Young Lust
太陽のまぶしさに目を開ける。気付くと、深い森の中だった。
隣には一人の女性、外人さんだ。くすんだオレンジ色の髪を後ろに束ねている。まとっているのは、まるで歴史の教科書に載っていそうな、農民風の簡素な衣服。少し汚れてはいるけど、生地は厚くて丈夫そうだ。
茶色の瞳が僕をじっと見つめていた。
「えーっと、こんにちは。言葉はわかりますか」
「……なに変なこと言ってるんですか」
あ、この返し方はもしかして。
「もしかして、小林?」
見た目はまったく違うけれど、間違いなかった。小林は歯医者の後のような微妙な表情で頷いた。
「ここでは小林って呼び方はやめてくださいよ」
「じゃあ、何て呼べばいいんだ?」
「名前、わかんないんですか? トリスです」
「なんだそれ」
「固有名詞に文句言わないでくださいよ」
もしかして、僕にも新しい名前があるのだろうか。そう考えていると、こば……トリスが教えてくれた。
「ちなみに、先輩の名前はダニエルです」
どうやら彼女はなんとなくこの世界のことをわかっているようだ。助かった。こんなところに突然放り出されても、右も左もわからない。
トリスにダニエルか、なんだか酔っ払いがさいころでも振って決めたみたいな名前だな。どうにもぎくしゃくするけれど、仕方ない。
「慣れないなあ」
「慣れてくださいよ。さ、家に帰りましょ」
「家? 家ってどっち?」
「さあ」
目の前には一本の道があった。ただし、木に囲まれているせいで、どっちに行けばいいかさっぱりわからない。
少し相談したものの、結局適当に歩き出した。考えたところでわかりやしないし、僕の前に道はある。ならば、町はきっと、僕らが進む先にできるのだ。
鳥の鳴き声がする。初めて聞く鳴き声だ。虫かカエルか知らないが、木々の向こうからぎょわぎょわと変な声も聞こえる。それ以外にも、風が吹くたび枝同士ががざがざとうめくような音を立てている。誰もいない森の中は、けっこう騒がしかった。
最初のうちこそ面白かったが、慣れない山道はハイキングとは程遠い。強い日差しはじりじりと肌を焼き、草いきれも不快だった。
熱い。日陰を歩いていたら、クモの巣に頭を突っ込んだ。
しばらく歩くと、道の下のほうに小川が見えた。喉はカラカラで、もう限界だった。
「こば……、トリス、この水って飲めるかな」
「生水を飲んで、お腹こわしても知りませんよ」
トリスは涼しい顔で歩いている。僕よりもよっぽど体力があるようだ。そういえば、小林のときは田舎暮らしだと言っていたな。意外とこういうのには慣れているのかもしれない。
たっぷり5分は悩んだと思う。結局僕は、水の誘惑に負けた。
僕が同じ世界を作るなら、ここで腹をこわすなんてケチな罠は作らない。そう言い訳をして、たっぷりと喉を潤した。
それからさらに小一時間ほど歩かされ、ようやく僕らは山道を抜けた。広いのっぱらに映画のような畑が広がっている。その奥には、何件かの家も。
町だ。いや、村か。
小さな集落だということはすぐわかった。いわゆる普通の、平和な農村ってやつだろう。
村に入って最初に出会ったのは、妙な服装の女だった。
白いシルクハットに紺色のタキシード、真っ赤な蝶ネクタイ。他の人間と比べるまでもなく、明らかに浮いているとわかる格好だ。
女はこちらに気付くと、ぴょんぴょんとはねるように走ってきた。その姿は兎を連想させる。
「おーっとダニエルさん、トリスさん。今日は帰りが遅かったから心配してましたよ。なにかありました? んー、んっんー?」
清々しいほどの笑顔。反応に困り目を逸らすが、彼女はこちらの顔をぐりぐりとしつこくのぞき込んでくる。
「いや、別に、何もないよ」
「そのわりには疲れた顔してますけどねー。いつもはもっと笑顔でお話してくれるじゃないですかー」
初対面なんだけどな、とはもちろん言えない。このテンションについていけるなんて、どうやら普段の僕はずいぶんな聖人君子のようだ。
「本当に疲れてるんですよ。ダニエルさんが山で迷子になりかけちゃったから」
「そうなんですか? 平和に帰ってきたならいいですけど、気を付けてくださいねー」
急いでいるのか知らないが、兎女はそのままぴょんぴょん跳ねるようにどこかへ行ってしまった。
「こば……トリス、いったいなんだあいつ」
「カティさんですか? やけに元気な人でしょ?」
僕の知っている”元気”を二回りははみ出していると思うけど、まあいいか。
カティは僕のことを知っているようだった。もしかしてトリスと僕は、この村でしばらく暮らしていたという設定なのだろうか。
それと、少し気になったことがある。
「なあトリス、君は僕より先にこの世界に来てたのかい?」
「いえ、さっき森の中から。たぶんダニエルさんと同じタイミングですよ」
それにしてはやけに色々と詳しいじゃないか。僕は何一つわからないというのに。
どうやら彼女にはこの村で過ごした記憶があるらしいけど、会社にいた記憶もあるようだ。
なぜかはわからない。もしかしたら、そういう記憶まで含めてさっき作られただけかもしれない。
「しかし、そんなことまで考え出すときりがないな」
「そうですよ。どうしようもないことなら、考えるだけムダってもんですよ」
彼女の切り替えの早さがうらやましい。
その夜のこと。
僕らが帰ってきたのは――初めての家に”帰ってきた”ってのも、変な話だけど――小さくて質素な丸太小屋だった。
質素とはいっても、簡単ながらキッチンとベッドくらいはあるし、どこの家もこんなものかもしれない。珍しかったのは、魔法の光で照らす照明くらいだ。キャンプにでも来たと思えば、悪くは無いと思う。
窓にはしっかりとガラスがはまっていた。鍵を開けて窓を開けると、涼しい風が入ってくる。
この窓をくぐれば、またどこか変なところへ行けるんだろうか。今は既に非日常なんだから、どこへも行けないのかもしれないな。
外の暗闇を見ながらぼんやり考えていると、なんだか部屋が温かくなった。振り返ると、トリスが鍋を火にかけ、かき混ぜていた。
はいどうぞ、シチューです。
ことんと音をたてて、テーブルにクリームシチューが置かれる。スプーンと食器は木製だった。
「相変わらず、味は薄いのか」
「失礼な人ですね、明日から自分で作ってください」
「ごめん、そういう意味じゃないんだけど」
口に出してしまったのは失敗だった。あの薄味の焼き鳥屋を思い出して、懐かしくなっただけなのだけど。
こんこんこんこん。
軽快なノックの音がした。誰だろう、こんな夜に。
「誰か、来る予定になってる?」
「まさか。私たち、普通の村人ですよ」
一応聞いてみたが、トリスも不思議そうだった。
とんとんとん。
再び音がした。今度は少しだけ大きく。扉を開けると、そこにいたのはカティだった。
白いシルクハットは昼間見たままだったけれど、くすんだ色のシャツの上に、地味な茶色の上着を羽織っていた。もしかしたらこれが彼女の普段着なのかもしれない。
「夜分すみませーん、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、今大丈夫ですか? 大丈夫ですよね。予定なんてあるわけないですもん」
早口で喋りながら、勝手に家の中に入ってくる。どうやら普段と違うのは服装だけのようだ。
「まあ、何もありませんけど。一体何の用事です?」
「ええと、単刀直入に言いますね。いっしょにこの村を盛り上げてもらえませんか?」
「盛り上げる?」
「そうです。お客さんのために飾り付けしたりおもてなししたり。お店の商品に特別なものを追加したりも。なんでもいいんですけど」
はにかむカティは、けっこう可愛かった。黙っていたらもっと可愛いのに。
「なるほど、村おこしの手伝いね。でも、何で僕に?」
「へー。わかんないんですか、なんであなたに頼むのか? ……本当に?」
まるで尋問のような口調だった。カティはにやりと口の端を持ち上げた。真っ赤なベロが蛇のようにちらりと覗く。
隣を見ると、トリスは涼しい顔でシチューのおかわりをよそっていた。いかにも「私には関係ないですよ」とでも言わんばかりに。
「私は、村の皆に声をかけてるんですよ? 自分の村が盛り上がってて嬉しくないなんて人は、普通いないでしょ。いるとしたら相当な変人か、もしくは、最近引っ越してきた人くらいじゃないんですかぁ?」
声の調子は変わらないのに、空気はどんどん固まっていく。冷たい汗が一筋、僕の脊椎をなぞっていく。
僕は緊張に耐え切れず、首を縦に振っていた。
「協力はします、けど、特別なことはできませんよ」
「ありがとうございますー。お礼ならしますから、頑張ってくださいね」
彼女は目を細め、やっと普通の笑顔を見せてくれた。少しだけ緊張がほぐれる。
やれやれ。頑張りましょうではなく、頑張ってください、か。
「じゃ、おやすみなさい。明日もいい天気だといいですねー」
こちらの返事に満足したのだろう、カティはさっさと帰っていった。
次の日から、僕たちは普通に生活しながら、カティを注意して見るようになった。
次の日も、その次の日も、カティは他の村人とは別の行動を取っていた。
飾りつけのつもりだろうか、花輪を作ってみたり、剣を振って戦いの真似事をしてみたり。モンスターと戦って戻ってきたこともあるし、武器屋のロキーに新しい武器のカタログを持ってきたりもしていた。
これだけ目立つことをしているカティだが、村人たちは特に気にしている様子はない。
ある日、牛飼いのレドモンドに聞いてみた。
「なあ、カティはいつも何やってんだ?」
「何って言われてもなあ。客をもてなす準備じゃないか?」
「客って、一体誰のことだよ」
「さあ、誰だろうな」
どうやら村人たちも、彼女が何か妙なことをしているという意識はあるようだ。
たぶん、正しいのはレドモンドたち。村人のほうだ。そして、変なのも村人たちのほうだ。
カティは変だけど、変じゃない。それがわかるのは、僕が他の世界を知っているからだ。
あの夜、僕は、カティに協力すると約束した。
特別なことはできないと言ったけれど、協力すること自体が既に”特別なこと”だったなんて、あの時は思ってもみなかった。