第七話 可愛がったとき
書きたいことがあり過ぎたので、読みにくかったらすみません
ため息を吐きながら、僕は無駄に大きなデスクで書類を整理する。資料のデータをすべてパソコンに入力し、種類別に分類していく。この作業が終わるまで、実態調査の当日は家に帰れない。
「藤條さん。お疲れ様です」
執務室のドアが開き、きっちりとスーツを着た女性が姿を見せる。
「天羽か。君はもう帰って良いよ」
「いえ。私は藤條さんの秘書なので。藤條さんが仕事を終えられるまでは帰りません」
自信満々に進み出た天羽は、僕にホチキス留めされた資料を手渡した。その表紙の文言を見て、僕の額から冷や汗が流れる。
「こちら、由命界総合病院実験病棟の統括長、配流玲先生からです。本日の調査の際に、提出を失念していたということですので預かって参りました」
「あれ? もしかして僕が見落としてた?」
「藤條さん、最近忙しくされていたので、仕方ない部分でもあると思います。それに、彼が届けてくださったのですから良いではありませんか? 後日、彼に感謝の手紙でも送りましょう」
受け取った資料は、確かに実験病棟からの報告書だった。これを踏まえて施設や設備調査を行うのだが、彼に会えるということばかりに気を取られて、すっかり頭から抜けていたらしい。
「天羽、玲くんに会ったんだ」
「玲くん? 配流先生とは仲がよろしいのですね?」
ニコニコと愛想を振り撒く天羽に、また冷や汗が流れた。今日はダメだ。気が抜け過ぎている。うっかり、彼のことを昔のように呼んでしまった。
「昔の話だよ。ある日を境に、僕たちの関係は壊れた」
仕事をする気が失せ、僕はイスから立ち上がる。ブラインドから広大な街を見下ろすと、自分がどこまでも小さな男に感じた。
「配流先生は、藤條さんによろしくお伝えして欲しいとおっしゃっておりました。まだお二方の関係は、続いているではありませんか?」
「玲くんはね、昔から礼儀正しい子だったんだ。わざわざ資料を届けるなんて律儀なことしてくれるし、きっとそれも本心じゃないよ。外交辞令で言っただけ」
「そうなのでしょうか?」
あからさまに落ち込む天羽には悪いが、そういうことだと思う。僕の知っている彼なら、僕の予想どおりの思考回路をする。だって僕は、彼をよく知っているから。
「そうだよ。玲くんって、無自覚に他人を期待させちゃうから。相手が自分は特別扱いされてるって浮かれても、それが玲くんの通常運転。だから騙されちゃダメだよ、天羽」
「騙されてはいないと思いますけど……。それにゴマをするようで心苦しいですが、私は彼があなたに会いたがっていたように思います」
近くのビルの屋上に止まっていたカラスが、僕と目を合わせ飛んで行く。何度も両翼でバランスをとろうと、そのカラスは体を左右に揺らした。
「どうして?」
カラスが安定した体勢を見つけ、翼をはためかせて去って行く。僕も、あんなふうになれたら良いのに。
「玲くんはまだ、僕に会ってくれそう?」
「もちろんです! だって彼、最初に藤條さん本人を訪ねたのですよ。あなたの顔を見たくないのなら、初めから私を呼ぶか、受付の方に資料を預けるかして帰りますよ」
「それもそうか」
かなり説得力のある論理を展開され、僕は納得せずとも理解した。天羽の意見は、いつも筋が通っている。
「だとしたら、玲くんってば分かりやす過ぎるね。昔から変わらない」
「そうですか? 私からしてみれば、藤條さんの方が分かりやすいですよ。だって、未練たらたらではありませんか?」
唐突に天羽から図星をつかれ、僕は吹き出してしまっていた。はしたないことをしたと反省しながら、ハンカチで口元を拭う。
「君、いきなり変なこと言わないでよ。びっくりするから」
「申し訳ございません。ですが、藤條さんがよく配流先生のお話をしていらしたので」
「そうかな? 僕は自覚ないけど」
天羽の言うとおり、玲の自慢話をした記憶はある。けれど、こんなに言われるほど頻回にしていただろうか。自分としては抑えていたつもりなのだが。
「もう。どうしてですか? 口を開けば配流先生がどうだの、おっしゃっていたではありませんか?」
「そう? 例えばどんなこと言ってた?」
天羽は呆れた様子で肩を落とし、遠くに視線を投げる。僕に自覚がないだけで、相当我慢させていたらしい。一瞬だけ、天羽に異物でも見るかのような目を向けられた。
「配流先生の経歴をお話ししてくださったときのことです。あなた、配流先生が寺島病院から由命界総合病院にスカウトされたことを、玲くんなんだから当たり前だと、ものすごく自慢していらしたのですよ」
「ああ。そのことなら覚えているよ。玲くんは昔から頭が良かったからね。日本一の病院に引き抜かれるなんて、当然のことだ」
街中に、母親と小さな男の子の二人組を見つける。彼らは固く手を繋いで、何やら楽しげに話していた。玲はあれくらいの頃から、学習教材に取り組みよく本を読んでいた。いや、正しくはそれしか出来ることがなかった。
「他にも、配流先生が手術を成功させたと報告が来たら、その都度大袈裟に喜んでいらっしゃいましたし、実験病棟の統括長になられたと聞けば、人の上に立つにふさわしい人間だと豪語していらっしゃいました」
「あれ? もしかして僕、口を開けば玲くんの話しかしてない?」
本人は気付いていないようだが、天羽は記憶力が良い方ではない。しかし、そんな天羽がここまではっきりと思い出せるということは、僕が何回も同じ話をしたということだ。
「そうですよ。やっと分かってくださりましたね」
「いやぁ、これは申し訳ない。ごめんな、天羽」
「別に良いですよ。意外と、あなたの話は聞き飽きなかったので」
天羽は腰に手を当てる。口ではこう言ってくれているが、これは怒っているときの天羽の癖だ。
「すみません」
僕が重ねて謝ると、天羽は腰から手を離し何かを思い出す目付きになった。次は何が飛び出すのか不安になるが、一旦その顔から怒気が消えていることに安堵した。
「そういえば、ずっと気になっていたことがあるのです。藤條さんが配流先生のことを話されるときに、配流さん、玲くん、と呼び方が違うときがあるのですが、これは何か理由でもあるのですか?」
「え?」
今度こそ、本当に意識していないことだった。玲のことを話すときは、常に過去を思い出しながらだったので、自分が何を言っているかまでは気が回っていなかった。
「本当? 僕全然気にしてなかったな」
「ええ。最初は違う人の話をなさっているのかとも思いましたが、聞いていくうちに同一人物と気付いて訳も分からず……」
そうだったのか。僕はなるべく『配流さん』と呼ぶようにしていたが、その意識は本人の前以外では弱まっていたらしい。本人がいると緊張するが、そうでなければ僕が身構える必要はない。本能が勝手に意識を解いたのだろう。
「藤條さんは、本当はどちらで呼びたいのですか?」
天羽が一歩進み出る。その瞳は、確実な答えを求めていた。僕は二つの呼び方を比較する。『配流さん』は他人行儀だが、今の関係性を思えばしっくりとくる。そして『玲くん』は距離感が近すぎて、公私混同をしていると思われてしまう。どっちもどっちだ。それでも、僕は。
「そりゃ、下の名前で呼びたいよ。昔みたいな関係に戻れたら嬉しいし」
だけど、それは不可能なのだ。へそで茶を沸かすほど馬鹿馬鹿しい、夢のまた夢の話。僕が玲を傷付けた。自分勝手な理由で、自分の都合に巻き込んで。今更僕が壊してしまった関係に戻ろうなんて、口が裂けてでも絶対に言えない。
「あの、差し出がましいようで恐縮ですが、お手伝いさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「何を?」
いきなり突拍子もないことを申し出た天羽を、感情のまま睨みつけた。天羽は体をびくつかせ、それから意を決したように口を開く。
「藤條さんと配流先生が、仲直りなさることです。今の藤條さんは見ていられません。どうして、自分の願いを諦めていらっしゃるのですか?」
願い。そのたった一単語で、自分の中に燻っていた感情が澄み切っていく。そうか。これは願いなのか。そんな俗な言葉で言い表せる、簡単な感情だったのか。そして、どうして燻ってしまったのかも理解した。正反対の思いが、同じ質量でぶつかり合っていたのだ。
僕は自分が悪いということを知っているし、絶対に自分から仲直りを切り出してはいけないと理解もしている。でもそうやって言い訳をして、結局は諦めているのだ。僕が玲に許してもらえるわけがない。あんなことをしておいて、どんな顔で許しを乞えば良いのか。否、許しを乞う資格も無い。
また玲の隣にいたい。でも、諦めなければいけない。ほら、正反対ではないか。
「やっぱり天羽には察しがつくんだね。僕の気持ち」
「ええ。藤條さんの感情は、目を見れば分かります。藤條さんはポーカーフェイスと思われがちですが、すぐに目に感情が出ているのですよ」
やはり天羽には敵わない。諦めているカッコ悪い自分を見せないよう、上手く躱していたつもりだった。しかし、それでも心は読まれてしまっていた。僕の完敗だ。
「天羽、ありがとう。でも、玲くんは僕を許してくれないと思う」
「どうしてですか?」
「君に言えないような、悪いことをしてしまったんだ。そのせいで、玲くんの人生は狂ってしまった」
僕があのとき、あんなことを言わなければ、頼まなければ。何度も夢の中でもしもの世界を辿る。そうすれば、仮想の幸せな空間で二人は笑っていられた。だからこそ、現実が怖い。
「私は配流先生のことをよく知りません。ですので、『玲くん』のことを教えていただせないでしょうか? もしかしたらその中に、仲直りのヒントがあるかもしれません」
「君は、諦めないのか?」
「諦めるも何も、私はあなた方の過去を知りませんので」
天羽が僕についてくれてからおよそ二年。この人は、ずっと僕に誠実に仕えてくれた。大臣の息子と一職員なんて立場の差があるというのに、天羽は僕に一個人として接してくれていた。今もただ、同じ職場の人間が困っているから助けようとしてくれているに過ぎない。
「それに私自身としても、興味があります。教えてくれませんか? 配流先生がどんな人なのか」
天羽が一歩踏み出したことで、僕たちの距離が縮まる。それでもまだ充分な幅があるのに、僕は逃げられないことを悟った。
「じゃあ、聞いていくれる? 昔の玲くんのこと」
腹をくくった僕が微笑み、天羽がゆっくりと頷く。それを確認した僕は、幼い兄弟の姿を思い描いた。
「玲くんには、お兄さんがいたんだ。勉強も運動もこなせて、気遣いも出来る優しい人。いわゆる、完璧超人ってやつ」
玲は、そんな兄が誇りだったし大好きだった。
「逆に玲くんは、体が弱くてすぐに体調を崩していた。家のベッドで本を読んだり勉強をしたりして、大人しくしているだけの生活。お兄さんはそんな玲くんに、いつも元気を与える存在だった。特別なことは何もしない。傍にいるだけで、玲くんは喜んでくれた」
玲の幼い笑顔を思い出す。兄に向けた、優しく朗らかな笑顔。それを未だに、くっきりと思い出せてしまう。
「玲くんの兄はすごいよ。いつも、誰から見ても、すごい人でいなければならない。重圧がのしかかっているのに、弟のことが大好きだから絶対に逃げない。本当にすごいんだよ」
苦しんでいた気がする。どんなに努力しても、自分では弟を幸せに出来ないからと。周りから何度、素晴らしい兄だと褒められても、それを素直に受け取れなかった。
「そんな兄と一緒にいたからだろうね。玲くんは、誰かの助けになれる人に育った。周りの状況をよく見て、誰が何で苦しんでいるのかをすぐに判断して、自分から助けに行く。医者になることは、玲くんの天命だったのかもしれない」
「そうなのですね」
「でも、客観的に見ると悲しい兄弟だったよ。玲くんは兄が被ったヒーローという仮面を、素顔だと思って憧れていた。兄もそれに気付いて、弟にだけは弱さを見せてはいけないと己を律した。最初から、すれ違っていたんだ」
すれ違ってはいた。だけど、幸せだった。兄は弟が笑う度、自分も嬉しくなっていた。それなのに、もうあの兄弟に戻ることは不可能なのだと思ってしまう。
「配流先生は、お兄さんのことが大好きだったのですね」
天羽が感心したようなに漏らしたその言葉が、兄弟のすべてを簡潔に表していた。兄が大好きな弟。それを核とした関係だった。
「そうだね。偽りを偽りと気付くことなく、弟の中に偶像として残り続ける。そうだったら、どれほど良かったことか」
「今は違うのですか?」
「ああ。僕があんなことを言ってしまったから。玲くんは今まで見ていた兄を壊されて、兄に失望するしかなくなった。僕のせいで兄弟としての繋がりも、僕たちそのものの関係も、全部が壊れた」
五年前、僕は玲に兄の正体を話した。苦しみも努力も、孤独も。それがなければ、玲はまだ兄を盲信して幸せな生活を送れていたのだろう。そこに僕もいれたのかもしれない。僕が自分の感情を制御出来ていれば、こんなことにはならなかった。
窓の外で背を丸めて歩く、くたびれたサラリーマンが目に入った。僕はその哀れな姿に目を覆い、それから窓に背を向ける。自分は違うと言わんばかりにデスクに戻り、仕事を再開することにした。
天羽から受け取った実験病棟のデータを入力さえしてしまえば、今日の僕の仕事は終わりだ。何か言いたげにこちらを見つめる天羽を無視し、僕はキーボードを連打する。
そのとき、資料の構成がいつももらう玲のものと違うことに気付いた。玲の作る資料は、必要最低限の情報を様式どおり羅列した簡素なものだ。しかし、今手元にある資料には補足や数値から導きだした結論など、本来なら不必要なものまで記載されている。伝えるために作られた資料だった。
気になり資料作成者の氏名欄を確認すると、荒牧港と書かれている。僕は日中、こちらに同情を示した好青年を思い起こし納得した。あの子なら、こんな資料を作っていても疑問ではない。むしろぴったりだと思った。
僕は入力データと基データを比較し、誤りがないことを確認してからエンターキーを押す。そして引き出しから未使用のUSBメモリを出し、ファイルデータを保存した。
「天羽。僕はこれで帰るけど、君はどうする?」
「お疲れ様です。私も退勤させていただきます」
先の宣言どおり僕の仕事が完了するまで待っていた天羽に声をかけ、二人で執務室を出る。施錠を済ませて外に出ると、月と星々が人工の光に負けじと輝きを放っていた。
「綺麗ですね」
「この季節は雲が少ないからね。東京でも良い夜空が見れる」
「この辺りはビル街ですが、やはり自然の光が一番煌めいています」
そうだろうか。確かに月も星も光っている。だが、目に刺さるのはビルから溢れる強い白色の光だった。隣で夜空に見惚れている天羽の世界では、僕と違う光景が広がっているらしい。
「藤條さん。先ほどはありがとうございました。私も、仲直りの方法頑張って探しますね」
「そう。お疲れ、天羽。また明日」
期待もなにもせず、僕はいつもと同じ淡白な挨拶をして角を曲がった。その足で僕は地下駐車場に向かい、愛車のデロリアンに乗り込む。エンジンをふかし気分を上げようとするが、騒音にイラついてしまい逆効果だった。
僕はそのなんとも割り切れない感情のまま、車を出す。人工の白色灯の間を走り抜け、中世ヨーロッパの民家を模して建てられた自宅に帰る。愛車をそこのガレージに入れる頃には、それなりに感情が収まっていた。
虹彩認証で玄関扉を開け、明かりを点けながら靴を脱ぐ。シャンデリアを模した間接照明に照らされたリビングに、ゴミ袋をまたいで入るとカバンを投げた。
ふと視界に入った姿見に、くたびれた社会人が映る。襟の立ったワイシャツはシワだらけで、ジャケットはよれていてみっともない。感情の抜け落ちた目の下には、濃くはっきりと隈が刻まれている。
ひび割れた鏡に映る、この男は何者なのだろうか。誰かの成れの果てであり、死骸であることは分かっていた。こちらにおいでと、この男は毎日鏡の中で手招きをする。
「まだそちらにはいけないよ」
男が笑う。諦めるように、ゆっくりと。
それで良い。僕がそっち側に立つことはない。本当の自分に、戻れなくなることが怖いから。
僕は床に散乱した空のペットボトルや丸まった書類を避け、キッチンでパックご飯を掻き込んだ。
ーーーーー
話があると陣内に呼び出された俺は、歌舞伎町のネオンだらけのバーに恐る恐る入店する。ワインやカクテルを思い思いに楽しむ大人たちの間をすり抜け店の奥に進むと、タバコを燻らせている陣内を見つけた。
「陣内先生。すみません、お待たせしてしまって」
「俺も今来たところだ。港、何か飲むか?」
「じゃあ、せっかくですのでカシスオレンジを」
バーテンダーの男に注文を告げ、俺は陣内の右側のイスに腰かける。相変わらず、陣内にはタバコが良く似合う。外科の篭野と、由命界ヤクザっぽいドクターランキングでツートップを飾っただけのことはある。
「先生、先ほどはありがとうございました。俺だけだったら、あいつらを追い返せなかったです」
「気にするな。俺だって、港がキレなきゃほっといただろうし」
「あいつら、また来ますかね?」
憎たらしいあいつらの顔を思い出すと、気が滅入ってしまう。俺は机に伏し、カシスオレンジのグラスを見上げる。夕焼けに似た暖かなオレンジ色の下に、どす黒い何かが沈んでいる。
「あいつらの仕事は撮ることだ。玲と朝川寧音に関する写真を社会に広めるまでは来るだろう」
「週刊誌には良いイメージがなかったですけど、今回の件で完全に嫌いになりました。今度来たらカメラを叩き壊してやります!」
陣内は大人なので割り切れているようだが、俺には無理だった。今日の仕事終わり、帰宅しようと実験病棟の勝手口から出ると、カメラを持った男女二人組に囲まれた。彼らはボイスレコーダーで俺の言葉を、デジタルカメラで俺の人相を記録しようとしてきた。そしてぶしつけに、玲のことを訊ねた。
「壊しても良いが、弁償代請求されるぞ」
「陣内先生、冗談ですよ。本気にしないでください」
「そうか? 意外と気迫が籠ってたけど」
陣内は一息ついて、タバコを灰皿に押し付ける。まだタバコは長く残っているが、もう吸わないようだ。
「あのアイドル、余計なことをしてくれたよ」
「貝塚璃王のことですか? この前まで炎上していた」
苦虫を噛み潰したような顔で陣内が吐き捨てた名前に、俺は昼のニュース番組で取り上げられていたアイドルを思い浮かべる。一件の投稿にネットユーザーが火をつけ、彼は一時的に表舞台から姿を消さざるをえなくなった。最近はめっきりその話を聞かなくなったので、そろそろ復帰しても良いのではと思ってしまうが、そこは本人と事務所の都合によるのだろう。
「そうだ。あんな投稿、しなければ良かったのにな」
「自分の名誉すらも棒に振れるほどのお人好しか、それとも、何も考えていなかった猪突猛進タイプのバカか。どちらにせよ、擁護派と非難派に別れてますし、本人も堪えていることでしょうね」
「例の投稿の文面からも、過去の投稿の文面からも、優しさが滲み出ている。貝塚璃王本人だって、こんなことになるとは夢にも思ってなかっただろうな」
「ですよねぇ。まぁだからと言って、俺は貝塚璃王を許せるわけじゃありませんけど」
彼を責め立てるつもりは毛頭ない。しかしあの夜、恐怖で震え自分を罰しようとした玲を見てしまえば、その原因に怒りが沸くのは至極当然のことだ。
やはり陣内は大人で、俺は子供なのだろう。悪気がないという理由だけで、あのアイドルに同情なんて出来ない。自分が傷付いているうちは無理だろうが、落ち着いてしばらく時間が経ったら、貝塚璃王には己がしたことで誰が苦しんだのかを理解して、反省してもらいたい。
「港は玲のことが大好きだね。もちろん俺も、可愛い後輩を泣かせる奴は許せないが」
「早く玲先生の無実を証明したい。そうしないと、どんどん何かが狂っていく気がする」
「同感だ。もう歯車は噛み合った」
ウーロンハイのグラスを傾けていた陣内が急に立ち上がり、何かを思い出したように目を見開いた。
「ヤッバ、忘れてた。港、今日はゲストがいるぞ」
慌てて店の外に出た陣内は、一秒も経たぬうちに戻って来る。しかし、隣に初めて見る男性を連れていた。人当たりの良い優しいおじさん、といった印象だ。この人がゲストなのだろう。
「港、紹介する。こちら、渡貢さん。俺の元部下のお兄さんで、生活安全課の刑事をしている。昔は公安にいたという優秀な男だ」
「初めまして。渡です。公安と言ってもほぼ雑用係でしたし、ノンキャリなんで大したことありませんよ」
「だとしてもすごいですよ。あ、荒牧といいます」
謙遜する渡にお世辞を述べつつ、席を譲る。俺は父親の影響で基本的に警察嫌いだが、渡は予想どおり人当たりが良いので好きになれそうだ。
「失礼ですが、陣内先生とはどのような出会いを?」
「私の弟が渚くんを紹介してくれたので、そこからの関係ですね」
「渚くん? へぇ。陣内先生にも可愛い時期があったんですね」
「港、俺はお前の素直さがたまに怖いよ」
あの陣内が下に見られていることが珍しく嬉々として手を叩くが、陣内に頭を抱えさせてしまった。渡も隣で愛想笑いを浮かべている。一人っ子特有の、空気が読めない悪い性質が出てしまった。
「すみません。それで、どうして渡さんを呼んだんですか?」
空気が悪くならないように話題を変えると、二人は顔を近づけひそひそ話を始めた。
「最近の若い子は引きずらないんだね」
「こいつだけですよ、渡さん」
おそらく聞こえないように配慮してくれているとは思うが、俺は耳が良い。褒め言葉が聞こえてくる。俺は自分の切り替えの速さに感謝しつつ、どちらかが口を開くのを待つ。
「あのね、荒牧くん。渚くんから頼まれたんです。公安だけが知っている情報を教えて欲しいと」
「渡さんが公安にいた時期が、朝川寧音の事故が起きたときと重なっているからな。何か知っていると思って」
「はい。それで、当時のことを思い出してみました」
渡の前に、サービスのレモンカクテルが置かれる。渡はそれを一気に呷り、俺たちに向き直った。
「五年前の六月十五日、足立区住宅街の路地裏で交通事故が起きたことは事実です。所轄の刑事が、防犯カメラ映像で確認しています」
俺は息を潜めて続きを促す。不可解な現状に、ようやく説明がされる。
「しかしその映像データが、紛失してしまったんです。公安部長が確認したいとデータの提出を指示して、それからの所在が不明となっています」
「揉み消し、だな。しかも典型的の」
陣内の言葉に、渡はゆっくりと確実に肯く。定食屋で陣内と出した、真実が葬り去られたという結論が現実味を帯びて膨れ上がる。
「かなり本気で揉み消しをしたみたいです。渚くんに言われて当時所轄だった何名かに訊いて回りましたが、みんな閉口するばかりで話してくれませんでした。映像を見たのか訊ねただけで、ひどく怯えていましたし」
「権力による脅し、か。最低な奴ですね」
「そうとも限りませんよ」
俺が想像した公安部長に毒づくと、渡はいろいろな思いが混じりあった複雑な表情をした。
「公安って、国家の犬なんです。国を守るためなら、どんなに汚いことだってする。部長はその体現者でした」
俺は息を呑んだ。渡が今言ったことを、俺はどこかで聞いたことがある。あれは俺がまだ小さい頃、父親に言い聞かせられた言葉だったはず。
「きっとあの事故には、相当な国家の権力者が絡んでいたんでしょう。だから部長は揉み消すことで、国民の穏健な生活を守ろうとした」
その瞬間、記憶の中の父親が顔を歪める。鬼の形相と呼ぶにふさわしいほどの怒りを浮かべ、こちらを尻込みさせる気迫があった。
怖い。だが、俺の気持ちも父さんと同じだ。俺は空になったグラスを、勢い良く叩き付ける。
「そんなことどうでもいいんですよ!」
プラスチック製だったようで、グラスは机の上で跳ね床に落ちる。その軽い音で、店内の空気が一気に凍った。大小様々な瞳がこちらに圧をかける。
「すみません。何でもないです」
「港、気持ちは分かる。でも今は落ち着け」
渡は周りに満遍なく頭を下げ、陣内は俺をなだめる。俺は冷ややかな視線をバーテンダーに送られ、ようやく我に返れた。脳が急速冷凍されたように怒りという感情を忘れ、心臓は有酸素運動をしたと錯覚出来るほどに脈を打つ。
「申し訳ありません」
俺も立ち上がり、他の客や店員に謝罪をする。公共の場であることを忘れ、感情を発露させた自分が惨めだった。
「荒牧くん、ごめんね。私が変なことを言ってしまったから」
「いえ、俺だけの責任です。すみません」
賑やかさを取り戻した店内に安心し、俺たちは声を落として会話を再開する。渡が本気で申し訳なさそうにするので、いたたまれなくなった。
「でも国家なんて、俺たち一般人には縁のないことなんです。そもそも、家族や友人と普通の暮らしを送れなくなった時点で、それは穏健なんかじゃありません」
「そうですね」
「もしその揉み消された事故が、朝川寧音の件だったら? 寧音ちゃんが家族の元に帰れていない原因ですし、そのせいで玲先生がどれだけ自分を責めているか。分かりますか? 例え寧音ちゃんの件じゃなかったとしても、あなたたちは大義名分を盾に国民を傷付けたんですよ」
「それは……」
「言い訳出来ますか? いや、出来ないはずだ。だから俺は警察が大嫌いなんです!」
財布から万札を抜き、渡に預ける。
「これで失礼させていただきます」
このままここに居ては、またさっきと同じことを繰り返す。怒りが募り、叫んでしまいたくなった。自衛のために、俺はそそくさと店を出る。
ズボンのポケットに手を突っ込み、行儀悪く夜道を闊歩する。こういう勢いだけのところが、俺の数ある欠点の中の一つだ。今日は家に帰って、きちんと自分の気持ちを整理しなければ。そして明日病院で陣内に謝罪し、渡に連絡をとってもらおう。
そんなことを考えていたからか、前から歩いてくる男たちに気付かなかった。気が付いたときには、肩に痛みが走っていた。
「いってぇなぁ、兄ちゃん」
「どこ見て歩いてんだよ」
「ほら、慰謝料。うちの兄貴にケガさせたんだからよ」
肩を押さえて、細身のチンピラが声を荒らげる。その後ろに控える男二人も、悪どい笑みを浮かべていた。しかし、恐怖は沸かなかった。彼らのセリフが、どこかで聞いたことのある小物のものだったからだ。
俺は無視を決め込み踵を返す。すると、三人そろって追いかけてきた。
「逃げてんじゃねぇよ!」
追い着いた兄貴に胸ぐらを掴まれ、壁に押し付けられる。背中を強打したせいで、息が詰まった。霞んだ視界でも、舎弟たちがゲラゲラと笑っているのが見える。
「分かった、謝る。俺が悪かった。お詫びに君の肩を診せてくれ」
「何でだよ?」
「俺、こう見えて医者なんだ。怪我の具合に応じて、相応の慰謝料を払おう」
俺は胸ポケットに入れていた手帳から名刺を出し、兄貴に突き付ける。舎弟たちも、興味津々に名刺を覗き込んだ。これで信頼してもらえるだろう。
「マジモンの医者かよ」
「そう、本物だよ。怪我を診ても良いかな?」
兄貴の手から力が抜け、俺は解放された。見たところ彼らはこの街に染まりきっていないので、更生の余地は充分にある。今回は見逃してあげよう。
「大袈裟に言っただけなら、俺はもう帰るよ」
医者は警察と同じくらい怖がられているらしい。俺は優しく声をかけたはずなのに、チンピラたちは項垂れて返事もしてくれなくなった。俺は戸惑いながらも、去ろうと背を向ける。
しかしすぐに、後ろから足音が聞こえた。驚いて振り向けば、握られた拳が目の前に迫って来る。
「てめぇ、兄貴に恥かかせやがって!」
殴られる。直感的にそう思い、目を瞑った。だけど、覚悟していた痛みは来なかった。その代わり、パシッと乾いた音が響く。
「港、大丈夫だ」
聞き慣れた強い声に目を開ければ、陣内の頼もしい背中があった。しかも、至近距離で男の拳を受け止めている。
「てめぇ、邪魔すんなよ!」
「俺だって、君たちと関わりたくはなかったんだよ。でも、あの人に頼まれちゃって」
威勢良く暴れていた男は、陣内が指差した背後を睨んだ。俺もつられてその方向を見る。そこに立っていたのは、絵に描いたような好青年だった。
「あ、あ、ハジメさん」
男の瞳孔が震えた。あの好青年に、明らかに怯えている。
「ダメじゃないか。むやみやたらと殴りかかったら。すみません。うちのがご迷惑を」
好青年はスーツの襟を正して陣内に謝罪する。そして男の髪を掴み、思いっきり頭を下げさせた。
「ほら、君も謝りな」
「す、すみません!」
男はそれだけ叫ぶと、覚束ない足取りで走り去ってしまった。よほどこの好青年が怖いらしい。俺は好青年のどす黒い瞳を観察する。
「いやぁ、助かりました。うちのが暴行犯にならずに済みましたから」
にぱっと愛想笑いの究極形になった好青年は、のんびりとした足取りでチンピラたちを追う。その姿に、理由もなく体が震えた。怖い。本能が、あの男を避けるように警告する。
「港、大丈夫か?」
「はい、俺は。それより陣内先生、あの人誰ですか?」
陣内に怯えている様子はない。いつもどおりの口調で、俺を心配してくれる。
「さぁな。若い奴らがケンカしてるって言って、俺に止めるよう頼んで来た。でもあの感じだと、自分で止められただろ」
「ですよね。怖かった……」
「悪かったな。遅くなって」
器用に陣内が俺の肩を撫でる。暖かい、大きな手だった。俺の知らぬ間に強張っていた体がほぐれていく。
「先生、すみませんでした。怒って勝手に出てって。俺まだまだ子供ですね」
このタイミングではないとも思ったが、俺は陣内に謝罪をする。こういうことを先延ばしにしてはいけない。それは玲からの教えだった。
「いや。港の優しさが身に染みたから結果オーライだ。渡さんも、お前みたいなまっすぐなバカは好きだぞ」
「バカ、ですか」
「俺の感想だ。でも、渡さんも港のことを気に入ったみたいだったな」
陣内に手を取られ、二人並んで歌舞伎町を歩き始める。恥ずかしいのでやめてもらいたいが、強く握ってくれる大人の手にすがりたい自分が、口を開かせてはくれなかった。
「渡さん、上と交渉して防犯カメラ映像を取り戻してくれるらしい。良かったな」
「なんか、申し訳ないです」
「そうか。でもその映像さえ手に入れば、玲の無実が証明出来るはず。渡さんも、消えた映像は朝川寧音に関してのものである可能性が高いと言っていた」
「そうですか」
「ああ。事故現場は、朝川家から徒歩数分圏内だからな」
もうまともに相槌も打てず、俺は黙り込んだ。真実は、間違いなく玲の無実を明らかにする。それは何よりも嬉しい。
だがその裏で、権利者の悪行が露になり国家が傾くことも確定している。渡は、揉み消しが国家のためだと断言した。なら俺たちがこの先直面する真実は、壮大で想像をはるかに絶するものになるだろう。それが怖いのだ。
「気分でも悪いのか? 今日ずっと嫌なことばかりだっただろ」
口数が少ないことに気付かれたようで、陣内が俺の顔をじっくりと見る。それから、陣内は長い息を吐いた。
「顔色は悪くなさそうだが。大丈夫か? 送って行くよ」
「ありがとうございます」
そうは言われても体調は悪くないので、陣内のこちらに気遣った歩幅に合わせ、のんびりと足を動かす。途中、何度も陣内に顔を見られた。この人は本当に、後輩を大事にしてくれる。
「港は、藤條瑠伊のこと嫌いじゃないんだよな?」
俺の自宅アパートまでもうすぐのところで、陣内がふいにそう訊ねてきた。俺はその意図を汲めずに、赤信号で足を止める。
「はい。なんか、俺たちと似ているような気がしました。玲先生も嫌いではなさそうでしたよ」
「だよな。別に俺も、嫌いってわけじゃないんだよ。ただ、あの人が何を考えているのか分からないところが苦手なだけだ」
そうだろうか。藤條が自分の立場にプライドも苦悩もあることは、すぐに分かった。陣内が気付かなかっただけとも思ったが、敏いこの人があの分かりやすさで気付かないわけがない。俺は曖昧に相槌を打つ。
「俺は単純な人間だから、好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いだ。好きでも嫌いでもある、とか、好きでも嫌いでもない、が理解出来ない」
「陣内先生らしいですね。でも藤條さんのことをもっと知れれば、どちらかに転ぶと思いますけど……」
俺が唸っていると、ぱっと手が離れた。失った陣内のぬくもりを求めて、俺の手が一瞬宙をさまよう。
「俺は一つ、藤條瑠伊の秘密を知っている。それこそ、国家の存続に関わるかもしれない大きなものだ」
「どうしたんですか? いきなり……」
真剣みを帯びた口調で陣内が呟く。その表情は固く、よっぽどのことだと直感した。
「渡さんに、藤條瑠伊の秘密を教えて欲しいと軽い気持ちで頼んだことがあるんだ。意外な一面とかを知れれば良いなって、ただそれだけの気持ちだった。でも、そのとき公安だった渡さんは本気で調べてくれたみたいでさ」
信号が青く光った。重い足を上げ、二人で横断歩道を渡る。
「港は藤條瑠伊のことを気に入っている様子だから、言うべきか悩んでる。だけどお前は、知りたがりの上に頑固だから焦らせば焦らすほど逆効果だろ」
「好奇心旺盛と言ってください。それに陣内先生の言うとおり、そういう危険な秘密ってワクワクします」
人っ子一人いないボロアパートの階段を駆け上がり、俺は自室の玄関扉に鍵を差す。扉を開け、中に陣内を招き入れた。
「ほら、陣内先生。教えてくださいよ! ここなら誰にも聞かれませんから」
しまい忘れた季節外れのコタツに、二人で膝を入れる。俺はもう待ちきれないとばかりに、陣内に詰め寄った。俺も秘密を知れば、陣内が藤條への感情に決着をつける手伝いになるかもしれない。
「分かった。覚悟して聞けよ」
陣内も誰かに話して楽になりたかったのか、どこか嬉しそうだった。俺はするべき覚悟の種類が不明なまま、気持ちを固める。
「お願いします」
俺は床すれすれまで頭を下げる。真上で、陣内が息の塊を吐き出す音がした。
「藤條瑠伊は現厚生労働大臣の息子。これは真実でもあり嘘でもある」
「え? それってどういう?」
「大臣と藤條瑠伊に、血縁関係はない」
「そんなこと、ありえませんよ!」
はっきりと断言された秘密とやらを、かぶりを振って否定する。今までの報道や藤條の態度から、どうしても、それが本当だと思いたくなかった。
「だって、大臣がいつかの会見で言っていたんですよ! 自分の息子を、厚生労働省の重役に就かせるって」
「そうだな。大臣は自分の息子だと声高らかに宣言した。それに、息子を実態調査の最高責任者にしたのは、全国の医療従事者に自分の顔をちらつかせるためだと推察されていた」
「ですよね! それに、戸籍を調べればそんなことすぐに分かりますよ」
俺は取り乱すしかなかった。二人に親子関係がないことは、別にどうでもいい。それよりも、藤條をかわいそうだと思った。実の親でもない人のために、人の善意を疑ってかかる性質を持ってしまった。もし父親と血が繋がっていないと知っているのなら、その苦しみは計り知れないほど大きいはず。
昼間見た藤條のあの辛さを、無駄だとは思えない。常に父親に縛られ、その中で自分の役目を果たす。その気高さを、否定して欲しくない。
「戸籍上は親子だ。養子縁組をしたらしい。三十年近く前、施設にいた当時十歳の瑠伊を引き取った。大臣には子供がいなかったし、今もいない。おそらく、本人か妻が子供を作れない体質なんだろう。後継者が欲しいという、見え透いた目論見だな」
「辛いです、そんなの。藤條さんが」
施設にいたということは、本当の家族を失っているということだ。その上で知らない大人に父親を名乗られ、その男を立てるためだけに生きていく。俺だったら、そんな人生耐えられない。
「俺、もう一度藤條さんと話してみたい。藤條さんの気持ちをちゃんと知りたい」
俺が何とか出来ることではない。そんなこと分かっている。それでも、全部知りたい。あのとき、藤條が押し殺した感情を受け止めて、藤條瑠伊という人間を理解したい。
頑固な俺に、新たな願いが芽生えてしまった。
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