私はいない方がいいと思うから
「えりか、オレンジジュース飲む?」
僕は漢字練習帳に漢字を書き込むのに集中しているえりかに、そっと声をかけた。
「……のむ。うみがめさん、ありがとう」
目を合わせてお礼を言われると、少しどきっとする。手の届かないところを舞う、桃色の羽の美しい蝶を見つけた時のように。
えりかは僕の手からコップを受け取ると、小さな口をコップのふちに当てた。喉がかすかに動く。
僕は、針に糸を通し、手を動かし始める。えりかも隣で漢字の続きに取り掛かった。
「そういえばさ、今作ってるこれは、実は文化祭でやろうと思ってるぬいぐるみ劇に使うやつなんだよね」
しばらく時間が経過した後、僕は口を開いた。
「文化さい? ここでやるのじゃなくて?」
えりかが鉛筆を置く。ころん、と2Bの鉛筆がノートの上を転がる。
「そう、文化祭。学校の一年で一番大きな行事なんだ。えりかの小学校でいうと、なぎさこどもまつりみたいなもんかな」
「なぎさこどもまつり……?」
えりかが首をかしげる。話がうまく繋がった。コミュニケーション能力の低い僕にしては。
「そう、十月にあるんだよ。僕の時は、輪投げとか、ボウリングとか、割り箸鉄砲とかやったっけ。そろそろ準備も始まってるんじゃないかな」
「へー。でも私、ひっこして来たばっかりだし学校行ってないから知らない」
……まあ、そうだろうな。だが、そうだからこそ、この話に持って行ったわけだ。
「学校のみんなと、なぎさこどもまつりの準備するのとか、楽しかった思い出があるな。僕が小六の時にやったのはお化け屋敷だったんだけど、みんなでゾンビみたいな格好して教室を暗くして脅かす練習したり、お化け屋敷のコースを作ったりして」
実際、僕は大げさに語っているわけでもなく、なぎさこどもまつりは本当に楽しかった。僕は途中で上から来場者に落とすクモのぬいぐるみを作った。確かすごい雑だったんだけどその雑さが怖さを引き立てているって言われた記憶がある。ていうか、僕の人生で一番好評だったのがあのクモな説まである。その間何をしてたかって? 一生懸命努力を重ねてたんだよ! あんまり報われてなくて辛い。
「……楽しそう」
「でしょ」
いい感じに興味を持ってもらえてるな……そう思ったのも一瞬、僕はえりかが悲しそうな顔をしているのに気がついた。身にまとっているピンクの服も明るく感じられず、えりかは、大海原に取り残されたうみがめのように見えた。
「楽しそう……だけど……私は……」
「……」
えりかは途切れ途切れに言葉を絞り出し、そして
「私はいない方がいいと思うから」
そう言うと、漢字練習帳に目を落とした。
「……」
僕は黙っていた。というより、黙っていることしかできなかった。
「私ね、病気なんだ。今もまだ治ってない。六月に退院して、半年くらい入院してた」
えりかは、ぽつぽつと話し始めた。知らなかった。えりかが病気なんて。
「その前も入院なんどもしてて、学校ほとんど行けてなくて、だから病気がよくなって、お医者さんからもうこれからは学校行けるよって言われた時、すごくうれしかった」
「……」
「……なのに、みんなに私はいらないって言われちゃったの」
えりかはそういうと小さな声で泣き始めた。下を向いているから顔は見えない。けれど、漢字練習帳にぽたぽたと落ちる涙はどんどん増えていった。
えりかが書いた漢字が滲んで行く。
「えりかちゃん。大丈夫? ほら、ここにおいで」
梨田さんが駆け寄ってきて、えりかの前に座る。えりかは顔を梨田さんの膝に埋めた。
僕はただただ、ぼーっと自分の手元の、黄緑色のフェルトを見つめていた。
気がつけば時間が経っていた。梨田さんに背中をさすられ、泣き止んだえりかは帰って行ってしまった。部屋の隅に僕一人が取り残される。
「……えりかちゃん、夏休みのスポーツ大会を思い出しちゃったみたいね」
えりかがいた場所に梨田さんが座ってきた。
コップに八割方残ったえりかのオレンジジュースがかすかに振動する。
「スポーツ大会……」
「そう。それがえりかちゃんが学校に行かなくなった原因なんだよね……」
「……」
「えりかちゃんが学校に行き始めてあまり経たないころね、スポーツ大会があったんだけど」
そういえば、僕が小学生の頃から、運動会とは別に、夏休みの始めくらいにスポーツ大会という行事があった。
「……えりかちゃん、ずっと入院していたから、すごい楽しみにしていたみたいなんだけどね、クラス全員リレーで事件が起こったの」
……嫌な予感がした。
「私も見に行ってたんだけどね、えりかちゃんにバトンが回った時は一位だった」
梨田さんは、窓の外……小学校の校庭の方を見つめた。
「だけど、えりかちゃんが走っている間に他の全組が追い抜いたの。えりかちゃん、病気で運動できない時が多かったから……でもえりかちゃんは、全力で走ってて……それでみんなに謝って。なのに……」
いつもおっとり話す梨田さんの声が上ずっている。それでも梨田さんは続けた。
「誰がが言ったの。『お前の代わりに田上が走ってたら一位だったのになんでお前学校来たんだよ』って。田上くんはクラスで一番足が速い子で、えりかちゃんが休んだら、田上くんが二回走ることになってて……そうしたら伝染したように似たようなことを次々他の人たちが言ったの。えりかちゃんをかばう子もいたんだけど。結局けんかみたいになっちゃって……」
そこまで言うと梨田さんは口をきゅっと結んだ。
「……それで、えりかは学校に行かなくなってしまったんですか」
「うん……」
梨田さんは、ゆっくりと立ち上がり、えりかのオレンジジュースを持って奥の部屋へ行った。再び一人になった僕は機械的に針を動かし始める。
午後三時。学校から直接児童館に来る小学生たちが来る前に、僕は児童館を後にした。結局作業はあまり進まなかった。