このままではいられない
手には籠。中身は真っ赤に熟れた林檎。
もう片手にはささやかな花束を抱え、私は石畳を歩いている。
これから向かうお屋敷は石造りの小さな二階建て。街中にあってもどこかブレアウッドの森を思わせる佇まいであった。
今日は、ルディエル様のお父様――先代の精霊守であるおじ様のお見舞いにやってきた。突然お邪魔してご迷惑かとも思ったが、心配になって来てしまった。
お二人には幼いころからとてもお世話になっていて、時々こうしてお顔を見ないと落ち着かない。ルディエル様のお母様であるおば様も、突然来た私を快く迎え入れて下さった。
「ありがとうネネリアちゃん。お見舞いに来てくれるなんて嬉しいわ」
「いえ、おじ様の具合はいかがですか。気になってしまって」
「今日はずいぶん機嫌がいいのよ。食欲も戻ってきたし……これからも治療は続けていかなければならないけれど、お薬が良く効いてくれているの」
「良かった……ルディエル様も安心されると思います」
現在、お二人は裏通りの静かな場所に小さなお屋敷を構え、療養生活を送られている。
最近はおば様のお顔にも少しずつ笑顔が戻ってきていて、私はホッと胸をなでおろした。
「あなた、ネネリアちゃんがお見舞いに来てくれたわよ」
「ああ、こんにちはネネリア。わざわざ来てくれてありがとう」
おじ様のお部屋は、日当たりの良い南側の部屋だった。ベッドから身体を起こし、その手は本を開いている。
ルディエル様に似た涼やかなお顔は、穏やかな表情を浮かべていた。そんなおじ様を見るだけで、思わず安心してしまうような、胸がぎゅっとなるような気持ちになる。
「ほら、こんなに美味しそうな林檎も持ってきてくれて」
「本当だ、これは美味そうだ。ありがとうネネリア。ほら、精霊達も興味津々だ」
お二人の周りには、精霊達がふわふわと飛び交っている。好奇心旺盛な精霊達は、時々林檎の籠を覗き込んでいた。
引退したとはいえ、元精霊守であるおじ様を慕う精霊は多く、森から屋敷までついてきてしまっている。こうして、街の小さなお屋敷で一緒に暮らしているようだ。私のそばにいてくれるシュシュのように。
「精霊達も、林檎を食べられたらいいのですが……」
「彼らは人間の食べ物に興味があるだけだからね。いいんだよ気にしなくても」
「ネネリアちゃんは本当に優しい子だね。ルディエルとは大違いだよ。あの子ったら見舞いにも一度来たっきりで……」
私は苦笑いをした。
ルディエル様は、精霊達に急かされてお屋敷の模様替えの真っ最中だ。どうやらそちらが最優先事項のようだし……以前、街へお誘いした時も「今は忙しい」と断られてしまった。
「ルディエル様は、精霊達と一緒にお屋敷のお手入れをされてまして……」
「はは。私の時もそうだったな。親から精霊守を受け継いだ途端、精霊達が急き立てるんだ。『早く巣作りをしろ』『番を迎えろ』ってもううるさくてね」
「そうなのですか?」
「ああ。もう朝も夜も、ずっと騒がれてノイローゼになるくらいだよ」
おじ様は当時のことを思い出したのか、軽くため息をついた。
「彼らにとって、精霊守が誰を伴侶に選ぶかは一大事だからね。屋敷を整えるのも、番を迎えるための大切な準備であるから……ルディエルは彼らの猛攻から逃げられないのだろうなあ」
「懐かしいわ。私も突然、精霊達に迎えに来られてねえ」
おじ様の話を聞いていたおば様も、昔を懐かしむように目を細めている。
「そうだったな。妻も、精霊達が連れてきたんだ。奥手過ぎる私に代わって、まるで“この人がいい”とでも言うようにね」
「精霊達が?」
「そうなのよ。私も昔から精霊が見える体質だったんだけど、まさかこんなにも好かれていたとは思ってもみなかったから……あの時は驚いたものよ。急に引越しも決まっちゃって」
「えっ……」
(そうなんだ……精霊達が“番”を連れてくる……そんなことがあるのね……)
あまり街へおりてこないルディエル様が、いつの間に伴侶となる女性を見つけたのか――私は不思議に思っていた。
しかし精霊達が森まで連れてくるのなら納得だ。ルディエル様も、精霊達に認められた女性なら伴侶として迎えたいに決まっている。
おじ様とおば様は、出会った頃の昔話に花を咲かせている。私は頷きつつも、どこか上の空でその話を聞いていた。
おじ様達の話を聞いてから、ルディエル様のお相手がだんだんと形を帯びてきて、なんだか話に集中できない。
少しずつルディエル様が遠くに行ってしまうようで……なんだか胸がぎゅっと苦しくなる。
「そういえば、ネネリアちゃんはいつ引っ越すの?」
「……え?」
「あなたは言おうとしないけど……私達も薄々知っているのよ、ソルシェ家で辛い思いをしているんじゃないかって。早く家を出るべきだわ。あなたはもう大人なのだし、あの人達の犠牲になる必要は無いのよ」
「おば様……」
おば様のあたたかい言葉が胸の奥まで沁みてくる。
誰かが、自分のことをちゃんと見てくれている――そのことがたまらなく嬉しかった。
けれど、私の心は揺れた。
ミルフィ達にあんなことをされてまでも、いまだに家を出る勇気が持てないのだ。
幸い、私には父が残してくれた僅かばかりのお金が残っている。義母やミルフィから隠し抜き、使わずに取っておいた大切なお金だ。
それを元手にすれば、あの屋敷から引越すことくらいはできるだろう。
義母達から離れるためには、隣街とは言わず遠くの街へ引越す必要があるかもしれない。大人になったのだから、越した先にはなにか働き口だってあるはずだ。下働きや接客であれば、頑張ればきっと私にもやっていける。
けれどいつまでもぐずぐずとくすぶっていたのは、この街を離れたくなかったからだ。
この街を離れてしまったら、ブレアウッドの森へ行けなくなってしまう。居心地の良いアレンフォード家だけが私の支えだったのに、拠り所を失ってしまう。
アレンフォード家では、精霊達が、ルディエル様が、優しく微笑んで下さるのに。
「少し……心の準備が欲しくて」
「そうよね、すぐ決められることでは無いもの。でもネネリアちゃん、私達はあなたの味方よ。それだけは忘れないで」
「はい。ありがとうございます、おば様」
おば様からは優しい言葉をいただいているはずなのに、なぜか私はどん底に突き落とされたような悲しみに襲われる。
(ルディエル様も近いうちにご結婚されるんだもの。私もそろそろ、アレンフォード家から離れないといけないわよね……)
私が去った後で、おば様が呟く。
「ネネリアちゃんが森へ引っ越してきてくれる日が楽しみねえ」
「ああ。しかしルディエルは求婚できたのか? ネネリアはどことなく元気が無いように見えたが……」
石畳を歩く私の後ろを、精霊が心配げに付いてくる。
輝く羽は、誰にも知られることなく森の方へ飛んで行った。