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シュウマツノピクニック

作者: ゔぁん・ぼくと

その朝、浅い眠りから目覚めると、芳わしい珈琲の香りが部屋中を満たしていた。

台所の方からは、彼女の軽やかなハミングが聴こえて来る。

いつもと変わらぬ朝。

朝食の準備をしている彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は夕べの事を思い出した。

僕たちは、夜遅くまでこっぴどく口論をしていた。

ヒステリックに泣きじゃくる彼女。

どうして良いか判らず声を荒げてしまった僕。

結局、収拾はつかず、僕は啜り泣き続ける彼女を無視して寝てしまった。

それなのに、今朝の彼女は、夕べの事など忘れたかのように振る舞っている。

「……お早う。」

僕は、些かの気まずさもあって、ただ一言呟いただけだった。

「お早う。朝ご飯出来てるわよ。」

彼女は、僕の心の内など気に掛ける風でもなく、いつも通りの笑顔で応えた。

トーストにベーコンエッグとサラダとスープ。それに淹れたての珈琲。

ダイニングテーブルに並べられたそれらを見ながら、僕はどこか非現実的な違和感を憶えた。

「さぁ。食べちゃいましょう。今日はお出掛けするんだから。」

エプロンを外しながら、彼女は椅子に座った。

お出掛け?

あぁ。そうか。

そう云えば、先週、約束をしてたんだった。

週末の今日、天気が良ければ、海辺にピクニックに行く。

テーブル に着く前に、僕は窓の外に眼をやった。

雲一つ無いピーカンの空が見えた。

「お弁当も、もう作ったのよ。後は、ご飯を食べて出掛けるだけ。」

彼女はとびっきりの笑顔で、僕に話しかける。

僕はそれには応えず、席に着くと黙々と朝食を食べ始めた。

今日?

何で、よりにもよって今日なんだ?

だが、彼女はその事に何の疑問も抱いていないようだった。

そして、僕もそれ以上は考えず、珈琲を一杯啜った。


僕たちは、朝食を済ませると出掛ける準備を始めた。

結局、僕は、彼女の云う通りにする事にした。

心の何処かで莫迦莫迦しいと思いながらも、嬉しそうに支度をする彼女に、水を差す気分にはなれなかったのだ。

「さぁ。出掛けましょう。」

彼女は微笑みながら、僕に向かって云った。


愛車の古ぼけたシトロエン2CV6で、マンションの駐車場から車道へと乗り出し、表通りへと向かう。

出がけに、ルーフの幌を全開に開けておいたので、七月の心地良い風が車内を吹き抜けていく。

僕は運転しながら、何の気なしに煙草を一本取り出し火を点け、深々と吸った。

紫煙が、ルーフから車外へと流れて行く。

やがて、シトロエンは大きな幹線に出たが、案の定、一台の車も走ってはいなかった。

信号機だけが無意味に点灯を繰り返している。

人っ子一人歩いていない横断歩道の手前で、シトロエンを停止させ、青信号に変わるのを待つ。

自然と溜め息が漏れた。

土曜日の朝とは云え、閑散としたものだった。

「青になったわよ。」

ボンヤリと物思いにふけっていた僕に、彼女が促す。

「あ、あぁ。」

曖昧な返事をして、シトロエンを海辺へ続く道へと走らせる。

幹線沿いの街並みは、昨晩の喧騒の有様を物語っていた。

どこもかしこも滅茶苦茶で、それでいて、誰もそれをどうにかしようとは思わなかったようだ。

「酷いな…。」

僕は呟いたが、彼女の耳には入っていないようだった。

助手席で、静かに眼を閉じて微笑んでいる。

僕は、気を紛らわそうと思い、滅多につけないカーラジオへ手を伸ばした。

チャンネルを回したが、ザリザリと云うノイズしか入らず、その事が余計に僕をイラつかせた。

と、突然、ラジオから唄が流れて来た。

自分でラジオのスイッチを入れておいてなんだが、こんな時にでも放送している局があるとは、正直思ってもいなかった。

「良い曲ね。」

彼女が呟く。


それはルイ・アームストロングの『What a Wonderful World~この素晴らしき世界~』だった。


何て、皮肉な選曲だろう。

だが、聴いている内に、何故だか、むしろ今日この日の為にある唄のような気がして来た。

もしかしたら、この曲を流しているDJも同じ気持ちなのかもしれない。


サッチモのだみ声が、やけに心に沁みて来る。

そんな気がした。


小一時間掛けて、僕たちは海辺に辿り着いた。

無論、誰もいない。いはしない。

少し小高い丘陵にシトロエンを停め、白い浜辺へとゆっくり歩いて降りていく。

穏やかに打ち寄せる波の音と、時折吹き抜ける潮風の音以外、聴こえるものはなかった。

「静かね。」

「うん。そうだね。」

持って来たレジャーシートを適当な所に広げ、荷物を置いて二人並んで座った。

「珈琲…。飲む?」

「え?あ。うん。」

彼女は、バスケットからポットを取り出し、珈琲を淹れてくれた。

それを受け取り、一口飲む。

まだ、熱い。

「ふぅ…。」

僕は溜め息を漏らし、シャツの胸ポケットから煙草とライター、それから携帯灰皿を取り出し、一息入れた。

ボンヤリと時間を浪費しているような気がしたが、正直、どうでも良かった。


しばらくして、彼女が悪戯っぽく笑いながら、僕の顔を覗き込んだ。

「ね!何しようか?」

突然の彼女の提案に、僕は少しうろたえ、小さく笑った。

「え?考えてなかったな。」

「じゃあ、これ。」

そう云って、彼女は傍らに置かれた大きめのトートバッグから、ふた組のグローブと野球ボールを一つ取り出した。

「え?」

予想外のモノを眼の前に突き出されたので、僕はちょっと戸惑いの声をあげた。

「キャッチボール!」

彼女が、嬉しそうに宣言する。

「一体、何処からそんなモノを…?」

「えへへ…。買って来たの。」

呆れた。

「…いつの間に…?」

僕は小さな溜め息をつきながら、苦笑いをした。

「おととい、何となく。良いなぁって思って…。」

彼女はとびっきりのオモチャを見つけた仔犬のように、クシャッと笑って愉しげに続けた。

「だって、こういうトコでやったら、何だかとっても気持ち良さそうじゃない?」

僕もつられて少し可笑しくなり、彼女にひとつ重要な事を尋ねた。

「ボール…。ちゃんと投げられるの?」

その途端、彼女は待ってましたと云わんばかりに、得意げに笑った。

「あれ?云って無かった?私、中学のクラブ。ソフトボールだったのよ。」


それから、僕たちは、砂浜で適当に距離を空けて、立ち位置や足場の具合を確かめたりした。

そして、お互いに真新しいグローブを嵌め、やはり新品で艶やかなボールを投げ合い始めた。

「ねぇ?」

見事なサイドスローでボールを放りながら、彼女が叫ぶ。

「なに?」

それを受け止めて、僕は訊き返す。

「今晩!なに食べたい?」

「任せる。」

「えぇ?ちゃんと云ってよ。」

彼女は少し強めに返球して、僕のいつものお定まりの返事に、ささやかな抗議をした。

僕は笑って大きく振りかぶった。

「じゃあ、熱々のポトフ。」

僕の投げたボールが、スパン!と小気味よい音をたてて、彼女の構えるグローブに収まる。

「夏なのに?」

綺麗な放物線を描きながら、ボールが戻って来た。

「夏だから良いんじゃないか。冷えたワインにも合うし。それに、まだ初夏だよ。」

「判っ…。ちょっと!どこに投げてるのよ?」

僕の投げ返したボールがすっぽ抜け、彼女は大きく伸びをしながら、キャッチする。

「あはは。ごめん、ごめん。」


こうして、僕たちは他愛ないお喋りをしながら、飽きることなくキャッチボールをして過ごした。

七月の心地よい陽光を浴びて、少し汗ばみながら。


「…これがクラブハウスサンドイッチ。これがフライドチキン。それで、これが…。」

彼女はレジャーシートの上に並べた料理を指さしながら、ひとつひとつ僕に説明してくれた。

キャッチボールにすっかり夢中になっている内に、昼どきになっていた。

そこで、ようやく僕たちは、彼女の手づくりのランチを食べる事にしたのだ。

料理をはさんで、レジャーシートの上に並んで座る。

「全部、貴方の為に作ったのよ。」

彼女の笑顔を眺めながら、僕は束の間、満ち足りた気分になった。

不意に、彼女は視線をあげ、僕が料理ではなく、自分を見ている事に気づき、

「ねぇ。ちゃんと訊いてる?」

と、少し不満げに呟いた。

「え?あぁ。勿論。スゴいな。食べきれるかな?」

僕は曖昧な笑いを浮かべ、取り繕った。

「もう。今日は、貴方の大好きなキッシュも、焼いて来たのよ。」

「うん。ありがとう。」

「ま、良いわ。そんな事より、さぁ、食べましょう。」

そう云うと、彼女は、僕にバスケットを差し出した。

僕は美味しそうなキッシュを一切れ貰い、一口食べた。

「うん。旨い。」

パクつく僕を笑顔で眺めながら、彼女もサンドイッチに手をする。

「来た甲斐があったわね。」

二切れ目のキッシュに手を伸ばしながら、僕も頷く。

「うん。そうだね。」

彼女はサンドイッチを持った両手を、しかし口許ではなく、そのまま膝の上に置き、ふいと海辺の方を見つめた。

柔らかな潮風が吹き抜け、彼女の長く美しい黒髪を揺らす。

「…気持ち良い風。このまま、時間が停まれば良いのに…。」

僕はその言葉に、ドキリとした。

「ねぇ。そう思わない?」

「うん…。」

と云いかけていた僕は、二の句が継げなかった。

こちらに向き直った彼女が、真剣な面持ちで僕を見つめていたからだ。

そして、僕は愉しいピクニックは、今、終わったのだと悟った。


時間だけが、無意味に過ぎて行った。

二人して、砂浜に敷いたレジャーシートに並んで座り、無言でポットに淹れて来た珈琲を啜る。

少し、温くなっていた。

出し抜けに、彼女が云った。

「……夕べはごめんなさい。貴方にあたっても、仕方がないのにね。」

「いや。僕の方こそ……。怒鳴ったりして、悪かった。」

しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。

「……最後に謝っておきたかったの。」

彼女の呟いた『最後』と云う一言に、僕はまたドキリとした。

僕は彼女に対して、『最後』に何をしてあげられるだろう。

でも、何も出来ないと云う無力感だけが、潮風に乗ってやって来た。

もはや、それを振り払う気力さえ、今の僕には無かった。


他にやり残した事は無いだろうか。

いや、有ったとしても、もう時間は限られている。

ただ、ボンヤリと何もしないで過ごしていた方が、かえって良いような気もした。

「少し眠くなって来ちゃった。」

そう云って彼女は、僕の肩に頭を預けて来た。

「うん。」

間近にみる彼女の寝顔に、僕は救われる気分を憶えた。

独りじゃない。

誰かと一緒に居る事が、どんなに大切な事か、今更ながらに思い知らされた。

彼女の髪に、そっと手を伸ばし撫でた。

こんな事で、ささやかな幸せを得る事が出来るなんて、多分、以前の僕には窺い知る事もなかっただろう。

だが、今の僕には判る。

幸せの尺度なんて、どうでも良い事なのだ。

只、二人の間を過ぎる、空気のようなものなのかも知れない。

でも、それがどんなにかけがえのないものか、今になって気付くなんて。

遅すぎただろうか。

いや、この刹那に、その有難みを理解できただけでも良かった。

自然と笑みがこぼれた。


こんなにも穏やかな一日なのに。

こんなにも澄み渡った空なのに。

こんなにも静かな海なのに。


でも、もうじき何もかもが幕を閉じる。


今日で世界は終わるのだ。


理由は、よく判らない。

只、はっきりとしているのは、昨日の午后、間抜けな国が愚かな行ないをし、それが世界中を覆い尽くそうとしている事。

そして、今までと違うのは、それがもはや取り返しのつかない方向へ、行ってしまっただけ。


今更、僕たちに何が出来る。


僕は、やおら、両手で弄んでいたボールを、力任せに出鱈目な方向へと放り投げた。

そして、やりきれなさと諦めを抱きながら、水平線の彼方に沈みつつある大きな、そして今までに見たことも無い程、美しい夕陽を見つめ続けた。


……ええ、私は心の中で祈っています。何と素晴らしき世界なんでしょう………。

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