に 浮気現場に乗り込む
というわけで、平民に変装して夫を尾行している。
悲しいかな、私はドレスを着ていないと貴族感がない。本当にない。
中身が絶対的な平民だからだろうか。永遠の謎であるが、その謎を解く気も別にない。
護衛の騎士と侍女が何とも言えない顔でついて来ている。
侍女は旦那様の乳兄弟だからか「旦那様にそんな甲斐性はありませんよ……」とブツブツ言っている。とても頼りになる三児の母で、孫もいる。
旦那様のことをヘタレと呼んで憚らない付き合いの長いお姉様だからか、旦那様の浮気には懐疑的なようだ。
でも、現に今、目の前で私の見知らぬ女性と一緒にそういう宿に二人で入って行ったからね?
今夕方前だから、夕食までには帰る『ご休憩』かもしれないし、急な仕事が入ったと言って館に帰ってこない『お泊まり』コースかもしれないし。
はい、浮気確定。
尻叩き確定DEATH!!
受付に金を握らせて、今入っていった二人の部屋を聞き出し、合鍵も借りる。
金の力、えげつないな。
私の「男の方は夫です」も効いたとみられる。
……初めてこの宿を使ったわけじゃないもんね? お腹の大きい妻を名乗る女性が、見るからに騎士のお供と来るなんて、異常事態だもんね?
一人で部屋に向かおうとする私に、護衛がかなりの難色を示したが、生尻をペチンペチンされる旦那様の姿を騎士に見せるわけにはいかないよ。私、弁えてるう。
滅多に発動しない女主人命令を発動して、階段下で二人を待たせることにした。
宿は二階建てで、護衛に持たされた笛を吹けばすぐに異変は伝わるし、浮気を現認し、状況に何か危険があれば潔く撤退する。
妻にバレたことが旦那様に分かればそれで良いのだ。尻ペチンは後でも良い。
いざ。
普通に鍵を回してノックをせずに扉を開けた。
扉の向こうはシンプルな目的どおり、寝台があるだけの部屋。
寝台の上にはうつ伏せの全裸女性、寝台の脇には夫が立っていた。
……脱がすの早いなぁ。さっきの今だよ?
なんて頓珍漢なことを思っていたら、風のようにやって来た無表情の旦那様に扉をバタンと閉められた。
あ、拒絶された。
私は別れるつもりはなく、悪い子にお仕置きをしたら、それでこの件は終わりにしようと思っていたのに。
私は浮気されるのに耐性がある。
……傷つかないわけではないよ? 話し合っても許せないなら別れるしかないじゃん。一日二十四時間しかないのに、十五時間仕事してりゃ会う時間ないもん。寂しがらせてしまったのはこちらにも非があるし、お互い歩み寄れなきゃ、終わるだけ。
最短は一週間くらいだったなあ。必殺「俺と仕事、どっちが大事なんだ?」攻撃を繰り出されたら、「仕事だよ」って答えざるを得ないし。まあ、終わるわな、うん。そりゃ、私に見切りをつけて次探すわ。
でも、旦那様はきっと私が仕事をとっても、当たり前過ぎて疑問にも思わないだろう。
そもそも自分と仕事を天秤にかけすらしないだろう。
だから終わると思っていなかったし、終わらせるつもりもなかった。
人の目に付く迂闊さを改めてもらえたらそれで良かった。
誰に知られても、私に知られても良いというのは、蔑ろにしているのと同じこと。そこを尻ペチンして分かってもらえたら良かった。
けれど目の前の現実は、言い訳も別れの言葉もなく、終わった。
私たちは終わってしまった。
扉の前に立ち尽くし、元夫はどんな気持ちで赤子を迎える準備をしていたんだろうか? と、ふと思った。
町に出ては、まだ腹も膨らんでいない頃からおもちゃを買い、日当たりの良い静かな部屋を整え、毎日お腹に話しかけていた元夫。
最近では、はち切れそうな私のお腹を撫で、赤子が『もにゅん』と足や手を突っ張っているのが分かると、破顔していた元夫。
その心の内は、一体どんなだったんだろうか。
目の前の扉は閉ざされたまま。
ええ……? 私に見つかったのに続けるんかあ。
……ああ、そうだね。妻に見られたからといっても、痛くも痒くもないんだもんね、この国の男は。
深い深い深ーいため息をついた私には、二つの道がある。
子爵家に戻る。
実家に戻る。
不誠実な普通の夫を受け入れ、子の父と母という関係だけで繋がり、子爵夫人として生きるか。
でもそれは、妻として女性としては終わりを迎える覚悟が必要だ。
女性として愛されることは別に望んでいなかったけど、蔑ろにされるのとは別問題。
それに、今後も領地経営にも携わらせてもらえるかどうか。……今の感触じゃ無理だろうなぁ。
ましてや、愛人に子が生まれたら、離婚されてこの子を子爵家に残して私だけが出て行かねばならない未来が、とても容易に想像出来てしまう。
自分が出て行った家で、先妻の子の境遇は、決して良いものとはならないだろう。
かといって、子を連れて離婚したところで、実家(次世代)と価値観が違い過ぎる私としては、この道の未来も暗い。むしろ暗黒だ。
このまま実家に出戻ったところで、生まれてくる子は子爵家に差し出され、私は一番高く買い取ってくれる人へ再出荷されるだけ。将来父が亡くなれば尚更だろう。
どちらの道も、私とこの子は離される。そして二人とも幸せになれるとは思えない。
今までが奇跡だったのかな。
失ってから価値に気が付くなんて、お決まりだわね。
熱く滾る想いはなくとも、気持ちは穏やかで、降りかかる仕事をちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。楽しく充実した日々だったなぁ。
ああ、六個繋がったちぎりパンのクリームの方が食べたい。無性に食べたい。ここにきて食べ悪阻が燃え上がっている。
あれ? おやつパンだっけ? 子どもの頃、あんこ×クリーム派とチョコ×クリーム派で、しょうもない論争してたっけなぁ。
食べたい食べたい食べたい……待て、混乱した時ほど落ち着け。この国にちぎりパンはないし。
思考が逸れている。待て待て、だめだ。
息を大きく吸い、細く長く吐く。三回繰り返すと少し落ち着いてきた。
優先順位を間違えるな。
選択肢を見誤るな。
線はどこだ。
我が社としてこれ以上は引けない線はどこだ?
ここは最前線だ。
冷静に判断しなければ取り返しのつかない損害を出してしまうかもしれない。
どこまでも社畜な思考回路に苦笑いした時、ふと、上って来た階段と反対側にも階段があるのが見えた。
私の守るべき線は……。
無意識に両手をお腹に添えていた。
お腹の子と一緒にいたい。
よし、とりあえず撤退だ。
無理矢理捻り出した第三の選択肢に私は飛び付いた。