The Happiest Days
「おう、おはよう只田。ちょっとお使いを頼みたいんだが、いいかい」
会社につくと、すぐに係長が声をかけてきた。
「ええ、別にいいですけど。なんです?」
断る理由も何もない。もったいぶろうかとも思ったが、急ぎの用事なんかないし、素直に引き受ける。
「ちょっと窓屋に行って、窓を買ってきてくれないかな」
……なんだそりゃ。窓なんて売ってるところあったかな。
「窓なんて業者に頼めばいいじゃないですか」
「そんなこといっても、業者もけっこう高いんだよ。中古のでいいからさ、頼むよ」
「だいたいなんで窓なんです?」
「ほら、新人さんも入ってきただろ。総務からたまには模様替えでもしてイメージを変えろって言われたのさ。うちの会社も古いからね」
新人と古臭い社内とどういう関係があるのかわからないが、確かにうちのオフィスには薄暗い雰囲気がこびりついている。窓があれば明るくなるというのも短絡的な気がするが、係長の気持ちもわからないでもない。
「なるほど、それで窓ですか」
「いいアイデアだろう?」
「いいアイデアですかね」
あ、小林くんも一緒に連れてってくれよ。それだけ言うと、係長はどこかへ消えてしまった。
というわけで、午後から外出することになった。ついでに宮さんから、書類屋にも行くよう頼まれた。
書類屋は、色んな書類を扱っている店だ。新人が入った分、うちの部署のノルマが少し増えた。ということで、来月から使う書類を注文しておこうというわけだ。
相変わらずこの会社は、適当なのか細かいのかよくわからないところがある。
窓屋までは歩いて30分ほどだった。バスか電車があればいいんだけど、ちょうどいい方向に進むバスがないから、仕方ない。
この世はいろんな”仕方がない”でできている。
そんな哲学的なことを考えつつ横を向くと、小林は背伸びして、あくびしながら歩いている。きっと何も考えていないに違いない。
川というか溝というか、とにかく水路にかかっている小さな橋を渡ったところで、一人の中年男性が色とりどりの箱を広げていた。
男は、プラスチック製の虫かごに、色とりどりのカエルを入れて売っていた。
「どうだい、そこの兄ちゃん。少し見ていかんか」
カエル売りは、最近急に増えてきた職業の一つだ。数か月前まではいなかったのに、今ではこんな道端でも売っている。
どこからやってきたのかはわからないが、気付くといるのだ、いたるところに。
中年男性は、フリーのカエル売りだった。
フリーのとはいったけど、サラリーマンのカエル売りなんて聞いたことはない。
「あ、カエル売りだ。先輩、少し見て言ってもいいですか」
男に反応したのは、小林のほうだった。
一応仕事中なのだけど、笑顔で頼まれるとどうも断りづらい。僕は腕時計を見せて、5分だけだぞと言った。
どうしてこういう時、人間は5分間を指定してしまうのだろう。目覚まし時計に抵抗するときだって、閉店間際のスーパーだって、決まっていつも、あと5分。
不思議に思いつつも、僕は時間を区切るのだ。あと5分、と。
小林さんが抱えた虫かごを肩越しに覗くと、中にいたのは黄色いカエル。背中にはピンクでハート型の模様がある。
ちょっと前までは、もっと派手なのが流行っていたそうだ。今の流行りはワンポイントのスポット付き。朝のテレビで見たから間違いない。あんまり目立ち過ぎるのもダメだし、かといって見えないような模様では意味がない。ペットの世界もなかなか厳しいようだ。
男は麦わら帽子をかぶり、暑そうにうちわで顔をあおいでいる。見ていけと言ったわりには、カエルの売り込みなんてする気がないようだ。
彼の仕事は、売り物を見せびらかすところまでで終わりなのだろうか。カエルだけが媚を売るように、げこるーと一鳴きした。
きっと鳴き声にも流行りがあるんだろうな。僕が買うときは、鳴かないやつを選ぶことにしよう。
そういえば、一つ思い出したことがある。カエル売りが増え出したころに、少しだけ流行ったうわさだ。あまりにもバカらしいので、あっという間にすたれてしまった、ただの都市伝説。
「ねえ、おじさん」
「ん、なんだ?」
「このカエルたちが、元は人間だったってうわさ、知ってる?」
地べたに座り込んでいたおじさんは、僕を見上げ、ぴたりと動きを止めた。
くだらないうわさだ。なぜ僕がそれを口にしてしまったのか、わからない。いくら待っているのが暇だったからって、もっとましな話題はあるだろう。
なのに、僕が選んだのは、なぜかその話だった。
「はい、よちよちー」
小林は、しゃがんだままで、別のカエルの相手をしていた。
僕らの話には参加する気がないようで、虫かごの網の隙間から指を伸ばし、哀れなカエルを挑発していた。
しばらくの沈黙のあと、おじさんは答えた。
「知らん」
そして続けた。
「けどな、カエルを見とると、そう思うことはあるぞ。ほら、仕草とか人間臭いだろ。例えばこいつ、煙草でも吸っとるみたいなくせがある」
おじさんは、僕のつまらない話に、思ったよりもずっと真面目に答えてくれた。
彼が指さしたカエルは、右手を口元に持って行き、何かを味わっているように目を細めていた。二本指を立てる様は、確かに煙草をくわえているように見えた。
黙っていると、今度はおじさんが質問してきた。
「お前さん、水槽の脳って知ってるか?」
僕は聞き返した。
「水槽の、何ですって?」
おじさんはぼそぼそと、あいまいな言葉で濁した。その、なんだ、あれだよ、と。
なんだそりゃ。言いたくないなら聞かなきゃいいのに。
水槽の脳、ねえ。
眉を寄せておじさんの言葉を反芻していたら、小林が急に会話に割り込んできた。
「おじさん、水槽って、カエルでも飼うんですか?」
「バカ、カエルを飼うのは虫かごだろ。水槽だと溺れちゃうじゃないか」
「違う違う、中に入れるのはカエルじゃなくて脳みそだ」
「うわ、ずいぶん気持ち悪いことを言うんですね」
三人の話はてんでばらばらで、かみ合わない。
でも、どこかで聞いたことがある気がする。少し考えて、それらしい話を思い出す。
「もしかして、何かの思考実験ってやつかい? この世は現実のものなのか、みたいな」
詳しくは無いけれど、聞いたことくらいはある。脳みそを水槽に入れて、機械につなぐ。機械はつながったコードから様々な刺激を送り、脳はその刺激を本当の感覚だと錯覚する。
現実の、体を通じて感じる感覚ではないけれど、さりとて嘘というわけでもない。仮想現実というやつだ。
なんだ、やっぱり知っていたんじゃないか。
おじさんが小声で言ったのがわかった。なんだか、ほっとしているようだった。
「俺たちは脳みそさ。こいつらカエルたちと、何も変わらんのさ。知っていたか?」
妙な迫力に、僕は思わず後ずさる。急にうすら寒くなってきた。
僕はおじさんの問いには答えず、小林の手を引いた。
「小林、行くぞ」
「あ、はい、え? ちょっと待ってくださいよ」
僕は、そそくさとその場を後にした。早足で、逃げるように。
「ちょっと先輩、早いですよ、少し止まって」
「うるさい」
小林の声を無視して、早歩きで逃げる。歩く速度を落としたのは、それから三つほど角を曲がってからだ。後を付けられていないかが気になって、歩きながら何度も振り向いた。
本当はもう少し遠くまで歩いて、カエル売りから離れたかったけれど、窓屋があるという商店街は、もうすぐそこだった。
住宅街の端の方にある、昔からの古い商店街。入り口のぼろいアーチをくぐると、せまい路地のような道にいろんな店が並んでいる。
並んではいるけれど、それは店の跡地も入れての話だ。今営業している店で言うと、半分よりも少ないくらい。
八百屋と魚屋の間の路地を入り、一本曲がったところにある店。
見た目は普通の民家だけど、一応は看板がかかっている。大きな筆で書きなぐったような書体の「窓屋」の看板。
「ごめんくださーい」
引き戸をがらりと開けると、中は薄暗かった。照明はない。僕らの後ろから入る光が、きらきらと宙を舞うほこりを浮かび上がらせる。
入ってすぐの部屋は、作業場のようだ。土間の中に大きな作業台がででんと置いてある。
作業台の上に置いてある工具は、埃まみれだ。本当に営業しているのか? 奥の壁に立てかけられていた窓にも、白い埃が積もっていた。
「古いし暗いですね、なんだかうちの実家の納屋を思い出しますよ」
子供のころの話をする人なんて、珍しい。
「へえ、君の実家も、窓とか作ったりしてたの?」
「うちは神棚とか仏壇を作ってました。木でいろいろ掘ったりして」
そんな会話をしていると、奥から老人が出てきた。今にも電池が切れそうな動きだ。
「なんじゃあ、お前らは」
老人はしゃがれた声で言った。この人が、窓屋の主人なのだろうか。
小林が数歩前に出て、大きめの声で言った。
「すみません、私たち、窓を買いに来たんですが」
「まぁ、どぉ?」
窓屋は、奥の木床の上に立ち、顔をねじ切れるほどに回し、僕らを見た。
立っている位置は老人の方が高いのだが、僕のほうが背が高いので、結局目線の高さは同じぐらいだ。
見下ろすような見上げるような、不快に感じればいいのかどうかすらわからずに、僕は混乱していた。
「まあええか、いらっしゃい」
窓屋の表情が少しだけ柔らかくなった。どうやら僕らには、窓を買う資格があるようだ。
「売るのはええんじゃけど、窓は高いぞ」
そりゃそうだろう、窓だし。どうせ会社の金だからいいけど。
「はあ。わかりましたよ、いくらくらいなんです?」
「わからん。わからんけどたぶん高いぞ」
なんだそりゃ。
老人はいつのまにか、古ぼけたそろばんを片手に握っていた。
今時そろばんもないだろう。もっとも、この老人が電卓をはじいている姿も、それはそれで想像しづらいものがあるのだが。
老人はぱちぱちと適当に玉をはじき出す。僕らはじっと待つ。
沈黙。ぱちぱち。ぱちり、がちゃがちゃ。また、沈黙。ぱちぱち。
老人は適当に玉を弾いた後、そろばんを振ってゼロにもどし、また弾く。しばらく待っていたが、一向に計算を終える気配はない。
小林が、困った顔をしてこちらを見る。そんな顔で見られても、困っているのは僕も同じなのだ。
いくらわからないといっても、だいたいの相場くらいは決まっていると思うのだが。世の中、絶対ということなんてないのだと思い知らされる。
むー。
再び老人が唸る。まったく、きりがない。
こちらから提案するしかないか。僕は腹を決めて、口を開く。
「値段の方はよくわかりませんが、あとから会社のほうに書類をまわしてくれれば、言われた金額を振り込みますよ」
ほう、そうかあ。窓屋は顎髭を触りながら、感心したように言った。
少し考えるふりをして、それからあらためて言う。
「ああそうじゃ、それがいい、そうしよう」
窓屋は嬉しそうだった。
窓屋はこれまた古臭いノートを出すと、ボールペンでなにやら数字を書き入れている。おそらく帳簿なのだろう。
「おいくらなんです?」
興味がわいた僕は、ひょいと首をもたげてのぞき込む。
窓屋は「ひっ」と引きつった声をだした。何かに怯えるように飛びのいた。
「窓は高いぞ、高いんじゃ」
「だから、高いのは聞きましたよ。具体的にいくらなんですか?」
「お前さん、窓が欲しいのか?」
話は最初に戻ってしまった。
小林があしらうように老人の言葉を遮る。
「はいそうです、私たちは窓を買いに来たんです。お高いんでしょ?」
業を煮やしたのか、もどかしくなったのか。強めの口調でしきっていく。
飲み会の時にも思ったけれど、彼女はちゃきちゃきと言いたいことを言ってくれる。決めるのも早い。
よく見るとスーツもピシッと決まっているし、意外と営業とか値下げ交渉みたいな仕事に向いているのかもしれない。
ふむふむふむ。
窓屋のじじいは片手で顎髭をさわりつつ、またうなり始める。
あ、少しだけ背筋が伸びた。
「お前さん、窓はくぐるのか?」
「はい?」
老人の突然の言葉。何を言っているのかわからず、小林が思わず聞き返した。
「くぐりたいんか? 窓じゃ窓。窓をくぐりたいのかと聞いている」
小林は答えた。
「どうでもいいです、窓が買えれば」
本気でどうでもよさそうな口調だった。窓屋のじじいの声が大きくなる。
「お前には聞いとらん、わしはそっちの、ほら、お前じゃ。お前に聞いとる」
「は?」
今度は僕が聞き返した。
老人がそろばんで指したのは、僕だった。
「ええと、はい、窓ですか? まあ、開けたりはしますけど。……あんまりくぐるものではないでしょう」
「ふむう、そうかあ? お前、他のやつらと少し違うと思ったんじゃがなあ」
「だとしたら、それはきっと他のやつらがおかしいんです」
いつの間にかつられて声が大きくなる。老人はにやにやと笑みを浮かべていた。
「それそれ、そういうところじゃよ」
小林は、こちらの話には興味なさそうに、毛先をくるくるといじっていた。
「よし、お前は見所がある、窓をくぐってみるか」
老人は嬉しそうに、ひっひっと引きつったように笑った。
古ぼけた木枠の窓を、指さした。
まいったぞ。このスーツは最近買ったばかりなんだ。あんな埃まみれの窓なんかくぐって、汚れたらどうするんだ。
かといって、これ以上老人の問答に付き合うのもごめんだ。クリーニング代は、経費で出るかなあ。出ないだろうなあ。
困った僕は、会話を何とか逸らそうと試みた。
「あなたはくぐったんですか?」
「わしはくぐっとらん」
堂々とした口調。くぐってないのかよ。肩がどっと重たくなる。
「自分でくぐらないのに、なぜ人に勧めるんです?」
老人は、こちらまで聞こえるような大きなため息を吐いた。少しは考えろと言わんばかりに。
「わしは窓屋だぞ。わしにとって、窓は普通じゃろ。お前は窓屋じゃないから、普通じゃないんじゃ。わからんのか?」
まるで禅問答のような話に、頭が痛くなってきた。
「先輩、もういいですよ。あきらめて窓をくぐって、早く用事をすませましょうよ」
とうとう小林までもが、窓屋の味方をし始めた。いい加減待ちくたびれたのだろう。
くそう、裏切り者め。カエル売りのときには僕が待ってやったというのに。
「ほら、これじゃこれ」
老人が指さしたのは、ひときわ古く見える、木製の窓。作業台に立てかけるようにして、床に直接置かれていた。
うーん、確かにこれは非日常的ではあるけどさ。これをくぐる? どうやって。
スーツの膝に泥を付けたくなくて、僕は引き気味にたち、言い訳を考えていた。
老人はお構いなしに、ほらほらとか言いつつ、その窓枠を持ち上げ、僕の頭をくぐらせようとする。
ああ、これでいいのか。まあ、これならまだ我慢できる。しかし、クモの巣とかついてないだろうな。
僕はあきらめて、無抵抗のまま、窓枠を胸までくぐらされる。
当たり前だけど、何も変わった気はしない。少しだけ部屋の中の埃っぽさが増しただけだ。
「お前もくぐる?」
僕は小林にそう聞いた。
小林はどうでも良さそうに、首の上だけをほんの少しだけ、窓枠につっこんだ。