夜を越えて
あたりに、夜の鳥が鳴き始めた。
静かだ。あの男は街道から脇に逸れて、薄ら寂しい場所へと馬車を走らせた。乱暴な運転に、体力の限界を迎えた私は意識を失って……
気付けば今ここにいる。私とあの御者の男、二人きりで。
「声を上げたら、殺すからな」
「分かってますよ……」
男は、私をどこかへ閉じ込めた。唯一の小窓から射し込む月明かりが、かろうじて室内の様子を浮かび上がらせる。雑然とした室内には、積み上げられた布袋や壊れた農具。ここは古い農具置き場であるようだ。
しかし、この小屋がどこにあるのか、今は何時なのかも分からない。ブレアウッドからは、それほど離れてはいないだろうけれど……
私は縄で手足を縛られ、埃っぽい床へ乱暴に転がされた。古い木の香りと、鼻につくカビの匂い。馬車から降りたことで吐き気はマシになったけれど、状況的には最悪だ。
どうにかしてここから逃げ出したいけれど、扉の前には男がどっかりと陣取っている。簡単には逃げ出せない。
「……こんなところに閉じ込めて、一体どうするつもりですか」
「あんたには懸賞金がかかってるだろ? でも、三百ルクじゃあ俺には足りねえんだ。もう少し……いや、もっと上乗せして払ってもらおうと思ってな」
「わ、私はただの街娘ですよ……? 三百ルクでも大金なのに、そんなのまかり通るわけ無いじゃないですか……」
男の手にはいつの間にか刃物が握られている。その鈍い輝きに声が震えそうになるのを押しとどめ、私は平静を装った。けれど、体の芯が冷えていくような感覚はおさまらない。
「何言ってんだ。新聞によると、あんたが帰ればブレアウッドの長雨は止むかもしれないって話じゃねえか。だったら三百ルクなんて安いもんだろ。つり上げればもっと出すはずだ」
「は、払えないと言われたら?」
「払ってもらうさ。あんたの命と引き換えにな」
ナイフの切っ先が私へ向けられる。
身の危険を感じた私は、これ以上喋るまいと口を閉じた。
(こんなところで閉じ込められている場合じゃないのに……)
ブレアウッドまで、あと少しというところだったのに。私は悔しさに唇を噛んだ。
今も精霊達は泣き続けているのだろうかと思うと、こんなところで足止めを食らうのが歯がゆくて……なんとしてでもここを抜け出してしまいたかった。
縛られた手首の痛みには慣れてきた。擦り傷も埃も、この際どうでもいいから、この縄を外せないだろうか。
なにか手がかりはないかと、男の目を盗んでは小屋の中に目を凝らす。
すると少し離れたところに、ガラスの破片がキラリと光った。まるで、月明かりが私を導いてくれるかのように。
(あのガラスで縄を切れたら……)
今は夜。男も疲れていたのか、座ったままうつらうつらと船を漕ぎ出した。
女相手だと思って、きっと油断しているのだ。懸賞金の額にこだわるばかりで、どこか抜けたところがある……この男相手なら、少しは動けるかもしれない。
私は静かに体勢をずらしながら、床を這うようにガラス片まで距離を詰める。物音を立てないように、慎重に近づくと……なんとかガラス片を手に入れた。
あとはこの破片で、縄を切ってしまえば。床の軋む音に気を払いながら、縄に鋭いガラスを当てる。苦戦しつつも少しずつ縄は擦り切れ、とうとう私の腕は開放された。
あとは――男の後ろにある扉から、外へ逃げるだけなのだけど。
彼は身体は扉に預け、ぐうぐうといびきをかいている。あの扉を開ければ、同時に男も倒れてしまう。それでいて無事に脱出できるだろうか? 私の足で、彼から逃げ切れるだろうか。
男はナイフを持っている。馬車だって使えてしまう。借金もあるようだし、なにがなんでも私のことを逃がそうとはしないだろう。
(でも、行かなきゃ)
早くブレアウッドに戻らなくてはならない。
その気持ちだけが、私の背中を突き動かしている。
私はガラス片を小屋の隅に投げた。
カタン、と小さな音が鳴る。男は起きてしまうだろうけれど、それが狙いだった。どうにかして男の意識を外に向けたい――再び縛られたままのフリをすると、やがて寝ぼけ眼の男が目を覚ました。
「……ん? なんだ? 今、物音がしたな」
「外から、なにか音がしたようなのですが」
「外から?」
「停まっている馬車を見て、だれかが様子を見に来たのでしょうか」
「まずいな。外を見てくる。お前、変な気起こすんじゃねぇぞ」
「分かってますよ」
間抜けな男は、狙い通り扉から外へ出ていった。そしてそのまま、物音の聞こえた小屋の裏側へ回ろうとしている。まさか、こんなにうまくいってくれるとは。
(逃げるなら今……!)
私はそろりと立ち上がると、息を殺して小屋を出る。そして男とは逆の方向へ身を隠しながら、少しずつ小屋から離れていった。
どうかこのまま、気づかれませんように。
早く、早く……しかしその思いも虚しく、背後から男の怒鳴り声が上がった。
「おい!! どこ行った!?」
その声に背筋が凍る。私は足が止まりそうになるのを必死にこらえて、全力で走り出した。
雑草が生い茂った草むらは、暗く、足元が悪かった。無我夢中で走り続けているけれど、どこへ向かっているのかも分からない。
度々転びそうになりながらも、私はブレアウッドへ向かって走り続けた。




