Goodbye Blue Sky
あれから三日後。仕事場の東側の壁に、三つの窓が設置された。アルミサッシの普通の窓だ。
これをくぐると、本当に非日常に行けるのだろうか。そんなことを考えながら窓を何度ものぞき込んでいたら、係長に注意された。
「只田、窓がそんなに珍しいか? 別に急ぐわけじゃないけど、仕事はちゃんとしてくれよ」
そう言いながら渡してきたのは、書類の束。なんだこの量、三日分くらいあるんじゃないか。まったく、冗談じゃない。休みなんてほとんどくれないくせに、やることはどんどん押し付けてくる。
うなだれていると、机の向こうの小林と目が合った。むふふと変な笑いをされる。
なんだか無性に腹が立ってきた。
いいさ、日常くらい自分でも簡単に変えられるのだ。なぜ今までこんな簡単なことをやらなかったのか、不思議なくらいだ。
僕は立ち上がり、つかつかと係長の机に向かう。そして一言。
「係長、体調が悪いので早退させてください」
係長はちらりと僕を見て、ノートをパラパラとめくった。何かを探しているようだ。やがて手を止め、何やら小さい文字を読んでいる。
係長は、ノートを少し傾け、僕に見せながら言った。
「ダメだよ。今日は早退の予定なんか入ってない」
「何でですか、体調不良に予定もくそも無いでしょう」
「あるさ、前もって言っておいてくれなきゃ困る」
「困るって、一体何が困るんですか」
「何がなんて関係ない、困るって言ったら困るんだよ」
売り言葉に買い言葉だ。頭に血が上り、声も荒くなる。まったく話にならない。
「もういいです!」
思わず怒鳴っていた。
回れ右をすると、むりやりにでも帰るつもりで荷物をまとめる。といっても、鍵と財布くらいしかないけれど。
「待ちなさい、只田くん。おい、只田!」
係長の声も大きくなるが、机から立ち上がろうとはしない。どうせあいつのノートには、むりやり帰ろうとする部下を引き留める予定なんて、入っていないのだろう。
と、そのとき。
「すみません、かかりちょー」
小林が片手を上げて、係長を呼んだ。緊張した空気をまるで感じていないような、いつも通りの力の抜けた声。最近の若い者って、皆こうなのだろうか。
「私、只田さんに営業の仕事を教えてもらってきていいですか? それならー」
小林は絶妙なところで言葉を切った。きょとんとした表情の係長に、何かを察した宮さんが耳打ちした。
それなら、早退にはならないでしょ? 彼女はそう言おうとしたのだろう。
係長は宮さんと何やら頷き合い、そして何かをあきらめた。
「あ、ああ。それでいいや。うん、そうしてくれ。お前ら二人、今から外出。今日は直帰な」
僕は何も言わず、部屋を出た。
後ろからぱたぱたと小林が追っかけてくるのは気付いていたけれど、わざと速足のまま歩き続けた。
会社の入り口を出たところで、ようやく小林が追い付いてくる。
「もう、只田さん、待っててくれたっていいじゃないですか。せっかく助けてあげたのに」
そう言われても、素直にありがとうと言うのも、なんだかしゃくなものなのだ。かわりに、ひとつ思ったことを聞いてみる。
「君さ、何か、雰囲気変わった?」
小林は逆に僕に聞き返してきた。
「そうですか? どのあたりがです?」
いや、だから、そういうところなんだけど。
僕は頭をぽりぽりとかくと、どこか行きたいところがあるかと聞いた。小林はお腹がすいたと答えた。
そういえばもうすぐお昼の時間だ。たまには外で食べるのもいいかもしれない。
空を見上げる。いつもと変わらないはずの空だけど、今日は青が特に濃く見えた。
残念ながら、しばらく歩いてもちょうどいい飯屋は見つからなかった。いつもこんな時間には出歩かないし、勝手がさっぱりわからない。
もう少し探そうかと聞いてみたのだが、もう無理だと文句をいう小林に折れて、コンビニに寄った。コーヒーとフィナンシェを買ってやる。小林はその場ですぐに封を切る。
「うまいな」
嘘だった。すかすかの紙粘土を食っているようだった。
「味、しませんけどね」
「でも、この時間にこんな場所で食うんだぜ。うまいだろ」
「場所と味って、関係なくないですか」
どうも後輩がどんどん生意気になっている気がする。
「食べたらどうしましょうか?」
「決めてないけど、どうしようかな」
小林は、コンビニの壁に貼ってあるポスターを見ていた。ちょっと変わった恋愛ものの映画で、何度も同じ一日を繰り返しながら、意中の相手を射止めようと四苦八苦するループもの。仕事場の昼休憩のとき、テレビで宣伝していたのを思い出す。
小林がつぶやく。
「たまには映画でも観ようかな」
うん、悪くない。本当はアクションものの方が好きなんだけど、色んなジャンルの作品を楽しむってのも大切だ。
僕はその提案に乗っかる。
「いいね。バスで駅前の映画館まで行くのが一番早いと思うけど、それでいいかい?」
僕の言葉に、小林はなぜか不満そうな顔をした。眉間にしわを寄せて、僕をにらむ。
「どうしたのさ、君が見たいって言ったんだろ?」
「いえ、そうじゃなくて、なんで一緒に観る感じになってんですか?」
「え?」
僕は恥ずかしくなり、そのまま歩き始めた。もちろんあてなんかない。小林も、黙ったままついてくる。
「小林、別についてこなくてもいいんだぞ。映画でもなんでも見てきたら」
「うーん、一応まだ業務時間中ですし。もう少し一緒にいます」
まったく、ほっといてくれていいのに。真面目か。
僕たちはろくに会話もなく、しばらく歩き続けた。
いい天気だった。最初は気持ちよかったけれど、ずっと歩いていると、さすがに暑さが勝ってくる。どこかに喫茶店でもないかと足を止めたそのとき、一人の男に声をかけられた。
「おや、珍しいね。こんなところを歩いているなんて、何かあったのかい?」
しまったかな、と思った。相手の顔に見覚えは無かったけれど、僕を知っているということは、会社関係のはずだ。
ちゃんと係長の許可を取ってあるとはいえ、今は半分サボりみたいなものだ。なんて説明すればいいのやら。
困った理由のひとつに、彼の服装がシャツにチノパンというラフな格好だったこともある。もう少しそれらしい格好をしてくれていたら、どういう相手か何となくでもわかったのに。
変にこじれても嫌だし、僕は素直に白旗を上げた。
「ええと、すみません。ちょっとお名前が出て来なくて」
「わからないかな? カエル売りだけど」
ああ、またカエル売りか。身構えていただけに、拍子抜けしてしまった。
彼は、胸のポケットからカエルを取り出した。素人目に見てもブサイクな、茶色のカエルだった。
本当に流行っているんだな。カエルも、カエル売りも。
げこげこと鳴き声がして下を見ると、彼の足元でも、青いカエルが鳴いていた。
「いる? 安くしとくぜ」
軽い口調で彼は言った。いきなり馴れ馴れしいやつだ。
「じゃあ、四匹くれないか。その茶色のやつと青いやつ、それと赤と黄色がいい」
「欲張りだな。二つで十分だろ?」
もちろん冷やかし半分だ。
「いや、四つだね。四匹欲しい」
「二つで十分だって言ってるじゃないか。もういいさ。じゃあ、君には売らないことにするよ」
少しだけ胸がすっとしたけれど、彼はたいして気にしていないようだ。
「あらためて聞くけど、君らはなぜここにいるんだい?」
「仕事を早退して、ふらふら歩いてただけさ」
「違いますよ、早退じゃありません。営業の研修で、新人の私と外を回っているんです」
僕の言葉を小林が訂正する。まったく、こだわる新人だ。相手はただの通りすがりなんだし、どうでもいいじゃないか。
「君はちょっと黙っててくれないか」
「でも、勝手に早退にされたら困ります」
ふふっと笑い声が聞こえた。カエル売りが、僕らのやり取りを見て笑っていたのだ。
「ふはは、失礼。こんなの初めて見たかもしれない。変な奴らだな、君たちは」
失礼なのはお前のほうだ。すぐそこまで出てきかけた言葉を、慌てて飲み込む。先ほどの係長とのイライラがフラッシュバックしてしまう。
カエル売りは、僕の顔をじっと見つめる。
「君さあ、変な夢を見たことはあるかい? 何度も同じような夢を見るとか」
真っ先に思いついたのは、いつもの白い部屋でもがく夢だ。
「その夢、白い部屋は出てこなかった? 研究室みたいな部屋。棚に、いくつもの箱とかが並んでいるような」
言われてみると、確かにそんな感じの部屋だった気がする。
病室のように白い、白い部屋。いくつもの棚が並び、そこにいくつもの箱が並んでいるのだ。そういえば、箱ではなく水槽だったかもしれないな。
僕はその棚の間の狭い通路を、するすると滑るように歩くのだ。そして急に何かに足を取られる。
そのまま棚にぶつかり、色々と巻き込みながらこけてしまう。きっと大惨事だ。
またこの夢かと気付くことができるのは、何となくだけど、前に見たときのことを覚えているからだ。夢の中でもこれは夢だという意識はあるのだが、焦る気持ちは不思議と消えない。
なんとか目を覚まそうと、じたばたもがいたり目を見開いたりするけれど、どうやっても目は覚めないのだ。
夢ってそんなものだと言われれば、それまでなんだけど。
深く考えたことはなかったけれど、あれは一体どこだったんだろう。病室のような、倉庫のような。確かに研究室のような気もする。
ただ、珍しい感じはしなかった。別段妙なものが置いてあるわけでもないし、会社の資料室だって似たようなもんだ。
「君さ、あれを夢だと思っているだろう?」
そりゃそうだ。次に気が付く場所は、ベッドの中なんだから。
「あれ、現実だぜ。夢はこっちのほうだ」
カエル売りはにやりと笑った。最近よく向けられる、気持ち悪い笑い方だった。
ぞわりとした寒気が襲ってくる。
まあなんにせよ、とカエル売りは言った。腰に手をあて、偉そうに。
「こんな時間にここを歩けてるってことは、素質はあるんじゃないかな。好奇心ってやつを持っているならね」
ふと横を見ると、小林は興味がなさそうに空を見ていた。雲でも見ているのだろうか。
まったく呑気なやつだ。こいつはきっと、好奇心をカエルの腹の中に忘れてきたに違いない。
「小林は、何か変な夢を見たことある?」
「え、何がです?」
こいつ、話を何も聞いてなかったのか。
「夢の話だよ。変な夢を見たことないかってさ」
「私は別に」
予想はしていたけれど、素っ気ない言葉だ。
ため息の後、僕は彼に聞いた。
「なあ、お前らカエル売りって何なんだ?」
「カエル売りはカエル売りさ。この世界では少しだけ優遇されてるよ」
なんだそれは。答えになっていないぞ。それに、この地域ではなく、世界でってなんだ。
「優遇って言われても、よくわからないな。税金でも安くなるのか?」
「税金? キミ、そんなの払ってんだ。いや、違う違う、世界の裏側を少しだけ覗けるんだ。おもしろいぜ」
意味はわからないけど、僕には、彼が嘘を言っているようには思えなかった。もっとも、嘘ではなかったとしても、まともに教えるつもりもない気がする。
裏側か。裏側ねえ。
「あのう、どこからその、裏側にいけるんですか?」
聞いたのは小林だった。彼女は仕事以外のことについて興味が薄いと思っていたので、僕はとても驚いた。
居酒屋で彼女の言葉に期待したことを、少しだけど期待したことを思い出した。もしかして彼女も僕と同じなのだろうか。
そうだ、あの時、僕は嬉しかったんだ。何かが変わりそうだと思ったから。
カエル売りは少しだけ笑った。
「どこからでも行ける。問題は場所じゃない、気付けるかどうかさ」
よくわからない。
小林は僕を見る。そんな顔をされても、僕だってさっぱりだ。
「もう一度言うよ。必要なのは、気付けるかどうかだ。ドラマチックなイベントなんかないし、運命とかに選ばれる必要もない。試しにええと、そうだな。用事の無いビルにでも、入ってみればいい」
そこまで言うと、カエル売りは行ってしまった。何事もなかったかのように、元来た道を戻っていった。
最後にぽつりと「幸運を祈ってる」とつぶやいたのが聞こえたけれど、どちらかというと自分自身に言ったんじゃなかろうか。
僕はぼけっと突っ立ったまま、彼の背中を見つめていた。彼が何をしたかったのかは、わからないまま。
小林はビルを見ていた。どのビルということもなく、右から左へ。
どれも似たような雑居ビルだったりアパートだったり。何も珍しい風景じゃない。
「先輩、どこか用事がないビルってあります?」
「全部だよ。どのビルにも用事なんてない」
「私はどっちでもいいですよ、行っても行かなくても」
ああ、そうですか。こっちはどっと疲れて、座り込みたいくらいだよ。こいつの無神経さがうらやましい。
適当に歩いて、適当なビルの前で足を止める。のっぺりとしたコンクリート色の普通のビルだ。
大橋金融ビル。銀色の文字で入り口に書いてあるから、きっとそうなんだろう。
二階にはなんとか育児所、その上にもいくつか看板はある。
10階以上はあると思うけど、看板はまともに出ておらず、何があるやらわからない。もしかしたら、空き室なのかもしれない。
僕たちはエレベーターに乗り、小林がボタンを押す。 階は全部で12階まであった。それと、地下と屋上と。
「何階に行くんですか?」
「どこでもいいよ。君が押したところが目的地さ」
小林は少し考えて、8階を押した。
静かにエレベーターはうなる。
小林は壁にもたれ、腕を組んで首を曲げていた。
眠たいのだろうか。目をつむっているようだった。