警察の困惑とアリバイの壁
藤堂邸からルノワール『陽光の中の少女』が消失した翌朝、現場は混乱の極みにあった。夜明けと共に、鑑識班と捜査一課の面々が殺到し、慌ただしく動き回る。
「警視、このロックは一体どうなってるんですか!?」
鑑識班の主任が、展示ケースのロック部分を食い入るように見つめながら、冴島漣に報告した。
「物理的な破壊痕跡は皆無です。外部からの不正な力も、内部からの操作痕も、一切検出されません。まるで、最初から鍵がかかっていなかったかのように…」
冴島は、深々と眉間に皺を寄せた。彼は既に、昨夜の現場指揮本部での混乱を耳にしていた。鈴木刑事に化けた《アークス》の分身が流した偽情報により、大半の警官が南側通路へと誘導されていたこと、そしてその混乱の中で藤堂氏の不正を示す証拠が「偶然」見つかったことも。
「電力系統の異常は?」冴島が尋ねた。
「ありません。昨夜の一瞬の停電のような現象も、記録には残っていません。システム全体は正常稼働していました。にもかかわらず、メインホールの警報システムだけが沈黙した…これは、理解不能です」
鑑識班の主任は、経験豊かなベテランだが、明らかに困惑しきっていた。冴島は自身の直感が、単なるトリックやハッキングの範疇を超えた「何か」を感じ取っていることを確信する。通常の窃盗犯ならば、必ず何らかの痕跡を残す。しかし、今回の事件は、まるで透明な手で直接空間をねじ曲げられたかのようだ。
「メインホールの監視カメラ映像は?」冴島が尋ねた。
「現在、解析中です。ただし、非常に奇妙な現象が記録されていまして…」
主任がタブレットの画面を提示した。再生された映像には、ルノワールの絵画が飾られた展示ケースが映っている。時刻が午前0時を指した瞬間、映像全体が一度、白くフラッシュした。そして、フラッシュが収まった時には、絵画がケースの中から消えていた。
「これは…どう見ても、CG加工か、あるいはカメラの不具合です。しかし、複数のアングルから撮られた映像全てで同じ現象が起きている。そして、この映像に、何者かが侵入した形跡は一切ありません」
冴島は映像を何度も巻き戻して見た。絵画が消える瞬間、周囲の空間が微かに歪んだように見えたが、それはあまりにも微細で、錯覚ともとれるレベルだった。彼の頭の中で、祖父がかつて口にした「美術品には魂が宿る」という、響の言葉が唐突に蘇った。まさか、そんな非現実的なことが…。彼はその考えをすぐに打ち消した。しかし、彼の合理的な思考は、この不可解な現象を説明する術を失っていた。
警察の捜査は、通常の窃盗事件のセオリー通りに進められた。 まず、容疑者の絞り込みだ。美術品盗難のセオリーとして、以下の点が挙げられる。
1.内部犯行の可能性: 邸宅の関係者、警備会社の従業員、美術品の修復・管理に携わった業者。
2.美術品関係者: 美術品ディーラー、オークション関係者、美術史家など、美術品の価値を理解し、流通ルートに詳しい者。
3.予告状の差出人: 過去に同様の予告状を出した前科者や、模倣犯。
4.アリバイの確認: 事件時刻に容疑者候補がどこで何をしていたか。
その過程で、月森響の名前が浮上したのも自然な流れだった。彼は著名な古美術修復師であり、その腕前は業界で高く評価されている。何より、藤堂氏の邸宅の美術品の中には、響のアトリエで修復を手がけたものも複数あったため、邸宅内部の構造や警備体制にある程度の知識がある可能性が考えられた。
「響さん、失礼ですが、藤堂邸の件でお伺いしたいことがあります」
事件翌日、冴島の部下である高橋刑事が、月光庵を訪れた。響は茶釜の修復を中断し、穏やかな顔で刑事を出迎えた。
「はい、どうぞ。私でお役に立てることがあれば」響は淡々と答える。
「事件発生時刻の、昨夜の午前0時前後のアリバイをお聞かせいただけますか?」
高橋刑事の質問に、響は少し思案する素振りを見せた後、答えた。
「昨夜は、ちょうど藤堂邸からほど近いホテルで開催されていた、某財団主催の美術チャリティーイベントに出席しておりました。私の知人も多く出席していましたし、確か、メディアの方もいらしていましたね」
高橋刑事は、その回答に内心で舌打ちした。まさか、ここまで完璧なアリバイとは。彼は事前に、響がそのイベントに出席していたことを確認済みだった。財団主催のイベントは、その年の美術界のビッグイベントの一つであり、多くの著名人や文化人が集まっていた。もちろん、メディアの取材も入っており、テレビのニュース番組や芸能雑誌でも、その模様が報じられていた。
「なるほど、それは確認済みです。…では、イベント中に、何か不審な人物を見かけたり、変わったことはありませんでしたか?」高橋刑事は形式的な質問を続けた。
響は首を傾げ、記憶を辿るように天井を見上げた。「いえ、特に変わったことは。ただ、会場が非常に賑やかで、皆さんの美術品への熱意に圧倒されました」
高橋刑事は、これ以上聞くことはないと判断し、月光庵を後にした。彼は冴島に報告する。 「月森響のアリバイは完璧です。テレビの生中継にも映り込んでいましたし、複数の著名人が彼の存在を証言しています。彼を容疑者リストから外すべきかと」
冴島は、その報告を聞きながらも、どこか釈然としないものを感じていた。響は、美術品への深い知識と愛情を持つ、この業界でも稀有な存在だ。彼の人物像と、今回の事件の不可解な手口が、奇妙に結びつくような感覚があった。しかし、アリバイは鉄壁だ。これ以上、彼を追及する法的根拠はない。警察は、月森響を容疑者から除外せざるを得なかった。
事件後、世論は沸騰した。 テレビのワイドショーは、連日この話題で持ちきりだった。
ニュースキャスター:「…消えたルノワールは、東京の高級住宅街から姿を消したはずが、なんと、遠く離れた九州地方の、とある孤児院に届けられていたことが判明しました!」
コメンテーターA(元文化庁職員):「これはまさしく、現代のロビン・フッド、あるいは鼠小僧といったところでしょうね。藤堂氏の美術品コレクションには、過去に不正な手段で入手されたという噂が絶えませんでしたから、この怪盗は、それを知っていて、あえて彼をターゲットにしたのでしょう。」
コメンテーターB(弁護士):「しかし、いかに『義賊』と称されようと、犯罪は犯罪です。法治国家において、個人の判断で他人の財産を奪うことは許されません。警察は、一刻も早く犯人を逮捕し、法の秩序を守るべきです。」
テレビ画面には、ぼやけた画像で届けられたルノワールと、それを囲む孤児たちの無邪気な笑顔が映し出されていた。そして、その横には、手錠をかけられ、憔悴しきった様子の藤堂秀一氏の逮捕時の映像が並んでいる。
新聞の見出しも踊った。
•大手一般紙『朝日新聞』:「怪盗、ルノワール奪還劇!背後に藤堂氏の脱税疑惑浮上。法の及ばぬ正義か、新たな犯罪か」
•美術専門誌『ART CONNOISSEUR』:「消えた名画、奇跡の帰還。美術品盗難、その倫理と所有権の問い直し。《アークス》が投げかける波紋」
•週刊誌『週刊文春』:「藤堂秀一、悪行の全貌!怪盗の『仕込み』か!?警視庁捜査の舞台裏」
世論は大きく二分された。
SNSでは、「#怪盗アークス」「#義賊」といったハッシュタグがトレンド入りし、「よくやった!」「法では裁けない悪を裁いたヒーローだ!」と喝采を送る声が多数を占めた。特に、美術品が戦争孤児の施設に届けられたという事実は、人々の心を強く揺さぶった。 一方で、「犯罪を美化するな」「法の秩序が崩れる」と批判的な意見も少なからず存在した。しかし、藤堂氏の逮捕が確定的なものとなるにつれ、彼の「不正」が確かなものだと認識され、怪盗に対する肯定的な声は、日を追うごとに強まっていった。
警察は、表面上は毅然とした態度を崩さなかった。 警視総監は定例会見で、「いかなる理由があろうとも、窃盗は許される犯罪行為であり、警察は徹底的に捜査を継続し、犯人を逮捕する」と述べた。 しかし、その内部では、幹部たちの間でも「果たして、この怪盗は本当に悪なのか?」という複雑な感情が渦巻いていた。
冴島は、藤堂氏の不正が暴かれ、彼が逮捕されたという結果を前に、深い思索にふけっていた。 (彼が、この結果を予期して行動したというのか?それとも、偶然なのか…)
彼の中の「法」と「正義」の定義が、揺らぎ始めていた。
藤堂氏の逮捕は、確かに正義だった。しかし、それを引き起こしたのは、彼が追うべき「犯罪者」である《アークス》の行動だった。
彼の脳裏に、あの奇妙な監視カメラの映像、消えた絵画、そして完璧なアリバイを持つ月森響の穏やかな顔が、繰り返し蘇る。
(この《アークス》は、いったい何者なんだ…?)
冴島の心に、これまでにないほど深く、怪盗の謎が刻み込まれた。彼の捜査は、単なる犯人逮捕へと向かうだけでなく、《アークス》という存在の根源にある「何か」を解き明かす旅へと、静かに舵を切り始めていた。