In The Flesh?
病室のように白い、白い部屋。
いくつもの棚が並び、そこにいくつもの水槽が並んでいるのだ。
僕は狭い通路をするすると滑るように歩いている。と、急に何かに足を取られる。
そのまま棚にぶつかり、色々と巻き込みながらこけるのだ。
ああ、またこの夢か。
気付くのは、同じ光景が記憶にあるからだ。ここらへんで夢だとわかるのだが、不思議と焦る気持ちは消えない。
僕はなんとか目を覚まそうと、じたばたもがいたり目を見開いたりするのだが、どうしても目は覚めないのだ。
――そして。
けたたましいアラームは、退屈な日常の始まりだ。回らない頭で、目覚まし時計のボタンを探す。
布団の中で背伸びをし、あきらめがついたところで、布団からはい出る。
顔を洗った後に飲む水道水が、朝飯の代わりだ。スーツに着替え、アパートを出る。
いつも通りではあるが、いつも通りでも眠たいものは眠たいのだ。たまには二度寝して遅刻してやろうかとも思うが、以前試して無駄だったので、もうやらない。
時間通りやってくる電車に乗り込み、会社へとたどり着く。腕時計を見ると、いつもと変わらず8時20分。
毎日同じ電車に乗っているのに、知った顔がいないのは不思議なものだ。きっと見ているようで見ていないんだろうな。人間、意識しないものというのは、とことん目に入らないのだ。そうでないなら、もしかしたら記憶が毎朝リセットされているのかもしれない。
そんなことを考えているうちに会社につく。
事業部と表示がかかっている部屋が、僕の仕事場だ。何の事業なのかはいまだにわからないけれど。
机もロッカーも、昔ながらの重苦しいねずみ色。田舎の町役場のような見た目だけど、雰囲気自体はわりと気に入っている。
ああ、大掃除の時だけは勘弁かな。このムダにごつい机は重たいんだ。
「おはようございまーす」
開きっぱなしのドアをくぐる。
奥の方に、初めて見る女性。係長から何か説明を受けている。
何かの業者さんかなと思ったが、こんな時間から来るわけがない。はあ、もしかして新人さんか。珍しいな。
「只田くん、新人さんみたいよ。良かったわね、可愛い女の子よ」
いつの間にか音もなく、お局の宮さんが僕の右後方に立っていた。挨拶も無しに、新人さんのことを報告してくる。
宮さんの気配の消しっぷりは見事なもので、僕は少しだけ引いた。
朝礼で、係長からあらためて紹介があった。
「今日からうちに入った小林さんだ。みんな、仲良くしてやってくれ」
「小林です、よろしくお願いします」
まばらな拍手が響く。ぱちぱちぱち。
肩まである黒髪に、くりくりした強そうな目。
気が強そうな感じで、少し苦手だな。それが僕の第一印象。
「じゃあ、教育は只田にお願いするから、適当に色々教えてやって」
「え?」
係長が指名したのは、僕だった。いきなりもいいところだ。
「あの、教育っていきなり言われても、何を教えるんです?」
「何をって、仕事に決まってるでしょ。適当でいいからさ」
「はあ」
まあ実際、年齢が一番近いのは――要するに一番したっぱは――僕だし、彼女の仕事内容も、どうせ僕と似たようなものになるだろう。
仕方ない。これも仕事だ。
「よろしく、只田です」
「小林です、あらためてよろしくお願いします。ええと、いつもどんな仕事をしているんですか?」
「どんなって言われてもなあ。あんまり深く考えたこともなかったけど、まあ、仕事っぽい作業を色々だよ。書類を作ったり、電話をかけたり」
「じゃあ今日は何をしましょうか」
「うーん、そうだなあ」
そんなこと、僕に聞かれたって困る。
何も考えていないので、何をすればいいかわからない。当たり前だ、新人が来るってことすら知らなかったのだから。
「ああ只田くん、何もすることないなら、グラフを作っといてくれるかい」
係長からの助け舟だ。
「あ、はい。どんなグラフです?」
「そうだね、普通の折れ線グラフでいいよ。3本くらい、見やすい色わけで。何パターンか作っておいて。一番見栄えのいいやつを壁に貼るから」
「わかりました」
小林さんは話もちゃんと聞いているし、要領も良い。パソコンも普通に使えるようだ。
係長の指示通りに、適当に数値を入れてグラフを作っていく。キレイに出来た山型を、見栄えのいいように細かく修正する。
こんなもんかな。試しに一枚印刷をしてみる。
刷り上がった用紙を僕が確認していると、小林さんが横から首を伸ばして覗いてきた。
彼女は言った。
「これ、どうするんですか?」
僕は答えた。
「知らない。壁に貼るって言ってたけどね」
「ふーん、そうなんだ」
少し素っ気なかっただろうか。まあいいか。
昼休み、係長が言った。
「今日は小林さんの歓迎会でもしようか。只田くん、店の予約は任せていいかい」
相変わらずの唐突さだけど、新人さんが入ってきたのだから、これくらいは普通の流れだろう。
出席を取る。魚顔の松木、真面目な平岡、お局の宮さん。そして係長と僕らの、計6人。
場所は、いつも使っている焼き鳥屋さん。
そこそこ人気の店らしいけど、いつ行っても僕らの席くらいは空いている。まあ、一番のポイントは、会社から近いってことなんだけど。
平日だというのに、飲み屋街はそれなりに人がいる。
がやがやとはよく表現したものだ。騒がしく皆が話しているのはわかるのに、何を話しているのか、内容はちっとも聞こえてこない。まるでカエルの合唱を聞いているようだ。
薄暗くなってきた。いくつも続くオレンジ色の光の中を、僕らもがやがや言いながら歩いている。
がやがや、がやがや。
ところどころで白い煙が立ち上る。夕方の街はいっせいに動き出す。似たような店が並んでいるので、少しでも目立つように、どこのお店も必死なのだ。
一度だけ、アイスクリーム屋の看板から、白い煙が出ているのを見たことがある。すぐに変わっていたところを見ると、さすがに何かの間違いだったのだろう。
「ここだよ。ここの焼き鳥は美味しいんだ」
「へー、楽しみですー」
ガラリと戸を開け、のれんをくぐる。
「いらっしゃいませー」
盆を手にしたままで、若い兄ちゃんが挨拶していく。すぐに女の子がやってきて、席に案内してくれる。いつもの通りのやり取りだ。
「とりあえずビール」
「僕も」
「私、ウーロン茶」
言わなくても出てくるのだが、それはそれ。とりあえず注文はしておく。僕はあまり味がわかるほうではないのだが、それでもここの料理は好きなので、きっと美味しいのだろう。
とりあえず乾杯。今日もお疲れ様でした。
僕は突き出しのよくわからない酢の物をぱくつきながら、喉の渇きを潤す。
出てくる料理をめいめいが適当につまみ始める。こういうとき、付き合いが長いというのは楽でいい。サラダをとりわけたりとか、誰の酒がどうだとか、面倒なことは何もないからだ。
味がわからなくても、アルコールだけはしっかりと人を酔わせていく。胃に流し込まれてもきちんと頭の中までたどり着き、しっかりと脳みそをかき混ぜる。
そうだ、アルコールも自分たちの仕事をしているわけだ。うん。これはまるで人間社会の縮図なのだ。
そんなことを考えているうちに、ゆっくりと思考がとんでいく。
「よく思うんですよ、何のために仕事をしてるんだって」
真面目な平岡が、ジョッキをがとんとぶつけながら言った。
別に珍しいことじゃない。酔うといつもよくわからないことを言うクセがあるのだ。今日はそれが、仕事の話題だっただけのこと。
「仕事なんて、そんなもんでしょ?」
お局の宮さんは、酒はあまり飲まない。そのかわりヘビースモーカーだ。端っこの換気扇の横の席が定位置だ。
「やりがいとかってことですか? まあ、仕事してるフリだけじゃ、なかなか感じられませんよねえ」
僕も返した。頭の中では脳みそがすでに縦にくるくる回っていた。
一瞬あいて、場が凍り付いた。
自分たちだけでなく、隣の客も含めた店内全体がぴたりと押し黙り、流れているテレビの音声だけが響く。
「ま、まあ、フリでもなんでも、仕事は仕事さ、うん。毎日大変だからな」
係長がむりやりなフォローを入れて、すぐに時間が動き出す。ぎこちないながらも、店内の喧騒が戻ってくる。
危なかった。数秒のことだったけれど、ぶち壊してしまうところだった。気を付けないと。
「そういえば係長、私たちの会社って、一体何をする会社なんですか?」
僕らが胸をなでおろしていると、小林がさらに突っ込んできた。係長がぎょっとした顔をした。
そのとき初めて、僕は彼女に興味を持った。少しだけ、彼女に期待をしたのだ。
「そうだねー、ノートを見ながら数字を並べて、それを計算していくとかかな」
係長は無難な答えを返した。
「営業に回って、色んな会社に挨拶するとかもね」
魚顔の松木も言った。
「喫煙室でそれっぽいグチをこぼしたり」
お局の宮さんだ。会社の喫煙室は、ほぼ宮さんの専用スペースだ。
「まあ、タヌキみたいなもんだな」
誰かが言った。隣のテーブルの客かもしれない。意味がわからなかったようで、小林はきょとんとしている。
「今の若い子は、火星タヌキなんて知らないか」
そう言って、宮さんは煙を吐いた。
(僕だってよく知らないけどね)
心の中でツッコんでおく。
「カセイタヌキ? なんですかそれ」
小林さんの顔はすでに赤かった。お酒は弱いのだろうか。
「火星にいるタヌキさ。人間の真似をして、仕事をするんだ」
「へえ、何で真似するんです?」
「そりゃタヌキだからさ」
「じゃ、何の仕事をするんです?」
「何の仕事もしないよ。仕事の真似だけ」
「それじゃ仕事なんかしてないじゃないですか」
「当たり前だろ。タヌキなんだから、仕事なんかするわけない」
「なるほど、それもそうですね」
わかったのかわからなかったのか、小林さんはこくこくと頷いていた。
グラスをきゅーっとあげて飲み干す仕草は、少し可愛かった。
「さて、明日も仕事だからな、ここらでやめておくか」
相変わらず唐突な係長の一言で、その日はそこでお開きとなった。
帰りつき、ベッドにもぐりこむと、すぐに眠気が襲ってくる。
今日の小林さんは少し面白かったな。
明日から、少しは毎日が面白くなるだろうか。




