おわり ちゃんと言って
その後は、廊下で破水した私の騒ぎに気が付いた元夫は、護衛と侍女に氷点下の眼差しを向けられながら、唸る私の部屋の前でオロオロウロウロ……。やがて夜中に産声が聞こえた時には、画面が水没したかのように潤んでいた。
「不貞をしていないのは、分かってもらえたか?」
両手を繋いだままの元夫は、まっすぐ私を見て言った。
ふーん? 不貞をしてない言い訳しかしないつもりなんだ? へーえ?
「子爵様」
「ヨナスだ」
「……子爵様」
「ヨナス、と呼んでくれ。ソフィア」
ここで私の名前を呼ぶか。今まで『君』としか呼ばずに、名前は閨の中でしか呼ばなかったのに。
「ソフィア。私の人生には君が必要で、君の人生には私が存在したい。……君がこの国の男性に嫌気をさしているのは分かっているつもりだよ。過去は変えられないが、君と出会ってからは、他の女性にそういった意味で触れたことはない。これからもない」
「……ちゃんと言って」
「ソフィア。君は私の唯一だ」
「ヨナス、ちゃんと」
「言う……言うから、もう『元夫』と呼ばないでくれ……」
項垂れるシベリアンハスキーがそこにいた。
え、私、心の声、漏れてた?
あら、どこまで漏れてたの?
悲しい目をしたシベリアンハスキーのような旦那様が、混乱する私を抱き締めながら、真っ赤な顔で「愛している」と小さな小さな声で言ってくれたので、今回の件は許してあげようと思う。
現金だけど、惚れた方の負けって、本当だわ。
生尻ペチン?
それはそれ、これはこれ。
ちゃんとしたけど、なにか?
誤解だったのに旦那様が可哀想? 結構喜んでたけど……げふんっ! 夫婦間のことは放っておいてくださいな。
「エリアス」
名前を呼ぶと嬉しそうな顔をするようになった愛しの坊や。
もう生後半年になり、すくすくと大きくなって、声を出して笑い、寝返りで縦横無尽に移動し、ハイハイらしきものもするようになった。
一瞬たりとも目が離せないが、幸い、乳母も侍女もいるので、人の目も手もたくさんあるから、大きな怪我もなく元気に育っている。
「ソフィア」
旦那様が帰ってきた。
私たちの離婚危機のすぐ後、この国は隣国に宣戦布告し、攻め入った。
国民は皆落ち着きながらも不安に思っていたが、隣国との戦争は、なんと三週間で終結した。
隣国が降伏したのである。
現場で何が起きたかは、私のようなしがない子爵夫人は知らなくても良いことだ。
この国が勝ち、隣国は属国となった。それがすべての結果である。
この間、旦那様は激務過ぎて、お風呂場に連行されるシベリアンハスキーみたいな顔をしていたから、大分コキ使われていたようだ。
だけども、「これで計画の不安要素は無くなった」とニヤリと笑っていたから、旦那様にとっても正念場だったのだろう。
男性も守るものがある時は強くなる……、いや、きっと性別は関係ない。大切なものを守るために人は強くなるんだ。
兵士たちの殉職は残念ながらゼロではなかったが、戦争にしては被害は最小限だったと言えると思う。その一端を担ったのが旦那様だと思うと、えっへん、誇らしいぞ。
……と、思うようにしている。旦那様が計画どおり私に七人産ませるために、最大の不安定要素を取り除いただけ、だったりしてなんて思ってないぞ。
うちはただの子爵家だからね。
というわけで、旦那様は未だに終わらない戦後処理で忙しい。
「エリアス、おいで」
旦那様が震えずに坊やを抱っこするのに三ヶ月くらいかかったけど、今では慣れたのか、坊やも泣かずに身を委ねている。
大事なところなのでもう一度言うよ? 坊やが旦那様の抱っこに慣れたのだと思う。イイ子!
旦那様は忙しいけれど、必ず家に帰ってきて私と坊やと……お腹の子を抱き締めてくれる。
計画より早い? そこはまあ、尻ペチン効果と言うか、「私も愛している」と言ってやったぜ効果と言うか、授かりもの……ということで。ははは。
なんで、子どもは七人なのか、旦那様に聞いてみたことがある。
すると、この国の男性の平均寿命は六十五歳。三十五歳で結婚したので、余命は三十年。子どもの成人が十五歳だから、最後の子が成人するまで生きるとして、子をもうけるのは五十歳が限界。それまでに出来るだけ子をもうけるとしたら、二年に一人、七人だったと言った。
いや、産む方のことも考えてほしいのだが。
「年の差はもうどうにも出来ない。順番的に、私は君に看取ってもらうことになるだろう。その時その後、君の側に、母を、女性を大切にする子どもたちと孫たちを出来るだけ増やしておきたかった。……私がいなくなった後も続く君の人生に幸多からんことを願って。この計画は私の遺言でもある」
私の涙腺が壊れたのは言うまでもない。
時は流れて。
僕はしがない歴史研究家である。名前はほとんど知られていない。
研究対象は、とある子爵領の四代前の領主夫妻である。
領主の名はヨナス・ノーディン。妻の名はソフィア。
男性が絶対優位だったこの国において、子爵は妻を唯一としてとても大切にし、人目も憚らず妻を溺愛していたと言われている。
その父に育てられた子どもたちは、人を性別ではなく個人として大切にする人格者として、やがて国の隅々まで知られていった。
また、子爵家は画期的な領地経営でも知られている。今や常識とも言える様々な経営知識のほとんどは子爵家発祥である。
子爵だけではなく、ソフィア夫人も領地経営を行っていたのは、当時は異例のことであった。ソフィア夫人には領地経営に有利な天恵があったとも言われているが、委細は残っておらず、どのような天恵だったのか想像するだけで浪漫がある。
子爵とソフィア夫人は、領地経営に心血を注いだ。
二人は仕事の話に熱中するあまりに寝食を忘れ、子どもたちによく叱られていたという話まである。
ソフィア夫人のこの活動が、現在の女性たちの職域拡大に繋がったのは間違いない。女性の爵位継承も現在では少なくはない。
この子爵夫妻には逸話が多いのだが、少々、いや大分意味不明な記録も多く、それがまた研究者や市井の関心を集めている要素だろう。
長男のエリアス・ノーディンが生まれた時、夫婦喧嘩からか生まれたばかりの赤子を抱いて町を歩くソフィア夫人に、子爵が泣きながら追い縋る姿が領民に目撃されており、そこから子爵に対して『恐妻家』『愛妻家』論争が巻き起こったと言われている。
そして、夫婦円満の秘訣として、子爵領では『生尻ペチン』が文化となったとか。
繋がりが全く意味不明だ。
この『生尻ペチン』については、王都の一部にあるアンダーグラウンドな会が行うものと同じだという説もある。
……この会を創設したのが当時の王と言われているから、全く無関係ではないのだろう。ソフィア夫人と王の愛妾であったエヴァリーンは、生涯の友人であったと言われているのだから。
僕の目下の研究課題は、子爵夫妻の『生尻ペチン』事情と、ソフィア夫人が眠る時に墓石に刻ませたという『計画は計画に過ぎない。八人、私頑張った! 褒めて!』の言葉の真意を解き明かすことである。
二人の子の数が八人だが、そんな単純なことを墓石に刻ませるだろうか? また、計画とは何か、謎ばかりである。
この子爵夫妻については不確定な逸話がつきないが、確かなこともある。
緩やかにこの国が女性を大切にする国になっていく中で、最初のきっかけとなった二人であることは疑いようがない。
二人の子どもたちは、母を死出の旅路へ見送った時、口を揃えて言った。
「これでまた二人で仕事の話をし始めるんだろうな」と。
今も子爵領の墓地にて、一つの墓石の下で眠る二人の仲を疑う者もいない。
読んでくださり、ありがとうございました!
これにてソフィアのお話は完結です。
ほのぼの……クスッとしてもらえたら嬉しいです。
旦那様のモデルは、慎重なシベリアンハスキーです。
人生設計をするシベリアンハスキーです。
コツコツ貯金するシベリアンハスキーです。
外見もブラック&ホワイトで青い目、そのまんまシベリアンハスキーです。
実は髭の人です。口髭とあご髭の『バルボ』っぽい感じです。大人セクシーシベリアンハスキーです。(しつこい)
旦那様の仕事仲間のエヴァリーンは、あの後すぐに王太子のお使いで子爵家にやって来て、ソフィアと意気投合します。仕事をする上で波長が合う人の見分けは二人とも一瞬です。
仲睦まじい子爵夫妻に触発された王太子が、実は初恋のエヴァリーンを囲い込み出しますが、王太子より七歳年上のエヴァリーンは王太子の秋波に一切気が付きません。王太子の正妃はバリバリ職業正妃なので、愛妾を迎えるのは賛成派。寧ろ健気に仕事をするエヴァリーンを好ましく思っているので、王太子と一緒になってエヴァリーンを囲い込みます。
どうなる? エヴァリーン!?
まあ、捕まりましたが。(あっさり)
お話はそれぞれの人生の一部を切り取ったに過ぎませんので、書かれていないところでも、皆きっと楽しく暮らしていることでしょう。( ゜∀゜)
それでは、また別のお話でお会いできますように。
お星様といいねで応援してくださると、とっても嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
【2022.10.18 追記】
日間文芸・SF・その他(異世界転生/転移)の第一位をいただきました!
!!ヽ(゜д゜ヽ)(ノ゜д゜)ノ!!
ありがとうございます!
そしてやっぱり誤字がたくさん……。
すべて確認しております。表現的なものは拙くてもそのままにしているところもあります。
誤字報告をいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
あと、ソフィアは次女なのですが、長女である姉がまったく出て来なかったことに、しばらくして気が付きました……(^_^;)。
ソフィアの姉は一回り歳上で、留学生と恋仲になり、帰国する旦那さんについて行きました。ソフィアの物心がつくかつかないかの頃の話です。お姉さんは、苦労はあっても大事にされて幸せに暮らしています。一度も里帰りしていないので、ソフィアとは季節の手紙だけの仲。
ソフィアの家出先候補の設定でした。
(家出してもヨナスはどこまでも追いかけて行くでしょうが)
追記でしたm(_ _)m。