記憶の島
今日は話題のテーマパークにやってきた。一人で、だ。一人でテーマパークというとさみしい人間に聞こえるかもしれないが、私自身はそうは思っていない。恋人や友人とわいわい楽しむのも、一人で楽しむのも、それぞれ立派なテーマパークの楽しみ方だと思っている。それに、周りを見ても私のような若い男性が多く、彼らの様子を見る限り誰かを連れてきているわけでもないようだ。彼らもまた一人でここに訪れているらしい。このテーマパークはそういう性格のものであるようだ。あるいは、一人が好きな私のように、彼らが「そういう性格」であるからかもしれないが。もちろん、全体では家族連れや大人数のグループのほうが多いようだが、だからといって私は肩身が狭いなどとは思っていない。楽しんだもの勝ちだ。テーマパークというのはそういうものだろう。まあ、今日ここに来た要件が違えば、私も一人で来ようと思ったかどうかわからないのだが。
ここは、疑似的に時間遡行を体験できるテーマパークだ。十年前、二十年前、三十年前、など、年代ごとにブースが分かれている。一つ一つのブースはドーム球場ほどある。それがいくつもあるのだから、テーマパーク全体では広大な土地になる。まだまだ拡張を予定しているといい、将来的にはさらに大きな「過去」を創りだすつもりであるという話も聞いたことがある。テーマパークの特徴と、ドームの形に合わせてこれらの施設を「記憶の島」と呼ぶ人もいるが、私はあまり好きではない。このテーマパークの最終的な広さがどれくらいになるかはさておき、このテーマパークは大きな利益を生み出している。
ところで、時間遡行は不可能だ。いまの時代、それが人々の共通認識である。もはやタイムトラベルは本当の夢になってしまった。その事実は世の中に浸透している。数十年前、過去への遡行が不可能であることが多くの科学者の努力により理論的に示された。そのことはマスコミでも大きく取り上げられ、非常に大きな話題となった。そもそもなぜタイムトラベルに関する研究が盛んになったのかといえば、ロボットが世の中に浸透したことがひとつの理由としてあげられる。
数十年前にはすでに感情認識が可能なロボットが世の中に出回っていた。それは効果で希少なものであったが、それでも世の中で話題になるには十分だった。いくらか昔には、簡単な知能を備えたロボットが一般家庭でも比較的廉価で手に入るようになった。人気のあるロボットの一つが、おしゃべりロボットである。ごく少ない種類の返答しかできなかったおもちゃとは違い、人間と遜色ない返答ができるおしゃべりロボットは開発者の予想をはるかに超えた人気を博した。一つのロボットでどんな機能でも備えさせることは難しかったが、一つの機能に特化したものならかなりの精度で作ることができたのだ。現代においても、まだシンギュラリティへの到達はなされていないが、人工知能の研究は盛んにおこなわれておりそれも時間の問題であるといわれている。今は完全なものは難しいとはいえ、そうした身近なロボットの出現はその時代の人々にSFの世界を彷彿とさせた。フィクションの世界の実現が可能になったのだと人々は実感した。そして、ロボットの次には何が来るだろうかと考えた。多くの声が上がったのが、SFのテーマとして多くの作品に取り上げられるタイムトラベル。人々はその実現を期待した。時代のそういう流れの中で、タイムトラベルの実現という荒唐無稽にみえたものが科学的に研究されることが増えてきたのだ。しかし科学の発展にしたがって、タイムトラベルの難しさが示されることが増えた。それまで理論的な裏付けはないが本当だと思われていた事柄が理論的に証明され始めたのだ。そしてその事柄はタイムトラベルの可能性を否定するものばかりだった。そういった研究の積み重ねの結果、タイムトラベルの不可能性はひとつの理論として確立されたのだ。これは科学が出した一つの大きな答えだった。しかしその答えはあまりにも夢のないものであったのだ。ちょうど永久機関の歴史のように、研究を進めれば進めるほどその実現が困難でありついには完全に不可能であることがわかってしまったわけだった。細かいことを言えば、理論は過去への遡行が不可能であることを言っており、未来へのタイムトラベルの可能性は残されていた。しかし戻って来られない旅行をしたいと思う人はごくごく少数であった。こういうわけで、人々が実現可能性という文脈でタイムトラベルのことを話題にすることはだんだんと少なくなっていった。
今の時代、完全なタイムトラベルを真面目に考える人は居ないと言ってもいいだろう。しかし時間旅行への夢を現代人が忘れてしまったのは実は消極的な理由からではない。正確に言えば、時間旅行そのものはもう諦めなければならないが、それの疑似体験を目指したのである。確かに過去へと戻るタイムトラベルは不可能であると結論づけられたが、無理だとわかってしまえば開き直ることができる。人間の時間遡行不可能性が確立された後は、どうにかそれに近づこうとする研究をするものが現れた。物理学の発展に寄与したいという思いからよりは、単純な好奇心からその研究を行う者が多かった。タイムトラベルはできないが、過去の記憶に飛び込むことはできないか、過去の世界を現代に作り出してしまえないか、と考える者が現れた。過去の記憶を集め、それを視覚化することで人々の記憶の中の過去を、その過去を知らない人が体験することができないか、と考えたのである。当然ながら、体験できる過去は人々の記憶がある範囲に限られる。だとしても、過去の再体験は魅力的に思えた。夢の技術の実現に向けて、人々の記憶を映像化する研究が大いに行われた。目覚ましい発展を見せていた仮想現実の技術や、数十年前から盛んにおこなわれている生命科学、特に脳についての研究成果が用いられ、実用化に向けて世界中で様々な試みが行われた。その結果、ついに過去の記憶を映像化する技術が確立された。人々の記憶をデータベース化し、そこから「過去の世界」を仮想現実として作り出すことに成功したのである。
この技術は一般家庭で簡単に利用できるようなものではまだないが、いまはこれを利用して過去を再体験できるテーマパークが世界中のあちこちで作られ、少しお金を払えばだれでも疑似タイムトラベルができるようになった。長年の人類の夢を、想像していた形とは違えども達成したことになる。当然人々は施設に詰めかけ、どこも大いににぎわった。
しかしながら人々の記憶は完全ではない。その記憶から作り出した過去はどこかおかしなものになっていた。作り出された過去はさまざまな記憶から構成されたものであるが、その時代には存在しなかったものが「過去の映像」には存在してしまっていることもあった。そこで過去の文献などからその時代について整合性のとれるデータを集め、それを映像に反映することで「過去の世界」をより正確に再現しようとしたのである。そうやってそれらのテーマパークは洗練され、人々が過去を模した仮想現実に違和感を覚えることも減っていった。
私はそんなテーマパークの一つに来ているわけである。ちなみに、テーマパークの経営は一つの会社が世界各国に展開しているわけではない。元の技術を開発した企業が各国に進んでこの技術を売り込んだ結果、もともとその国にあった企業が技術を買ってテーマパークを展開している。正直な話、現代においてこのテーマパークはドル箱といって差し支えない。それほどに大きな経済効果を出している。技術の開発当初は採算性などに疑問がありそれほど多く企業の手は上がらなかった。逆に、その時期にテーマパーク展開という決断をした企業は今でも多大なる利益を上げその国の一大企業と呼べるものになっている。もともとは娯楽向けから始まった技術だったが、国の経済に大きく影響を与えるものになった。広大な土地ということで都心からはやや離れているが、昨年開通したリニアモーターカーが都心のターミナルからテーマパークの最寄り駅まで通っており、二十分もせずに訪れることができる。リニアモーターカーも、数十年前まで夢の技術であったが今新規に敷設される路線はほぼリニアモーターカーを使っている。距離にすれば首都からかなり遠いこの場所もあっという間に来られるようになったのも、技術の進歩のおかげというわけだ。
そして、リニアモーターカーよりも技術の進歩を実感できるのが、このテーマパークである。過去の記憶を仮想現実として映し出し、それを体験する。仮想現実の技術は非常に進歩し、大きなヘッドマウントディスプレイを使わずとも、専用のメガネで仮想現実が見られるようになっている。まあ、こちらはVRの技術自体というよりも、器具の進化になるかもしれないのだが。とにかく、このテーマパークを楽しみたい。そう思う。
私が来ているパークは、「私が普段生きている時代」の「三十年前」の光景を映したパークである。そして、ここには新しい技術が入っている。「三十年前」に「新しい技術」というのも変だが、事実なのだから仕方ない。その技術とは、人工知能である。シンギュラリティへの到達こそしていないものの、その技術はかなり進んだものである。今までパークにあったのはただの映像であったが、これからは人工知能をパーク内に入れるという。それは単にパーク内に案内役や風景としての人間を置くためだけでなく、ある実験のためでもある。その実験とは、過去に置かれた人工知能がどのように学習するかを調べる実験である。「過去」で育った知能は今まで人類が育ってきたように育つのか。それを調べようとしているのである。正直なところ、「どのように育ったか」を何をもって定義するか、など私にはわからないことがたくさんあるが、とにかく研究者にとっては有意義な実験なのかもしれない。それに、その知能が「過去に育った本物の人間」のように育つなら、このパークに「過去に育った人間」を再現することができるようになるかもしれない。きっとそういう意味もあっての実験なのだろう。
タイムマシンを模した乗り物に乗り、パーク内に入ると、私の記憶にはない光景が、実感として現れてきた。もちろん、記憶にはないというのは、私の生きてきた中での記憶だ。このパークの時代には、まだ私は生まれていない。しかし、このパークがあるから、この時代の記憶を今の私は持っているのである。乗り物から降り、道を歩き出す。私はこのパークに何度も何度も来ているが、この時代は美しい。パンフレットが言うところの「レトロ」な街並みが広がり、私が生で見たような光景はそこにはない。パークの時間設定は現実の世界と同じにしてあり、今はまだ昼過ぎであるからまだ点いていないが街の明かりの様子も今とは違う。このような時代に、本当に人間が暮らしていたのだな、と思うと感慨深いものもある。
パーク内はその時代の一般的な街並みを再現したスペースが基盤となり、そこにはその時代を象徴する建物が並んでいる。何かの特別展でもない限り、その町並みはどこかをそっくりそのまま真似たものにはなっていないが、できる限りその時代を表したような街並みになっている。また、建物内には流行りものを並べて体験できるスペースなどがある。このスペースでも、現代の自分が過去を体験するのではなく本当にその時代を生きているような感覚で楽しめることを大切にしているらしい。パーク内の人はまだ生身の人間がやっているが、さっき言った通り人工知能に取って代わられる時が来るかもしれない。私はしばらく街並みを歩き、そして、今回の目玉である人工知能に出会った。それが一目で人工知能とわかるのは、それが人間の形ではないからである。人に近い外見のロボットはすでに開発されているが、まだここには導入されていないし、導入することもできないのであろう。その人工知能にこんにちはとあいさつをすると、こんにちはと返した。一通りの会話をしてみたが、なかなかよくできている。改めて、技術の進歩に驚かされる。
「三十年前」をひとしきり楽しんだ後、テーマパーク内のお土産やに立ち寄った。あまりむやみに買い物はできないが、たまにはいいだろう。私の生まれる「三十年前」に流行った品々を売るスペースをぶらっとしたが、目新しいものはなかった。「三十年前」に目新しいというのも、やはり変だな、とふと思った。でもせっかくだからとその時代に流行ったキャラクターの置物を買った。
そうしてから私は帰路についた。テーマパークを出てすぐにある駅から首都に戻る。今はまだ日が沈む前で、夕食には早い。仕事場に先に寄ってしまおうと考えた。オフィスの前には、いつも通り厳重な装備をした警備員がいた。警備員というよりは、もはや兵士のような装備をしているが、みんな警備員と呼ぶから彼らは警備員であるというほかないだろう。荷物や身体のチェックと身分証明を済ませてオフィス内に入った。そこで報告書を書かねばならない。しかし報告書の内容はといえば、形式的な文章と「問題なし」という意味の文言だけ。いつも「問題なし」だけではつまらないから最近はいろいろ言葉を変えている。上司にそれを提出し、本当の帰路につこうとしたが、廊下で別の上司に出会った。軽く会釈すると珍しく相手のほうから話しかけてきた。
「今日見た人工知能、どうだったかね。」
「問題ないですね。あれなら疑問もありません。。」
「そうか。報告書にも、そう書いたのだな。」
「ええ。」
「そうか。」
そういって上司は再び歩き出したが、もう一度立ち止まった。
「我々のしていることのおぞましさは、忘れるようにしてきたがやはり最近は思い出すことが増えたな。嫌でも思い出さなければならないのだがね。」
上司は私の顔を見ずにそう言うと立ち去ってしまった。
テーマパークの人工知能は完璧だった。今の正しい年代から言うと、あれは「六十年前」の人工知能のはずだが、その「三十年」なら娯楽用の人工知能はあまり進歩していない。あれくらいで問題はない。だから報告書にもそう書いた。
私の仕事は時代の整合性を取る仕事だ。テーマパークの各時代が、本当のその時代をできるだけ正確に再現できているかを確認する。今のところ私の担当する時代は大きな問題を起こしていない。私の担当は今の「正しい年代」から「六十年前」の光景だ。最初はただの仕事だったがだんだんあの時代が好きになってきていた。「六十年前」といえば、三十代の私にはまったくわからない。私が入った「六十年前」は、ちょうど娯楽用人工知能が世間に出回ったころだ。出回ったはいいが、それほど売れず、それゆえあまり進歩もしなかった。研究用ではたくさんの成果が上がっていたが、娯楽用は後回しにしていた。だから「三十年」たってもたいして変わっていない、といえるのだ。タイムマシンが非現実的だと分かったころ、次の人類の夢として人工知能が盛んに研究され、そのころになってようやく娯楽用にも日が当たり始めたのである。昔の人工知能を再現するのも大変だろうが、そこはテーマパークの力である。本来なら、ある程度の知識があればあの人工知能が「六十年前」レベルかどうか調べるのは私でなくてもできる仕事だとは思うが、やはり普段「三十年前」に住んでいる分わかりやすいと思われたのだろう。
テーマパーク内の人間は、本当にその時代を生きた人間である。
このことを知っているのは一体どれくらいの数の人なのだろか。それは分からない。この国の外の島に、「数十年前」を再現した島がいくつかある。そこにはそこを「数十年前」と認識していない人々がいくらか住んでいる。その人たちは適当な年齢になったとき、テーマパークの従業員として本国に戻ってくる。彼らは「数十年前」を完璧に模倣した人間なのだ。どうやってそのことを納得させているのか。どうやって本当の現代を知らせずにテーマパークに連れてくるのか。正直なところ、その辺の事情は分からない。さっき話した上司は知っていたようだったが。
そして私は、いくつかの「過去の島」のうち「三十年前」の島に住んでいる。私はこの島の学校で優秀な成績を収めたことで、本国と島、それとテーマパークの実際の姿を知らされ、テーマパークで働いている。
テーマパークは大きくなりすぎた。ドル箱となったテーマパークは国にも匹敵する力を得ているのだ。きっと救いがあるとすれば、人工知能が完璧になれば、それらの知能が今の「島民」の代わりになってくれるだろう。それらの知能が過去の住民となり、テーマパークの従業員となればよいのだ。いつからこんな歪んだことをしているのか、私にもわからない。それどころか、私が本当に現代を生きているのかすらわからない。実を言えば、そんな状況だった。さっきの上司も、人工知能が進歩してきたことで今の状況が変わるかもしれない。だから「最近は思い出すことが増えた」といっていたのだろう。それにしても、人工知能が「島民」の代わりになっても、今の「島民」はどうなるのだろうか。そういうことを考えてしまうと、やはりこの件についてはあまり考えたくなくなるのだ。
私はテーマパークが管理する船で家がある島に戻った。普段島からの船はダミーの「本国」までにしか出ていない。この船はほとんど私のためだけに本国と島をつなぐ船なので、いくら明るい時間に戻ると島民に怪しまれる。だから夜になってから動き出す。船の中で、ふとテーマパークで買った昔の流行りもののことを思い出した。実は、島に戻ればテーマパークで買ったよりもずいぶん安い値段で買うことができる。しかし、私はそれをあの場所で買った。それはなんとなくだった。強いて言えば、今自分が置かれた歪んだ状況へのささやかな反抗だったのかもしれないが、それが反抗になっているかどうかは分からなかった。船は大きなモーター音を立てていた。この音が島に怪しまれないのか、と思うこともあったがきっと大丈夫なのだろう。島が見えてきて、そんなことを思った。