第八話 暖かなとき
白樺のテーブルに並べられた料理に、俺は思わずひいてしまっていた。チキンのトマト煮込み、ヨーグルトサラダ、そしてチーズリゾット。明らかに作り過ぎだ。
「お帰り、玲。寧音ちゃんは特に異常なかったよ」
「ただいま」
にこやかに出迎えてくれた友加になんとか返事をし、洗面所で手洗いを済ませる。リビングに行きイスにつくと、友加は鼻歌交じりに箸を手渡してきた。
「このメニューで箸なの?」
「ん? 別のが良い? そっかリゾットあるからね」
カトラリーを取りに友加がキッチンへと消える。俺は預けていたデバイスを開き、朝川寧音のデータを確認した。友加の言うとおり、目立った数値の推移は記録されていない。友加のことは信頼しているが、専門が違うので念のためだ。
「はい。仕事のことは一旦忘れて」
いきなり現れた友加に頭上からデバイスを没収される。その代わりに、俺はスプーンを持たされた。
「仕事一筋なのは、玲の良いところだよ。でも休憩はちゃんととらないとダメ」
「だからって、これは作り過ぎだよ」
ようやく念願のツッコミを入れられたが、友加は可愛く首を傾げるだけだった。
「そう? もしかしたら、玲が久しぶりに帰って来たから張りきり過ぎたのかも」
「久しぶりって……。大袈裟な」
「そんなことないよ。もう二週間は帰って来てない。充分久しぶり」
友加がトマト煮込みをお椀によそい、俺の前に置く。湯気に乗ってトマトの酸味が香った。食欲を刺激する良い匂いだ。
「そう言われると痛いね。俺も空のペットボトルの量には驚いたけど」
「病院に寝泊まりするくらい忙しいのは理解してる。でも、自分の体を労ってあげて」
友加の視線が俺の右脇腹に注がれる。そこには、俺が人を救えた証が刻まれている。六年前のあの行動を、俺は後悔なんてしていない。これで良いと自分では受け入れられているが、友加は未だに引きずっているらしい。
「大丈夫だよ。最近は天気が悪くても痛まない。気にならないから」
「それも心配だけど、普通に体調崩して欲しくないの。分かる?」
「はいはい。いただきます」
耳にタコができそうなほど聞いた言葉を受け流し、手を合わせてからリゾットを口に運ぶ。友加も慣れているので、何事もなかったかのように食事を始めた。
「ね、おいし?」
「いや……しょっぱい」
リゾットが半分近く減ったところで、友加が期待を込めて身を乗り出す。俺は少し考えてから、素直に答えた。友加の気の浮きようから自信作なことは分かるが、今後のためにははっきりと伝えた方が良い。
「リゾットに味噌入れたでしょ? それがしょっぱい」
「うっそ……。隠し味だったのに」
「隠れてなかったな。むしろ主張しまくってた」
本当のことを言ったのだが、意地悪な人みたいになってしまった。肩を落とす友加に申し訳なくなり、俺は急いでかけるべき言葉を探す。
「でも、おいしいよ。友加の料理は、いつもあったかい」
「あったかい? 料理の感想にしてはおかしい気が」
俺の発言を額面どおりに受け取った友加に、はしたないと理解しながら吹いてしまった。そういうことではない。眉をひそめる友加にきちんと伝えるべく、俺は今までに感じた様々な想いを整理する。
「温度のことじゃないよ。友加の料理には、気持ちがこもってる。食べると心が暖まる、思いやりに溢れた料理だ。今回は失敗してたけど、隠し味だって俺が喜んで食べられるようにって、入れてくれたんでしょ」
この前は遊び心で、ポテトコロッケに板チョコを入れていた。友加は決して、食べるためだけに料理をしない。二人で楽しく食卓を囲めることが、友加の目的であり俺の癒しなのだ。
「厚労省から帰って来るとき、柄にもなく思ったんだ。この家で友加が待ってくれていること、誰かと食事を楽しく行えること、それがどれだけの幸福かって」
「ほんとだ! 柄じゃない」
ぎょっとした拍子に、友加の口が大きく開く。友加はそれを隠すため手で口元を覆うが、指の隙間から血色の良い紅の唇が覗いていた。
「友加の料理も、この家も、ずっと暖かく俺を受け止めてくれる」
俺はスプーンを置き、背筋を伸ばす。友加がよそってくれた量の半分しか食べていないが、もうお腹は満たされていた。そして、俺の心はとある決意で満ちている。一人で抱えられる自信はないが、友加に話したら軽くなる確証があった。俺は、友加の宝石よりも輝く瞳をまっすぐに見つめる。
「きっと、どんな人にもそんな優しい場所があるんだ。だからこそ、俺はちゃんとあの人と向き合いたい。向き合って、話し合って、朝川寧音のことをどうするか決めたい。あの子のことを、ずっと待っている家族がいる。俺のせいで、五年も待たせてしまった。だから、早くあの子をお家に返してあげたい」
五年前のあの日、俺は尊敬するあの人の本性を知った。あの人の苦しみに、俺は気付いてやれなかった。だからそこから救おうとした。あの人には笑顔が良く似合う。ずっと笑っていて欲しい。そんな自分勝手な願いが、朝川寧音とその家族から笑顔を奪うことになった。
「そうだね。家族が帰って来ないのは寂しい」
友加がそっと目を伏せる。長い睫毛が、友加の白い肌に暗く影を落とした。友加の手も、これ以上食事を進めようとしていない。
「でも、今すぐにってことではないでしょ? まさか、明日にでも行動するつもり?」
友加の声が、体が震える。
「ああ。早い方が良いからな」
俺の声は硬度を持って響いた。正直、友加が震える理由も分かる。友加には全部話した。誘拐事件の真実も、あの人の真の姿も、俺の感情も。全部ぶちまけて、同じものを背負わせてしまった。だから、友加が恐れる気持ちも理解出来た。
「だけど、友加の考えていることも分かる。俺を心配してくれているんだろ?」
「うん。五年前、玲が打ち明けてくれたあのときから、私はずっと真実が白日のもとに晒されることが怖い。そうなったらきっと、玲の幸せが壊れてしまうから」
この人は本当に優し過ぎる。出会ったときからそうだった。俺より年下なのに、俺より大人で周りが見えている。そこに、あの人の面影を感じたこともあった。誰かの幸せのために突っ走れる、そんな強い優しさ。俺は、それを持っている人間が大好きだ。
「ありがとう、友加。でも俺はそうやって言い訳をして、ずるずると問題を先送りにしてきた。その結果がこれだ」
机の角に置いていたスマホを取り、ニュースのまとめサイトを開く。それを差し出せば、友加は俺の言いたいことを察したらしく目を細めた。
「罰が当たったんだ。しかも周りの人間も巻き込む、最低最悪な形で」
「玲は優しいよね。こんなの、民衆の悪意でしかないのに自分のせいだって言える。私、こういう善意の皮を被った破壊の化け物、大っ嫌い」
俺の手の中で電源を切り、友加はスマホを突き返した。拒絶反応が分かりやすい人だ。
「破壊の化け物って、人聞きの悪いこと言うね。仕方ないんだよ。ネットが普及して、いろんな情報が飛び交う世の中になった。罪を犯したら晒される、これが自然の摂理として現れた」
「そうだけどさ。ネットリテラシーとかなんとか……」
うんざりした様子で友加が首を振る。いつも、友加の言うことは正しくて曲げられない。だから友加と意見が対立していると気付いたら、自分の意見を貫き通す芯を持たなければならない。俺にそれが出来るかどうかは別の話だが。
「俺が真実を話せば、荒牧たちの無関係は立証される。俺しか悪くないって、世間も分かってくれる。もちろん友加だって、俺と一緒に背負ってくれたものを捨てられる。良いことづくめだ」
「ちーくんはどうするの? 顔は出回ってないけど、一部の人間は気付いてるよ。岸片大学は一流大学だから、そこの教授ともなれば有名人」
友加は顔をしかめ、俺を見上げた。俺が何かに気付くよう期待している雰囲気だが、あいにく思い当たる節はない。
「何が言いたい?」
千歳巡に関しては、俺の親友という情報だけが独り歩きしている印象だった。俺は友加の考えが読めず、頭をひねってしまう。すると友加は眉根を寄せ、思い詰めたようにため息を漏らした。
「荒牧くんや陣内さん、篭野くんは疑ってごめんなさいって、世間から謝罪と哀れみを含んだ目で見られる。でもちーくんは、玲が話すことによっては悪人の親友が教鞭を執っていると、批判されるかもしれない。中途半端に注目されている方が、後々効いてくるの」
「巡が職を失うかもしれないってことか。理解した。でも、巡はどっちかと言うと現場の人間だろ? 大学を追われたところで、問題ない気もするが」
「そうじゃなくて!」
ダン、と友加が両手で机を叩いた。食器たちが一瞬宙に浮き、俺の肩も跳ねる。友加はすぐに我に返り、目を左右に泳がせてから荒れたカトラリーを並べ直す。
「ごめん。驚かせた……」
「いや、大丈夫だ。それよりどうした? いきなり」
「玲なら分かるでしょ? 傷付いた心の治癒には時間がかかる。ちーくんだって繊細なの」
「あぁ。なるほどね」
俺は辟易した気持ちを隠すように、腕を組んで頷く。
巡は友達想いで鋼の精神を持っていると思われがちだが、意外と打たれ弱いところがある。高校三年生の頃に行われた進路調査で、俺が医大に進学すると伝えたときには別々の学校は嫌だと言われたし、友加までもが医者になると知れば仲間外れだと泣きつかれた。巡は寂しがり屋なのだと、そのときにようやく知った。
しかし初手でストーカーされた身としては、あいつに繊細というイメージがまったくない。今友加に言われて、なんとか思い出せたほどだ。
「友加は最近、巡と会ったんだ。それで巡が傷付いていると知った。俺に内緒で何やってるの?」
「何って……。別に内緒で会ったわけじゃないよ。たまたま会ったから、ちーくんの家に上がらせてもらっただけ」
「ふうん。何話したの?」
疑いの目を向けられ、友加は肩身を狭くした。しつこく俺の行動には口出すくせして、自分が何をしたのかについては教えてくれない。ずるいと怒鳴りたい気持ちと、友加のことを知れない不安がせめぎ合う。
「怒って良い?」
「良いけど……」
「では遠慮なく」
友加はしかめっ面を作り、俺の瞳をまっすぐに見た。怒るとは言っていたが、そこに怒りがないことは一目瞭然である。
「玲、ちーくんにメールしなかったよね。自分が後で返信しとくから気にしないでって、私に言ってそのまま放置して忘れたんでしょ? ちーくん心配してたんだよ」
「え、そんな話したの? わざわざ?」
「わざわざでもするよ。ちーくんが親友を気にかけない薄情者に見える?」
「それは、まぁ。巡はそうだよな」
本当は、何度も返信をしようとメール画面を開いていた。それでも何を伝えるべきなのか分からなくて、そもそも俺がメールをして良いのかすらも分からなくて、文字を打っては消してを繰り返した。友加が想像しているとおりではない。でも、表面上は同じなのか。巡に心配をかけたのなら、それは俺が意気地無しなせいだ。
「あと、その晒しの件でちーくん、自分があんまり被害受けなかったこと気にしてたよ。親友なんだから、同じように苦しんで寄り添ってあげたいって」
「それはごめんだ。巡まで悪者になる必要はない」
「さすがに私もそう言ったよ。自分から傷付きに行かないで欲しい」
それは巡に対してだけでなく、俺にも望んでいるようだった。友加の瞳が潤み、慈しみの感情で満ちる。美しいが、童顔の友加には似合っていない。この人にこんな顔、もうさせたくないな。
「ねぇ、友加。友加から見た俺って、傷付いてそのまま癒えずにいる人なんだよね。どうしたら、この傷は癒えると思う?」
「私の専門は小児科だよ。精神科には明るくない」
「そうだね。でも、友加は俺の専門家だろ?」
「は?」
友加は語気を強め、我が耳を疑うと言わんばかりに眉をひそめる。困惑で歪んだ顔を近付けられ、俺も戸惑うしかなかった。
「いや、やっぱ何でもない。それよりどう思う? 俺の心は癒える?」
込み上げた恥ずかしさを誤魔化すため、無理に話の軌道を戻す。友加は、釈然としない気持ちを隠すことなく露にした。しかしすぐに、顎に指をかけて答えを探す。
「すぐには無理だと思う。玲の心は緩衝材に似ているんだよ。周りに迷惑や心配をかけないために傷みを吸収する。だけど、吸収した後に発散が出来ない。蓄積して、劣化する」
「俺は人より劣っていたのか……」
「そういうことじゃないから、そんなに落ち込まないでよ。私が言いたいのは、玲の心の傷からはずっと血が流れているってこと。かさぶたにもなれないから、痛みだけが広がっていく。それを本能が感知しないように脳をいじり、玲は自分が大丈夫な状態だと思い込んでいる」
友加の説明は簡潔で、とても分かりやすい。だが、俺が友加にどんなふうに見られていたかを知り、声を上げたくなった。
俺は友加が思っているほど、弱い人間ではない。何と言ったって、俺はあの人の弟なのだから。あの人は自分の苦しみにすら蓋をして、人が望む自分を演じられる。俺はそんな男の弟だ。同じように自分も出来るはずだ。
「思い込めているなら良い。今のうちに何とかする」
「ダメだよ! 実感がなくても、玲の心は現在進行形で傷んでる。これ以上無理させたら、玲自身が壊れちゃうの!」
悲鳴ともとれる悲痛な叫びだった。精神科は専門外と言っておきながら、こんなにもちゃんと止めてくれる。やはり友加は自覚してくれていないだけで、俺の専門家なのかもしれない。
「私は玲に幸せでいて欲しい。小さい頃に家族と引き離されて、孤独の中で生きてきた。そして血を吐くような努力の末、人を救う医者になった。それすらも理不尽に奪われて。他人の私がどうこう言えることではないけど、玲の人生苦し過ぎるよ。だから、今回のことは意地でも止めさせて」
こうやって列挙されると、俺の人生がだいぶ色濃いものだと嫌でも分かる。それでも、俺は友加や巡、璃王を始めとして篭野や陣内、荒牧などの仲間に出会えた。そんな人生が苦しいものと評すのは、いくら友加でも許せない。
「俺は自分の人生が不幸だなんて思ってない。友加が俺より悲観してるだけだよ」
「違うよ。玲、聞いて」
友加が何かを言いかけたその瞬間、ばつんと音がしていきなり部屋が暗くなった。カーテンを閉めきったこの家で明かりは照明のみ。ブレーカーでも落ちたのか、辺りが黒一色に染まった。
「玲、大丈夫? 私ブレーカー見てくるから、ここで待ってて」
友加がリビングから出て行ったのが、空気の流れから分かった。友加のいた場所はカーテンの前。遮られていたわずかな光が、カトラリーに反射した。
俺はひゅっと、息を呑む。それから心臓が奇妙なリズムで脈を打ち、上手く呼吸が出来なくなった。悲鳴を上げる胸を押さえ、俺は床に崩れ落ちた。
辺り一面に広がる暗闇。限りなく黒く、灯りも存在しない空間。それなのに、一抹の光をこれでもかと反射させる金属。全て、あのときと一緒だった。
右の脇腹が、急に痛みを主張し始める。体内に異物が混入したような、冷たい痛み。もう傷口は塞がっているのに、生ぬるい液体が流れ出てい行く不快感が肌をなぞった。
痛い。熱い。寒い。苦しい。息が出来ない。
視界が霞み床に手を付く。腹を庇うため背中を丸め、左腕に全体重をかける。だがすぐに腕が限界を迎え、俺は床にへばりついた。
誰でも良い。早く、俺をこの苦痛から解放してくれ。上擦った息で速く浅く呼吸するしかなくなり、目眩までしてくる。
どうすれば良いか、最善の行動は知識として俺の中にある。それでも、それを実行するだけの体力がなかった。自分の体にされるがまま、時間が流れるのを待つ。
そのとき、小さなぬくもりが俺の背を擦った。そのテンポと強さがちょうどよく、身体中の筋肉からゆっくりと力が抜けていく。
「大丈夫。ここの地域全体で停電したらしくて。もうすぐ復旧するって、地域メールが来てた」
「友加? 友加なのか?」
「うん。ごめんね、一人にして」
暗闇の中、手探りで友加のもう片方の手を探す。それに気付いたのか、友加が俺の左手に自分のを重ねた。俺のより一回り小さなそれは、俺の何倍もの安心感を持っている。
「玲、私はここにいる。あなたが何度傷付こうが苦しもうが、私はここから一歩も動かない。約束したでしょ? ずっと傍にいるって」
「俺、友加が分からないよ。さっきまで傷付こうとするなって怒ってたのに、俺が苦しんでるとこうして優しくしてくれる。矛盾してるよ」
「ううん。してない」
友加が後ろから俺に抱き付いた。人とぬくもりを分け合うのは、友加の人間性がなせる癖だ。俺は幼少の頃から何回も、友加のこの癖に救われている。
「私は一貫して、あなたの傷付く姿を見たくない。だから私は、玲が傷付きに行くのは止めるし、苦しんでいたらそれを癒す。でもね、玲」
そこで友加は言葉を切った。友加が不安そうにしているのが、背中越しにでも伝わる。俺は大人しくなった胸から手を離し、友加の手を握った。
「どうしたの? 友加」
「私、やっぱり矛盾してるかも。玲が望むなら、お兄さんと向き合うことも必要なんだと思った。それをしなきゃ、玲は傷付いたままなんだとも。おかしいよね。傷付いた状態から脱却するために、傷付いて来いって」
「俺言ったよね? 友加の待つ家はあったかい」
今はもう苦しくないし、果てなきぬくもりに包まれてもいる。これは全部、友加が俺に与えてくれたものだ。
「友加の言うとおり、多分兄さんと本音でぶつかったら、俺はもたないと思う。でも、絶対に朝川寧音のことも兄さんのことも救う。そうやって目的を果たしたら、必ずここに帰って来るよ」
友加の瞳から涙がこぼれる。その一雫が俺の肩に落ちた。どうして友加は、涙すらも暖かいのだろう。
「だから、そのときはこうして俺を抱き締めてよ。友加」
「玲、分かった。約束する。だから玲も、ちゃんとここに帰って来るって約束して」
「大丈夫。俺、嘘だけは吐かないから。友加も知ってるでしょ」
俺の肩で、友加が何度も肯いた。俺は友加だけは裏切らないと決意し、彼女の頭を撫でてやる。
こんなやり取りを、いつまでも続けていてはいけない。俺は目の前に呼び起こした兄を、しっかりときつく睨み付けた。
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朝川探偵社に集まった僕たち四人は、室内のあまりにもな暑さにのたうち回っていた。
「社長。この暑さは何ですか? 異常気象ですよ」
壁に背を預けながら、明日斗が苛立ちを隠さずに苦言を呈した。その先で愛意が、ハンディファンから風を吹かせる。
「昨日の停電でエアコンが壊れたのよ。悪いけど我慢して」
「社長、修理依頼しておきました。明後日の昼頃に来てくれるそうです」
受話器を置いた新希が、窓を開けながらこちらに戻って来る。風は吹かなかったが、部屋にこもっていた熱気が外へ流れ出た。
「まぁ、マシにはなりましたね。それで明日斗、相談って?」
「ああ。これのことだ」
明日斗は壁におっかかるのをやめ、机の上で小さな黒いメモリーを滑らせる。見たところありきたりなUSBメモリーだが、わざわざ僕まで呼んだということから何かわけありだということが窺えた。
「昨日社長に頼まれて、盗聴器を仕掛けてきた。これはそのデータだ」
「と、盗聴器! 良いの? そんなことして」
「明日斗がバレないように仕掛けて、バレないように回収して来たんで大丈夫ですよ」
「でもねぇ……」
胸を張る明日斗に、鼻を鳴らす新希。二人とも自信に満ち溢れているが、やっていることは明らかな違法行為だ。僕は彼らに指示を出したという愛意に説明を求めるため、彼女に近寄った。
「愛意さん。何、未成年に犯罪させてるんですか? 普通大人なら止めますよね?」
「仕方ないのよ。明日斗が盗聴器を自作したって、これを試したいって言うから。由命界で実態調査がある日に仕掛ければ、配流玲のことを探れるとも思ったし」
「うっ。玲さんのことを言われると賛同してしまう……」
愛意のしてくれた説明は言い訳じみていたが、それに注意するだけの余裕が僕にはなかった。アイドルとして品行方正な人間でいようと決めていたが、そんな良い子ちゃんでは出来ることに限度がある。
ある程度羽目を外さないと、真実には近づけない。それはつまり、大好きな人の清廉潔白を証明出来ないということだ。それに、向こうか先に法を犯したのだから、僕たちにもそうさせてもらいたい。僕も心の中で言い訳を並べ、良い子の自分を抑え込んだ。
「分かった。ありがとう、明日斗くん。それで? 誰にいつ仕掛けて、何が録音されてた?」
「うわっ……。急にどうしたんだよ、この人」
僕の急変に明日斗が身をよじらせる。若い子にどんびかれるのは心にくるが、僕たちの目的は真相の究明なのだから得た情報はすべて共有して欲しい。僕は彼に詰め寄り、その手を掴んだ。
「何ですか? いきなり……」
「明日斗くん。全部一から説明してください!」
僕がその状態で頼み込むと、明日斗は嫌そうに手を振り払いソファへと逃げた。そして不審者でもいるかのように僕を見上げる。
「いや、だから、今から全部説明しようとしてたんだけど……」
「璃王さん。やっぱり、配流玲のことになると豹変するんですね。そんなに大切な人なんだ……」
新希は変に感心しながら、僕をソファへと座らせる。そうして四人で机を囲んだところで、明日斗が大袈裟にため息を吐いた。
「ごめんね、明日斗くん。テンパっちゃって」
「良いですよ。犯罪行為なことは自覚してます。ただ、バレなきゃ犯罪じゃないと開き直っているだけなので」
「うん。それじゃあ、お願いします」
僕が謝罪と依頼のため手を合わせると、明日斗はノートパソコンを起動させた。そして音声波形アプリを開き、全員が画面を覗ける位置に移動させる。
「まず、盗聴器を仕掛けたのは厚生労働省の役員、藤條瑠伊です。実態調査の前日に由命界へ行き、天王寺先生が言っていた実験病棟の場所を確認しました。当日そこで待ち伏せをして、一番最初にそこへ来た藤條さんに清掃スタッフを装って仕掛けました」
明日斗がUSBメモリーからカバーを外し、パソコンに差し込む。
「そして彼が病院から出るときに、衣服にゴミが付いていると偽って回収して来たんです」
画面に再生ボタンが表示される。明日斗はそこにカーソルを合わせ、全員を見回した。
「今から録音データを流します。あとで気になったところを報告し合いましょう」
僕たちはそれぞれ頷き、明日斗が再生を始める。僕はその音を一つも取りこぼさぬよう、耳を傾けた。
荒牧という若い声の男が実験室の説明をした。それから、陣内というよく通る声の持ち主が登場する。そして陣内が、あの名前を言った。
「玲さん…...」
小さく彼の名を反芻する。本当に、彼は由命界総合病院の実験病棟にいる。それを確かめられて、どうしようもなく嬉しかった。
玲と荒牧が入院病棟の説明を始める。何やら藤條が命令しているが、出てくる用語が専門的で意味を読み取れなかった。
そのまま気を張っていると、『患者』という単語が聞こえた。僕たちの中に緊張が一瞬で走る。そして聞き馴染んだ声が、彼女の名前を紡いだ。
「寧音。やっぱり配流玲のところに…...」
朝川寧音。確実に、玲はそう言った。愛意が、安堵なのか怒りなのかよく分からない表情で画面を見つめる。
寧音は眠っていて、でも、目覚める可能性がある。玲のその診断に、僕は喜んで良いのか悩み、目だけを動かし新希と明日斗の様子を窺う。しかし二人も悩んでいるらしく、うつむいたままだった。
「ここで実態調査は終わりました。寧音さんに言及したのも、この部分だけです」
「そう」
明日斗が再生を止めた。愛意は珍しく固い面持ちで指を組む。みんな、彼女が次に放つ言葉を予想して身構えた。
「寧音の居場所と、置かれている状況が分かった。これはこの五年間で一番の情報。やっぱり、配流玲の存在を知れたからこその前進ね」
「そう、ですか」
「ええ。あなたには辛い出来事だったかもしれないけれど、世間が彼を晒したことによって私たちは大きな一歩を踏み出せた。不本意でしょうけど、お礼を言わせて。ありがとう、貝塚さん」
愛意に頭を下げられ、僕は反応に困った。愛意の想像どおり、僕は玲をあんな目に遭わせるつもりではなかった。玲にはもう既に十回以上、謝罪のメールを送っている。それくらい、玲には申し訳が立たない。
だが、愛意たち姉妹の再会に貢献出来たことも、事実となってしまった。僕はぎこちなく首を縦に動かす。そうすることしか、アイディアが浮かばなかった。
「実験病棟も実在する部署だと分かったことだし、今からでも由命界を訪ねましょう。配流玲について話を聞きに行くの」
「社長…...。そうですね。そうしましょう!」
新希は感銘でも受けたのか、スタンディングオベーションの勢いで立ち上がる。その両の目は、やる気で煌めいていた。
「ほら、明日斗も! 速く行こ!」
動く気配のない明日斗に、新希が快活な声を飛ばす。しかし明日斗は、音声の一部分を繰り返し再生しており微動だにしなかった。
「何かあった?」
「ええ、まぁ。この部分、どうしてこんなことを……」
明日斗が気になってしまい、僕は彼の後ろから画面を覗く。すると明日斗が、一つの波形を指差し首をひねった。それは小さく低い山の形をしていて、視覚でも聴覚でも認識することは難しいと感じた。
「ここ、配流玲が藤條さんに声をかけた直後なんですがね」
愛意と新希もパソコンに寄り、明日斗が大音量で再生した音声をじっと聞く。そして、全員が息を呑んだ。どうして気付かなかったのだろう。意図の読めない、不可思議な発言だった。
「藤條さんは配流玲に挨拶する直前、彼のことを玲くんと呼んでいたんです」
「でも、すぐに配流さんって言い直してる。しかも、玲くんって呼んだのはすごく小さな声」
明日斗と新希の状況整理に、僕と愛意は同意する。藤條瑠伊はどこか慈愛を含んだ声音で、玲の名を口にしていた。二人が親しい関係だということは、それだけで伝わった。しかし、それを隠す理由が分からない。玲に至っては、最初から他人の距離感だ。
「藤條瑠伊と配流玲の間に、何か亀裂が入るようなことが起こった。そして、それまでは親しい仲だったことも分かる」
「でも、その名残を感じさせるのは藤條さんだけ。玲さんはずっと、他人として接していた」
「あれだけ配流玲の情報は出回っていたのに、それでもまだ足りないなんて」
愛意が親指の爪を噛む。悔しさが抑えきれないのか、歯を強く食い縛っていた。
「配流玲、不思議な人間ですね。俺たちが近づけたと思っても、あらぬところから謎が飛び出してくる」
「僕も、全然玲さんのこと知らなかったんだなって痛感してるよ」
僕が知っているのは、玲は人命救助に余念がないということだけ。それを玲のすべてだと思って、他のことを知ろうともしなかった。玲をたった一面からでしか、見れていない。
友加と会ったとき、自分の知らない玲が出てきて胸が痛んだ。でもそれに、友加が玲と幼なじみだからだと理由をつけて納得していた。自分が知らないのは仕方のないことだと。
でも本当に、僕は玲のことを何も知らない。知ろうとしていなかった。それが分かって、甘えていた自分にはらわたが煮えくり返る。
「みんな、由命界に行こう。そこで話を聞くんだ。玲さんのことも、寧音ちゃんのことも、全部」
「そうだな。ここで悩んでいても、何も進まない」
パソコンの電源を切り、明日斗が立ち上がる。四人の思いは一つだった。僕たちは頷き合い、誰からともなく事務所を出る。
聞きたいことが山ほどあった。知りたい、教えて欲しい。配流玲という人間のことを。
読んでいただきありがとうございます。次回も読んでくださると嬉しいです




