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月森 響の日常と過去の影

久留米の古い商店街の一角、錆びたトタン屋根と木製の引き戸が並ぶ中に、月森響のアトリエ「月光庵」はひっそりと佇んでいた。通り過ぎる人々は、その地味な外観からは想像もつかないほど、中に繊細で深遠な美が息づいていることに気づかない。一歩足を踏み入れれば、そこはまるで時間が止まったかのような、独特の空気に包まれる。


アトリエの壁は、何十年も前に塗られたであろう漆喰が剥がれかけ、所々に染みがある。だが、響はそれを「歴史の証」と呼び、一切手を加えなかった。天井からは裸電球が温かい光を落とし、作業台の上には、大小さまざまな筆、薬瓶に入った顔料、薄い和紙、そして色褪せた絹の布が整然と並べられている。硝子棚には、江戸時代の螺鈿細工の箱、明治初期の精緻な木彫りの仏像、そして大正時代の錆びついた西洋風の懐中時計など、修復を待つ美術品たちが静かに佇んでいた。それぞれの品が放つ微かな「声」が、この空間を満たしているようだった。


響の仕事は、その「声」を聞き取ることだった。例えば、目の前にある宋時代の青磁の皿は、長い時を経て貫入と呼ばれるひびが無数に入り、一部は欠けている。響は拡大鏡を覗き込み、極細の筆に顔料を含ませ、息を殺してそのひびに色を置いていく。指先から伝わる土の感触、筆が描く僅かな抵抗、顔料が吸い込まれていく様。彼にとって、それは単なる作業ではない。美術品が経験してきた悠久の時を辿り、その傷跡に込められた物語を読み解く行為なのだ。


「美術品にはね、魂が宿るんだよ。だから、ただ直すだけじゃなくて、その魂の輝きをもう一度引き出してあげるんだ」


幼い頃、祖父である月森静馬は、いつも響にそう語りかけていた。静馬は、響の目の前で、壊れた焼き物をまるで生きているかのように慈しみ、その欠片一つ一つに語りかけるように修復していた。その指先から放たれる温かい光が、響の幼い心に焼き付いていた。響にとって、祖父はただの職人ではなかった。まるで魔法使いのように、命なきものに命を吹き込む存在だったのだ。


アトリエの奥には、鍵のかかった古いけやきの箪笥があった。祖父が「決して開けてはならない」と言い残した場所だ。響は時折、その箪笥に目をやり、微かに違和感を覚えることがあった。そこから、他の美術品とは異なる、何か特別な「気配」が漏れているように感じられたのだ。だが、祖父の言葉を守り、彼はその扉を開けることはなかった。


しかし、静かで穏やかな響の日常は、ある日突然、激しく打ち砕かれる。あれは、彼がまだ小学校低学年の頃だった。


その日も、響は祖父のアトリエで、使い古された絵本を読んでいた。外は激しい雨が降り、雷鳴が轟いていた。祖父は普段なら決して開けない箪笥から、一枚の古い掛け軸を取り出していた。それは、墨の濃淡だけで描かれた、何の変哲もない山水画に見えた。だが、祖父はその掛け軸を抱きしめ、響に優しく微笑んだ。


「響、これだけは、どんなことがあっても手放しちゃいけない宝物なんだ。月森家の、魂のようなものだよ」


静馬の言葉は、まるで響の心に直接響くかのように、強く心に残った。その掛け軸から、祖父の言葉通り、得も言われぬ温かい「気配」が放たれているように響には感じられた。


その時だった。アトリエの引き戸が、激しい音を立てて開け放たれた。入ってきたのは、数人の男たち。背が高く、肩幅が広く、全身から得体の知れない威圧感を放っていた。彼らの纏う空気が、アトリエの穏やかな空気を一瞬で冷たく変えた。


「月森静馬だな。その掛け軸は、俺たちに渡してもらおうか」


男の一人が、低い、冷たい声で言った。祖父の顔から、一瞬で血の気が引いた。響は、祖父の背中に隠れながら、男たちの顔を覗き見た。彼らの目には、美術品を慈しむような光は微塵もなく、ただただ強欲な輝きが宿っていた。


「これは…これは、お渡しできません。月森家の、大切な…」


祖父は震える声で反論したが、男は聞き入れない。別の男が祖父に詰め寄り、その腕を力ずくで掴んだ。祖父の手から、掛け軸が滑り落ちそうになる。響は、祖父が大切にしているものが奪われる、その恐怖と絶望に、体が硬直した。


「あんたごときが持ってる品じゃない。大金を積んでやろうと言ってるんだ、感謝しろ」


男たちは、祖父の反論を無視し、荒々しく掛け軸を奪い取ろうとした。祖父は必死に抵抗した。その時、響の幼い記憶に鮮烈な光景が焼き付く。祖父が掛け軸を強く抱きしめた瞬間、掛け軸から微かな光が放たれ、男たちの手が僅かに弾かれたように見えたのだ。だが、それは一瞬のことで、男たちの圧倒的な力の前には無力だった。


「響!逃げろ!」


祖父の叫びが響き渡った。男たちは祖父を突き飛ばし、掛け軸を乱暴に引っ掴んでアトリエを後にした。残されたのは、床に倒れ伏す祖父と、響の幼い目に焼き付いた、冷たい雨の日の光景だけだった。掛け軸が奪われた時、アトリエ全体を覆っていた温かい「気配」が、一瞬でかき消えたように響は感じた。それは、響の心に深い傷と、決して忘れられない強烈な「欠落感」を残した。


その日以来、祖父はあの掛け軸について二度と口にすることはなかった。しかし、その眼差しには常に深い悲しみが宿っていた。響は、祖父から奪われたものが、ただの美術品ではないこと、そしてその奥に秘められた「何か」があることを、幼心に強く感じ取っていたのだ。


祖父が亡くなり、響がアトリエ「月光庵」を継いで数年が経った頃、その「何か」が、彼の内に覚醒する瞬間が訪れた。


それは、修復作業中の出来事だった。響は、戦国時代の武将が愛用したとされる、錆びつき、一部が朽ちかけた鉄製の茶釜を修復していた。この茶釜は、とある地方の郷土史家から依頼されたもので、代々その家に伝わる品だという。修復作業は難航していた。長年の錆が深く、元の状態を想像することすら難しいほどだった。


「お前も、きっと色々なことを見てきたんだろうな…」


響は、茶釜の冷たい感触を掌で感じながら、無意識のうちに祖父が美術品に語りかけていたように、静かに茶釜に話しかけていた。その時、響の指先が、茶釜の底に施された、ほとんど見えないほどの小さな紋様に触れた。その紋様は、月森家に代々伝わる「秘法」の書物の中に、かつて祖父が指差して「これは、古の魔力を封じ込める紋様だ」と語っていたものと酷似していた。


響の心臓が、ドクンと大きく鳴った。彼は、その紋様に意識を集中させた。祖父の声が、頭の中でこだまする。「美術品には魂が宿るんだよ…その輝きを引き出してあげるんだ…」。


次の瞬間、響の指先から、微かな、しかし確かな温かい光が放たれた。それは、彼の幼い頃に、祖父が掛け軸を抱きしめた時に見た光と全く同じだった。光は茶釜の紋様に吸い込まれるように集中し、そして、茶釜全体がかすかに震え、その姿がぼんやりと霞んだ。まるで、そこに存在するはずの茶釜が、一瞬、空間から切り離されたかのように。


響は、驚きに目を見開いた。茶釜はすぐに元の姿に戻ったが、彼の指先には、今まで感じたことのない、微細な「力」が残っていた。それは、水が流れるような、あるいは風が吹くような、漠然としたエネルギーの感覚だった。


「これは…?」


響は、茶釜を手に取り、まじまじと見つめた。錆は、先ほどよりも僅かに薄くなったように見えた。だが、それ以上に、茶釜が放つ「気配」が、以前とは明らかに異なっていた。それは、奪われた祖父の掛け軸が持っていた温かい「気配」に似ていた。


響は、もう一度、先ほどと同じように紋様に指を当て、意識を集中させた。すると、再び指先から光が放たれ、茶釜の表面が先ほどよりも長く、より鮮明に「透けた」のだ。周囲の光が茶釜を通り抜け、茶釜の向こう側の景色が、ぼんやりとではあるが透けて見えた。


「透明化…?」


響は息を呑んだ。祖父の言っていた「魂の輝き」とは、まさにこのことだったのか?美術品に宿る力を引き出し、それを現実世界に顕現させる。それが、月森家に伝わる「秘法」の真の姿だったのだ。そして、この「透明化」の魔法こそが、彼が《アークス》として活動する上での、最初の、そして最も基本的な能力となることを、この時の響はまだ知る由もなかった。


彼の心の中で、幼い頃に奪われた祖父の掛け軸、そして美術品に対する深い愛情と、理不尽な方法で美術品を手に入れた者たちへの静かな怒りが、新たな使命感となって燃え上がっていた。


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