第五話 懐古のとき
過去の話がメインですが、最後に少し本筋に合流しています。ぜひご覧ください
俺は顔が良いらしい。昔、ドラマに出てくるインテリヤクザのようだと言われた顔を見て、篭野法助は直属の上司である外科部長の言葉を不思議がった。
この由命界総合病院も、遂にインタビューを受けるようになってしまったか。『白き要塞』の異名は、どうやら家出してしまったらしい。だが話を聞く限り、これは俺の母校の卒業生がどのような職に就いたのかというインタビューのようで、母校の創立百周年を祝うためのものだった。
由命界総合病院の患者や実態に迫る、なんて話ではなさそうなので、院長が了承したのだろうか。それでも、俺は嫌だ。インタビューがというより、メディアに関わり注目されることが嫌なのだ。
何度俺が断っても上司は折れずに、終いには先の言葉をかけられてしまった。顔が良いから何だっていうのだ。インタビューなのだから、写真は顔のアップ一枚だけのはず。そこに良し悪しを求める記者なんて、いるのだろうか。
だが結局、俺は引き受けてしまった。嫌なことに変わりはないが、それでも母校のためになりたいと思った。それに、もうすぐ俺も四十なのだ。いつまでも駄々をこねてなどいられない。
「篭野先生。取材の方々が到着しました」
俺を呼びに来てくれた部下に、鏡から視線を移す。いよいよ、来てしまったか。眼鏡を掛け直した俺は腹をくくり、インタビュー会場に設定された会議室へと移動した。
「高校時代を振り返ってみて、あなたはどんな生徒でしたか?」
簡単な写真撮影をし、まずは高校の話から入る。主題が母校の周年祝いなのだから仕方ないが、もう卒業して二十年経つ。当時のことなんて、朧気にしか覚えていない。それでも、俺はなんとか思い出を絞り出す。
「なるほど。注目されることが好きだったのですね。では、そんなあなたが、医者を志したきっかけは何だったのでしょうか?」
来ることは分かっていたが、その質問に頬をひきつらせてしまう。あまり、このときの自分を語りたくない。俺は、先方に失礼だと思いつつ誤魔化すことにした。
「すみません。よく覚えていないんです。気がついたら、医者になっていました」
曖昧な返答にはなったが、記者は大きな笑顔を崩さなかった。それを見て、表情には出さずに安堵する。
「かっこいいですね! では、医者になって良かったと思うことは何ですか?」
「それはもちろん、自分の担当した患者さんが元気になることですね」
胸を張って即答した。この質問の答えは、ずっと俺の心の中にある。昔の自分が聞いたら驚いてひっくり返るだろうが、今の自分にとってこれは、人生の指針そのものだ。
「素敵です! 篭野先生は『良い先生』と評判ですが、あなた自身にとって『良い先生』とは、どんなお医者さんのことを指すのでしょうか?」
『良い先生』。その言葉に体が強張る。俺は確かに周りからそう言ってもらえることが多いが、俺自身はそんなこと思っていない。なぜなら、俺は本当の医者というものを知っているから。
笑顔の記者に答えるまでの、その一瞬。俺は新人時代のことを想起した。
ーーーーー
二年間の研修期間を終え、俺は晴れて由命界総合病院で一人前の外科医となった。新人とはいえ甘えていられないと、論文の提出や学会への参加は積極的にした。すると上司に目をかけてもらえ、俺は期待の新人と呼ばれるようになった。
それから周りの期待に応えようと、論文作成に注力した。するとまた、褒めてもらえた。俺はそれがすごく嬉しくて、上司とよく話すようになった。
「篭野はすごいよ。あいつとは大違いだ」
ある日、いつもどおりのデスクワークをしていると、上司である外科副部長が話しかけてきた。鼻で笑った上司の視線の先には、俺の同期の配流玲がいた。配流は、印刷機の隣で患者のカルテを確認している。厳しい目付きで立つ彼は、どこか周囲に馴染めていないように見えた。
「何度か学会にも研究会にも誘ったんだけど、あいつつれなくてさ。本当に患者のことしか見てない。あいつの実力なら、もっと上目指せるってのに。向上心ないんだよな」
「向上心、ですか?」
「そうだ。結局、どこの世界も名声を得られなければ意味がない。俺たちがどんなに命を救っても、骨折り損にしかならない。俺たち医者は命を救った分だけ、感謝されて称賛されてしかるべきだ」
上司の口調に熱が籠る。いったい、日頃からどれだけの鬱憤を貯めているのか。
「論文や学会発表で爪痕を残して、メディアとかで注目されるようになって、それで始めて、俺たちの努力は報われる。ここはそういう世界だと思わないか?」
上司の目がかっと開いた。その目で下から睨み付けられ、俺は頭を大慌てで回転させる。彼の言い分は正しいのか。俺は憧れの医者を思い出そうとしたが、その人を知ったきっかけがメディアだったことに気付き上司に頷いた。
「そうですね。注目されないと、誰にも気付いてもらえない……」
「だろう? だから、これからもこの調子で頑張ってくれよ」
俺を激励した上司は、上機嫌でデスクに戻る。それを見ていると、突然後ろから鋭い視線を感じた。背筋が凍てつくその感覚に振り向けば、書類を両腕に抱えた配流がこちらを見ている。異質な灰色が俺の視線に瞬き、配流はすぐに目線を落とした。
何か言いたいことでもありそうな眼差しに、俺は声をかけようとしたが、配流はそのまま振り返らずに扉から去ってしまった。俺は反射的に追いかけようとするも、そもそもそんなに話したことがないのに、いきなり話しかけて良いものかと悩み立ち止まる。
「篭野くん。次の君の担当だよ。目、通しておいて」
神の救いの手かと錯覚するほどタイミング良く、外科部長が突っ立っている俺にカルテを渡してきた。そうだ。悩みよりも、患者のことを優勢するべきだ。
そのことに気付いた俺はカルテを確認し、病棟に向かう。患者に会って、直接話をしなければと思った。
吹き抜けのフロアを進み、温かみのある木目デザインの空間に出る。ここが外科の入院病棟だ。俺は壁に一列に並んだ扉のうち一つをノックし、返事を待った。
「はい。どうぞ」
「失礼します」
中から聞こえた女性の声で、俺は部屋に入る。病床の上で体を起こした女性の隣で、小学生くらいの男の子が大人しく座っていた。彼女の息子だろう彼は、置物のようにじっとしてこちらに一瞥もしない。人見知りされてしまったか。
「初めまして。貝塚和香さんですよね。あなたの担当医の篭野です。よろしくお願いします」
「ええ。よろしくお願いします」
俺が頭を下げて挨拶をすれば、和香も礼を返してくれた。俺は緊張がほぐれるのを感じながら、病床の脇に立つ。そこで初めて、男の子と目が合った。
「あ、この子は息子の璃王です。ほら、篭野先生に挨拶して」
「……こんにちは」
母親に促された璃王は静かにそう言い、俺から目を逸らした。しかし、璃王の目は母親のことも見ていないようで、備え付けの床頭台に向いている。俺は訳も分からないまま、とりあえず台に置かれた小型テレビの電源を入れた。
「こんにちは、璃王くん。これから先生、お母さんとお話するから、テレビでも観て待っててね」
俺が頭を撫でてやれば、璃王は小さく首を動かし頷いた。テレビからは、ニュースキャスターがお昼のニュースを読む声が流れる。
「あら。もうこんな時間。璃王、約束の時間もうすぐじゃない?」
「本当だ。お母さん、ごめん。もう行くね。篭野先生も、ありがとうございます」
璃王はさっきまでとは打って変わって、勢いよく飛び出して行った。しかも律儀に、テレビの電源まで消している。俺は呆気にとられてしまう。
「驚いたでしょう? あの子、興味あることにしか本当に興味がなくて。親として、どうかとも思うけど」
「いえ。大丈夫ですよ。それにしても、約束って?」
「幼なじみのお兄さんが、ここで働いているので。彼に会いに行きました」
「なるほど」
俺は相槌をうちながら、璃王が座っていた丸イスに腰をおろす。和香と向かい合った俺はカルテを取り出し、検査結果のデータを表示する。
「改めて、お話します。あなたの症状は、すぐに悪化するようなものではありません。しかし、このまま放置しておくわけにもいきません。治療をおすすめします」
俺がはっきりと断言すると、和香は分かりやすく肩を落とした。こういうことはよくある。俺たち医者からすれば、患者には治療をして元気になってもらいたいが、治療を拒む患者は一定数いる。医者はどんな患者にも、その人にとってベストな選択をしなければならない。
「治療と言っても、いくつか種類があります。手術療法がメジャーですが、放射線によるレーザー療法、飲み薬での薬物療法などもあります。あなたの要望に沿って、治療プランを立てられますよ」
肩に掛けていたタブレット端末を操作し、スライドで治療について簡単に説明を始める。配流が医大時代に共有してくれたそれは、説明すべき点が明確に記されており、俺は説明しやすく和香は理解しやすいようだ。
「あの、これってどれも長期的な治療になりますか?」
「はい。レーザー療法と薬物療法は、確かに長期的な治療が必要になります。ですが、リスクや負担は軽減されると思います」
「手術は……?」
和香の目が左右に泳ぐ。迷っていることは一目瞭然だが、どういった答えを望んでいるのだろうか。俺は数秒の熟考の末、嘘偽りなく伝えることにした。
「手術は短期間で終わりますよ。手術して、検査して、それで完治が確認出来れば退院です。あとは数回の通院で再発の可能性がないと判断されれば、そのまま日常に戻れます」
「そうですよね」
揺れる和香の瞳を見て、俺は心の中でため息を吐いた。呆れたわけではなく、途方に暮れたからだ。手術と聞いて不安がる人は大多数だが、そういった恐怖心は患者本人でないと払拭出来ない。
「不安ですか?」
「いえ。不安とかはないんです」
和香のその言葉に、嘘があるようには聞こえなかった。手術が怖いのではない。他の悩みの種を模索していた俺は、璃王の存在に行き当たった。
「もしかして、璃王くんのことが心配ですか?」
俺が問えば、和香は力なく頷いた。
「ええ。私、お恥ずかしながら離婚していまして。私が入院している間、璃王が一人で大丈夫か不安なんです。だから、治療するならなるべく短期間で終わらせて、早く璃王を安心させたい」
「そうですか。分かりました」
シングルマザー。その単語が浮かんだ瞬間、俺の胸に激痛が走った。俺の母親も、そうだった。たった一人で俺を育てて、お金のかかる医大にも通わせて暮れた。
そうか。俺は小学生や中学生の頃、一丁前に大人のふりをして母親に恩返しをしようとしていた。きっと、璃王はあのときの俺と同じ気持ちで、和香はそれに気付いているのだ。だから、今の璃王に余計な心配をかけられない。
「俺は手術を薦めます。それが一番手っ取り早いので。ですが、璃王くんに心配させたくないと言うのなら、強制はしません」
「篭野先生。私、このままで良いとも思ってしまいます。今日検査をして、すぐに入院しましょうと言われたとき、あの子すごい顔をしたんです。手術とか薬とかの話をしたら、璃王はきっと……」
何故か今度は、しっかりと呆れを感じた。着実に湧いてくる怒りもだ。俺は何とか表情を変えないように、顔の筋肉に力を入れる。
「そりゃ心配しますよ。あなたは璃王くんにとって、たった一人の家族なんですから。でもそれ以上に、治療の話をしてくれたら嬉しいと思うんじゃありませんか?」
怒りから早口になってしまった。それでも、頭の中では言うべきことを整理し続ける。
「俺の母親も、シングルマザーでした。だから俺、母さんにはもう楽して生きていてほしいんですよ。俺が学校行くお金も、友だちと遊ぶお金も、夢を追いかけるお金も。全部、母さんがいっぱい働いて用意してくれた」
あのときのあかぎれだらけの母親を思い出すと、申し訳なさと感謝で涙が溢れる。
「今は仕事して、俺が稼ぐ番だから良いんですよ。でも、璃王くんはこれからなんです。これからたくさん、夢を見るんです。追いかけるんです。あなたが傍で応援して支えるべきだ。だから、そんなこと言わないでください。元気にしますから、俺が」
和香の震える手を取った。おそらく、俺の手も同じくらいかそれ以上に震えている。しかし俺は、力いっぱい和香の手を握り包み込んだ。
あなたが生きることを選べば、俺は全力を尽くすし、璃王は喜ぶ。そう伝えたい。
患者に感情的になってどうする。今日会ったばかりの人の前で泣くなんて、ひかれるに決まってるだろ。冷静な俺が、バカな俺を嘲笑う。そんなこと、全部分かっている。
それでもどうしてか、和香と母親が重なってしまう。俺は今、医者ではなく息子の立場から物を言っている。こんなに患者に対して、感情を抑えられなくなったことはない。
「信じてください」
一番言いたかったことが言えて安心したのか、和香の手に、俺の涙が落ちた。俺はすぐに手を離し、両手で涙を拭う。これ以上、泣いてはいけない。自制のために目元を強く擦った。
「篭野先生、ありがとうございます。こんなにも、私や璃王のことを考えてくださって。私、あなたにお任せします」
「え? 良いんですか?」
「ええ。何だかあなたなら、最良のプランを立ててくださる気がします」
「でも、俺は、手術しかお薦め出来ませんよ」
和香が俺を信用してくれたようだ。だけど、俺は手術が最良だと思っている。和香と璃王は、それで良いのだろうか。
「分かりました。あなたがそう言うなら、手術を受けます。璃王には私から説明するので、篭野先生はご心配なさらずに」
和香があまりにも清々しい顔で言うので、俺は呆気にとられるしかなかった。任せてくれることは、もちろん嬉しい。だけど、本人が前のめりではないことをさせるのには抵抗がある。
「あの、俺、とりあえず手術の予定組みますけど、気が変わったら言ってくださいね。対応しますから」
俺は戸惑ったまま何とかそれだけ伝え、和香に一礼して部屋を出る。そして上司に相談しようと、外科医局に向かった。
俺が戻った医局では相変わらず、実年齢より老けた人たちがパソコンを必死に叩いている。俺はその中から今朝話していた上司を選び、後ろから声をかけた。
「先生、今大丈夫ですか?」
「うおっ! なんだ、篭野か。驚かすなよ」
上司はイスの上で跳ね上がり、恐る恐るといった様子で俺を振り返る。
「すみません。相談したいことがありまして」
「そうか。今なら大丈夫だが」
「ありがとうございます」
俺は空いているデスクからイスを拝借し、そこに腰かけると上司に和香のカルテを見せた。
「この人のこと、どうするべきか分からないんです。本人は手術に前向きではないのですが、息子のためを考えて俺に判断を委ねると言ってくれて。俺は手術を薦めているんですが……」
「そうか。ちょっとこれ貸してくれ」
俺の返答も聞かずに、上司は俺たちのちょうど真ん中に置いていたカルテを取る。そして暫く目を通してから、ゆっくりと嬉しそうにこちらを向いた。
「お前、運良いな! これは俺も手術薦めるぞ。良くやった!」
「あの、運って?」
バシバシと俺の肩を叩いてくる上司に困惑の視線を向けると、上司は楽しそうに何度も頷いた。その様子から何か良くない予感がする。
「この病気に対する手術だが、つい最近新しい術式がアメリカで発表されたんだ。もちろん数回の成功例もある。しかしな、日本ではまだ一度も実践されていないんだ。もしお前が成功させれば、日本人初の快挙となる! どうだ? 悪い話ではないだろ」
「それは確かにそうですけど……」
上司の尋常じゃない熱量に気圧されてしまいながらも、俺は頭を働かせて反論を考える。俺はこの人の考え方には賛同できるが、意見には拒否感を覚えていた。
「でも、もう既に確立された術式がありますし。わざわざ危険を冒す理由はありませんよ」
「だからこそだ!」
両肩を掴まれた俺は、逸らした視線を再び上司に送るしかなくなった。ギラついた男の瞳が、食い散らかしそうな勢いで俺を見ている。
「新しいことに果敢に挑戦する若手医師! メディアが好む筋書きだ。それに、学会でも注目されるに決まってる。今朝話しただろ? お前なら分かるはずだ」
その瞬間、稲妻に似た衝撃が胸を走った。俺はこの人の考え方に賛同してしまったのだ。だから、この人はこんな意見でも通ると思っている。
「あなたの考え方を理解はしました。ですが、あなたの意見と俺の意見が同じとは言っていません」
「篭野、お前って奴はもしかして配流と同類なのか? 真面目だね。でもさ、名声求めて自分勝手にやる方が気は楽だし、出世出来るよ。外科部長見てみろ。ハートラボとかいう変な研究所作って、そこで結果出せたおかげで心臓外科手術のエキスパートだって言われてるんだ。それが院長に認められて、部長に大出世! 俺たちが目指すべき姿だろ?」
「天王寺部長は確かにすごい人です。でも、俺たちが部長を真似する必要ってあります?」
俺が訊ねると、上司は深く長い息を吐いた。そこに呆れが含まれていることは、訊かなくても分かった。
「そうだな。お前、新人だもんな」
一人で納得しながら、上司は目元を手で覆う。
「この世界は、上に従った者だけが生き残れる。上の言うこと聞いて、上の真似して。そうすれば、自分が上になれる。そういうルールなんだよ」
「ルールですか?」
「篭野。俺はいつでも相談にのる。だから、その患者に新しい術式を試せ。良いな?」
上司は寄り添うように、俺の肩を弱い力で叩く。初めて、こんな優しい上司の声を聞いた。呆然とする俺の横を、上司は何も言わずに通り抜ける。話はこれで終わりらしい。
俺は釈然としないまま、ふと思ってしまった。あの上司の言葉は、正しいのではないかと。昇級を決めるのは上司なのだから、上に気に入られるのは得策だ。そして何かのきっかけで注目と名声を得れば、重宝され医者として長寿になる。
意外と、的を射た意見だ。そう思ってからは、早かった。俺はすぐに自分のデスクに行き、新しい術式について調べ始めた。そうだ。俺は期待の新人なのだから、それに応えなければならない。
俺がパソコンを操作する手は、止まらなかった。
「お疲れ。篭野」
そう、上から声が降ってくるまでは。
「え? あ、配流。お疲れ」
いつの間に暗くなっていたのか。暗闇の中、配流の灰色が心配そうにこちらを見下ろしていた。配流は俺から目を逸らさず、自分のデスクに座る。向かい合う位置で、俺たちは違う仕事を始めた。もうこの部屋には、俺たち二人以外誰もいない。
「さっき読んでたの、先週発売のアメリカの論文誌だよな。新しい術式のページを熱心に読んでたけど、何か気になることでもあったか?」
「いつから見てたんだよ……」
「五分前くらいからだな。声かけても反応なかったから、さっきので呼びかけは十回目だ」
カタカタと、配流がキーボードを打つ音だけが響く。俺はなんでか、仕事をする気にはならなかった。ただ、配流と話がしたい。
「悪かったな。無我夢中だったかも……」
「お前がそこまで熱中するなんて珍しい。大学時代から、器用な人間だっただろ」
「配流、相談があるんだ」
音がピタリと止んだ。目の前で、灰色が円くなる。俺はそれを了承ととり、勝手に話すことにした。別に、答えを求めているわけではない。誰かに話を聞いて欲しいだけなのだ。
「今回受け持った患者を、手術することになったんだ。でも本人が手術を選んだんじゃなくて、担当医である俺に任せるって言ってくれて、それで」
「そう」
「ああ。それで術式を副部長に相談したら、この新しい術式を薦められた。だから今勉強中だ。でも、これで良いのか分からなくて」
「どうしてだ?」
配流がパソコンを閉じる。俺の話を真剣に聴こうとしてくれている。学生の頃から、分かりづらいだけで優しい奴なのだ。
「怖いから、かな。この患者は、医者である俺を信頼してくれた初めての人だ。まだ新しい術式をやって失敗したら、それは患者への裏切り行為だ」
「でも勉強中ってことは、副部長の提案を一度は受け入れたんだろ?」
「それは……。何て言うか、副部長の言い分が分かっちゃったから。医者も、論文や学会で注目されなきゃダメなんだって」
自分の頭の中を言葉にすることで、俺は自身の考えが整理されていくのを感じた。和香のことを裏切りたくないし、誰かから注目もされたい。
「篭野、お前にとっての医者って何だ?」
「何? 急に」
「患者を裏切らない優しい奴が医者か? それとも、世間から注目を浴びる英雄が医者か?」
配流のまっすぐな問いかけに息が詰まる。それは今まさに、俺自身が悩んでいることだった。どちらが本当の医者なのか、今の俺には分からない。このまま配流と話せば分かるとでも言うのだろうか。
「分からないんだ。俺はその優しい奴も、英雄も、知っているから」
「教えてくれ。篭野法助が、誰を見て何を見て、医者になったのかを」
愚直な配流に、涙が出そうになる。俺にこんなにも親身になってくれるなんて。配流には、ちゃんと話そうと思った。俺は中学生の頃、初めて見た英雄を思い出す。
「中一のときだったかな。たまたまつけたテレビで、とある医者が取り上げられていた。当時は新型の感染症が流行り始めた頃で、医療機関はひっ迫していた。その医者は自分の研究分野がこの感染症に関係していると気づくと、途中だった研究をなんとか完了させ、特効薬の作り方を論文に記し発表した」
俺のデスクの引き出しには、その論文のコピーが入っている。お守りのように、あれからずっと大切にしているのだ。
「痺れたよ。普通は目の前のことでいっぱいいっぱいになるはずなのに、冷静に判断して大勢の命を救った。俺はそんな英雄みたいになりたいと思って、医者を志したんだ」
「そうか。その人が篭野にとっての英雄か。なら、優しい奴っていうのは誰だ? 部長か?」
俺は首を左右に振る。確かに、天王寺外科部長は患者にも医療従事者にも優しいと評判だ。でも違う。
「お前だよ、配流」
一生言うつもりがなかったので、俺は観念したような口調になってしまった。しかし配流がそのことに気付いている様子はなく、とても不思議そうに目を瞬かせている。
「俺? なんでまた? 俺が優しいなんて変わってるね」
配流は何でもないように振る舞おうとしているが、慌ただしく質問責めしているし、耳を赤らめているしで、テンパっているのが一目瞭然だった。俺だって恥ずかしいというのに、こんなに目の前で恥ずかしがられては冷静になってしまう。
「配流はさ、あの人と逆で目の前のことにちゃんと向き合ってる。覚えてるか? 俺たちが寺島病院で研修医だった頃のこと」
「二年もあったんだぞ。詳しく言ってくれないと分からない」
眉を八の字に曲げた配流の声からは、期待が感じられた。こいつ、意外と単純かもしれない。俺はあのときの配流の姿をはっきりと思い出す。
「研修医になりたての頃だ。周りの同期は仕事を覚えることで精一杯だったのに、お前はちゃんと患者と膝を突き合わせていた。あのとき、既にお前は医者だった」
配流は眉をひそめながら首を傾げる。どうやら自覚はなかったらしい。
「治療方針で指導医と揉めた。でもそれは患者の検査結果などから、今までどおりの治療を続けることへのリスクを感じたからだ。頭良いし、信念あるし、お前はずっとすごいよ」
「だからって、人と揉めるのはダメだろ」
「素直に受け取れよ。褒めてるんだから」
なかなかにひねくれている配流に驚きつつ、俺は辟易もした。あまり話したこともない、俺が一方的に憧れているだけの同期にこんなことを言うという、きまりが悪いことをさせておいて。当の本人がこの調子とは。
「そうだな。ありがとう、篭野」
俺が呆れのため息を吐いた瞬間、配流はどこまでも優しく柔らかく微笑んでそう言った。その笑顔を見てしまえば、呆れも怒りも浄化される。やはり、配流はすごい奴だ。
「配流って人たらし?」
俺は配流にひねくれ返してやったが、彼は身に覚えがありませんと首を振る。そういうところだよ、配流。
「まあ、俺の憧れは対極的だってことだ。目の前のことに向き合うか、未来を考えて行動するか。どうすれば良いか分からないから、副部長の言葉で道筋を決めた。それだけの話なんだ」
そう。たったそれだけの話。やるべきことをやりたくなくて、駄々をこねているだけなのだ。相談とか言ってしまったけれど、やるべきことは決まっているので俺はそれをまっとうするだけで良い。配流には申し訳ないが、自分事のように考えてくれる必要はない。
「相談って言ったけど、大丈夫だ。何でもない」
「そうか。でも、会話を続けて良いか?」
俺はパソコンで海外の研究論文を開きながら、配流に頷く。自分がひとしきり話した後は、人の話を聴いてやらねば。
「結局、篭野の指針は何なんだ? 憧れの人物が対極的でも、同じ人間が憧れたんだから共通点はあるはずだろ」
「指針か。考えたこともなかった。ただ、こんな人になれたら良いなって」
「分かった。そこを詰めよう。『こんな』って部分に何かあるはずだ」
配流は真剣だった。俺が相談と言ったからか、真摯に向き合おうとしてくれている。嬉しくもあり、ありがた迷惑でもあった。
「そして篭野は、それに気付いている。自覚出来ていないだけだ」
「そう見える?」
「ああ。だから悩んでいるんだろ?」
「そうかもしれない。なんでか分からないけど、このままは嫌だって思う」
「俺からすれば、こんな分かりやすい答えをどうして自覚出来ていないのか不思議だが」
そう溢した配流から嫌味は感じられない。本当に俺が悩んでいることの答えを知っていて、本気で俺を不思議がっているようだ。
「配流、頼む! 俺にヒントをくれ。自分の気持ちにちゃんと目を向けたい」
「さすが篭野だな」
手の平を合わせた俺の頭上で、配流は嬉しそうに口を開いた。そして暫く考え込んでから、両手の人差し指を立てる。
「お前は今、患者のためと自分のためで揺れている」
二本の指を離れさせ、右手の方を関節で曲げる。
「英雄は特効薬の作り方を確立させた。これは間違いなく、患者のための行動だ」
今度は左手の方を同じように曲げる。
「そしてその行動の結果、英雄視されるようになり篭野の耳にも届いた。メディアに無許可で取り上げられるわけがない。なら、その人は自ら望んで名声を得たということだ」
再び、配流の体の中心で二本の指が出会う。
「さて、この英雄が最初に考えたのはどちらでしょ?」
クイズ番組の最終問題を思わせる、緊張と興奮を混ぜ合わせた声だった。大衆に見られているわけではないのに、俺のみぞおちに鈍い痛みが広がる。
「分からない...…」
人の考えなんて分かるわけがない。現在進行形で会話しているならある程度は察することが出来るが、会ったこともない人が過去に考えていたことなんて、俺には分からない。それでも、答えたい回答がある。
「でも、人のためが先だったら良いなって思う」
「正解、だな」
立ち上がった配流は、拍手しながら俺の前に足を進める。そして、まるで絵本に出てくる王子のように俺に跪いた。
「たまには自分本位になるのも悪くないだろ」
「配流? 悪いけど俺、まだピンと来てない」
俺がそう言うと、配流は一瞬で顔を歪めた。絶対に俺以外の人間には見せない方が良い、懐疑と呆れと怒りが良い感じにブレンドされた表情だ。
「お前が言ったんだぞ。人のためが先なら嬉しいって」
「そうだけど。でもさ」
「それに、お前は俺が患者に向き合っているところに憧れてくれた。自分で言うのも変だが、俺だって人のためを考えて行動しているつもりだ」
灰色が胸を射貫くかのごとく、しっかりと俺の目を見た。配流の言葉に嘘もお世辞もない。俺はようやく、配流が言いたいこと、自分が考えていたことを理解した。まさか、ここまで直接的なヒントをもらわなければ分からなかったとは。
「なるほどなぁ」
息と区別も出来ないほどの声がもれた。納得感と安堵感からだろうか。声が震える。
「俺の憧れは、誰かのために自分の能力を使える医者か。そっかそっか。そっかぁ……」
「納得したか? 俺の予想が当たっていて良かったよ」
「ああ。すっきりした。ありがとう」
俺たちは満足して頷き合った。これで俺の悩みは解決だ。そう思ったが、配流はまだ俺の前から動こうとしない。それどころか、気がかりそうに俺を見上げている。
「配流? まだ俺何か気付けてない?」
「いや、そうじゃなくて。結局どうするんだ? 患者のこと」
そういえば、そこから悩んでいたんだった。自分の忘れっぽさに面食らう。でも今の俺なら、悩むことなく答えを出せる気がした。
「今気付いたからね! 人のために行動することが大事だって。だから、副部長の提案は断る」
俺は決意を込めて、パソコンのタブをすべて閉じる。これでよく分からない論文とはおさらばだ。俺が向き直れば、配流は目を細めて笑ってくれた。優しい笑顔だ。
「ねぇ、配流。俺が今まで論文とか学会とかに積極的だったの、どう思ってた? というか、なんで配流は名声とかに興味なかったの?」
「突然だね。まぁ、すごい恥ずかしい答えなら出来るけど……。聞きたい?」
「聞きたい! 俺だけこんなに自分の気持ちバレて、お前は何もないのは気に食わない」
はぐらかそうとするので俺が食い下がれば、配流は唇を尖らせて不機嫌な顔を作る。しかしすぐにいつもの真顔になり、息を吐いてから話し始めた。
「積極的なのは良いことだと思ってたよ。でも、副部長とかに過度に期待されてるから、いつか壊れるんじゃって心配してた。お前、昔から責任感あるから期待を裏切りたくないって思うだろ」
配流の言葉に首肯しながら、心の片隅で恐怖する。こいつの正体、もしかしなくてもエスパーじゃないか。
「あと俺は名声に興味ないっていうより、大勢に注目されるのが嫌だっただけだ。自分が関わった患者からの感謝は嬉しいし、大切にしたい。でも注目を浴びたら、多くの声を聞かなければいけなくなって、自分が一番聞くべきことを埋もれさせてしまう気がした。だから、俺は副部長とかの考えを理解出来ない。以上」
拗ねたようにそっぽを向いてしまった配流に、俺は何も言うことが出来なかった。だからせめてもと、手を叩く。
配流はずっとどこまでも、患者のことしか考えていない。確かに、元気になった患者からの感謝は嬉しい。でも、俺はそれだけじゃ満足出来なかった。配流みたいに、その人と向き合って来なかったから。
「配流は本当の医者だね」
患者の声を聴き、自分の能力を発揮する。感謝を素直に受け取れる。そしてこうやって、人の悩みを聴いて解決してくれる。
優しくて、誠実で、愚直な人間なのだ。
「どうした?」
配流は俺の唐突な発言が不可解だったのか、目を丸々とさせる。
「何でもない。ありがとう、配流。俺のわがままだけど、配流には一生このままでいて欲しいな」
「別に俺も俺の考えを変えるつもりはないけど……」
「そっか。良かった。じゃあ、お疲れ」
安心した俺は荷物をまとめ、配流に挨拶してから医局を出る。自覚なく俺の指針となってしまった配流には、明日改めてお礼をしよう。俺は満月に照らされた道へと躍り出た。
ーーーーー
「俺にとって良い医者とは、素朴な人間です。誰にでも寄り添える、優しさと強さを持った普通の人です」
十二年前のあの日から、一秒たりとも忘れたことはない。俺の自慢の同期は、記憶の中でいつも同じ顔で同じことを言う。それは俺にとって、何よりも心地良かった。
「素敵な解答、ありがとうございます。では、インタビューはここまでとさせていただきます。ご協力ありがとうございました」
記者が部屋を去るのと入れ違いで、部下が顔を見せる。この部下は研修医の頃から俺が面倒を見ていて、そのおかげで今もこうして懐いてくれていた。
「篭野先生、お疲れ様です。行きましょう」
部下と連れたって、医局に戻るため廊下を進む。
「明日の資料、後で確認させて欲しい」
「了解です。しかし、もう明日ですか。緊張してきました」
「大丈夫か? でも当日は堂々としてろよ。藤條瑠伊はめざといからな。不審な動きをしていたら、すぐに目をつけられる」
「分かってますよ」
わざとらしく体を震わせる部下の隣で、俺は緊張を隠すため深呼吸する。俺だって、正直怖い。
明日は二年に一度の実態調査の日。設備や経営状況、給与について調査するため、厚生労働省から調査員が派遣される。それを率いるのが、藤條瑠伊だ。
現厚生労働大臣の息子で、厚生労働省の役員である彼の仕事は、いつも正確で合理的だった。五年前に調査の最高責任者に任命されてからは、それに一層磨きがかかったらしい。どんな仕事もそつなくこなすので、周りからの評価はうなぎ登りだ。
しかし、真実か彼を羨んだ者のホラなのか定かではないが、藤條瑠伊が病院で起きた事故や不正をたびたび揉み消しているという話を聞く。俺はそんな話はまったく信じていないが、不正があると思われてしまうことは避けたい。そのために、部下たちには準備を徹底させていた。
「藤條瑠伊って厳しい人なんですかね? みんな怖がってますけど」
「そりゃ、国の役人だよ。敵に回したら、恐ろしいことが待ち受けているはずだからさ。でも、本人は意外とおもしろい人だと思うよ」
「本当ですか? 例えばどんなところが?」
目を輝かせる部下に、俺は十年近く前のことを思い出す。このことを話したら、部下はどんな反応をしてくれるだろう。
「厚生労働大臣が主催のパーティーに、運が良ければ招待してもらえる。そしてそこで藤條瑠伊に気に入られると、すごいことが起こるんだ。何だと思う?」
俺がわざと焦らすと、部下は待ちきれないとばかりに顔を近づける。
「何ですか?」
「プレゼントをもらえるんだ。俺の同期には、もう乗らないからって黒いベンツをプレゼントしていたな。あいつはすごく気に入ったみたいで、ベンツを乗り回してたぞ」
俺の脳裏に、配流の得意げで憎たらしい笑顔が浮かぶ。あのときの配流は、間違いなくクソガキの顔をしていた。
でも、パーティーに行ったのは人脈を得たいとかの下品な理由からではなく、夕食代を浮かすためだと言っていた。そういうところは本当にぶれない男だ。
「ベ、ベンツ! 超高級車じゃないですか! その人、どんだけ気に入られたんですか」
「まぁ、優秀な男だったからな」
「すごいですね。じゃあきっとその人、今もバリバリに働いてるんですね」
部下の無垢なその一言に、俺は背筋を凍らせる。痛いところを突いてきたな。
「さぁ? 六年前に急にここ辞めてさ、それから行方知らずだよ。連絡もとれなくなっちゃった」
「それは……。心配ですね」
「でも、信じてるんだ。あいつのことだから、きっとどこかで命救ってるって」
だって、俺が胸を張って自慢出来る憧れであり、親友なのだから。それに、あいつは意外と諦めが悪い。人命救助をしない配流なんて、想像出来ないし存在もしないはずだ。
大丈夫。この道をまっすぐに進んでいれば、またいつか会える。そう思って今までやって来た。これからもそれは変わらない。
俺は部下に、大袈裟に笑ってみせた。
ーーーーー
部下と別れてエントランスホールに出ると、なにやら受付が騒がしかった。見ると若い男女、正確には男性の方が受付嬢に詰めよっている。
「あの、本当にありませんか? 実験病棟っていう部署なんですけど」
「申し訳ございませんが、何度もお伝えしていますとおり、そんな部署うちにはございません」
「でしたら、院長に伝えてください。配流玲の居場所について尋ねたいと」
女性が出した名前に、通り過ぎようと進めていた歩みを止める。今、俺の同期の名前が出たような。俺は急いで、引き下がろうとしている女性に声をかけた。
「すみません。外科の篭野っていいます。今、配流玲って言いましたよね」
「ええ、そうですが。何か知っていることでも?」
「あ、いえ。俺の同期の名前だったもので。すみません。えっと、どの配流さん?」
「あなたの同期の配流さんですよ、篭野先生」
女性の後ろから男性が答えた。男性はキャップを目深にかぶり、大きなマスクをしていたが、その声には聞き覚えがあった。
「璃王くん! 久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」
璃王は深くお辞儀をしてくれた。礼儀正しい子に育ってくれていることが、とても嬉しかった。
「母の件は今でも感謝しています。篭野先生の手術のおかげで、母は今も元気に過ごせています」
「そうか。それは良かった。でも悪いけど、配流の居場所は俺にも分からない。力になれなくてすまないな」
十二年経っても感謝をしてくれる心優しい彼に、何か返してやりたかった。しかし、俺も配流がどこにいるか知らない。悔しいが俺に出来ることはない。
「そうですか。僕たちこそすみません。お仕事頑張ってください」
もう一礼して璃王は女性とともに、去って行った。俺はその背に心の中でもう一度謝る。
配流、俺だけじゃない。お前に会いたがっている人は他にもいる。せめて、今も人の命を救っているのかだけでも、教えてくれ。
次回は「再会」がテーマです。次回も読んでくださると嬉しいです




