ネット小説のススメ(副題:京アニ事件を回顧して)
本稿執筆中の令和2年6月現在、京アニ事件の真相はいまだ闇に包まれている。たかが公募小説ぐらいでなぜ犯人はガソリンをまくという凶行にまで及んだのか。世間の人から見ればおよそ理解できない不可解な事件。かつて公募小説への投稿を繰り返していた筆者が、この事件の真相を推論してみた。
1.厳しすぎる公募小説の応募要項
以下は一般的な公募小説の応募要項である。
(1)長編の場合、原稿用紙300枚~500枚。
(2)二重投稿禁止。つまり他の公募小説へのダブル投稿はできない。
(3)応募者の略歴(氏名、年齢、学歴、職歴、受賞歴など)
(4)選考過程については一切非公開、問い合わせにも応じない。
(5)応募原稿は返却しない。
と書いても、公募小説に応募した経験のない人にはどれほど大変か想像もできないであろうから、少し説明を加えよう。まず原稿用紙500枚を書くには、通常半年から1年を要する。それもただダラダラ長ければいいというものではなく、物語として完結しており、人物設定から物語設定まである程度の脈略が求められる。文章の巧拙はその次の段階の話である。
そしてようやく書き上げて応募したとしても、選考結果が判明するまで通常半年程度を要する。しかも公募は年1回が普通だから、最短でも小説を書き始めてから結果が出るまで2年程度はかかると思った方がいい。二重投稿禁止であるから、マジメな人は一つの出版社の選考が終わってボツになってから別の出版社の公募に応募するということになる。つまり、「公募小説」への投稿には、恐ろしく長い時間と労力が求められる。
2.不明瞭な選考基準
次に、応募者泣かせなのが、選考基準がよく分からないという点と、選考の進捗状況の問い合わせには一切応じないというところである。つまり完全なブラックボックスの中で選考が行われていて、そもそも自分の応募作品が読まれているのかどうか、そしてその評価はどの程度だったのかさえ分からないのである。そして、忘れかけたころに「残念ながら…」という落選通知が送られてきて、初めてダメだったことを知ることになる。もちろん寸評も付いていないので、僅差で落ちたのか、箸棒にもかからないレベルだったのかも分からない。
ただ、多くの公募小説では、一次審査、二次審査、最終選考と3段階くらいにわけて選考が行われていて、まず一次審査は「形式」「略歴」「梗概」である程度ふるい分けされ、本文はまず読まれていないという点である。原稿用紙500枚で応募が300点あった場合、総枚数は15万枚、これをわずか数名程度の選考担当者が読むわけだから、いくら時間があっても足りない。形式すら整っていない小説は、その段階ではじかれる。
一次審査を通過して二次審査に進んだとしても、たまたま自分の応募作品を読んだ審査担当者と波長が合わなければボツになる。二次審査レベルでは、そもそも作品の良し悪しすらよくわからない若手担当者が読む上に、ダブルで査読してくれるところは少ない。結局、幸運に恵まれた作品だけが最終選考に進むということになる。選考過程に対する問い合わせには一切応じないわけだから、何をされていても全く分からない。完全なブラックボックスである。これでは応募者が不信感を募らせても仕方がない。
3.良い作品と売れる作品は違う
出版社も営利企業である以上、当然選考過程の中で「売れる作品」を選ぶ傾向が強くなる。最近は出版不況のせいでますますこの傾向が強くなっている。例えば、極端な例を示せば、全く同じ作品でも50代のオッサンが書いたものと20代の女子大生が書いたものでは、どちらに話題性があるかと聞かれると、自ずと答えは決まってくる。選考はすでに「略歴」を読む段階から始まっているのである。
まれに最終選考まで進んで、慌てて応募者側から辞退する事例があるが、これは「経歴詐称」か「二重投稿」あるいは「盗作」、いずれかの可能性が高い。
また、最近では名文と言われるような文学性の高い作品は忌避され、若者受けするようなラノベやファンタンジー系が有利になる。また、過激な描写の作品や軽いノリの作品が好まれる。「小説家になろうサイト」でもランキング上位に来るのは、そうした作品である。
4.電子書籍が世界を変えた
電子書籍の販売が始まって数年が過ぎようとしている。当初はあまり普及しないだろうと思われていた電子書籍だが、今ではそれを抜きに出版を語れない時代になった。まだ書店に本を買いに行っている「紙の本」派の人に言わせると、紙の本のすばらしさはそれを手に取った人にしか分からないという。でも、これは本の流通業界のことを知らない人の言葉である。
本の取次業者や書店の裏方に行ってみるとその凄まじさがよくわかる。取次業者の倉庫に山と積まれた本の在庫、それが毎日大型トラックに積み込まれ全国に配送されていく。それを受ける本屋の方では毎日何十箱と搬入される段ボール箱を開けては本棚に並べていく。そうやって苦労して店頭に並べた本も約4割が返品されてゆく。返品された本は取次業者の倉庫から最後は出版社に戻され溶解処分となる。それは、「本」なんていう感傷的なモノではない。紙の山である。
そもそも書籍の価値は、そこに書かれた情報にある。その情報を伝えるためだけに、これだけの無駄と労力をかけているのである。
さらに電子書籍の普及の可能性を示唆するもう一つの現象が進行中である。それは情報の回転速度が速くなっていることである。「小説家になろう」でも、ブログやツイッタ―で「あの小説が面白かった」とつぶやかれるとたちまちアクセス件数が増える。しかし、そのブームはわずか2~3日で消えてしまう。ネット小説を読む人は、もはや小説を物語としてではなく、SNSへの投稿を読む感覚で読んでいるのである。
本好きの人から見れば、言語道断の話かもしれないが、何年も時間をかけて執筆、推敲し、出版して、さらに重版してベストセラーになってゆくなんて話は、もう過去のものになったのである。
5.職業作家が消える
また電子書籍の隆盛は、職業作家たちに脅威を与えつつある。これまでの時代は、本を出版するといえばごく一部の幸運に恵まれた職業作家たちだけの特権であった。出版社も、いろいろな文学賞を企画してはいるが、先に述べた通り、その中で実際に文字になって、世の人の目に触れるモノはごく一部、他のほとんどはボツとなって消えていっている。その結果、さして面白くもない小説が書店の店頭に並び、読者は出版社や書店が奨めるごく一部の作品しか手に取ることができなかった。
これに対し、「ネット小説」の世界は、名もなきアマチュア作家に自作発表の機会を与え、そして読む方にもそれらを無償で提供するという仕組みを作った。これはある意味、ユーチューブに似ている。全く無名のユーチューバーが投稿する動画に何百万回ものアクセスがあったりするのと同様である。
こう書くと、じゃあ、お前の小説は読むに値するほど面白いのかという批判がありそうだが、筆者は自作を発表することで一銭も著作権料はもらっていない。だから面白くなければ、途中で読むのをやめてもらっても一向に構わないし、別に読まれないから困るということもない。自由気ままに書いて、自由気ままに読んでいただく、ただそれだけのことである。
それではあまりに寂しい、それは文学に対する冒涜だという批判が聞こえてきそうだが、そもそも大衆文学とは何かということである。「三ツ星レストランよりは屋台のラーメン」「1本10万円のドンペリより無名のワイン」「ルイビトンよりは手作りのバッグ」というのがあってもいいように思う。良いか悪いかは、結局それを手に取る人の価値観によるものである。
おわりに
筆者は、京アニ事件の犯人の心の中までは分からない。彼が、どういう心境で小説を書き、公募小説に投稿したのか。「有名になりたかった」「自作品を世の人に読んでもらいたかった」、動機は様々であろう。でも、結果として、夢を踏みにじられ、凶行に及んでいったのは間違いなかろう。
筆者はいまも思う。彼は「ネット小説」というものの存在を知っていたのであろうかという疑問である。もし、自分の作品を世に出したいなら「ネット小説サイト」に投稿するという手もあったはずだ。全くの無償で、いますぐにでも始められる。別に未完成でも、あらすじだけだって構わない。そして、読まれるか読まれないかという結果もわずか2~3日で判明する。
それでダメだったら、自身の才能のなさ、運のなさを悟り、凶行に及ぶこともなかったのではないだろうか。
いま「公募小説」に応募を繰り返し、悶々とした日々を過ごしている作家志望の方がいるなら、いますぐ「ネット小説」に投稿することを強くお奨めします。