第十二話 交わるとき
流血描写あります。苦手な人は申し訳ございません
セレンクリニックから朝川探偵社に戻った僕たちは、ひとまず休憩をとろうと明日斗の淹れてくれた紅茶を啜る。しかし紅茶を一口、二口と飲んでも、僕の頭からは天王寺友加の言葉が離れてくれなかった。
「社長、どうしますか? このまま天王寺先生に配流玲のことを任せて、本当に良いんですか?」
早々に紅茶を飲み干した新希が、神妙な面持ちで愛意に近づく。すると、デスクで腕を組んでいた愛意はそれを解き、鋭い目付きで新希を見上げた。
「私がどうこう出来る問題ではないし、そこは当人たちの問題になる。だから、任せる任せないの論点はないかな」
「そうですよね。でも、天王寺先生が何もしないとは限りませんよ」
「明日斗、さすがにそれは」
人を疑い始めたことを新希は咎めようとするが、明日斗に睨まれ萎縮してしまう。しぼんだ様子で肩身を狭くする新希が、僕に目だけで助けを求めてきた。
しかし僕も、流れに身を任せるしか出来ない。愛意と明日斗を交互に見て、この後の展開を想像する。きっと僕にとって聞きたくない言葉しか出ないことは、すぐに分かった。
「寧音さんを拐ったのは、配流玲でほぼ確定。そしてそれを知っておきながら、天王寺先生は通報をしようとしなかった。先生の話をそのまま受け取るなら、彼女は通報を配流玲に勧めるのみで、自分から何か行動を起こそうとはしていない」
「それは僕も気になった。友加先生は優しいようで、全部玲さんに丸投げしているような。玲さんを苦しめているのも、もしかしたら……」
僕の言葉に同意するように、新希が深く頷いた。そして愛意と明日斗も、目の色を変える。おそらく全員が、友加の告白の真意を掴めていない。
「そういうことよ。二人の間で、どんなやりとりが行われたかなんて分からない。私たちが出来ることは、真実という名の表面層と向き合うことだけ。深層にまで、潜ってはいけない」
愛意が怒りを内包した固い声音で忠告し、新希に指をさす。それは青年に言い聞かせるためのものでもあり、自分の役割を確かめるためのものでもあった。
「愛意さん。そうですか」
「それに、私出来ないのよね」
僕が納得し一歩退こうしたとき、それを引き留めるように愛意がおどけた声を上げた。僕は驚いてそれに足を止め、思わず愛意を振り返ってしまう。そして、自信を漲らせる愛意と視線を交わすことになった。
「真実が何であれ、妹から人生を奪った奴に同情なんて出来ない。あいつのことを、一生憎むかもしれない。だから、真相究明に邪魔な感情を挟まないためにも、あっちのことはあっちに任せる」
「社長……」
「私は天王寺先生のことも、配流玲と同様に信用したりしない。真実は必ず私に暴かれるのだから、恐れることはない」
愛意が歌うように続けながら席を立ち、僕たちの前に進み出る。カン、とヒールで甲高い音を鳴らした愛意は、その場でぐるりと僕たちを見回した。そして口元を綻ばせ、いつもの高飛車な笑みを浮かべる。
「私はもう止まらない。真実が、手を伸ばせば届くところまでやって来た。あと少し……。私は絶対に寧音を取り返す!」
愛意が拳を固く握りしめ、そう宣言する。その決意の眩しいこと。僕は居たたまれない気持ちになり、目をそらした勢いのまま事務所を飛び出した。
コンクリート丸出しの外階段を下り、建物の裏路地に入る。そしてタバコの吸い殻で埋め尽くされた小道に、僕は大きなため息とともにしゃがみ込んだ。
自分の場違い感が半端ではなかった。あの場にいることが間違いだと、神に告げられた気分だった。活気づく愛意に、冷静な判断を怠らない新希と明日斗。そんな三人を立派に感じたからこその、劣等感とでも言うのだろうか。
真相を掴み、自由を奪われた少女を取り戻す。なんて高尚で、なんて正しいことなのだ。あの三人には真に人を救える力があると、僕は直感した。
対して僕は最低だ。さっきなんて、気が付いたら玲のことを案じていた。みんなが的確に現状を整理する中、一人だけ私情を挟んでしまった。
思い返せば三人とは、玲の無実を証明するために協力することにした。僕は玲が卑劣な人間ではないと知っているから、それを証明しようと誓った。
でも実際はどうだ。朝川寧音を誘拐し監禁したのは、玲で確定というところまで来た。自分の想定と大きく外れた現実に、僕はもどかしさを感じている。
「どうしてだよ。どうして、玲さんが悪人になってるんだよ」
自分でも信じられないほど、強く荒ぶった口調が飛び出した。このままではダメだと、僕は拳を砂利に押し当て怒りの発散を試みる。しかし小指球に熱い痛みが広がり、生ぬるい液体が出るだけで、根本的な解決にはならなかった。
どうしてだろう。僕の目が節穴だったのだろうか。僕の知っている配流玲は、犯罪なんてしない。
「僕の知っている配流玲は、こんなことしない。理解は出来ますよ。貝塚さん」
「え!」
「何、驚いているんですか? 顔にしっかりと書いてありますよ。俺がエスパーなわけではありませんから」
突如聞こえた声に顔を上げると、太陽に目を細めた明日斗がこちらを見下げていた。今までの僕の言動は、すべて見られていたようだ。
「明日斗くん。どうしたの? 君も僕のファンになってくれた?」
取り繕おうと慌ててアイドルスマイルを作るが、明日斗はうんざりとした顔でこちらに歩み寄るだけだった。もう僕のカッコつけが効かないくらいには、ダサイ姿を見せてしまったらしい。アイドルとしてのプロ意識のなさを反省しつつ、僕は明日斗に微笑みかけた。
「ご安心を。僕は誰かのファンにはなりませんから。ただ、急にいなくなったので気になって」
「それはごめんね。愛意さんと新希くんは?」
明日斗は事務所を振り返り、ビルの壁面に背中を預ける。気だるげな印象を与えかねないが、明日斗にはそれが良く似合っていた。かっこいいなと、高校生に思ってしまう。
「新希は社長の愚痴聞いてるんじゃないですかね。社長、結構頭に来てたっぽいですよ。みんな配流玲のことばっかりって」
愛意の口調を真似しながら、明日斗は呆れたと言わんばかりに息を吐く。僕はそれに、苦笑いで本音を返す。
「それはまぁ。僕も友加先生も、玲さんのことが大切だからね」
「へえ。まだそんなふうに言えるんですね。俺だったら、そろそろ見限る頃ですよ」
明日斗は目をまん丸に見開き、僕の体をまじまじと観察する。そんなに、僕の言葉は不可思議なものだっただろうか。
「いくら身内でも、いくら大切に思っていても、越えてはいけない一線を越えた奴は無理です。心の底から嫌悪する」
吐き捨てられた嫌悪感に、これは比喩ではないと悟った。明日斗は今までのどこかで、一線を越えた人を見たことがあるのだ。そしてそこで負った傷に、憎しみで蓋をするしか出来なかった。
僕は明日斗が、憎しみに囚われてしまうのが分かった。罪を犯した人間を憎み、それが正しいと論理的に証明出来る。だからこそ、僕は試してみたくなった。柔らかな雰囲気を意識し、明日斗を覗き込む。
「新希くんは? あの子もダメ?」
僕が訊ねれば、明日斗は目を細めたあと顎に指をかけた。バカバカしいと一蹴されるかと思ったが、意外と真剣に考えてくれる。
「新希か。考えたこともないな」
「そっか。ごめんね、変なこと訊いて」
「でも、見限ると思いますね。新希のこと、見ていたくないんで」
大人として失礼なことをしたと察し、僕はこの話題を早めに切り上げようとした。しかし明日斗は、僕の問いに答えを紡いでくれる。
「知り合いが罪人に変わるのって、辛いんですよね。今の今まで見ていたものが、信じられなくなる。見限るのが倫理的に正解だと思っているわけではありません。ただ、自分の綺麗な思い出の中で綺麗なまま変わらないでもらいたい」
「なるほど...…」
「俺はてっきり、あなたもそうかと思いましたが。どうやら違うようですね。あなたは綺麗な姿が不変だと思える。すごいな」
明日斗の性質上、難しいことを言っていると感じてしまうが、言いたいことは伝わった。明日斗は日常の不変さを愛している。そこにいる大切な人のことも。だからそこから出たくない。
確かに、僕とは考え方が違う。僕は移り行く日常の中に、変わらない人との関係があれば良い。だからあのときから、玲を自分の日常に取り戻したいと願っている。
「僕はね、玲さんが綺麗な人だとは思ってない。たまに悪口言うし、僕がデビューしたばかりのときはわざわざ直接、アイドルの良さが分からないって言ってきたんだ。はっきり言って性格が悪い」
思い出せば腹が立ってくる。あの偏屈でひねくれていて意地悪な男は、いつも人をからかっては笑っていた。こちらを気遣ってくる大人ばかりと接していた僕は、そんな玲が珍しくて惹かれていたのだろう。しかし今思えば、あの人のどこがそんなに良かったのか。
「それでも、たくさん話してたくさん一緒に過ごして、そしたら好きで仕方なくなってた。医者として命を救う姿がかっこ良くて、ふと見せる物憂げな表情も神秘的で、この人最高だなって。子供心は不思議だよね」
初めて玲に会ったとき、その煌めく灰色の瞳に吸い込まれた。どんな宝石よりも光輝き、どんな物よりも価値があると思った。子供心がくすぐられ、玲を知りたいと感じた。
それからしばらくして玲の性格の悪さを知り、心が折れかけた。それなのにどうしても目が離せなくて、邪険に振り払われながらも付きまとった。その後、医者としての誇りを知ってからは、もう玲のすべてが大好きになっていた。性格の悪さも、笑って受け流せる関係になった。だから、あんなことさえなければ。
浮かんだほの暗い感情を振り払うように、僕は玲の笑顔を思い描く。何年も前のものしか浮かばないが、それでも自然に口角が上がる。
「僕は、玲さんの志だけは高潔だと思うよ。そしてその根幹に、人命救助があると知ってる。だからまだ信じられないな。玲さんが寧音ちゃんを誘拐したなんて」
愛意たちはまだ分かる。でも、玲の幼なじみだという友加までもが、玲を誘拐犯だと言ったことが受け止められなかった。この世で玲の無実を信じているのが自分だけだと思えて、居たたまれなさが胸中を支配する。
「そうですか。あなたも大変ですね。本当は、こちら側ではなく天王寺先生側に付きたいのでしょう?」
「それもそうなんだけどね。僕は真実を知るためにここにいる。たとえ自分に不都合なものでも、それが真実なら受け入れなければならない。僕には、そうする義務がある」
「配流玲で確定なんですよ。社長もだからこそ、怒り心頭だったわけで」
明日斗は早口でまくし立て、僕に食らい付く。壁から体を離し、僕の目をしっかりと見てまで、僕の真意を掴もうとしている。
「明日斗くんはさっき、ほぼ確定って言ったよね。だから、そこに賭けてみることにした。たくさんの人の人生を賭けた、一世一代の大勝負。勝っても負けても、泣いても笑っても、真実として結果が提示されるまで諦めない」
「往生際が悪いですね」
「アイドルなんてこんなもんだよ。それに、僕はピンチをチャンスに変えて生きてきたから」
そろそろ、明日斗に話した方が良いかもしれない。僕が玲を諦められない理由と、僕と玲の間に溝ができた理由。これらを話せば、きっと明日斗も僕の気持ちを分かってくれる。
「明日斗くん。ちょっと昔話して良い?」
「配流玲のことですか? 別にかまいませんけど」
「少し残酷な話になる。玲さんが傷付いたあのときのことを話すから。でも、玲さんへの同情を誘う意図はない」
僕がきっぱりと断りを入れると、明日斗もはっきりと頷いてくれた。僕は砂利と吸い殻の上に腰を下ろし、青空を見上げる。綺麗で広い、そんな空だ。
隣で、明日斗も地面に腰かけた。僕はそれを確認し、六年前のあの日を思い出す。あの惨劇を的確に言い表せる語彙を探し、僕はおもむろに口を開いた。
ーーーーー
所属事務所でのダンスレッスンを終えたとき、もう既に外は暗くなっていた。空に燦然と輝く月を見つけて、僕は慌てて帰り支度を始める。
明日も学校があるのだ。高校二年生に進級したばかりの今は、成績を落とさないためにも毎日学校に行きたい。僕はさっさと着替え、練習場の仕様記録にサインをしてから建物の外に出た。
梅雨の終わりということもあり、外の空気は湿気を多く含んでいる。僕はレッスンでかいた量と同程度の汗が、背中を流れるのを感じた。
街灯に照らされたアスファルトの上を水溜まりを避けて進んでいると、目の前から人が歩いて来た。そのフォルムに見覚えがあり駆け寄ると、やはり僕のよく知る人だった。
「玲さん! お仕事お疲れ様」
「お前なぁ。こんな時間に一人で出歩くなよ。何かあったらどうするんだ」
「へへ」
開口一番にお小言をこぼした玲に、僕はニコニコとしてしまう。口は悪いが、そこに秘められた優しさが僕の心を温めた。
「それに、こんな時間に出歩いて危ないのは玲さんも同じだよ」
「何バカなこと言ってるんだ」
「もう。早く玲さんは自分の顔の良さを理解して」
玲は頭上にクエスチョンマークを浮かべ、首を傾げた。その上、眉をひそめ僕に怪訝な視線を向けてくる。なんだか、そんな玲の態度にやきもきしてきた。
膨れ上がる心配と不満で、僕は玲の顔面を直視する。こんなにかっこいいのに、どうして本人は自分がフツメンに分類されると思っているんだろう。二重に涙袋、紅く発色した唇。それに灰色の瞳。こんなの、イケメン以外の何物でもない。
「玲さんはかっこいいよ! まぁ僕には敵わないけど」
「お前はねぇ。その自信はどこから来るの?」
うんざりさせてしまったようで、玲は呆れ声を出し踵を返す。その方向は僕の帰路であり、玲が今来た道だった。
「あれ? 玲さんどっか行くんじゃないの?」
玲の後ろに追い付き、彼を下から眺める。玲の住んでいるマンションは僕の家の近くにあるので、帰る方向は僕と同じだ。でも、マンションの方面から歩いて来たので、これから用事でもあるのかと思ったが。
「違うよ。和香さんにお前の迎え頼まれたから」
「え! お母さんが! みんな心配性なんだね」
母の名前を出され、すっとんきょうな声を上げてしまう。しかしすぐに思い直し、母と玲に感心した。和香には帰宅時間を伝えていたし、玲は言ってしまえばただのご近所さんだ。二人とも、僕のことを心配し過ぎだな。
「お前が未成年だからな。危険の芽を取り除くのが、大人の仕事」
「さっすが玲さん! かっこいい!」
「ったく。ほら、送ってやるから。速く歩け」
ぶっきらぼうに言い放った玲の隣を小走りで進む。僕に成長期が訪れたせいで玲の身長を抜かしてしまったが、それでも股下の長さは僕の負けだと思う。玲の歩幅はそのくらい大きく、隣を歩くのも一苦労だ。
「ねぇ、玲さんって仕事終わったばっかり? 消毒液の匂いがする」
歩く度に鼻腔をくすぐる匂いに、嗅ぎ覚えがあった。病院で玲に会うとき必ずしている、少しきつめの消毒液の香り。
僕がそれを指摘すると、玲は異物でも見るかのように僕を見下げ果てた。その顔から考えが透けて見えて、僕は慌てて首を横に振る。
「ち、違うから! 会う人みんなの匂い嗅いでるわけじゃないからね! 玲さんだったから、思わず」
「俺でもダメなもんはダメだろ」
「うん。それはそうだね……。ゴメン」
玲に謝り、僕は心の中で猛省する。そして玲の顔色を窺うために、恐る恐る視線を上げた。すると、ちょうど街灯に照らされた玲と目が合ってしまう。
そしてつい、息を呑んだ。目の下に、隈ができていたから。灰色の瞳と少し痩けた頬が不気味に映るほど、濃くはっきりとした隈だった。
「玲さん。最近、仕事忙しいの?」
ダラリと垂れ下がった玲の左手を取り、包み込むように握る。彼の体温は常に冷たいが、今日はそれが一段と酷く感じた。
「いつも僕に無理するなって注意してるけど、それは玲さんもだからね。外科医が忙しい職業なのは分かってるけど、玲さんまで倒れたら世話ないよ」
「お前も一丁前に説教出来るようになったか。分かった。気を付ける」
玲が素直に返事をしたことで、僕はより一層不安を濃くした。普段の玲は絶対と言って良いほど、僕が何かを話せばそれに対し皮肉や毒舌を返してくる。それなのに、今はただ僕の言葉に頷いただけ。
何かあると、確信するにはそれだけで充分だった。僕は玲の細い二の腕を掴み、下から目線を合わせる。玲に嘘を吐かせた上で逃がすなんて、言語道断だ。僕は自分と玲の足をその場に縫い付ける。
「玲さん、何かあった? 無理してない?」
「あった、なんて言ったって、お前にはどうしようもないよ」
「それは分からないじゃん。僕だって玲さんみたいに、人の役に立ちたい。それに玲さんのためなら、僕は何だってするよ」
僕の腕から逃げようと、玲は身をよじらせる。物理的にも心理的にも、僕から離れようとしているのだ。しかし、それを許す僕ではない。僕は力を強め、更にきつく玲の腕を掴む。この強さだと痕になるだろうが、逃がしたくないという思いが先行してしまった。
「それに、今日コーチから言われたんだ。悩みは一人で抱え込まないで、誰かに話すと良いって。話すことは放すこと。おしゃれな言葉だよね」
「なるほど。じゃあ、高校生アイドルくんには難しい話しようかな」
「おお! 望むところだ」
僕があまりにもバカらしくなったのか、玲はからかい半分で口を開く。僕は玲の取り戻した意地悪に歓喜し、玲から両手を離した。解放された玲は自由を確かめるため両肩を回し、僕を振り返って歩き始める。
その意図を組んだ僕は、玲の隣で地面を見つめて歩く。顔を見ないで欲しいという、いかにも玲らしいお願いだった。玲は昔から、目を見られることを嫌っている。心が読まれている感覚になるからだと教えてもらったが、僕にそんな能力はない。ただ、玲の周りには玲もが恐れるエスパーがいるということだと、認識している。
「玲さんの仕事のことなら、僕も少しは理解出来るよ。いろいろな医学知識、詰め込んだからね」
「いいや、無理だね。医学知識うんぬんじゃなくて、人間関係の話だから」
ほら、もう違った。僕は内心で、見当違いばかりを繰り返す自分に腹を立てる。もう十年以上は一緒にいるのに、一度も玲の悩みを当てられたことがない。それでも、玲は僕にこうして話してくれる。その優越感だけが、僕を支えていた。
「今度俺が手術することになった患者さん、実の親とうまくいってないらしくてさ。この前は手術に反対だからって、病床の息子の前で俺に怒鳴り散らかしてきたんだ。病気の人間はストレスかかるのが一番ダメなのに、あいつら何も分かってない」
言葉の端々から、玲のやるせなさが伝わってくる。患者のために何かしたいと考えているが、玲は人との関係構築に明るくない。そのせいでストレスを減らしてやれないのが、よほど悔しいのだろう。
「こっちが何度手術の利点や本人の意思を伝えても、理解を示してくれない。ならばと、他の治療法を提案したり意見を求めたりしたら、そういうことではないの一点張り。正直ダルイし、一発ぶん殴ってやりたい」
「あはは……」
拳を作り手のひらに打ち付ける玲に、僕は愛想笑いをするしかなかった。自身の怒りを言語化して相手にぶつける玲にしては珍しく、暴力で解決しようとしている。そこに本気を感じ取り、僕は一歩分玲と距離をあけた。
「でも、思ったより病状の進行が速くて、すぐに手術をしなければならない状況になった」
先ほどまでの様子とは一転、玲は感情のこもっていない声を出し足を止めた。その後ろ姿からでも、玲のもつ疲労感と無力感は感じ取れる。
「それで篭野たちとも話し合って、明日手術することにした。だからついさっきまで、篭野と手術のシュミレーションしてた。そのせいでこんな遅い時間に。篭野にも患者さんにも、申し訳ないな」
腕時計の針は十一を指していた。医師の終業時間をかんがみても、確かにかなりの時間残っていたことになる。玲が醸し出す疲労感は、精神的なものだけではないのかもしれない。
「玲さん、明日の手術何時から? 今日ちゃんと休める?」
「明日の朝一だったな。そこしか手術室空いてなかったんだ。あとは、患者さんの家族への許可どりだけど……。さっきメール出しといたから、そこは放置で良いか」
玲はよほどその家族と話をしたくないらしい。事務的な仕事を終わらせた今、もう関わることはないだろうと安堵しているように見える。
「あの人たちもどうせ最後は、我が子を救ってくれてありがとうございますって言うんだから」
「玲さん、救う気バッチリだね」
「ああ、もちろん。今回は患者さん側からの指名だからな。いつもよりやる気が入ってる」
その言葉どおり、玲は拳を握りしめ息巻いている。この前病院に遊びに行ったとき、玲が何度も患者から頭を下げられている場面を目撃した。患者は感謝の気持ちで満たされた顔を、玲はやりがいと達成感で満たされた顔をしていた。
そんな玲が、自分を頼ってくれた患者を見捨てることなどしないと分かっている。でも、だからこそ、頑張り過ぎていないか心配になるのだ。
「なら玲さんは、早く帰ってゆっくり休んだ方が良いよね。そうだ! あっちの道通ると早く帰れるんだ。あっちから帰ろう」
僕は唐突に、友人から教えてもらった近道を思い出す。遅刻防止のための裏ルートが、今学校で話題になっているのだ。僕は自宅の近くにもそれがあったことを思い出し、記憶を頼りに左斜め前の道を指さす。
公園と住宅の間にある細長い道。そこに視線を向けた瞬間、玲は僕の腕を力いっぱい掴み自分の方に引き寄せた。
「あっちはダメだ。街灯も人気もない。危ないだろ」
「でも、玲さんには早く帰って明日に備えてもらいたいから。お願い! 今日だけ」
「でもなぁ」
大人としてまっとうな意見を言ってくる玲に、僕は頼み込み続ける。玲は押しに弱い性分なので、しつこくすれば負けてくれるはず。それを知っている僕は、何度も言葉を変えてお願いを口にした。
玲や玲の患者のためにも、近道は有効な手段のように思えるが。やはり、生真面目一家に育てられた玲もまた、生真面目な男に育ったのだ。
「玲さん! 患者さんに寝不足状態でオペする気?」
「そ、それは……」
「そんなの、アイドルがすっぴんでライブするようなものだよ!」
生真面目な男には、誰かのためという言葉が良く効く。案の定、玲は考え込んだ。そしてすぐに諦めの息を吐く。
「分かったよ。確かに患者さんに失礼だ。あっちから帰ろう」
「うん!」
根負けした玲が、僕の示した道に足を向ける。僕はそんな玲を案内するため、ニヤニヤしながら先に進んだ。以前来たときは明るかったので気にしなかったが、なんだか分かりづらい道だなと感じた。
何と言うか、障害物が多い。住宅と住宅の間にはスペースがあり、大人一人くらいなら隠れられる。そして反対の公園も、遊具より木が多いので見晴らしが悪い。芸能人としての勘が、警鐘を鳴らした。
「お前、大丈夫か? 腰引けてるけど」
「う、うん。大丈夫」
後ろを歩く怖いもの知らずの玲が、のんきに僕の心配をしてくる。しかしその声のおかげで、僕は我に返ることが出来た。そうだ。僕はここを通って、玲を早く寝かせてやるのだ。
そう意気込んだそのとき、視界の端で何かが煌めいた。月の光が金属か何かに反射したような、そんな輝きだった。玲もそれに気付いたようで、警戒を滲ませる。
僕は辺りを見回した。何かが来る。そう感じた瞬間、僕の死角だった住宅の奥から、女性が飛び出して来た。
「貝塚! あんたのせいよ! このアイドル気取りが!」
突然、そう怒鳴られた。僕は頭が付いていかず、その場で立ち尽くしてしまう。しかし視覚が、彼女の手元で光る包丁を感知した。
逃げろ。逃げなければ。頭の中で指令が下される。それでも僕は動けなかった。自分が彼女に何をしたのか、そしてどうして今なのか、何も分からずに立ち尽くす。
雄叫びを上げた彼女が、こちらに突進を始めた。鬼の形相が、光度を増す凶器が、近づいて来る。動きたい。なのに動けない。
僕は、死を覚悟した。ゆっくりと、静かに目を閉じる。だから、聞こえたその声にも目を開けることは出来なかった。
「璃王! どけ!」
大声とともに、車に跳ねられたと錯覚するほどの勢いで、僕は地面に叩きつけられた。想像していた痛みとは違う痛みに、僕はようやく異常を察し目を開ける。そして、そこに広がっている光景に体を震わせた。
「玲さん!」
めいいっぱい、彼の名前を呼んだ。僕の大好きな人は、女性の肩を掴み動きを封じている。地面には、包丁が転がっていた。
自分が襲われかけたこと、それを玲が防いでくれたこと、そのすべてを僕の頭はやっと理解する。僕は安堵のまま、震える足で玲に駆け寄った。女性はせめてもの抵抗なのか僕を睨み、住宅街に姿を消す。それを見送っていると、隣で大きな物体が倒れる音がした。
「玲さん? どうし……」
隣を見てしまった瞬間、僕は言葉を失った。玲が、右の脇腹を押さえてうずくまっている。苦しそうに呻きながら、脂汗を流しながら。
そこで僕は、鼻に届いた香りの意味を知った。錆びた鉄のような、血の匂い。玲が血を流して苦しんでいる。そしてその原因は、自分だった。
「玲さん! ごめん! 僕を庇ったせいで。大丈夫? 痛くない? 辛くない?」
玲に抱き付くように、僕も血の出所に手を当てる。こんなことしても意味なんてないのに、そう分かっているのに、これしか思い付かなかった。
「……璃王、怪我、してない?」
「玲さん! してない! 僕は大丈夫だから。だからしゃべらないで!」
玲が単語を放つ度、傷口から血が吹き出る。苦しいはずだ。痛いはずだ。それなのにどうして、人の心配なんて出来るのだろう。
「璃王、救急車……」
「分かった! 待ってて!」
玲の言葉で存在を思い出せたものに、僕は急いで助けを求める。
「救急車を! 早く! 玲さんがすごい血を流してて! 早く助けてください」
相手の返事も待たずに住所を告げ、僕は一方的に通話を切る。一秒でも長く玲の傍にいたい。
「玲さん、大丈夫だからね! すぐ来てくれるから」
「璃王、焦り過ぎ。これくらい、大丈夫、だから」
そんなことを言われたって、そのあえぐような声だけで、十分大丈夫なんて思えない。僕は背中をさすり、傷口に手を当てる。
「大丈夫、大丈夫」
何度も自分に言い聞かせる。僕は玲の薄い腹に、手を強く押し当てた。その手に、玲の手が添えられる。
「璃王、ごめん。突き飛ばして」
「え?」
「アイドルに怪我させて、ごめん」
もしかして、昔軽口で言った『アイドルは顔が命』を真に受けたのだろうか。しかし、僕は本当に怪我なんてしていないし、たとえこの状況で怪我をしようとも玲のことを責めたりしない。
そう反論しようとした刹那、玲の体が前に傾いた。僕はそれを受け止め、ぐったりとした玲を抱く。もう玲に意識はない。僕が、しゃべらせ過ぎた。
「玲さん」
僕の呼びかけは、届かない。意味をなさない。遠くからかすかにサイレンが聞こえた。僕の目から涙が落ちる。
どうして玲なのだろう。玲には、これから救うべき人がいるというのに。どうして、僕なんかを守ってくれたのだろう。僕よりもっと、救い守り導くべき人がいるはずなのに。
救急車が小道の入り口に停まり、救急隊員が何かを叫びながら走ってくる。僕はその人たちが玲を寝かせ、車内に運んでいくのをただ眺めた。付き添いを頼まれ、誰かに腕を支えてもらいながら救急車に乗り込む。
中で状況を尋ねられたが、僕は黙り込んでしまった。説明は出来る。起きたことは理解している。でも、それを口にするだけの勇気がない。
僕と玲だけが静かな状況のまま、救急車が病院の駐車場に進入する。今日の外来担当は、寺島病院だったか。自分が歩いている感覚はないのに、視界の情景が変わっていく。目の前で玲が部屋に入れられ、そのまま扉が閉じられる。
誰かに何かを言われ、僕は部屋の前の長椅子に腰かけた。そして呆然と、眼前の扉が開くときを待つ。だが脳の処理能力を使い過ぎたせいで、秒針の音を聞きながらいつの間にやら眠りに落ちていた。
ーーーーー
「幸いにも、玲さんは大事には至らなかった。僕を庇おうとしたおかげで、包丁の軌道から逸れたみたいで。筋層で刃が止まってくれたんだ。でも、しばらくは絶対安静を言い渡された」
僕は隣で顔色を曇らせた明日斗を安心させるため、明るい声で事実を伝える。高校生には重過ぎる話だと分かっていたのに、夢中になって全部話してしまった。
「それで、それから一週間は毎日お見舞いに行ったよ。玲さん、何度も僕の無傷を確かめて、良かったって言ってくれた。玲さんを傷付けた時点で、全然良くないのに」
「配流玲は、優しさの権化みたいな人ですね。あなたが彼を信じ続ける理由、分かった気がします」
明日斗が、おもむろに僕を見つめた。そのおかげで、僕は明日斗の瞳に浮かんだ不安を見逃さずに済んだ。
「明日斗くんがさっき言った、綺麗な人のままでいて欲しいって願いに近いのかな。玲さんは、ある日忽然と姿を消した。夜勤の人たちの目を掻い潜り、病院から抜け出した。そして、住んでいたマンションも引き払っていた」
「行方知らず、ですか」
「うん。だから僕にとって最新の玲さんは、僕を庇った優しい人なんだ。それを信じて、この六年間玲さんを想い続けた」
僕が玲に抱いた感情は、愛に近いのかもしれない。玲は優しいから、その優しさに首を絞められないように、そう祈ったことさえある。
「あの。この流れで訊くことではないのですが、一つ訊いても良いですか?」
「何か気になった?」
「はい。翌日に予定されていた手術、結局どうなったんですか?」
その質問に、僕は笑ってしまった。そんな細かいことが気になるなんて、さすがは明日斗だ。僕は玲のことばかり考えていたので、その後のことは知らない。正直にそう答えようとしたとき、後ろから二つの足音がした。僕はあわてて、明日斗を引き寄せる。
「そんなに警戒するなよ。こっちは君たちが知りたい情報、提供しに来たんだけなんだから」
逆光で顔はよく見えないが、男の二人組みだ。そのうち背の低い方が、わざとらしく悲しんで僕たちに話しかけてきた。
「先生。いきなり不審者ですよ。ごめんね。お兄さんたち、怖い人じゃないから」
今度は背の高い方が、一歩前に出て僕たちに近づく。その所作と言葉づかいに、僕は既視感を覚えた。小児科医が子供を相手する、そんな感じ。
そのとき、頭の中で何かが爆ぜた。それは明日斗も同じようで、警戒を解き僕から離れる。そして背の高い方を、じっくりと観察した。
「もしかして、配流玲の同僚ですか? 由命界総合病院の医師で」
「お! 正解!」
明日斗は背の高い方に訊いたのに、もう片方が指を鳴らして応答した。
「俺は実験病棟の陣内渚。それでこっちが、後輩の荒牧港。実験病棟については、知ってるよな」
「知ってるはずですよ。おそらくあの怪しい清掃スタッフの正体、この子ですから」
荒牧が明日斗を示し、陣内に説明を始める。その内容から、明日斗が藤條瑠伊に盗聴器を仕掛けた場面に、荒牧が居合わせたと分かる。
「その節はすみませんでした」
「本当はね、あそこの情報を外部に漏らしてはいけないんだけど、まぁ君たちのガッツを買って見逃すことにした」
明日斗と荒牧がひとまずの決着をつけると、陣内が待ちくたびれた様子で口を開いた。
「あの、一応さっきの質問に答えるけど、玲の代わりに法助が執刀したよ。患者は助かり、親と縁を切り悠々自適な生活をしているという、後日談もある」
「篭野先生がですか。とにかく、患者さんが助かって良かったです」
思わず出た僕の安心に、陣内は胸を張って微笑んだ。陣内は篭野と玲、二人のことを心から誇りに思っているのか。
「君、人気アイドルの璃王くんだよね。いろいろ大変だと思うけど、復帰待ってるよ。君にはたくさんのファンがいるからね」
「ありがとうございます」
握手をしようと差しのべられた荒牧の手を取ろうとしたが、それよりも先に陣内が間に割って入った。荒牧は残念がることなく、陣内の後ろにつく。
「港、取り入るのも大事だと教えたのは俺だが、今は必要ないな。こいつ、もう既に玲に脳を焼かれてるぞ」
「すみません。確かにこんがりですからね」
そのやりとりで、僕は自分がお世辞を言われたのだと察した。騙されるなんてアイドルとして恥ずかしいが、それよりもこの二人の目的が知りたい。何のために、ここに来たのだ。
「さっきも言ったが、俺たちは玲とともに働いている。いわば玲の仲間だ。でも、君たちと対立するつもりはない」
「俺たちも、独自に朝川寧音誘拐事件について調べています。友加先生から、聞いていると思いますが」
僕たちは友加と由命界の医院長、定芽から聞いた名前が、陣内だったことを思い出す。目の前にいる人物が、像を結び始めた。
「そこでだ。情報を共有しないか? 俺たちは働いているから、やっぱり調査には限界がある。でも君たちは、この道のプロだろ」
「俺たちなら、今の玲先生を話せます。それに藤條さんについても。悪くない話、だとは思うんですが」
荒牧は陣内ほど自信がないようで、最後は尻すぼみになり不安げにこちらを窺う。
「無理にとは言わない。返事も急かさない。だからよく考えて」
「良いですよ」
陣内の気遣いを遮り、明日斗がそう言った。僕は驚き明日斗を振り返るが、彼は至って真剣な顔つきをしている。
「明日斗くん。さすがに愛意さんと新希くんには……」
「利用出来るものは、何だって利用する。それが我が探偵社のルールなんです。真実に近づけるなら、彼らと手を組むのも悪くはない」
明日斗は見かけによらず熱い男らしい。男に二言はないと言わんばかりに、陣内と荒牧を見上げている。そしてその視線を受けた陣内も、片頬を上げた。
「交渉成立だな。探偵社にお邪魔させてもらっても良いか?」
「どうぞ。これからお願いします」
「こちらこそ。先生、良かったですね」
「ああ、港。お前も気張って行けよ」
僕を置いて、三人は外階段を上って行く。その背中から、確かな覚悟を感じた。あの人たちは、やる気だ。どこまでも飽くことなく、真実を求める。
僕はこの状況を事態が好転したと捉え、その後を追った。
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