表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/15

第十五話 兄弟のとき

瑠伊が玲に抱く複雑な感情。伝えられれば幸いです

 公園のブランコに座り、僕は夕焼け空を見上げた。紫とオレンジの綺麗なグラデーションが、空を彩っている。僕から漏れた溜め息が、そこに吸い込まれて行く。今日はいろいろなことがあった。


 僕は先ほどまで会っていた医師たちの話を思い出し、ブランコを漕ぎ始める。久しぶりなので、ブランコの動きはぎこちなかった。それでも、考えごとをするのにはちょうど良い。


(れい)さんの大切な人……」


 出会ってから六年前まで、自分のものだと思っていた地位。でも、今日分かった。僕は配流(はいる)玲にとって、ちっぽけな存在なんだ。


 玲には優しい幼なじみがいて、支えてくれる同僚がいて、守りたいと願う誰かがいる。僕は昔近所に住んでいただけだし、何より玲の人生を壊した原因だ。そんな僕に信じられたところで、玲は嬉しいのだろうか。


篭野(かごの)先生と千歳(ちとせ)教授のことは疑いたくないな」


 母の命の恩人である篭野法助(ほうすけ)を疑うなんて、恩を仇で返すようなことだ。絶対に出来ない。それに、あの正直者の篭野が自分の起こした事故を隠そうとするはずがない。


 千歳(じゅん)のことも、僕は疑えていない。新希(あらき)から彼が玲の親友である自信がないのかもと聞いたとき、玲との友情は本物だと直感した。玲を想う千歳が、親友を苦しめると知りながら今の今までこれるだろうか。


藤條(とうじょう)瑠伊(るい)って人のことは、良く分からないしなぁ」


 今日、彼の名前を初めて知った。そんな人のことを、僕が簡単に判断出来るわけがない。適当に名前で検索をかけてみたが、優秀な厚労省役員ということしか分からなかった。彼の性格も私生活も、一切が不明だ。陣内(じんない)に教えてもらった、玲にとって兄のような存在だという情報しか得られていない。


「どうしよっかな……」


 僕は特大の溜め息とともに、悩みを吐き出す。端から見れば不審者だろうが、ここは人通りが少ない。そう、安心したときだった。


「アイドルさん! 何してんだ? こんなとこで」


 お化けでも見たかのような絶叫が響く。その方向に勢い良く振り向くと、公園の入り口に目を白黒させた湯中(ゆなか)(こう)が立っているのが見えた。狡のイメージからはかけ離れた、かっちりとしたスーツを着ている。


「狡くん! 君こそ、ここで何してるのかな?」


 僕は急いで『アイドル・貝塚(かいづか)璃王(りお)』の仮面で取り繕い、ブランコから飛び降りる。エスコートするように狡に手を差し出したが、狡はそれを掻い潜りベンチに腰を降ろした。そして、その隣を二回叩く。ここに座れということらしい。


「俺は、兄ちゃんの忘れ物届けに行って来た帰り。兄ちゃん、今度のプロジェクトのリーダーなのに、会議資料忘れてったんだよ」


「それはそれは。狡くん、偉いね」


「褒められるほどのことじゃねぇよ。兄ちゃんは昔っからすげぇ奴でさ。そのイメージを壊したくねぇっつうか、まぁ、俺のエゴだな」


 珍しく弱気になっている狡の言葉で、僕は玲と瑠伊の関係を想起した。陣内いわく、瑠伊は玲の理想でいられるように努力していたが、それに玲は気付いていなかった。僕には兄弟がいないのでそれが普通なのか見極められないが、狡なら出来るのだろうか。


「狡くんのお兄さんって、生まれついての天才タイプ? それとも、努力して天才になったタイプ?」


 僕はわざと声を上擦らせ、狡の兄に興味を示したふうをよそおう。狡は僕の演技に気付くことなく、思いを巡らせ始めた。自分の中の兄を、一生懸命言葉に表そうとしてくれている。


「どっちかって言われりゃ、兄ちゃんは生まれたときからの天才だよ。兄ちゃんが頑張ってるところなんて、見たことねぇ。何でもやりゃ出来る」


「そうなんだ。すごいね」


 これは僕の持論になるが、努力をしない人間はいない。努力した分だけ自分の未来は報われるし、努力を怠った分だけ大事な場面で足をすくわれる。


 だが、頑張っている姿を人に見られたくないと思う人間がいることも事実。現に僕がそうだ。僕はアイドルとして、常に完璧なパフォーマンスで人の心を魅了したい。だからそのためのレッスンは欠かさないし、ファンたちの幻想を壊さないためにそれをおおっぴらにしたくもない。


 そう思うから、僕が『アイドル』の仮面を被り努力を隠すように、瑠伊や狡の兄も『理想の兄』の仮面で努力を隠しているのではと勘繰ってしまった。


 だけど、やはり持論は持論でしかない。どんなに仮面の紐をきつく結んでも、必ず隙間が生じる。そこから、誰かがいつも素顔を見ている。だから、兄がどれだけうまく努力を隠そうが、弟にはバレてしまう。なら、狡の兄は本物の天才なのかもしれない。


「ねぇ、狡くん。狡くんはお兄さんが何でも出来る天才じゃなかったら、好きになってなかった?」


「どうした? んなこと急に訊いて」


「ううん。何でもないの。ただ、ちょっと気になっちゃって」


 はぐらかすように軽く笑ってから、僕は狡に顔を近付ける。狡はそんな僕を警戒しているのか、顔をしかめてから身をよじらせた。


「変な奴だな、お前」


「ごめんね」


 謝ってはみたが、狡は呆れたように白目をむく。それから、ゆっくりと視線を逸らした。狡に不審がられてしまっただろうか。


「そうだなぁ。俺は、どんな兄ちゃんでも好きだ。だって兄ちゃん、天才なだけで大事な部分は抜けてんだよ。そういうバカっぽいところがあるから、兄ちゃんは天才であっても完璧超人じゃない」


「うん?」


「だから俺、兄ちゃんが好きだ。尊敬出来る部分もあれば、笑っちまうところもある。そのギャップが、兄ちゃんなんだよ。俺は天才な兄ちゃんを好きなわけじゃねぇ。天才な兄ちゃんも好きではあっけど、バカな兄ちゃんはもっと好きだ」


 狡は嬉しそうに、はにかんだ笑顔を浮かべる。それでも興奮したままの狡は、足をバタつかせ笑みを大きくした。かわいい弟なこった。


 僕は目を細め、玲に思いをふける。玲も兄に、狡と同じ感情をもっていたのかもしれない。兄弟であることを、こんなふうに誇りに思っていたのかもしれない。


 それなのに、僕は玲に兄がいたことを知らなかった。教えてもらえなかった。玲が、兄の存在を隠していた理由は何なのだろう。そこに、朝川(あさかわ)寧音(ねね)誘拐事件の真相が関わっているような気がしてならない。


「狡くんは、お兄さんのことが誇りなんだよね。周りの人に自慢したりしたの?」


 前述のとおり、僕は兄弟の普通が分からない。玲が僕に兄を紹介してくれなかったことには引っ掛かるが、それが普通なのかもしれない。狡に確かめておかなければと、狡との距離を縮める。


「当たり前だろ! 兄ちゃんのこと、自慢せずにはいられねぇからな。友加(ゆうか)先生にもしたくれぇだ」


「そういうのって、普通なの? 狡くんがお兄さんのことを好き過ぎたとかではなく?」


「ねぇな。弟はな、兄が好き過ぎる生き物なんだよ。みんな、一度は自慢ぐらいしてるだろ」


「そうなんだ」


 狡が自信満々といった様子で宣言したので、僕は釈然としないまま引き下がるしかなかった。やはり、玲はわざと僕に兄のことを言わなかったのだろうか。


 そこまで考えて、僕はそもそも、玲の周りの人間を誰一人として教えてもらえていなかったと思い出した。愛意(あい)たちと一緒にいたため、玲の関係者をある程度把握出来ただけだ。それ以前は、玲の幼なじみも親友も同僚も、家族でさえも知らなかった。ずっと玲のことを、僕は分かっていなかったのだ。


 玲が言わなかったのではない。僕が言わせなかった。僕は玲に自分を好いてもらいたくて、玲に自分のことをたくさん話した。家族のことも、学校であったことも、自分自身がどうでも良いと感じたことでも話した。僕は、玲に話す時間を与えられなかったのだ。玲に、兄のことを自慢する時間を与えてあげられなかった。


「そういやさ、友加先生に何かあったか?」


「え!」


 僕は突然の質問に驚き、狡に目を向ける。今まで兄弟関係の話をしていたはずなのに、どうしていきなり天王寺(てんのうじ)友加の話になったのだろう。僕は動揺を隠せず、狡に詰め寄った。


「友加先生が、どうかしたの?」


「俺の思い過ごしかもしれねぇんだ。でも、何か最近の友加先生おかしいんだよ。冷たくなったって言うか、変に自分を変えようとしてるって言うか。今まで以上に、幼なじみに執着してる気がして」


「玲さんに? もしかして……」


 狡の感じた違和感は、僕の脳に最悪の想像をさせた。もしかして事故の犯人が動きだし、それを感知した玲も何か行動を起こしたのだろうか。そして狡に気取られるほど、友加も追い詰められている。そこまでの道筋を思うと、玲の身に危険が起きた可能性が大きいのではないか。


「ねえ、狡くん! 友加先生、玲さんのことで何か言ってなかった? 何でも良いの。何かない?」


「何でもって言われても……。友加先生、仕事とプライベートきっちり分けてっから」


 僕の中で、また玲が遠ざかって行く。ダメだ、行ってはいけない。空想の玲の腕を引くように、現実の狡の肩を揺する。どんなものでも良い。玲に関して、何か情報を得て安心したい。


「あ、でも友加先生、最近そこの境界線が曖昧になってきてっかも」


「もしかして、狡くんが友加先生は変わったと思った理由?」


「ああ。いつもの友加先生なら、患者に対して自分の家族みたいに接して、自分のことは何も言わない。なのにここ最近は患者に対して素っ気ない対応で、線引きしてんだよ。本当に他人行儀で、素のテンションって感じ」


 普通の医者なら、きっと今の対応で良いのだろう。だが友加だ。僕たちが話を聞きに行ったとき、寧音のことも玲のことも心配していた友加なんだ。あの人が患者によそよそしくなるなんて、確かに異変だ。


「友加先生が変わった理由、心当たりない?」


「やっぱり、幼なじみのことじゃねぇのか? 友加先生から直接は聞いてねぇけど、友加先生と玲さんの連絡頻度が明らかに上がってんだよ」


 狡も悩んでいるのだろう。苦しそうに声をこぼし、僕から目をそむける。狡だって、自分の恩人がわけも分からず変わっていってつらいはずだ。そしておそらく、友加の変化の原因は玲にある。


「狡くん、ありがとう。僕は絶対に玲さんに会う。そして玲さんを助ける。だから、友加先生に何かあったら教えて」


「もちろんだ。俺は友加先生に救われた。だから苦しんでんなら、俺が友加先生を救いてぇ」


「狡くん。二人で自分たちの恩人、ちゃんと救おうね。そして、真実を明らかにしよう」


 狡が目を見開き、小さく頷く。狡もうすうす勘づいていたのだろう。僕たちが追う真実とやらが、すべての引き金になっていることを。


 僕はこれ以上、引き金を引かれる銃を増やしたくない。ここで必ず食い止める。その思いは、恩人を失いかけている狡も同じはずだ。


「玲さんも友加先生も、真実を知ったうえで苦しんでいる。玲さんの大切な人が関わっているという情報は、間違いじゃなかったんだ」


「友加先生は、自分の幼なじみがつらい思いをするのに耐えられねぇ人だ。なぁ、真実を明らかにしても、二人を傷つけるだけになったりしねぇのか?」


「だからね、狡くん」


 狡にぶつけられたものは、僕も抱いた疑念だった。だからこそ、出した結論を狡に共有したい。僕は狡の曇りなき眼を見つめた。


「僕たちが真実を世間より先に知って、二人に寄り添うの。あなたが苦しんでいる理由を知っているから、僕を頼って欲しいって言う。頼ってくれなくても良い。伝えるんだ。自分は味方だよって」


 僕は呆気にとられている狡の肩を叩き、踵を返した。呆然としているが、狡も分かってくれただろう。僕たちが真実を追及する意味は、恩人のため。大切な人を、一人にしないため。


 幼なじみは、小さい頃からの関係。そこに太刀打ち出来るとは微塵も思っていない。でも、味方は多いに越したことがないのだから、少しの足しにはなれるはずだ。


 僕はそう思いながら、確かな足取りで公園の出口に向かう。そのとき、僕の背中に狡が声を飛ばした。


「ありがと! アイドルさん」


 後ろの西日に負けないくらいの明るい笑顔で、狡がこちらに手を振っている。無愛想だった青年がここまで心を開いてくれるなんて。よほど友加のことが好きなのだろう。彼女のためになれると知ってこうだ。狡も前を向いてくれるなら、僕にとってはそれが一番良い。


「狡くんも! ありがと」


 僕を狡に手を振った。新たな協力者をつくった僕は、その安心感から自然と口角を上げる。そうして僕は、橙色に染まる公園を後にした。


ーーーーー


 高級レストランというのは何故、ホテルの最上階にあるのだろうか。料理を楽しみに行ったのに、何故夜景を見なければならないのだろうか。


 そんなことを考えてしまう自分に、溜め息が出た。俺は昔から、純粋に何かを楽しむことが出来ない人間だった。でも、そんな俺の隣で友加が楽しそうに笑うから、今いる場所が楽しい場所なのだと認識出来た。


「すみません。ディナーの予約をしたいのですが、直近で予約が取れる日はありませんか?」


 ホテルの最上階にある高級フレンチレストランに、俺は予約の電話をかける。あの人と、久しぶりに二人で食事をしたい。でも、普通の食事ではいけないのだ。あの人の立場を思うと、高級レストランしかぴったりのところがない。


「直近ですと、明日に一組分キャンセルが出ております。そちらでよろしいでしょうか?」


「はい。それでお願いします」


「かしこまりました。では、お時間と人数の確認をさせてください」


 時間は明日も仕事があることを考えて、八時からとお願いした。あの人もその時間なら、仕事が終わっているだろう。人数は二人だと伝えた。あの人と一対一で話し合いたい。誰にも邪魔されることなく、あの人の真意を知りたい。


「代表者様のお名前をお伺いします」


「配流玲です」


「配流様ですね。では明日、お待ちしております」


 丁寧な口調で予約を完了させ、ホテルスタッフは通話を切った。俺は電子音が流れるスマホを握りしめ、腕の震えを抑える。恐怖や緊張ではない。これは武者震いだと、自分に言い聞かせた。


「玲。いきなり、だね」


「友加。まだ寝てなかったのか」


 背後の扉から、ルームウェアを着た友加が顔を覗かせる。シャンプーの花のような香りがするので、シャワーを済ませていると分かった。それなのに何故、まだここにいるのだろう。


「玲がすごく思い詰めた顔してたから、心配になって。明日、なんだね」


「ああ。俺も驚いてる。まさかこんな早くになるとは。でも、決めたから。俺があの人を説得するって」


 友加は最近、俺に過保護になった。最初は気のせいだと思っていた。昔から世話焼きなところがあるから、その延長線なんだろうって。でも違った。気付いたんだ。友加が俺を見る瞳に、獲物を逃がさんとする獣の光があると。監視しているような鋭い眼光を、いつも俺に向けるようになった。


 だがそこに、心配や不安、庇護欲があることも分かっていた。友加は変わったが、根底から変わったわけではない。まだ彼女は、優しい彼女のままだ。だからすべてを変えられてしまう前に、俺はあの人と決着をつける。


「明日八時から、東京駅の前にあるホテルでディナーだ。たぶんワインとか出ると思うから、帰り迎えに来てくれ」


「私明日の仕事午前だけだから、送りも出来るよ。帰りは連絡くれれば行けるし」


「分かった。じゃあ由命界(ゆうめいかい)に七時に迎え来てくれ。それでそのまま駅まで」


「了解。それじゃ、おやすみ」


 軽く敬礼のポーズをし、友加は笑いながら自室に戻った。こういう仕草は、ずっと変わらない。子供の頃から、友加は誰かの真似事をよくする。医者になったのも、優秀な研究者だった父への憧れがあるからだと言っていた。


 彼女の幸せな日常を守りたい。朝川寧音の問題を解決し、すべてのしがらみから解放されて幸せに暮らして欲しい。そこに俺はいなくて良い。いない方が良い。俺は友加の姿を目に焼き付けるよう、空虚な廊下を見続けた。


ーーーーー


 弟からディナーの誘いがきたとき、それが嬉しいお誘いではないとすぐに分かった。普通に食事をし、普通に会話をする。そんな生暖かいものではないと、あの子の性格上すぐに理解出来た。


天羽(あもう)、僕これからディナーの約束があるから帰るね。君もこのまま帰って良いよ」


 秘書の天羽ゆりに声をかけ、一緒に部屋を出る。エレベーターに乗り込むと、天羽が気遣わしげにこちらを見上げた。顔にしっかりと、大丈夫かと書かれている。


「藤條さん。もしかしてディナーのお相手、配流先生ですか? とても不安そうですけど」


「そう。玲くんから誘ってきてね。あの子、どちらかと言うと消極的だから、こんなこと出来るとは思ってもみなかった」


 こちらが促してやらなければ、何も出来ない子だと思い込んでいた。でも、弟は僕の知らないところで成長していた。ほほえましいのに、どこか寂しいと感じてしまう。


「玲くん、どうしたんだろう。いきなり話したいことがあるなんて」


「もしかして、仲直りとかではありませんか?」


 天羽の期待のこもった視線に、僕は首を横に振った。残念ながらそれはない。だって玲は、僕とケンカしたなんて思っていないから。あの子からすれば、僕が勝手に避けているだけ。僕はもう一度首を振る。


「すみません!」


「天羽?」


「私、約束していたのに仲直りの方法見つけられませんでした」


 いきなり頭を下げた天羽を訝しむと、彼女は申し訳なさそうに再度頭を下げた。そういえば前に、天羽とそんな約束をした。僕は忘れてしまっていたが、天羽にとっては毎日の悩みの種だっただろう。僕の方が申し訳なくなる。


「天羽、大丈夫だよ。これは僕たちの問題だから、僕の力で解決する」


「ですが……」


「大丈夫。何とかする。お疲れ様」


 僕がはぐらかそうとしたちょうどそのとき、エレベーターの扉がベル音とともに開いた。僕は天羽からの追撃をかわすよう、そこから素早く立ち去る。そしていつもの倍のペースで歩き、弟に指定されたホテルへ向かった。


「八時予約の配流です」


「配流様ですね。お連れ様がお待ちです。お席にご案内させていただきます」


 レストランの受付で名前を名乗り、僕はスタッフに案内され店内に入る。そこには漆黒と呼ぶにふさわしい色をした丸テーブルが並び、そのうちの一つに灰色の瞳をもった男がいた。僕が勇んで彼の前に腰かけると、案内役のスタッフはそうそうに離れて行った。


「お招きありがとうございます。配流さん」


「いえ。ひとまず乾杯でもいたしませんか?」


 眼前で、真っ赤なワインがグラスに注がれる。照明のせいか、ワインが血の色をしているように見えた。それが波打つグラスを掲げ、僕たちは軽く乾杯をする。


 これだけで、充分だった。養護施設で別れたあの日から、仕事以外でまともに会話したことなんてなかった。そんな中、こうして乾杯出来るだけで僕は幸せになれる。


 ワインを勢い良く飲む玲を見て、嫌でも彼が大人になったことを思い知らされた。僕の年齢から考えれば、彼だってもう三十代後半だ。いつまでも子供扱いしていてはダメなのに、そうしてしまうのは兄の性だろう。


「藤條さんもどうです? おいしいですよ」


「そうですか。ならいただきます」


 玲に勧められ、少量のワインを口に含む。途端、赤ワイン特有の渋みが広がり、急いで飲み込んだ。父の付き添いでワインの出るパーティーに行くことは多いが、それでもまだこの味には慣れない。きっと慣れることもないだろう。


「ワイン、苦手なんですか? あなたにはそういったものがないと思っていました」


「ええ。僕にだって、無理なことはありますよ」


 玲はもう気付いている。僕が他人行儀なことに。だから玲も、心の距離を開けている。実態調査などで会うときは、いつも玲にタメ口をきいていた。玲に会えて嬉しいから、心が昔に引き戻される。だが今は、緊張してそれどころではない。こうして理性を保っていないと、自分がどうにかなってしまいそうだ。


「そうですか」


 玲はそう相槌を打ったっきり、口を開かなかった。二人で黙って、運ばれてくるフランス料理を口にする。おもてなしの一皿から始まり、前菜、ポタージュ、魚料理、第一の肉料理アントレ、口直しのシャーベット。そしてようやく、メインのロティが運ばれてきた。


 僕はナイフを手に取り、肉を切り分けようとした。しかし、玲の手がまったく動いていない。小さい頃の少食がまだ治っていないのだろうか。


「満腹ですか? でしたら僕が食べますよ」


「いえ、その、何と言うべきか……」


 玲にしては珍しく、歯切れが悪い。本気で苦悩している様子に、僕はある違和感に気付いた。玲は今日、一度もナイフを使っていない。これまでの料理は、ナイフを使わずとも食べられるものだった。しかしロティは、肉を一口サイズに切り分ける必要がある。


「もしかして、ナイフが使えない?」


 玲は驚いて息を呑んだ。肯定の言葉も否定の言葉も出なかったが、それだけで答えが肯定だと分かった。玲は手先が器用だし、マナーに関する知識もある。そんな玲がナイフを使わないなんて、ただの意地っ張りではない。


 僕にはその原因として、一つ思い当たることがある。六年前の傷害事件。警察から聞いた話だと、玲は包丁で腹部を刺されたらしい。ならそのときのトラウマで、刃物が怖くなっていてもおかしくはない。


 僕は急いでナイフを置き、玲から見えないところに滑らせる。そして肉を一切れフォークで刺し、そのままかぶり付いた。はしたないことなので父の前では絶対にやらないが、困っている弟のためならマナーや見栄えなんて気にならない。僕はフォークを口に入れたまま、玲にほほえんだ。


「こうして食べるのも、野性的で良いよね」


 自分でもピンとこないアシストをして、僕は同じ動作で二切れ目を食べる。それをまじまじと見ていた玲は、ついに笑いだし目に涙を浮かべた。


「バカみたい」


 玲はそう言いながらも、フォークで肉を食べ始めた。感想を聞こうと思ったが、玲の食べるスピードが速くて口を挟めない。結局、玲は一瞬で肉を平らげてしまった。


「そんなにおいしかった?」


「ああ。ソースが初めて食べる味でおいしかった。肉も臭みがなくて、脂も出ていて。好みの焼き加減だった」


 弟の高揚した食レポを聴きながら、僕も最後の一切れを咀嚼する。空になった皿を端に避けると、それを見越していたスタッフがデザートの説明にやってきた。


「ムースとアイスクリーム、どっちが良い?」


 スタッフから飛び出した横文字の理解に苦戦している玲に、さりげなく注釈をする。すると玲はようやく理解出来たようで、柔らかく顔をほころばせた。


「アイスにする」


「分かった。二人ともアイスクリームでお願いします」


「かしこまりました」


 スタッフが去ると、玲はすぐに僕に視線を向けた。尊敬と疑念が合わさった目をしている。顔に出やすいので、玲の感情はいつも読みやすい。


「だてに厚生労働大臣の息子、やってるわけじゃないからね。こういうレストランは月一で来るよ」


「そっか」


 ああ、今のは悪手だったな。沈んでしまった玲を見て、後悔の念が押し寄せる。一緒にいたはずなのに、今こうして立場や身分で突き放してしまっている。元に戻りたいと願いながら、僕は玲を遠ざけているだけだ。


 アイスクリームも無言で食べ、食後のコーヒーと小さなケーキを前にする。これを食べ終えれば、玲との時間も終わってしまう。僕はそれを拒むように、コーヒーを少しすすった。


「今日はありがとう、兄さん。一緒に食事出来て良かった」


「こちらこそ。誘ってくれてありがとう、玲くん」


 玲もコーヒーをゆっくりとすすっていた。もしかして、玲も僕と話そうとしてくれているのだろうか。なら、僕からちゃんと話し始めたい。


「さっき受付で、久しぶりに自分の本名を名乗ったよ。配流ってさ、珍しい名字だよね。しかも、島流しって意味がある。でも、玲くんはまだ配流なんだね」


「天王寺友仁(ゆうじん)に引き取られたとき、天王寺に変わるのが嫌だった。もちろん、子供心に従うことが正しいと分かってはいた。それでも、兄さんとの繋がりが消えてしまうのが嫌だった」


 甘える口調ではなく、淡々と真実を話す口調だった。それでも玲が、僕との関係を切ろうとしなかったことがたまらなく嬉しい。『藤條』になった自分に、そんなことを言う資格はない。それでも今、二人きりの時間くらいは喜んでみたい。


「玲くん、ありがとう。僕も叶うことなら、また配流瑠伊になりたい。君の兄に戻りたい」


「兄さん、ならどうして……」


「諦めているんだ。君を、犯罪者の弟にしたくはないから」


 玲はいつも、僕の感情を読んでくる。いや、周囲の変化に敏感だった。幼いときから、周りに気を遣って生きてきた弊害なのだろう。誰にも迷惑をかけたくないと願って、それを実現させる生き方をしていた。だから兄として、玲を自由にしてやりたかった。


「今は、藤條勝磨(かつま)の権力でどうにかなってる。でももしその牙城が崩れたら、僕は警察に捕まる。それは僕自身覚悟していることだから良いんだ。だけど、もし玲くんとの関係を戻していたら、玲くんの立場が危うくなる」


 僕が犯罪者のレッテルを貼られるのはどうでも良い。でも、玲の積み上げてきたものがおじゃんになることは避けたい。玲とは朝川寧音の件が収まるまで、他人でいるべきなのだ。


「兄さん、もう俺は犯罪者なんだよ。犯罪者の弟とかそんなことじゃなくて、俺自身が犯罪者なんだよ。別に俺たちが兄弟に戻っていても戻っていなくても、俺たちは別々の罪で捕まる」


「もしそうなっても、僕が守るよ。僕が玲くんのことを脅して従わせたって証言する。そうすれば、大丈夫でしょ? 僕だけが裁かれて、玲くんは守られる」


 玲が諭すように事実を並べてくるが、それをねじ曲げてでも僕は弟を守りたい。だから捕まることは覚悟していても、真実を話すつもりはない。


 五年前、僕が玲を苦しめたのは事実だ。そのせいで、玲は由命界総合病院で朝川寧音を隠す決断をした。僕が脅したわけではないが、そう言っても過言ではない状況だった。


「兄さんは、逃げてるわけじゃないんだよね? だったら、今すぐ自首してくれないか? 俺もすぐに共犯者として名乗り出るから」


「そんなこと出来るはずないだろ!」


 僕は反射的に叫んでいた。一瞬店内の空気が凍り、それからすぐに溶けた。僕は目の前の弟を見るが、玲も目を真ん丸にして固まっている。驚かせてしまった。


「ごめん。急に」


 襟を正して、僕は速やかに謝罪する。玲はぎこちなく首を振り、僕の言葉を待った。この子にちゃんと、僕の考えを伝えよう。


「玲くん僕はね、藤條瑠伊なの。藤條勝磨の息子。父の顔に泥を塗ってはいけないし、品行方正なイメージを維持しなければならない。だから、警察に動いてもらうまでは自分から罪を告白するなんてあり得ない」


「だからこそだろ。自首することで、自分の罪と向き合う人だと思ってもらえる。兄さん、もう終わりにしよう」


 玲の言うことはもっともだ。自首することが一番良いに決まってるし、僕だってそんなこと良く分かっている。でも出来ないんだ。父に迷惑をかけられない。


「玲くん、僕が自首したらどうなると思う? 自首する前に父に話していたのでは、父は既に知っていたのではと憶測が飛び交う。でも僕が唐突に捕まれば、父は悲劇の男になれる。飛び交う憶測も、陰謀論としてあしらわれるだけになる」


「それはそうだけど……」


「僕は捕まる気はあるよ。でも、絶対に捕まらない。父さんが権力で守ってくれるから。そして守られている僕が、玲くんを守るよ」


 父さんと僕で、玲を二重に守ることが出来る。それなのに、当の本人は僕に絶望で染まった顔を見せた。違う。そんな顔をさせたかったわけではない。玲には笑っていて欲しいのに、どうしてそれが出来ないのだろう。


「兄さん、どうしちゃったの? 俺が知っている兄さんは、俺の兄さんは、そんなことを言う人じゃなかっただろ。どうしたんだよ、なあ!」


 玲の悲痛な叫びに、僕の中で何かが切れた。きっと、これが堪忍袋の緒が切れるという感覚なのだろう。僕は震える拳で己の身を立たせた。


「玲! 僕はね、いつまでも君の知っているお兄さんじゃないんだよ。君とは違う場所で違う人に育てられて、君とは違う部類の人間と出会った。君の思いどおりのままでいると思ったら、大間違いだ」


 塞き止められていた何かが流れ出てくる。溢れて溢れて、止まらない。


「昔っから君はそうだ! 理想を人に押し付けて、人の変化を許さない。誰かが変わろうと努力しているのを、やめて欲しいと願っている。君のそういうところが、大っ嫌いだ!」


 僕は怒りのまま店を飛び出す。言いたいことを言えて、正直スッキリした。なのにどうして、胸が痛むのだろう。僕は本当に、玲にあんなことを言いたかったのだろうか。


 確か五年前にも、僕は同じ思いをした。あのときもこうやって、玲に当たり散らかして自分の気を晴らした。この心模様に、心当たりがあり過ぎる。僕は五年前から何も変わっていない。


 だがこの現状で、僕に何が出来ると言うのだ。父の名誉も玲のことも守るためには、僕は何も行動を起こさない方が良い。玲に何を言われようとも、僕は揺るがない。これは僕の意地だ。


 僕は自分の罪に目を瞑る。そして夜の道を、光とは反対方向に進んだ。

読んでくださりありがとうございます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ