第268話 怨念
―すずしろ町より北の地ー
しんしんと舞い降りる細雪。
そこには家屋が二十程度の小規模な集落。その中でも、特に貧相な佇まいをするとある住家の中。土間と居間があるだけの極めて簡素な作りで、少なくとも裕福とは言えないだろう。
そこで幼き日のコジロウが、藁を大量に抱えながら寒さを凌いでいる。
「寒いよう……」
内部から外が少し見えてしまうほどの穴があるなど、隙間風が絶え間なく吹くこの家屋に保温という能力は期待出来ない。しかし、身内は一体どうしたのか。
「……」
コジロウ、そっと居間のある部分に目をやる。
そこには一人の女性と思わしき人物が横たわっている。もっとも、ひどい寒さであるにも関わらず、薄汚れた白の薄い経衣のような服を着ているだけ。
「お母さん……もう何日も寝てるし……どうしよう……おなか空いたよう……」
何日も寝ている……幼い子どもには分からないのだろう。
手に持った藁をかじり、とりあえず飢えを凌ぐ。もっともこのままでは時間の問題だろうが。
その後は雪をかきわけて草を探し、時に土間の土を食べ飢えを凌ぐ。
母の死に気付いたのは、様子を見に来た隣人の反応を見たまもなくであった。
住家に残された子ども。
彼の住家から、最も近隣の住民数名は悩む。
―コジロウ君、どうするんだ?―
―ウチは無理よ。子ども二人抱えてもう一人は、ねぇ……?―
―あたしの所だって厳しいのよ―
―かと言って、放っておいて死なれでもしたら他の連中に何て言われるか……―
―じゃあその人らに任せればいいじゃない!―
―忍だったらねぇ……引き取り甲斐もあるんだけど……―
「……」
自身の住家の傍らで、がやがやと話す数名の隣人。
それをコジロウは中で黙って聞いている。なおこの会話から分かるとおり、彼もまた属性を持たない一般の出。
その後ようやく話が付いたのか、近い隣人の中でも特に隣接している住家に転がり込むことになった彼。その後の扱いはひどいものであった。
―おいコジロウ! 俺の水忍術の的になれよ!―
―お前、なんで俺と同じメシ食ってんだよ! 残飯で十分だろ!―
ー親なしコジロー! 親なしコジロー!―
特に、その子どもたちからのいじめがひどかった。
両親も教育に悪いと考えたのか、時折諌めることもあったのだが……所詮は他人の子。それほど強く叱りつけることも無かった為、いじめの内容は苛烈さを増していく。
そして春が訪れる。
コジロウは、外へ出ることが苦痛にならない時期になるや否や、自然とその住家を飛び出していた。
まだ知らなかった外の世界。妖怪が蔓延っていることもさほど知らず、無知な少年は目的もなくアテもなく歩く。道中は草を食べ、虫を食べ、口に入るものは何でも入れた。時に毒草を口にすることもあり、その際は数日その場に横たわっていたようだ。
これも、東国でもかなり東側であったことが幸いしたと言えるだろう。妖怪に取って喰われることもなかったのだから。
その後数日……いや、数十日掛けて歩き続ける。運よく真っ直ぐ南へ歩けていたのか、七つ町を繋ぐ街道に合流。そこで集落以外の人間と邂逅。見慣れない服装を着るものも多く、彼には目新しかったと言えるだろう。
「……」
羨ましかった。
生きるだけで必死な彼からすれば、良い服を来て笑顔で街道を歩くというだけで羨望の対象となった。
だからこっそりと付いて行く。
やがて辿り着いたのはごぎょう町。そこの路地に潜みつつ、残飯を漁りとりあえず生を繋ぐ。だが幸せだった。藁よりも土よりも、裏に捨ててある残飯の方が旨かった。
親を亡くし、浮浪児となった子ども……傍から見れば不幸な境遇だろう。しかし彼にとってこの時期というのは、これまでの人生の中で最も安定していたのである。
それから数年。思春期辺りの年齢となったコジロウ。
浮浪児ではあるものの生活が安定してたことにより、周囲の情報にようやく耳を傾けることが出来た。
噂によると、ごぎょう神社が力を付けているとのこと。
噂によると、一揆と一触即発の状態になっているとのこと。
それらを耳にした彼だが、何処吹く風……
(属性のない俺にゃ関係ねー話だぜ……いいよな……力を持ってるヤツは……)
ごぎょう神社に対する最初の所感はたったこれだけ。それ以上、何を思うこともなく日々が過ぎていった。
だが次第に捻じ曲がる。何故世の中は力のある者とない者で分けられてしまっているのか、と。
ふつふつと、怨念のような気持ちが湧き上がる。
何故忍だけが特別なのか。
そうでない者は幸せになれないのか。
自分に生きてる意味はあるのか。
所詮雑多の一人でしかないのか。
だからこそ、『力があれば何だって出来る』という結論に至るのである。
それから程なくしてごぎょう敗北の一報。その時は、力同士の戦いに敗れてしまった程度にしか思わなかったコジロウ。
だが後に、ごぎょうが少しずつ再興している事実に気付く。
一揆も最後まで気付かなかったこの事情だが、彼自身伊達にアウトローな世界で生きていた訳じゃない。それなりの裏の情報網を持っていたのだ。
そこで知った『悪魔の力』。
最初は半信半疑……いや、まるで信じていなかった。
だが、生きていることにすら虚無を感じている彼だからこそ、『騙されてもいいから』という気持ちがあったのだろう。だからスザクに会おうという決意を持ったのだ。そもそも彼には捨てるものがない。
「あ、あんたが……スザク……?」
「ああ」
コジロウは震えた。目前に居るのは悪そのもの。それが直感で分かる。
そしてスザクは、今最も彼が欲しい言葉を投げ掛ける。
「……苦労したな。何も手に入れられなかった、何者にもなれなかった貴様は、これより歴史に名を刻み何もかもを手に入れられるようになるだろう」
「あ、ああ……」
「世は……力が全てだ。それを思い知らせてやれ。かつて貴様を塵芥として扱った者、そして力を持ち、財を成し、名誉を得、幸せを存分に堪能する忍共にな……」
初めて一人の人間を心から敬った。
これまでただ生きることだけを目的に生きてきた彼。その平坦な心に、スザクの言葉はあまりに衝撃的、魅力的だったのである。
これがコジロウの分岐点……
※※※
恨みを込めたような眼差しで、ユヅキを見つめるコジロウ。
「分かる訳ねーじゃん? お前みたいにさぁ……恵まれた人生送ってるヤツにさぁ……」
両腕だけを漆黒に染め上げ、少しだけふらふらとしているような動作。
そして今度は眼を見開き、その赤が強調される。
なおコジロウ、これまで気を纏わせた手裏剣でしか攻撃をしていない。イサミのように、悪魔の力を以ってしても忍術は身に付けられなかったか。それとも……?
「母親の死体の前で食う藁の味って知ってるか?」
「……? 何を言ってる……の?」
彼の境遇を知らないユヅキ。唐突な投げ掛けに応じれない。
「俺がそうしている中、お前はあったけえ家で親兄妹とぬくぬくしてたんだろーよ。いや、ただの幸せじゃねえ……英雄付きのこれでもかっていう幸せだ……ああ……そう、そうなんだよ……」
少年のような面差しから青年のものへ。そして、青年から今度は醜悪な……そう、まるで本物の悪魔のような顔へと変貌していく。顔に黒はなく、そもそも変貌の対象ではない筈なのに。
「こういう連中を……ぶっ殺す為に俺は生まれたんだな……そうだ。そうにちげぇねぇ」
「君……?」
「俺ってめっちゃ不幸だよな……なんで同じ人間でこんなに……違いがあるんだよ。なんで俺だけ藁食ってなきゃならねーんだよ……なんで俺だけ一人なんだよ……なんで……なんで……」
既にユヅキに問い掛けていることを止めている。自分に言っているのか、それともただ口からまろび出ただけなのか……怨念渦巻く呪詛のように言葉を並べ続けるコジロウ。
だが、そのどす黒い面差しに覗かせる怪しい輝き……彼は、彼なりの希望を掴んでいるのである。
「でもさ……これからはすげー人生が待ってんだ……どいつもこいつも俺にひれ伏して……でっかい家に住んでさ……いや、もう金なんていらねー。何でも力ずくで奪えば、やらせりゃいーんだ……美味いものも食い放題だ。女も抱き放題だ……へへ、へへへへへ……」
上の空、というのが適切か。今や恐ろしげな目線を空に置き、うわ言のように自身の野望を口にする。
それを聞いていたスザク。口角を大きく吊り上げる。
「そうだコジロウ。貴様のこれまでの人生は、自身の殻を破る今日という日までの布石に過ぎなかったのだ。貴様はまだ若い……これからの人生の方が遥かに長いだろう。今勝利を掴み取れば、日々些細な幸せを享受する塵芥共よりも遥かに勝利者となる……やってみせろ」
その瞬間、ギラリとコジロウの瞳が輝く。
悪魔の囁きに心を躍らせる彼。その先にあるものが破滅だとしても、きっと彼は突き進もうとする。自分の願う幸せの為に――――――――