ギルガメシュの黄金像
山岡義信の逮捕劇から一ヶ月、怪盗の活動は、世間の耳目を一層惹きつけていた。今度のターゲットは、東京駅近くに聳え立つ、最新鋭の複合商業ビル「ヴァーティカル・シティ」の最上階。そこにオフィスを構えるのは、表向きは国際的な投資コンサルタント会社を名乗るが、裏では美術品の違法な取引を牛耳る国際的なブローカー、ジョージ・ウォーカーだった。
ウォーカーのコレクションの中で、《アークス》が狙うのは、古代メソポタミア文明の遺物とされる、純金製の「ギルガメシュの黄金像」。それは、紛争地域から不正なルートで持ち出され、ウォーカーが高額な賄賂を使って手に入れたものだった。その違法性は、国際的な調査機関からもマークされていたが、証拠不十分で立件には至っていなかった。
「魂の叫びが聞こえる…この像は、故郷を求めている」
月森響は、ウォーカーのオフィスレイアウト図を広げながら、静かに呟いた。響が新たに授かった魔法は、空間の認識と操作(基礎)。壁の向こうの隠された空間を透視したり、ごく短い距離を瞬時に跳躍したりする能力だ。これは、物理的な障害が限りなく少ない高層ビルでの犯行に、まさにうってつけだった。
予告状は、ウォーカーのオフィスに、奇妙な古代文字を模したスタンプと共に送られていた。「黄金の幻影、偽りの光。遠き故郷の土に還る時、真の王が目覚める。――《アークス》」
この予告状は、専門家の間でも「古代文明への造詣の深さを示すもの」として話題になった。
盗難決行の夜。
ヴァーティカル・シティの最上階、ウォーカーのオフィスは、これまでの事件で最高の厳戒態勢が敷かれていた。ビルの外周にはレーザーセンサー、内部には音響センサーと圧力センサー、そして至る所に最新鋭の顔認証カメラが設置されている。最も厳重なのは、ウォーカーのオフィス奥にある、彼のプライベート金庫室だ。内部には二重のチタン合金製扉があり、指紋認証と虹彩認証、さらに音声パスワードが組み合わされていた。
金庫室の扉前には、ウォーカー自身と、彼の忠実な護衛数名、そして警視庁の冴島漣警視が陣取っていた。冴島は、今回の事件には特に警戒を強めていた。彼は《アークス》の「正体不明の力」の存在を確信しており、今回は何としてもその手口を掴もうと考えていたのだ。
「警視、本当に大丈夫なんですか?この金庫は、どんなプロでも…」ウォーカーが不安げに尋ねた。彼の顔には、藤堂や山岡の逮捕がもたらした恐怖が滲んでいる。
「心配ありません、ウォーカー氏。今回は私が直接現場に立ちます。警備システムも完璧です。それに、今回の予告状は、あなたが不正な手段で像を入手したことを示唆しています。我々は、美術品の保護だけでなく、あなたの過去の取引についても、この機会に徹底的に調査させていただく」冴島は冷徹に言い放った。ウォーカーは言葉に詰まった。
午前0時。日付が変わった瞬間、金庫室の扉を囲むセンサーランプが、全て緑色に点灯した。異常なし。
その時、金庫室内の監視カメラが捉える映像が、一瞬、奇妙に歪んだ。まるで、熱気で風景が揺らめくように、画面全体がぐにゃりと曲がり、すぐに元に戻った。
「なんだ?モニターの不具合か?」ウォーカーが目を凝らす。
「いいえ、カメラは正常です」護衛の一人が確認する。
その直後、金庫室の中から、微かな「カツン」という、乾いた金属音が聞こえた。
「今、何か音がしませんでしたか!?」ウォーカーが声を上げた。 冴島は金庫の扉に耳を当てた。「内部で…何か動いた?」
「バカな!金庫は完全に密閉されている!誰も入れないはずだ!」護衛の一人が叫んだ。
その時、金庫室のチタン合金製扉に埋め込まれた指紋認証パネルが、青く光り、そして緑へと変わった。続いて、虹彩認証スキャナーが自動的に作動し、「認証完了」の電子音声が響き渡った。最後に、音声パスワード入力のプロンプトが点滅する。
「まさか!?自動解除!?」ウォーカーは顔色を変えた。「パスワードは私しか知らないはずだ!」
冴島は、その異常な事態に、直感的に《アークス》の魔法が関与していることを理解した。彼の脳裏に、以前の事件の「ロック解除」の不可解さが蘇る。
そして、金庫室のチタン合金製扉が、ゆっくりと、音もなく、内側へと開いていく。
中には、「ギルガメシュの黄金像」が厳重に保管されたケースと、それを囲むレーザーセンサーの赤い網が確認できる。そのレーザー網の向こう、黄金像のすぐ脇に、一瞬、何かが「揺らめいた」。それは、透明な陽炎のような、あるいは空間が歪んだかのような、極めて短い現象だった。
「今、何かが見えたぞ!何だあれは!?」ウォーカーが絶叫した。 冴島は、金庫室の内部に目を凝らした。レーザーセンサーの赤い網は、依然として正常に稼働している。何者かがそこを通過した痕跡など、どこにもない。しかし、その網の向こうに、「ギルガメシュの黄金像」が、忽然と姿を消していたのだ。
「消えた!?また消えたのか!?」ウォーカーは絶望に顔を歪ませた。
冴島は、金庫室の中へ踏み込んだ。レーザー網に触れることなく、まるでそこに何もないかのように、彼は金庫室の奥へと進む。黄金像が置かれていた台座には、確かに像が置かれていた痕跡がある。だが、像は影も形もない。
「どこに消えた…一体、どうやって…」冴島は呟いた。
その時、冴島の足元に、一枚の古びた粘土板の破片が落ちているのが見えた。彼はそれを拾い上げた。粘土板には、ギルガメシュ叙事詩の一部らしき古代楔形文字が刻まれている。そして、その裏には、現代のインクで、しかし崩れた筆跡で、こう書かれていた。
「…隠されし通路の先に、真実の鎖は繋がれん」
冴島は、その言葉にハッとした。彼は、周囲の壁に目を凝らす。彼の持つ、空間認識能力が、壁の向こうに微かな「歪み」を捉えた。それは、通常の目には見えない、隠された空間の存在を示す「何か」だった。彼は、その「歪み」の真上に手をかざした。
「ここだ…」冴島は呟いた。彼は、その壁を注意深く叩いた。鈍い音が響く。その奥に、何かが隠されている。
響は、空間の認識・操作の魔法を駆使し、金庫室の隠された通路を見つけ出し、そこにごく短い距離を跳躍して侵入したのだ。そして、その通路を通って美術品を運び出し、同時にウォーカーの不正を暴く証拠を仕込んだ。
数日後、「ギルガメシュの黄金像」は、トルコとイラクの国境付近にある、古代メソポタミア文化を研究する小さな博物館の、厳重な保管庫に、匿名で届けられた。館長は、像の発見に涙を流し、その奇跡的な帰還を国際メディアに発表した。
そして、その報道がされる数時間後、ウォーカーの逮捕が発表された。
冴島が金庫室の壁の「歪み」から発見したのは、ウォーカーが国際的な闇組織と美術品の違法取引を行っていたことを示す詳細な取引記録と、彼が購入した美術品が紛争地域の略奪品であることの証明書だった。それらは、粘土板の破片が示した「隠されし通路」の奥に、巧妙に隠されていたのだ。
ウォーカーは、美術品盗難の被害者から一転、国際的な犯罪組織との共謀、マネーロンダリング、そして文化財の違法取引の容疑で逮捕された。
今回の事件は、これまでの《アークス》の犯行の中で、最も不可解で、最も「魔法的」だと報じられた。
テレビのニュース番組:「今回の《アークス》は、空間を操るのか!?高層ビルの密室金庫から、レーザーセンサーを掻い潜り、美術品を消失させた手口は、もはや超能力としか言いようがありません!」
コメンテーターE(科学者):「物理学の常識では説明できません。電磁波の操作、あるいは量子テレポーテーションのような技術が関与している可能性も…」
SNSの反応:
•「《アークス》はやっぱり人間じゃないんだ!異星人か、未来人か!?」
•「ウォーカー逮捕!《アークス》は本当に神様みたいだな。法が裁けない悪を裁く」
•「警察は何をやっているんだ?完全に舐められてるじゃないか」
•「ギルガメシュの黄金像、ちゃんと故郷に返されたのか。すごいな、アークス」
•「正直、もうアークスに世界中の不正を暴いてもらいたい気分だわ」
世論は、《アークス》の存在を完全に「超常的」なものとして認識し始め、彼の行動に対する畏敬の念と、警察への苛立ちが入り混じるものとなっていた。
新聞各社も、一面でこの事件を報じた。
•大手一般紙『毎日新聞』:「《アークス》、空間を操る!?『ギルガメシュの黄金像』金庫内から消失。ウォーカー氏逮捕で不正解明」
•国際情勢専門誌『GLOBAL VIEW』:「文化財略奪の闇に光を当てた《アークス》。彼の行動は、国際司法に新たな課題を突きつける」
•オカルト専門誌『アトランティス』:「失われた古代文明の秘術か!?《アークス》の超空間能力に迫る!ギルガメシュ叙事詩との関連性は!?」
特に『アトランティス』誌は、ギルガメシュ叙事詩に登場する英雄ギルガメシュが「半神半人」であったことを引き合いに出し、《アークス》もまた、人間を超越した存在である可能性を強く示唆する記事を掲載した。
警視庁捜査本部では、冴島漣の顔には、疲労の色が濃く出ていた。しかし、彼の瞳は、かつてないほど鋭い輝きを放っていた。
「今回も、彼が仕組んだ証拠が、ウォーカー氏を逮捕に導いた…」高橋刑事が報告書を読み上げる。
「彼の狙いは、我々警察が法的に介入できない領域に踏み込み、そこに『正義』をもたらすことだ」冴島は言った。「そして、そのために、我々を『駒』として使っている」
彼は、金庫室の壁から発見された粘土板の破片に書かれた「隠されし通路の先に、真実の鎖は繋がれん」というメッセージを思い出していた。それは、《アークス》が彼自身の魔法の力を、警察に間接的に示唆しているかのようだった。
「彼の能力は、もはや物理学の範疇を超えています。空間を操るなど、常識では考えられません」村田刑事が困惑した表情で言った。
「しかし、事実だ」冴島はきっぱりと言った。「彼は、我々の目の前で、それをやってのけた。我々は、彼の『トリック』ではなく、『魔法』と向き合わなければならない」
冴島は、自身の直感を信じ、より深く《アークス》の謎を解明しようと決意を固めていた。彼の頭の中では、「エーテル・チェイン」という言葉が、かすかに、しかし確実に形を成し始めていた。
響は、月光庵のアトリエで、古代メソポタミアの歴史に関する書物を静かに読んでいた。彼の指先には、空間認識・操作の魔法が宿っている感覚が残っている。それは、今まで以上に鮮明な、世界の裏側を見るような感覚だった。
(ギルガメシュ…古き王の知恵が、また私に力を与えた)
彼の心の中で、祖父の掛け軸にまつわる「エーテル・チェイン」の謎と、集めた魔法の力が、少しずつ繋がっていくのを感じていた。彼の行動は、単なる美術品の奪還ではない。それは、失われた古代の力を再構築し、世界の歪みを正すための、壮大な物語の序章なのだ。
セントラルタワーと大黒屋での連続盗難事件は、警視庁に深い混乱と疲弊をもたらしていた。特に、事件を主導する冴島漣警視は、その不可解な手口と、従来の科学捜査が全く通用しない現実に、強い苛立ちと無力感を覚えていた。彼のデスクには、これまでの事件の捜査資料が山と積まれている。藤堂邸、セントラルタワー、大黒屋。それぞれの現場からは、矛盾する証拠と、説明不能な現象ばかりが報告されてきた。
「警視、今回の山岡の件も、結局、侵入経路は特定できませんでした」
高橋刑事が、頭を掻きながら報告した。彼の顔には、連日の捜査による疲労の色が濃い。
「金庫の扉は物理的に破壊されていない。センサーも作動していない。監視カメラには、例の『幻影』が映ったのみ。そして、絵画は、警備員の目の前で消えた。どう説明する?」
冴島は、目の前のコーヒーカップを無意識に握りしめていた。その熱が、掌にじわりと染み込む。
「現場に残された足跡も問題です。メインホールでは、警備員と鑑識の足跡以外に、不審なものが全く検出されなかった。しかし、セントラルタワーのペントハウスでは、わずかに靴底の跡が二種類見つかりました。一つは標準的な革靴、もう一つは、なぜか普段使いのスニーカーのような跡でした。しかも、それぞれが異なる場所に、まるで同時に現れたかのように点在していたんです」 高橋刑事は資料を広げ、混乱した様子で続けた。 「物理的に不可能です。一人の人間が同時に二種類の足跡を残すなどありえませんし、複数の人間が侵入した形跡もありません。警視、本当にこれは人間がやったことなんでしょうか?」
警察内部では、様々な憶測が飛び交っていた。
「どうせ、どこかのハッカー集団が、超高性能なシステムを開発して、電磁波でロックを解除したり、カメラをハッキングしたりしてるんだろ」
「いや、あれは内部犯行だよ。警備会社の人間か、黒川氏の秘書か、裏で怪盗と通じてる奴がいるに決まってる」
「まさか、怪盗に魔法使いでもいるとでも言うのか?メディアが面白がって誇張してるだけだろう」
だが、冴島は、どれも決定打に欠けると感じていた。ハッキングでここまで完璧に痕跡を消せるのか?内部犯行で、あの密室の金庫から物を消せるのか?メディアの誇張では、目の前で起こった不可解な現象は説明できない。
「我々は、常識に囚われすぎているのかもしれない」
ある夜、冴島は本部で一人、壁に貼られた捜査資料を眺めながら、ぽつりと呟いた。彼の心の中には、「常識を超えた何か」の存在が、確かな輪郭を持って浮かび上がっていた。それは、従来の科学捜査の限界を示唆し、彼の信念を揺るがすものだった。
その時、背後から声がした。
「お疲れ様です、警視。何か、お困りですか?」
振り返ると、美術品犯罪対策課のベテラン刑事、村田が立っていた。彼は今回の事件で、冴島の指揮下に入っていた。
「村田さん…ええ、少し」冴島は答えた。
村田は冴島の横に立ち、壁の資料に目を向けた。「しかし、あの怪盗は本当にやっかいですね。我々が常識としてきたものが、次々と覆されていく。私など、もはや何が本当で何が嘘なのか…」
「それが、彼の狙いなのかもしれませんません」冴島は言った。「我々の常識を打ち破り、混乱させることで、彼の目的を達成しようとしている」
「目的、ですか…確かに、彼は盗んだ美術品を本来の持ち主に返していますし、その過程で、所有者の不正が暴かれている。世間では『義賊』と持て囃されていますが…」村田は言葉を濁した。
「法を犯してまで、他人の不正を暴くことが、果たして『正義』なのか。我々は、その答えを出さなければならない」
冴島は、刑事としての自らの使命と、目の前で繰り広げられる「超常的な現象」、そして世論の持つ「義賊」への期待との間で、深い葛藤を抱えていた。彼の知性と正義感は、目の前の現実を無視することができなかった。
数日後、冴島は美術品犯罪対策の専門家として、ある女性を訪ねた。
彼女の名は、篠原 美緒。東京国立博物館の学芸員であり、東洋美術史の若き俊英だ。彼女は、これまでの《アークス》が盗んだ美術品すべての歴史的背景と、その所有権を巡る不正について、最も深く研究している人物の一人だった。
篠原のアトリエは、月森響のそれとは対照的だった。近代的なビルの高層階に位置し、無数の専門書が整然と並べられた書棚と、PCモニターが何台も置かれた作業台が、その知的な雰囲気を際立たせている。
「冴島警視、わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
篠原は、物静かで知的な雰囲気を纏いながらも、その瞳の奥には、美術品への深い情熱が宿っているのが見て取れた。
「篠原さん、お忙しいところ申し訳ありません。実は、あなたにしかお伺いできないことがありまして」
冴島は、これまでの《アークス》の事件について、篠原に詳細を説明した。特に、盗難の手口が非現実的であること、そして盗まれた美術品が、最終的に本来の持ち主のもとへ届けられていることを強調した。
「藤堂氏のルノワール、黒川氏の『オリオンの涙』、そして山岡氏の『夢幻の庭』。これら三点の美術品に共通することは、何だと思いますか?」冴島が尋ねた。
篠原は、少し考え込むように視線を遠くへ向けた後、静かに口を開いた。
「共通点ですか…そうですね。まず第一に、それらが全て、戦後の混乱期や、あるいは巧妙な詐欺によって、元の所有者の意思に反して、不当な形で現所有者の手に渡った品であるということです」
冴島の目が鋭くなった。彼は既にその事実に気づいていたが、専門家からの確証を得たかったのだ。
「やはり、そうですか。そして、その不当な所有者たちは、美術品が盗まれた後、その事件をきっかけに、過去の不正が露呈し、逮捕されています」
篠原は静かに頷いた。「それは、偶然ではありえませんね。《アークス》と名乗る怪盗は、単に美術品を盗むだけでなく、その美術品にまつわる『不正の歴史』を暴こうとしている、と考えるのが自然です」
「では、彼はなぜ、そんな回りくどいことをするのでしょうか?直接、不正を告発すればいい」
冴島は、未だ拭いきれない疑問をぶつけた。
篠原は、テーブルに置かれた美術品の写真を指差した。
「警視。藤堂氏、黒川氏、山岡氏…彼らの不正は、これまでも何度も噂されてきました。しかし、彼らは皆、法の網の目を巧みにかいくぐり、決定的な証拠を残さなかった。あるいは、権力や財力で、捜査の手が届かないようにしてきた。法だけでは裁けない悪が存在するということです」
彼女の言葉は、冴島が心の奥底で感じていた苦悩を、まさに言い当てていた。
「《アークス》は、その『法の限界』を理解しているのではないでしょうか。だからこそ、彼は自らがその限界を超え、美術品という象徴を通じて、彼らが隠蔽してきた『不正の歴史』を、白日の下に晒そうとしている」
篠原は、穏やかな口調で続けた。
「彼は、盗んだ美術品を、最終的に本来あるべき場所、あるいは真にその美しさを愛し、守るべき者のもとへ返しています。藤堂邸のルノワールは戦争孤児の施設へ、黒川氏の『オリオンの涙』は元王族の末裔が経営する博物館へ、そして山岡氏の『夢幻の庭』は、画家を敬愛する遺族が設立した美術館へ。彼の行動は、単なる窃盗ではなく、美術品に宿る『魂』の解放、そして『歴史の修正』を試みているように見えます」
冴島は、彼女の言葉にハッと息を呑んだ。
(美術品に宿る魂…月森響も、同じようなことを言っていた…)
彼は、初めて月森響と会った時のことを思い出していた。彼のアトリエの静けさ、美術品を慈しむような眼差し。彼が「美術品には魂が宿る」と語っていたこと。 そして、彼は、今回の事件で発見された、山岡の不正の証拠を「偶然」発見したときのことを思い返した。それらは、まるで《アークス》が意図的にそこに仕掛け、発見されるように誘導したかのようだった。
「彼は…我々警察を利用している、と?」冴島が問いかけた。
「利用、というよりは…共鳴、かもしれませんね」篠原は微笑んだ。「彼は、法で裁けない悪を暴き、その証拠を公にする。そして、その『悪』を最終的に逮捕するのは、法執行機関である警視庁、あなた方の役割です。彼は、あなた方が『正義』を全うするための、きっかけを作っている。彼の行動は、法を犯している。しかし、その結果が、社会の『正義』に繋がっているという点で、非常に複雑な存在です」
篠原の言葉は、冴島の心の中に、新たな視点をもたらした。彼がこれまで、ただの「犯罪者」として追い続けてきた怪盗が、別の顔を持っているかもしれないという可能性。それは、彼が信じてきた「法の下の正義」とは異なる、「別の正義」の形だった。
「つまり、彼は、法を超えた存在として、社会の歪みを正そうとしている…と」冴島は呟いた。
「そうかもしれません。美術品は、その時代の権力や富を象徴するだけでなく、人々の歴史や文化、そして時には悲劇を映し出す鏡でもあります。彼がその『鏡』の歪みを正そうとしているとすれば、彼の行動は、単なる盗みでは片付けられない、もっと深い意味を持つことになります」
冴島は、篠原の言葉に深く納得した。彼はこれまで、犯人の「手口」と「動機」を分離して考えていたが、篠原の分析によって、それらが密接に結びついていることが理解できた。 《アークス》の不可解な手口は、彼が悪役の不正を暴き、社会に「真の正義」をもたらすための、緻密な計画の一部なのだと。
アトリエを出る際、冴島は篠原に尋ねた。
「あなたは、この《アークス》をどう思いますか?逮捕すべき犯罪者だと?」
篠原は、少し考えた後、遠くを見つめるような目で答えた。
「私個人としては…複雑な気持ちです。彼の方法は、確かに法を犯しています。しかし、彼が暴き、正している不正は、私たち美術史家が長年心を痛めてきたことでもあります。彼が美術品に宿る『魂』を解放しているとすれば…それは、ある種の『救済』なのかもしれません」
彼女の言葉は、冴島の心に深く響いた。彼は、怪盗を「捕らえる」という目的だけではなく、彼が追求する「正義」の真の姿を理解するために、その謎を追いかけるべきだと強く感じるようになった。
彼の捜査は、単なる犯罪捜査の枠を超え、法と正義、そして人間社会の倫理を深く問い直す、個人的な探求へと変貌を遂げようとしていた。




