしまって」
「良いのよ、明日斗。よく調べてたわね」
「ありがとうございます。……じゃなくて、俺のせいで実験病棟の話ばかりになってしまったんですよ。配流玲の人物像、結局分からないままじゃないですか!」
愛意が目を泳がせ、それから天井を見つめる。完全にそのことを失念していたのは、僕もだった。話が違うところで重くなり、盛り上がってしまったせいでそちらに意識を向けていた。
この場にいる誰もが、配流玲という人間を知らない。誰も、知っていない。
僕は、今後のことを話し合う愛意たちの声を聴きながら、目を閉じた。
ーーーーー
「失礼します。お呼びでしょうか? 病院長」
仕事終わりの夕暮れ時、院長室の扉がノックされ実験病棟統括長の配流玲が姿を現す。配流は院長秘書の栗山に導かれるまま、院長のデスクの前に立った。
「配流先生、お仕事お疲れ様。急に呼び出してすまないね」
「いえ、問題ございません。それよりお話というのは?」
慇懃な態度で受け答えを始めた二人の邪魔にならぬよう、栗山は気配を消して出口の傍で待機する。院長の寺島はそんな自身の秘書には目もくれず憂いを纏い、配流の出方を伺った。
「君の患者への面会を希望する人がいるんだ。面会には、担当医である君の許可がなければならない。どうだろう?」
「朝川寧音のご家族ですか?」
「お姉さんだそうだ」
配流はほんの一瞬驚き、ややあって何かを呟いた。おそらく、近くにいる寺島にも聞き取れていない。しかし念仏のように長いそれは、確実に配流の思考をそっくりそのまま垂れ流している。
「彼女たちは、私が朝川寧音を誘拐した犯人だと断言していましたか?」
「いや。ただ、君への伝言を預かっている。我々からは逃げも隠しも出来ない、だそうだ」
「隠れる、ではなく隠す。どうやら少しだけ、見当違いをしているようですね」
配流は余裕綽々と頬を吊り上げた。安堵と嘲笑が交互に現れ、そして消えていく。
「君は、君の大切な人を守っている。そして、その人の罪を隠している」
「ええ。ですが、彼らはそこまで辿り着いていないでしょう。私がどういう人間か、知らないはずですから」
「だけどね、私は知っているよ。君のこと」
椅子から身を起こし、寺島はデスクに両の手の平を押し当てた。配流を威圧したいようだが、いかんせん配流は身長が高い。寺島はせめてもと、目の前の男をねめ上げた。
「五年前、君は私を頼ってくれた。あのときの君は、ひどくうろたえ動揺していた。私がその理由を問えば、君は正直に話してくれたよね。だから、君が隠したいと願う気持ちも理解出来る」
「院長……」
「だから配流先生、もう良いだろう? そろそろ君も、自由に生きて良いはずだ。無理しないでくれ」
懇願だ。栗山は無意識に指を組み、寺島の思いが届くことを祈る。しかし配流は、本当に同じ光景を見、同じ言葉を聞いたのか疑ってしまうほどに、表情も纏う空気も変えなかった。
「院長、朝川寧音の家族に伝えてください。もう少しだけ、待っていただきたいと。俺が、あの人と向き合えるまで」
「配流先生。君の苦しみは理解している。でも、だからこそ、朝川さんたちのことを考えてはくれないか? 残酷なことかもしれないが、今優先されるべきなのは君の願いではなく、彼女たち家族の安寧だ。大人なのだから、そこは割り切ってもらいたい」
「院長、申し訳ございません。それは出来ない相談です」
ぐしゃりと、寺島が絶望に歪む。倒れていないことが不思議なほどに、彼の心と体は震えていた。
「俺は医者として、患者を救うことが一番だと信じています。そして一人の人間として、自分の大切な人には幸せでいてもらいたい」
配流は、月並みの決意を表明する。ほとんどの人が好感度稼ぎで言うそれは、しかし配流にとっては当たり前で、いわば聖書なのだろう。配流の瞳に濁りはない。
「それ以外は、知りません。俺は最低な男なので、自分の身近にいる人間のことしか考えられない。そこらかしこにいる他人のことまで考えると、俺は疲れてしまう」
「朝川さんは他人だから、優先することはないと」
寺島の挑戦的な質疑に、配流は淀むことなく応答する。
「ええ。俺はあの人に、罪を背負うつもりなのか問うつもりです。その答えさえ得られれば、俺は面会許可書に判を押しましょう」
「そこまで大事か? その人は、それほどまでに君の人生に影響を与えられるのか?」
「今は家族ではないけれど、いつか家族という形に収まりたい。あの人は俺の寂しく冷たい人生に、ぬくもりという明かりを灯してくれた存在だから。院長。俺はむしろ、自分の人生一つであの人が救われるなら、喜んで差し出せますよ」
水と油。不倶戴天。二人の意見が相容れないことに、栗山はようやく気が付いた。寺島は医師として患者とその家族のことを、そして病院長として部下のことを案じている。でも配流は、一人の人間として自身の大切な人を救いたいと考えている。自分を犠牲にしてまで。
栗山は五年前に何が起きたのかを知らない。なのでただ彼らの会話に耳を傾け、想像するしかない。配流の守りたい存在、寺島の伝わらない心配。何もかもを、想像で補うしかない。
だがそんな栗山でも、朝川家が揃うときが今すぐにはこないと分かる。そして、それがそう遠くない未来だということも。
読んでいただきありがとうございました




