”海の穴”編
はじめまして。
サカグチアカネと申します。
思いつきで書き始めたもので、この続きが本当に書けるのか否かは未知数ですが、とりあえず書けている分だけでも公開しようかと思います。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
「やっぱり綺麗だなぁ…」
今年も見事に咲いたと、自宅の前の桜並木を通りながら、澤木凉太は新しい学校での新しい生活に胸躍らせた。
今日から高校生になるわけだが、小学校、中学校と一緒だった学友たちはそれぞれ別の高校へ進学することも多く、同じ中学から上がった友人は一人だけだった。
小学校からの幼なじみで、きっと親友と言っていい間柄だろう。とてもいい奴なのに、少し口下手だから女子と上手く話せなくて、何かと放っておけないのだ。
「お、噂をすれば……」
桜の向こうに見知った背中を見つけ、凉太は笑顔で駆け出した。
**
寒い……。
それに、草と土の匂いがする。凉太はすぐに中学の校庭を思い出した。
友だちと遊んでいて、自分は校庭で転んだのか?……いや、違う。自分は高校生になったのだ。
今日は入学式で、講堂での式が終わったら解散だった。式のあと、凉太は親友である幼なじみとこれからの高校生活について話し、可愛い女子がいたかどうかとお互いをからかった。それから、凉太は家の用事があったので先に帰ったのだ。でも、帰る途中で雨が降ってきて、それで……それで、どうなったんだっけ?
凉太はなかなか離れようとしてくれない瞼を無理矢理こじ開けた。
目の前にあるのは濃く鮮やかな緑色。自分が土と草の上にうつ伏せで寝ていることに、凉太はここにきてようやく気がついた。
ここはどこだ?凉太はゆっくりと身体を起こそうとした。
「うっ…」
ところが、まるで休みの日に十時間くらい寝てしまったときのように、身体が固まって思うように動かせない。筋肉がギシギシと嫌な音を立てている気さえした。
どれほど長い時間、自分はここで寝ていたのだろう?そもそも何で、こんな外で寝ていた?痛む腕をさすりながら、凉太は辺りを見渡した。
「どこだよ、ここ?」
木と草に囲まれていて、空は葉っぱと枝の隙間からほんの少しだけ覗いている。林や公園というより、森といった雰囲気の場所には全く見覚えがない。少なくとも、家の近くでないことだけは解った。
そして、恐らく高校の近くでもないだろう。上手くは言えないが、違う。学校の遠足で行く、よく知らない場所とか、そういう空気とは全く別の空気がこの森には漂っていた。
土と草の絨毯はほんのりと濡れている。顔と身体にところどころ付着した土や葉っぱを払いながら、凉太は近くの大木に身を預けるように座った。
特に意味はないかもしれないけれど、何もないところへぽつんと座っているよりは、幾分か不安が取り除かれたような気がする。寒さで震える手を木の幹にすがらせ、改めて凉太は辺りをよく見まわしてみた。
……誰もいない。動物や鳥の鳴き声さえ聞こえない。落ち着いて、記憶を掘り起こしてみる。自宅から高校までは電車でたった一駅。家の近くの河川敷まで帰ってきていたことはすぐに思い出せた。
そして、雨が降ってきたから走った。走ったら自宅まで二分とかからないことが分かっていたし、それほど大降りでもなかったから雨宿りなんて面倒なことはしなかった。
「でも、雷が……」
そう、あのとき強い光が辺りを覆って、あまりの眩しさに凉太は目をつぶったのだ。
そのあと頭の遥か上で轟音が鳴り響き……そこで記憶は途切れ、今に至っている。轟音のあと、自分はなぜかこの見知らぬ森の中で倒れていた。
湿った空気と、今にも垂れ下がって来そうな曇天と、閃光と轟音。あれが雷だということはすぐに分かる。しかも、もしかすると自分は落雷にあったのかもしれない、ということも。
凉太は自分の身体を、よく見てみた。目立った怪我はしていない。火傷もしていなかった。
寝起き特有の身体の痛みもすでに消え、とても落雷を受けたようには思えない。
(もしかして……)
と、凉太は考える。近くに雷が落ちた衝撃で、自分はどこか分からない場所に吹っ飛んだのか?だとすれば、よく無傷でいられたと凉太は胸を撫で下ろした。
いや……本当にそうなのか?実は、ちっとも納得はできていない。とにかく、ここでじっとしていても何も変わらない。よろよろと立ち上がり、どこへともなく歩き出した。
幸いにも、荷物は失くしていない。スニーカーもちゃんと履いているし、歩きながら確認したらリュックサックの中身もちゃんとある。ただ、今日は入学式だった。
リュックサックには電車の定期券と、財布と、スマホと、筆記用具と、親から持たされた必要な書類と、タオルハンカチとポケットティッシュと、何かあった時のためにソーイングセットと、絆創膏が二枚、入っているだけ。家に帰ったら、すぐに昼飯を食べてそのあと母親の手伝いをする予定だったから、お菓子の一つも持ってきてはいない。
「せめて飴玉でも持って来ればよかったな……」
凉太は少し後悔しながら歩きつづけた。
当てもなく歩きつづけていると、木々の向こうに道らしきものが見えた。
「あっ…」
良かった!ほ……、と一安心して、凉太は小走りになった。道に出られれば、必ずどこかに道路標識がある。それを見れば、ここがどの辺りなのか大体は解るはずだ。
「はぁ…はぁ…っ」
森を抜け、道に出る。道は車が一台やっと通れるくらいの広さで、道を横切った先はまた森が広がっていた。
道には轍ができており、何度もここを車が通ったことが想像できる。つまり待っていれば、ここを車が通るかもしれないということだ。
さっきよりも見えやすくなった空は赤みが差してきていて、もうじき夕暮れとなることが窺えた。
「あれ?」
ここでもまた、一つ疑問と不安が湧く。自分が学校を出たのは午前十一時頃だった。
自分は一体どれだけ長い時間、あそこで倒れていたのだろう?
少なくとも四時間以上はこの森のなかで寝ていたことになるわけだが、それにしては身体がわりとスムーズに動いているし、お腹だってそれほど強い空腹は訴えていない。
(何だろう……何か変だよな。でも、何て言ったらいいんだろう?)
はっきりと何かがおかしいことは分かるのに、何をどうおかしいと言っていいのかが分からず、凉太は胸のなかにモヤモヤとした嫌な感じを覚えた。
「それに、この道路……何で標識の一つも建ってないんだろう?」
たまたま、ない辺りなのだろうか?だって、轍ができるような道路で標識を建てないわけがない。
「あ、そうだ、スマホ!」
ここにきて、ようやく凉太はリュックサックに入っているスマートフォンの存在を思い出した。凉太の持つスマホには地図とGPS機能が搭載されていて、起動させれば今いる大体の位置が解るはずだ。
早速スマホを取り出し、アプリケーションを起動させようとする。が……
「え、嘘だろう⁉」
何と、ディスプレイの左上には今はもうほとんど見ることがなくなった『圏外』の二文字が燦然と輝いているではないか!
このスマホを購入してから、一度として見ることがなかったその二文字を前に、凉太は絶望でクラクラとした。
「圏外って……今どき圏外って……」
近くにあった木に寄りかかり、何とか耐える凉太。その顔は真っ青で、今にも泣き崩れそうだった。
「何で、…何がどうなってんだよー!」
──────は‼
天高く叫んだ凉太は、そこであることに思い至る。まさか……まさか、自分は、あの落雷に遭って、死んでしまったのでは?
「そんなっ…そんなことって……っ」
だとしたら、ここが天国なのか?
突飛だが、ありえないことではない現実に、寄りかかっていた木のそばにしゃがみ込みそうになる凉太だったが、その時、道の右側から何やらガタガタという音が聞こえてきて、視線をそちらへ向けた。
「あれって、車?」
四角い箱のような形がかすかに見えて、凉太は当たり前にそれを車だと思った。しかし、それの姿がはっきりと見えるほどに近づいて来ると、それが車ではないことが分かった。
「……ば、馬車っ?」
そう、あれは間違いなく、凉太がテーマパークや映画などのなかでしか見たことがない中世の乗り物、馬車だった。
四頭の馬で引くタイプの大きな馬車で……と、思いきや、よく見ると馬車を引いているのは馬ではない。
「牛?」
ちょうど目の前を通り過ぎた瞬間、それほど早いスピードでもなかったので引手をよく見ることができたが、どうやら動物は牛のような形をしていた。
のような…と曖昧なのは、完全に牛だという自信が凉太にはなかったからだ。
牛に、似ている気はするが、果たして牛の角は一本だけだったか?
「確か牛って、角が耳の近くに二本あったはずじゃ……」
なのに、今の動物は額のところにユニコーンよろしく角が一本しか生えてはいなかった。
変なの……と思いながらも、凉太は通り過ぎていった馬車(牛車?)を見ていた。すると、少し先で牛車はゆっくりと停車し、鉄製の黒い車部分の後ろにある同じく鉄製の扉が勢いよく開き、中からそれは大きな男が下りてきたではないか。
熊の毛皮のようなものをまとって、鉄の帽子をかぶっていて、顔じゅうを覆うような黒いヒゲ。まるで山賊のような風体の男は、まっすぐに凉太の方へ大股で歩いてきた。
その姿にさすがに驚きを隠せない凉太は、牛車が停まったときは助けてもらえるかも、と期待していたが、今は恐怖に震えた。
とっさに逃げようとしたが、木の幹に足を取られてその場に尻餅をついてしまう。
「あ…あ……」
恐怖ですぐに立ち上がることができず、そのまま地面を蹴って後ずさりするが、男は容赦なく凉太に近づいてきて、足元に軽くしゃがむと、無遠慮に凉太の顎を片手で掴み、上へ、ぐいっと持ち上げた。
「なにっ、何だよ⁉」
まるで品定めをするような男の目つきと、ちっとも労りがない腕力に、凉太は自分の顎を掴んでいる男の手を押さえて抵抗する。しかし、男は凉太の抵抗など物ともせず、ヒゲで覆われた口をぐにゃりと歪めていびつに笑い、顎を掴んでいた手で今度は首根っこを掴むと、凉太をむりやり立ち上がらせ引きずるようにして歩きだした。
「え、ちょ、おい!はな、え⁉」
身の危険を感じ、凉太は必死で暴れて抵抗する。が、男の力はとても強く、同じように立ったことで分かったが、男の体躯は凉太が最初に感じたよりもさらに大きかった。
身長は二メートルを有に超えているように見える。まるで巨人だ。
首根っこを掴まれて引きずられている凉太の身体も、男の腕力が強すぎるせいで時々浮いてしまう。
「はなしっ、…やだっ、誰かー!」
必死で誰かに助けを求めるも空しく、凉太は男が出てきた鉄の車に放り込まれてしまった。
「うわ!」
鉄の車の中には藁が敷かれていて、放られても怪我はしなかったが、身体にはそれなりに衝撃が走った。うつ伏せのまま、凉太は後ろを振り返る。と、男が鉄製の扉を閉めてその前に仁王立ちしてこちらを見下ろしていた。
男の目が白くギラギラと光っているように見え、凉太は密かに震えた。
鉄の車には四か所のぞき窓があって、そこから外の明かりを取り込んでいるようだった。
薄暗い車内に、凉太は目を凝らす。すると、車の中には凉太の他にも数人の人が乗っていた。
みんな凉太よりも小さい、少年や少女たちのようだ。しかし、やはりどうにも違和感を覚える。その少年少女たちは、容姿は凉太よりも三、四歳は幼そうなのだが、身体の大きさは凉太の倍はありそうなのだ。
(デカくね⁉)
自分は、巨人の国にでも迷い込んでしまったのだろうか?
子どもたちは新しく乗せられてきた凉太を、最初は悲しげな目で見たが、凉太の身体が明らかに自分たちより小さくか弱いことに気づくと、目を丸くしてお互いに顔を見合わせるような仕草をした。
やがて、牛車がゴトン、ゴトン、と音を立てて動き出すと、扉の前に仁王立ちしていた男もドスン、ドスンと歩きだし、車内を横切ってもう一方の扉から外へ出て行った。
凉太は男が開けるまで、もう一方の扉があることに気づかなかったが、パニックになっていたのでは当然だろう。あちらの扉は牛(に似た動物)を操る御者が座っている外へと繫がっているようだ。
(何なんだよ、これ……どうにかして逃げないと!)
かすかに日向の匂いがする藁の上に座り込みながら、凉太は自分が入れられた方の扉を見つめた。その時、ふと近くに気配を感じ、振り返った。
「わっ」
気づかないうちに、車内にいた数人の子どもたちが凉太の近くへ寄って来ていたようで、みんな四つん這いの状態で凉太を取り囲むように座っていた。
「びっくりした~」
凉太は子どもたちを見回す。近くで見ても、身体の大きさ以外は本当に普通の十歳~十三歳くらいまでの子どもたちだった。
「ねえ、お兄ちゃん何でそんなに小さいの?」
「ドワーフじゃないよね。おヒゲがないもん」
「もしかして、妖精?」
「妖精じゃないよ!ぼく見たことあるけど、妖精はもっともっと小さくて、もっともっとキラキラしてるんだよ!ずっと浮いてるし!」
色々と自由な子どもたちに、凉太の混乱は増す。この子たちの言っていることが半分以上、理解できない。身体の周りに?マークを山ほど飛ばして、それでも凉太は丁寧に子どもたちの質問に答えてあげた。
「お……お兄ちゃんが小さいというより、きみたちが大きいように思うんだけど…。あと、お兄ちゃんはドワーフじゃないよ。人間の…日本人だよ」
「「「にんげん?」」」
数人の子どもたちが同時に聞き返し、顔を見合わせたあと一人の少女が凉太に尋ねた。
「にんげんって、なぁに?」
少女の目に見つめられながら、凉太は固まった。
「な、何って……」
どう返していいのか分からない。人間って何?と聞かれても、人間は人間だよ、としか答えることはできない。でも、この子たちの言わんとしていることは、そういう答えでは意味がないように思えるのだ。
嫌な予感がする。いや、実は結構以前からしていた。落雷に遭ったはずなのに、無傷だった時から。牛に似た知らない動物に引かれる、時代錯誤な鉄の乗り物。山賊のような出で立ちをした大きすぎる毛むくじゃらの男に、この同じく身体の大きな子どもたち。
ドワーフや妖精の話を当たり前のようにし、その反面『にんげん』を知らないと言う……。
凉太は震える唇で子どもたちに言った。
「ここって……ここは、地球だよね?」
子どもたちはまた顔を見合わせ、首をかしげた。また、さっきの少女が口を開いた。
「ちきゅう?違うよ、ここはイリシエラだよ」
寂しい目をした少女の答えに、凉太は強い眩暈を覚えた。
**
ガタン、ゴトンと時折揺れる牛車の中。のぞき窓からの光が及ばない隅っこで、凉太はもう三十分以上、藁にくるまって黙り込んでいた。
(そんな……ラノベやゲームじゃあるまいし、こんな…別の世界に飛ばされるなんて……そんなことあるわけが……!)
そんなことあるわけがない。と思いながらも、だったらもうあとは本当に死んでいて、ここは天国だとしか考えられなくなる。まだ十五年しか生きておらず、誕生日でもエイプリルフールでもないのに、こんな大規模かつたちの悪いドッキリを仕掛けられる覚えも凉太にはなかった。
(どうしよう、どうすれば……)
顔を上げ、ちら…と例の子どもたちを覗き見る。子どもたちは、すっかり何もしゃべらなくなってしまった凉太に飽きたのか、それとも“迷子”である凉太を哀れみ、そっとしておこうと思ったのか、それぞれ好きな場所でぼんやりしていた。
先ほど、凉太は子どもたちからとても恐ろしい事実を聞いてしまった。
『ぼくらは売られるんだよ』
『そのために、さらわれたんだ』
『私はお父さんに売られたの。家が貧しくて……』
『あいつらは人狩り。お兄ちゃんも狩られたのよ』
口々に語られるおぞましい現実は、どれも耳を覆いたくなるような内容で、凉太の気持ちをより一層どん底へと突き落とした。目まぐるしく進む状況に精神がついていかない。だが、あの森で目覚めた時から感じていた強い違和感の正体はやっとつかめた。
どうりで全く違う空気を感じたわけだ。だって、本当に全く違う場所だったのだから。
行ったことがない場所どころか、絶対に生涯来るはずもない場所で、もっと言うと存在すら知らず、信じていなかった場所に来てしまったわけだ。
よく、人が踏み入ってはいけない場所へ近づくと、子どもはそれを本能的に察知し、『ここは嫌』『ここにいちゃだめ』と、それ以上先へ進むことをやめるというが、今、凉太が、全身がヒリヒリするくらいに感じているのは、そういった“場違いな空気”をさらに強くしたものだった。
身体が、心が、全力でこの場所を拒絶している。自分は、ここにいてはいけない……と、本能が告げていた。
(とにかく、何とかしてここから逃げないと……)
自分が放り込まれた方の扉と、巨大な男が消えていった扉を交互に見て、凉太はゆっくりと立ち上がった。
子どもたちが凉太の方を見る。凉太は子どもたちの視線には気づかず、ふらつきながらも入ってきた方の扉に近寄り、ノブを掴んでガチャガチャと回した。
「くそ、びくともしない…!」
すると、背後から慌てた子どもたちの声が凉太に突き刺さる。
「何してるの、お兄ちゃん!」
「だめだよ!逃げようとなんてしたら、殺されちゃうよ!」
二人の少年少女が凉太に抱きつき、必死で止めようとする。
「え、お、苦しい…っ」
子どもたちからすれば普通に抱きついたつもりなのだろうが、何せ子どもとはいえ凉太より身長が少しだけ高い上に、腕の太さは成人男性並だ。
「ちょ、離して、離してマジで!」
苦しさのあまり顔を真っ赤にしている凉太に二人が気づき、慌てて解放された。
(危なかった!もうちょっとでこの子たちに殺されるところだった!)
喉元を押さえ、ぜぇ、ぜぇ…っと荒い呼吸をする凉太を前に、子どもたちが「ご、ごめん……」「力加減、考えるね……」と、申し訳なさそうに言ってきた。
無駄に情けない気持ちにさせられながら、凉太は子どもたちに向き直る。
「……逃げようとしたら、殺されるって?」
「うん……」
子どもたちは悲しそうにうつむく。そんな中、一人の少女が重たい口調で言った。
「死んじゃうよりは、ましだもの」
凉太は困惑した。
「じゃあ、どうすれば……俺たちはどうなるんだ?」
…………。
子どもたちはうつむいたまま、それ以上は何も答えなくなった。
悲しい目。空ろな目。誰かの、それも子どもの、こんな暗い穴のような目を間近で見るのは初めてのことで、凉太は言い表しようのない恐怖に駆られた。
車内が淀んだ緊張で張り詰め、今にも弾けそうになっていた…その時だった。
ゴドドドン!と音を立てて牛車が大きく揺れ、その衝撃で、立っていた二人の子と凉太は藁の上に転んでしまった。
(もしかして、停まった?)
大きく揺れたあと振動がなくなったことで、凉太は牛車が停まったことに気づく。確かめようと、四つん這いのまま藁の上を這って、のぞき窓から外を見てみた。
鉄格子のはまった丸いのぞき窓から見える外の光景に、凉太は息を呑んだ。
「何だよ、ここ……」
小さなのぞき窓からは全てが見えるわけではないが、凉太を驚愕させるには充分だった。
気づかないうちに牛車は建物の中に入っていたようで、巨大なドーム型の天井はガラスでできているのか、青く輝いている。その天井ガラスの中心から、すーっ…と一本のタワーが下へ伸びていて、天井と同じくガラスでできているタワーの周りを守るように、金色の樹木が美しい模様を描いて枝を天井へ向けて伸ばしていた。
樹木が天井ガラスにまで届き、ガラスを補強するように八方向に伸びている。伸びた枝を線で結べば、ちょうど八角形ができるように。その枝の先には明かりが灯っていて、建物の中を淡い光で照らしていた。
中心のドームの周りにはひと際大きな円形の街が広がっており、遠くからではよく見えないが、人や牛車が行き交っているようだ。中心の街以外にも、土と木でできた壁に沿うように、たくさんの円柱形の建物が広がっていた。
その形は、まるでガラスでできた鳥の巣のようで、中には人や動物の姿がある。小さい民家のような物から、店や公園、集落のようになっている物まで、色々な大きさの鳥の巣が見られた。そのどれもが淡い光をまとっていて、薄暗い建物の中を照らしてくれている。中心にある巨大な円形の街からは四方へ橋が伸びていて、どうやらそれで町と他の巣とを行き来しているようだ。
今、凉太たちの乗っている牛車が停まっているのは、土と木でできた壁に沿うようにしてつくられた道で、つるつるとした大理石のような道にはご丁寧に同じく白い石で柵までついていた。
「あ……」
よく見ると、巨大な円形の街の下は木と岩でできた何本もの杭で支えられているようで、四方に張り巡らされた杭がどこまで深く下へ伸びているのかは、ここからでは分からなかった。
他の鳥の巣も、壁から比較的離れているところに建っているものの下には杭が見えた。
青いガラス天井から注ぐ青白い光と、建物の中を全体的に照らしている淡い黄色とオレンジ色の明かり……。
「……きれいだ」
凉太の口からは、思わずそんな声が漏れた。
今まで見たこともないような不思議な美しさを放つこの場所に、凉太は自分の危機的状況も一瞬だけ忘れ、ため息をついた。
そして……
ドガン‼
勢いよく開かれた鉄製の扉に、一気に現実に引き戻された。
御者が座っている方の扉から車内へ入ってきたのは、案の定あの巨大な男だった。
子どもたちは一斉に固まり、車内の隅っこで身を寄せ合う。突然のことだったので、凉太はのぞき窓の下からとっさに動けず、その場で男を凝視した。
男はギロリ、と子どもたちを睨んだあと、そちらへは行かずに凉太の方へまっすぐ歩いてきた。凉太は身構える。さらに、男のあとから続いて、恐らく御者をしていた別の男も車内に入ってきたことで、凉太の緊張はさらに高まった。
御者の男は、毛むくじゃらの男よりも細身だったが、同じく長い顎ヒゲを携えており、毛むくじゃらの男よりも少しだけ小奇麗な服装をしていた。
「こいつか?」
細身の方の男が、隣に立つ毛むくじゃらの男へ尋ねる。その顔には嫌らしい笑みが張りついていて、凉太は、ゾッ……とした。
「ああ。珍しい生き物だろう?妖精でもなければ、ドワーフでもなさそうだ」
細身の男の問いかけに答えながら、毛むくじゃらの男が凉太の顎をまた無遠慮に掴んでくる。凉太は男の手を押さえて抵抗するが、やはり力では勝てそうもなかった。
毛むくじゃらの男の言葉に、細身の男もうなずく。
「確かに……ドワーフにしては毛がないし、細すぎる。それにドワーフは、もっと醜い」
細身の男は、凉太の頭の上から足の先まで舐めまわすように見ながら、黄ばんだ不揃いな歯を見せてニヤリと笑う。毛むくじゃらの男も、細身の男と顔を見合わせながら笑っていた。
「よし!」
細身の男が手を叩いて言った。
「あのガガチのガキどもはお前に任せる。こいつは俺が連れていこう」
「おう、分かった」
決まると、男たちはすぐさま動き出す。毛むくじゃらの男は凉太の顎を解放し、車内の隅っこで固まっている子どもたちの方へ行くと、腰のベルトに下げていたロープを取り出し、嫌がる子どもたちを一人、一人、縛っていった。
「いやー!」
「やだよぉ!」
「怖いよぉ!」
子どもたちの泣き叫ぶ声に、凉太は、ハッ…として叫んだ。
「やめろ!」
子どもたちの方へ駆け出そうとしたが、それは叶わなかった。近くに立っていた細身の男に首根っこを掴まれてしまったからだ。
「うぐっ…」
男は凉太を自分の方へ引き寄せ、その手を一まとめに掴むと、素早い動きで木の板でできた枷をはめた。
「諦めろ、諦めろ!抵抗すると生傷が増えるだけだぞ!それに……」
男は凉太の顔を掴んで、顔を異様なまでに近づけて言った。
「傷がつくと高値がつかないだろう?」
こんな汚い笑顔を見たことがない凉太の背筋に、今まで経験したことがないほどの怖気が走る。ただでさえ、彼らは大きい。手だって凉太の頭をすっぽりと包み込んでしまうほどあるのだ。
毛むくじゃらの男は泣き叫ぶ子どもたちを容赦なく鞭で引っぱたき、凉太と同じ木の枷をはめ、ロープで全員の身体を繋げるように縛ると牛車から下ろした。
もはや抵抗する子はおらず、みんなすすり泣きながら素直に毛むくじゃらの男に先導されていく。逃げようとすれば殺される……少女の言葉が凉太の胸に刺のように突き刺さっていた。
細身の男に腕を乱暴に引かれ、凉太は子どもたちと同じように牛車から下ろされる。すると、牛車ののぞき窓から外を覗いていたときよりも、凉太の目に不思議で美しいその場所が飛び込んできた。毛むくじゃらの男は子どもたちを繋いだロープの先を持って歩きだし、細身の男は凉太の腕を掴んだままあとに続いた。
凉太は首を動かして、今いる場所をよくよく見た。
青白く輝いて見えたガラス天井の青は、ガラスの色ではなかった。
(あれって、水?まさか、ここは……)
ガラス天井の向こうには、岩や草、泳ぐ魚のようなものの姿も見える。そう、ここは建物の中ではなく、海の底に造られた巨大な街だった。
凉太は、大理石のようなもので出来ている大きな通路から広場に目を移す。そこには何台かの牛車が停まっていて、人もたくさん蠢いていた。
そのほとんどが、自分と子どもたちのように木の手枷とロープで拘束されていた。
「ここって……ここって、何なんだ?」
細身の男と歩幅が全く合わず、乱暴に歩く男に無理矢理腕を引かれているため、凉太は何度もたたらを踏みながら男に尋ねた。男は何がそれほど愉快なのか、ニヤニヤと笑いながら凉太の方は見ずに答えた。
「何って、分かるだろう?お前だって父ちゃんや母ちゃんからこう言われて育ったはずだ。“あんまり悪さばっかりしてると、人狩りに捕まって『海の穴』に連れていかれるぞ”てな!」
海の穴……その名前はこの街、いや、もはや国といってもいい規模であるこの場所に、ぴったりだった。細身の男はさらに言う。
「まあ、何も悪いことしてなくても捕まるときは捕まるんだけどなー!ナハハハハ!」
下劣な笑い声に、凉太は顔をしかめた。
凉太は、自分がこことは異なる世界から来たことは言わなかった。言っても何もいいことはないだろうと思ったからだ。
広場に着くと、そこには子どもだけでなく大人もロープで繋がれ、手枷をはめられていた。
彼らもまた、子どもたちと同じような顔をしている。何もかもを諦めたような、寂しい目。ふと、凉太は大理石のような広場の地面に映る自分の顔を見た。
(……俺は、あんな目はしてないな)
それが幸か不幸かは分からなかったが、自分はまだ諦めていないということの表れのような気がして、凉太は少しだけ安堵した。その時、広場にひと際、豪華な衣装に身を包んだ若い男が現れ、お立ち台の上に乗って高らかに声を上げた。
「諸君!イリシエラ一の奴隷市場、“海の穴”へ、ようこそ~~~~~~‼」
両手を大きく掲げ、とびきり邪悪な笑顔でそう叫んだ男に、広場にいる人狩りたちから歓声が沸く。もちろん、凉太を捕まえている細身の男も、手前に立っている毛むくじゃらの男も、拳を大きく掲げて応えた。
凉太も、一緒に捕まっている子どもたちも、ビクッと肩を揺らし、自然と寄り添い合った。
お立ち台の上にいる男は、まるで道化のような振る舞いで話し始めた。
「お初にお目にかかる者もそうでない者も、とりあえず御機嫌よう。小生はこの“海の穴”を取り仕切る総監督……マス・クァーデゲン十三世!以後、お見知りおきを」
そう言って道化のような男はウィンクした。広いお立ち台の上を歩きながら、男はさらに続ける……。
「ここ最近、浮世では奴隷禁止法なる、極めて暴力的な法が制定されてしまい、我ら奴隷商人一同は誠に……っ誠に、心を痛めていた!……だが!小生は今、とても感動している!浮世の横暴に抵抗し、これだけ多くの狩人たち、そして奴隷商人たちがっ、こうしてここに集まり、これだけの商品を一堂に揃えることができたのだから!」
両手を頭上に大きく掲げ、感極まったように言ったクァーデゲンに、広場にいる人狩りや奴隷商人たちは大歓声を上げた。
それは、凉太の目にはとても異様なものに見えた。
凉太の周りで、一緒に連れてこられた子どもたちはみんな怯え、泣きながら震えていたが、凉太は即物的な恐怖というより、何か異常なものを見せられているような、そんな得体のしれない気持ち悪さを感じていた。
当然、身体が震えて涙もにじむから、怖いものは怖いのだろうが、恐らく凉太が感じている恐怖は、ここにいる他の商品たちとはまた違った恐怖だろう。凉太はここがどういう場所で、どういう世界で、どうして自分がここにいるのかも分からない、いわば迷子になっている状態でここいるのだから。
恐怖と混乱のなか、道化のような男が話す道理の分からない言葉だけが、凉太の耳になぜか妙に鮮明に届いた。
「法律が何だというのだ!ここは“海の穴”…浮世のルールに縛られるなど、ナンセンス!我らの誇りと、名誉は、誰にも傷つけられはしない!大いに!この清く、正しく、美しく、荘厳な、我らの決闘場を!これからも、守りつづけていこーではないかー!」
まるでそれが合図だったかのように、クァーデゲンの宣誓のような言葉に、人狩りと商人たちは再び大歓声を上げ、一斉に動き出した。
凉太の目の前で世界が目まぐるしく動いていく。毛むくじゃらの男は凉太のそばに寄り添っていた子どもたちを力ずくで引きはがし、いずこかへと連れて行ってしまう。
「あ……!」
凉太は咄嗟に一番近くにいた少女の手を掴もうとしたが、すんでのところですり抜けてしまう。少女は悲しげな笑顔で凉太に言った。
「ばいばい」
凉太もまた、細身の男に腕を掴まれ無理矢理歩かされた。
歩きながら、凉太は人波に消えていく子どもたちを見つめた。何もできない、ただ子どもたちが連れていかれるのを見ていることしかできない自分が歯がゆく、悔しく、凉太の目から涙とともに絶望がこぼれ落ちた。
「マス・クァーデゲン様ぁ!」
凉太を連れた細身の男は、今さっきお立ち台から下りてきたばかりのクァーデゲンの前に躍り出て、興奮しながら凉太を前に突き出した。
「ご覧下さい!珍しい生き物でございましょうっ?」
嬉々としてクァーデゲンに凉太を差し出す細身の男。凉太は涙で目を潤ませながらも、精一杯クァーデゲンを睨みつけた。
最初、クァーデゲンはあまり興味がなさそうに細身の男を一瞥したが、凉太の姿を目にした瞬間その色が変わった。
「これは…っ何と……!」
ひと際、屈強な男たちに囲まれるようにして立っていたクァーデゲンが、その囲いの中から一歩、出てくる。そして、まさに道化のような仕草で凉太の顔を優しく持ち上げた。
初めて間近でクァーデゲンの顔を見た凉太は、素直に思う。
(凄いイケメンだな……でも、怖い……)
顔全体を白く塗り、目には黒く濃いアイシャドーを、唇にも同じく黒いルージュを差しているクァーデゲンは、誰もが認めるほどの美男子だ。濃い道化化粧を施してなお、それでも分かるほどに。目は見たこともない紫色。地球の、ホモ・サピエンスには絶対にない色の瞳から間近で見つめられ、凉太はとても居心地が悪かった。
「……素晴らしい!これはもしや、“渡り人”ではないか?」
渡り人?
細身の男はクァーデゲンの言葉に首をかしげて復唱した。
「渡り人?で、ございますか?」
細身の男は“渡り人”という呼び名に覚えがないようだったが、クァーデゲンはとても興奮したように奇妙な小躍りをして、側近らしき屈強な男たちに告げた。
「お前たち!“貴き競り場”の準備をしろ!」
クァーデゲンの命令を受けて、側近たちが慌てたように走り出す。“貴き競り場”とは何だろう?凉太は訳が分からないまま、細身の男とクァーデゲンを交互に見た。
「人狩りよ、よくやった!この品は特別な額で買い取らせてもらおう。この、クァーデゲンが直々に!」
「は、ははぁ……!ありがたき幸せにございます~!」
細身の男はクァーデゲンからのお褒めの言葉に、照れ笑いをしながら凉太をクァーデゲンの側近である屈強な男たちに引き渡した。
「え、え、ちょっと、なに、何なんだよ⁉」
あれよあれよという間に、凉太は屈強な二人の男に担がれ、いずこかへと運ばれる。視界の端で、細身の男がクァーデゲンの側近らしき男からサンタクロースの物かと思うほどに大きな袋を渡されているのが見えた。
細身の男は袋を両手で抱えながら、それは嬉しそうに笑っていた。きっと今まで見たこともないような大金が手に入ったのだろう。汚らしい笑顔だ。
(俺は今、金で売られたのか……)
今まで経験したことのない気持ちの悪さに、凉太は軽い吐き気を覚えた。
そんな凉太の感情など何のその。あっという間に置き去りにして事は進んでいく。凉太を抱えた男たちは広場を抜け、人のいない裏道のようなところを小走りで通り、何度かカーテン状の扉をくぐると、少し広めの部屋へとたどり着いた。
(何だ、ここ?)
部屋の中にはシャワーとバスタブがあって、壁に沿うようにある棚にはたくさんのタオルが用意されている。一瞬バスルームかと思ったが、シャワーとバスタブの向こうには仕切りがあって、その向こうは衣裳部屋のようにたくさんの衣類が飾られ、化粧道具まで用意されていた。
部屋の奥には、また扉が一つあった。
二人の男は部屋の中に凉太を下ろし、後ろからついて来ていたクァーデゲンに一礼すると、カーテン扉を塞ぐようにして立った。クァーデゲンは殊更ゆっくりとした動作で、凉太に近づいて来る。凉太は後ずさりしたかったが、足が震えてそれは叶わない。そうしているうちに、クァーデゲンとの距離は三十センチメートルほどになってしまった。
頭一つ分以上、上から見下ろされ、凉太は生唾を呑み込む。何をされるのか分からず恐怖で小さくカタカタと震えるが、そんな怯えた様子を見せる凉太を前に、クァーデゲンは微笑んだ。
「大丈夫……そんなに怯えないでくれたまえ。怖いことも、痛いことも、何もないよ」
そう言って、優しく凉太の頭や頬を撫でるクァーデゲンに、凉太は怪訝な顔になる。クァーデゲンの一挙手一投足にビクビクしながら、その指先の行方を目で追うことしかできない。クァーデゲンは凉太の腕をなぞるようにして枷までたどり着くと、長い袖の中から手品のようにして取り出した飾りのついた鍵で、簡単に枷を解いてしまった。
「あ……」
急激に解放された両腕が少し心許なくて、凉太は手首をさする。その間に、クァーデゲンは凉太を通り過ぎて部屋の奥へ行き、もう一方の扉を開けて言った。
「お嬢さんたち!仕事だ」
すると、扉の向こうから、数人の女がわらわらと出てくる。白い布を身体に巻きつけただけの衣装をまとった女たちは、みんな絶世の美女ぞろいだった。
女たちは凉太の姿を見つけると、美しすぎるがゆえに不気味さの漂う笑顔で周りを取り囲んできた。
「え、え、えっ?」
みんな金色の長い髪をたずさえ、白目のない真っ黒の目もとても美しいが、やはり大きい。クァーデゲンよりも大きい彼女たちに囲まれ、凉太は恥ずかしいやら怖いやらで赤面した。
彼女たちは何も言わず、ただ笑顔で凉太の顔や身体を確認するように触りまくり、有無を言わせぬ手つきで服を脱がせていった。
「ちょ、ちょおっ……!」
全力で抵抗するが、彼女たちの方が圧倒的に力が強く、笑顔のままかわされてしまう。相手が女の姿をしているだけに、殴るわけにもいかない。結局あっという間に全裸にされ、彼女たちに易々と持たれて、湯の張られているバスタブへ浸けられた。
湯は凉太の太股の辺りまであって、火傷しない程度のちょうどいい温度。恐怖と疲労で冷えた身体には染み入る温かさではあったが、安心はできない。そこへ、女の一人が大きな水瓶を持ってきて、中身を凉太の頭の上で傾けた。
「うわっ……!」
何かと思えば、それは大量の泡だった。少し湯も交じっている。頭からそれをかけられた凉太があ然としているうちに、女たちが凉太の頭から足の先まで丁寧に洗い始めた。
「ふへっ、ちょっと、ちょ……ぅう、くすぐったぁ…ハハ!」
身体を縦横無尽に動く女たちの手に翻弄され、くすぐったさのあまり凉太は笑ってしまう。女たちは凉太の身体を念入りに、余すところなく洗い磨き、温かいお湯で洗い流し、清潔な白い大きなタオルで凉太の身体を包み込むように拭いた。
妙なことに、女たちも湯船に浸かっていたので当然その身体は濡れていたはずなのに、タオルなどで拭くまでもなく女たちの身体と服はすでに乾いていた。
そんな妙なことに気がつきながらも考える暇など与えられず、女たちは凉太を仕切りの向こうへと運んだ。数々の衣装や飾りが置かれているその一角には花の形をした扇風機が置いてあり、そこから何故か熱風がふいていた。
その程好い熱風のおかげで凉太の髪はすぐに乾き、女たちがブラシでもってきれいに梳かしてくる。今朝、入学式へ向かうために家を出た時よりもフワフワになった髪が何だか恥ずかしくて、凉太はうつむいた。
女たちは色んな衣装を出してきては、凉太と衣装を見比べて首をかしげる。どれが合うだろう?どれにする?と、まるで彼女たちにしか分からない言葉で会話しているように、女たちの目や口はせわしなく動いた。
そして、実際そうなのだ。女たちの身振り手振りを怪訝な顔で見ていた凉太に、さっきから部屋の隅で側近と一緒にこちらを見ているだけだったクァーデゲンが告げた。
「彼女たちは人魚だ。ヒトの言葉も理解できるが、地上では彼女たちにしか分からない音で会話している」
人魚たちが最終的に選んだのは、真っ赤な無地の長襦袢に似た衣装だった。
彼女たちが人魚であるということに驚いている間に、流れるような動作で長襦袢を着せられる凉太。最後に、人魚の一人が長襦袢と同じ真っ赤な液体が入った小皿を手に凉太に近づき、薬指にその液体をつけて、凉太の目尻へとさした。
怖くて目を閉じていたが、壁にある鏡に映る自分の顔を見て、凉太は思った。
(舞妓さんみたいだ……)
確かに、目元の赤い化粧は舞妓さんがするものとよく似ていた。
そこへクァーデゲンが側近と一緒に近づいてきて、凉太に告げた。
「魔除けだ」
目尻の赤を指さして言われたそれに、凉太は何も返せない。自分たちの仕事を終えた人魚たちは、音もなく部屋から消えていった。
「さあ、貴き競り場の幕明けだ!」
クァーデゲンがそう宣言すると、側近の一人が凉太を暴れないよう抑え、もう一人がせっかく施した化粧が崩れないよう、優しく黒い布を凉太の目に巻きつけた。
目隠しをされ、側近二人に抱えられ、どこかへと連れていかれる凉太。恐怖に震えながら、見えやしないけれど、目だけはしっかりと開けておいた。
**
黒い目隠しの向こう。大勢の人が蠢く気配がして、凉太はますます怖くなって震えた。
屈強な男二人に両腕を拘束され、凉太の足は宙に浮いていた。男たちによって運ばれて、数秒。凉太はひんやりした地面に下ろされた。
そして、目隠しを外された。
「ひっ……」
凉太はびっくりして息を呑んだ。周りを見回すと、三六〇度、人、人、人!凉太は丸い台の上に、ちょこんと乗せられていて、台を取り囲むように多くの大きな人たちが集まっていた。
大きな人たちは皆、色んな目で凉太を見つめている。映画を観ているような楽しそうな目。良い買い物をしようとしているハンターの目。品定めをしている目。いやらしい目。……気持ちが悪い。堪らない気持ちの悪さから逃れたくて、凉太は上を見た。
高い位置にある平たい天井は真っ黒で、さっき見えていたキレイな“海の穴”は全く見えなかった。
凉太の座らされている台だけが、ぽう……とピンク色に光っていた。
ここは、あのガラスでできた鳥の巣とは違うようだ。
「……紳士、淑女の皆さま。貴き競り場へ、ようこそおいで下さいました」
会場に女性の優しい声が響いた。スピーカーでもない、台の上に立っているわけでもない。どこからともなく聞こえるその声を、凉太は不思議に思った。
しかし、周りに集まっている大きな人たちは特に驚いた様子もなく、皆、映画やミュージカルがいよいよ始まる前のように色めき立っていた。
きっと、この大きい人たちにとっては、響いた声はいつものことなのだろう。
「本日はご覧のとおり、何と、“渡り人”が入荷されました。これは非常に珍しいことでございます。我らが海の穴に渡り人が入荷されたのは、およそ二十年ぶり。皆さま、どうぞ奮って競りにご参加下さいませ」
女性の説明が終わると、会場に集まった大きい人たちから盛大な拍手が巻き起こった。
拍手が鳴り終わる頃、再び女性の声が響いた。
「それでは、五十ガルセンサニーから参りましょう」
聞いたこともない通貨の名前だ。大きな人たちは優雅さを崩すことなく、口々に自分の好きな金額を言っていく。きらびやかな衣装で着飾っている大きい人たちは皆、凉太の目からは必死に餌を求めて鳴いている豚のように見えた。
何だ、これは?自分は今どういう目に合っているのだ?この豚たちは、何をそれほど必死になっているのだ?
大きい人たちが競り落とそうとしている、商品。それが自分だということは、凉太にも分かっている。分かっているから、さっきからずっと逃げようとしているのだが、なぜか身体に力が入らず立てないのだ。大人しく座っているのが精一杯だった。
あの美しい人魚たちに泡で身体を隅々まで洗われてからだ。もたもたしている間に、凉太の値段はどんどん吊り上がっている……のだろう。通貨の名前が分からないから、よく分からない。凉太は必死で身体を動かした。立ち上がることは諦めて、地面を這いずっていくことにする。頑張って身体に力を入れて動かしているうち、座っている状態から横に倒れることはできた。そのまま台の上で、もぞもぞともがいた。
(逃げなきゃ!逃げなきゃ!)
何で自分がこんな目に合わなければいけないのか。凉太の目に涙がにじんだ。
十五年、生きてきて、何も悪いことなんてしていない。勉強だって頑張ってしているし、家のお手伝いだって自分からやった。
友だちが困っていたら当たり前に助けるし、誰かをいじめたことも陰口を言ったこともない。幼い頃、友だちとケンカをしたり、いたずらをしたことならあるけれど。
そんなことで異世界に飛ばされるなら、人は皆、人生のうちで一度は飛ばされなくてはいけなくなるだろう。人はどれほど良い行いをしても、悪い行いをしても、ひどい目に合う時は関係なく合うのだ。“運”は日頃の行いを考慮してはくれないらしかった。
と、その時だった。周りを取り囲む大きい人たちが拍手し始めた。
笑顔でしている人もいれば、渋々といった感じで手を叩いている人もいる。何だ、急に⁉と、凉太はもがくのを一旦やめて見回した。
会場に、またあの女性の優しい声が響いた。
「おめでとうございます。二十七番のお客様。見事、七〇〇〇〇ガルセンサニーで落札されました」
どうやら落札者が決まったようだ。落札者は巨大な蛍の形をしたスポットライトで照らされていた。……いや、よく見るとそれは本物の蛍だった。
巨大な蛍に照らされた落札者は、鏡餅のようなお腹を下品な紫色と金色の衣装で覆った、どこかの王様のような姿をした醜い男だった。
「うえ~……っ」
落札できた興奮から頬を赤く染め、多少息を荒くし、小さい目をギラギラさせて自分を見つめている醜い男に、凉太は素直な声をもらした。
あの人が俺を落札した?……ら、落札って……。絵画とか宝石みたいに、お金で買われたのか?何だか実感が湧かない。それがどういうことなのかも、子どもである凉太にはよく分からなかった。
拍手をする観衆に、男は恭しくお辞儀をしている。その様子を焦りつつ見ていた凉太の目は、いつの間にか背後に忍び寄っていた屈強な男によって再び黒い布で覆われた。
あ……と思ったときにはもう遅く、凉太は男に赤ん坊のように持ち上げられて、台から下ろされた。両手両足を動く範囲で動かして抵抗するが、無駄だった。
四歳か五歳かくらいの時に、予防接種が嫌で泣きわめいて抵抗したが、父親は「はいはい、大丈夫だぞー」と笑いながら凉太を抱え、どれほど必死で暴れてもびくともしなかった。凉太はその時のことを思い出していた。
あの時の絶望感に似ている。そんなことを思ったら父が可哀想だけれど。だって、父があの時、自分がどれほど泣きわめいても腕の力を緩めなかったのは、全て、息子の健康を思ってのこと。今なら当然それが分かった。
父さん……母さん……。
凉太は震えながら両親を思った。助けて、助けて……怖い、怖いよ!
両親に、助けて!と、これほど強く願ったのは、小学生のとき遊園地で迷子になって以来だった。しかし、悲痛な願いも空しく、両親の自分を呼ぶ声が聞こえることはなかった。
そう、もう二度と。
それから、凉太は屈強な男に運ばれて数分間、移動した。その間ずっと目は塞がれていたが、少しして空気の匂いが変わったことが分かった。
外に出たのだ。“海の穴”の外へ。それが分かって数秒後。凉太の身体は優しくベッドのような柔らかい物の上に乗せられた。
さらに、毛布のような物で首から足の先まで覆われた。毛布とベッドからはお日様のようないい匂いがして、その心地よさは眠気を誘う。動かない身体を散々、動かそうとして疲れている凉太は、うっかりすると眠ってしまいそうだった。
ほんの少し離れた所で、男が数名、話をしているのが聞こえる。中には、先ほどの道化師、クァーデゲンもいるようだ。
何の話をしているのかまでは分からない。男たちの声は途切れ途切れだった。
「お買い上げ……あ…小ささ…………ん、お楽し……」
「良い買いも……の…な……ま……む…よ……」
最初に話していたのがクァーデゲンだということは分かったが、次に聞こえた男の声が誰かは分からない。話している内容から察するに、凉太を落札した男だろう。
凉太は暖かい毛布の中で襲い来る眠気と戦っていた。
おかしいな、どうしてこんな急に眠くなったんだろう?凉太は困惑していた。
やっぱり、あの風呂には入らなかった方が良かった。あの人魚にかけられた泡だ。
あれが身体をキレイにするだけのものではなく、身体の自由を奪うためのものだったのだ。強すぎる眠気に逆らいきれず、凉太は悔しさのなか目を閉じた。
しかし、まさに凉太の意識が深いところへ沈んでいこうとした、その瞬間だった。
ゴゴーン!スドーン!
耳をつんざく轟音が辺り一帯に鳴り響き、沈みかけていた凉太の意識を強く呼び戻してくれた。何だ⁉何の音だ⁉かすかに地面も揺れている。どうなっているのか確認したかったが、身体が動かないので目隠しが取れない。凉太は耳をすました。
「何事だ!」
「クァーデゲン様!セントロから伸びる主要な橋が、全て爆破されました!」
「なに⁉一体、なぜ……なぜ、そんなことが!」
どうやら、この海の穴で何か事件が起きているようだ。橋が爆破された、だなんて……ただ事ではない。逃げるなら今しかない!凉太は死ぬ気で身体を動かし、震えながら手を伸ばし、目隠しを外した。
凉太は今、とても豪奢な部屋に寝かされているようだった。広さはそれほどでもないが、とにかく壁に沿うように設置されたソファーも、まるでマットレスのようにふかふかの床も、色は白、金、紫で統一されていて、ちっとも落ち着かない。小さくて丸いテーブルが壁から生えていて、上には恐らく酒が用意されていた。
凉太はというと、丁寧に毛布にくるまれ、ベッドほどの大きさのあるソファーに寝かされていた。ソファーが特別に大きいわけではなく、凉太の方が小さいのだろう。縦に長い部屋で、長いほうの壁には窓が二つあるようだが、カーテンが閉まっていて外は見えない。そして、ほぼ真四角の形をした壁には扉があった。双方に一か所ずつ。部屋の造りを、ざっと見て、凉太はここが部屋ではなく馬車か牛車の中だと分かった。
凉太の足が向いているほうにある扉は開いている。そのすぐそばに、クァーデゲンたちは立っているようだった。
「ぐあ!」
「ひぃ!」
その時、開いた扉の向こうで、男二人のつぶれたような声が聞こえた。目は霞んでいない。凉太は目を凝らして開いている隙間の暗がりを見つめた。隙間の向こうには複数の気配があった。何が起きたのかは分からないが、自分にとって良いことでないことは確かだ。
身体も少しずつ動くようになってきた。凉太は隙間から目をそらさずに、じりじりと這ってソファーから降りる。が、上手く力を入れることができず、べたんっ、と床に落っこちてしまった。柔らかいので痛くはないが、それなりに大きな音を立ててしまったことに、凉太は青ざめ、そぉ……と扉を見た。
「あ……」
目の前の光景に、凉太は震えた。隙間程度だった扉がすでに全開にされていて、そこには見たこともない生き物が立っていた。
白人の男とゴリラが混ざったような、筋骨隆々の巨大な(恐らく)男だ。昔、博物館で見た古代のバイキングのような鎧をまとっている。男は驚きに満ちた顔をして、凉太を見ていた。
男は何も言わず、車内へ上がってきた。出入り口の近くに靴を脱ぐ場所があるようだが、男はお構いなしに土足だ。車内へ入ってきたことで、凉太はあることに気づいた。
この男……とてつもなく大きい。先に会った人狩りより、子どもたちより、クァーデゲンより、圧倒的に上にも横にも大きい男だった。車内ではまっすぐ立つことができず、腰をかがめた状態で凉太の方へゆっくりと近づいてくる。凉太は恐怖で身体の震えが止まらなくなった。
「あ……あ……」
青ざめ、震えながらかすれた声を漏らす凉太に男は気づき、歩みを止めた。凉太はもう少しも身体が動かなくなり、毛布の中でなるべく身体を縮めていることしかできない。男は、ゆっくりと床に膝をつき、じー……と凉太を見つめていた。
(何だよ……なに見てるんだよ?俺のこと、殺さないのか?)
凉太を見つめる男の目はなぜか次第にキラキラと輝きだし、半開きになった口がわなわなし始め、前に伸ばされた両手の指が小刻みに震えていた。この感じ……既視感がある。そうだ。道端などで子猫などを見たときの人間の反応に、よく似ていた。
どうしたんでちゅか~?こんなところにひとりで~!かぁわいいでちゅね~!……という声が、今にも聞こえてきそうだ。
「おい、何してる?」
唐突に開きっ放しになっていた扉の方から声をかけられ、凉太も膝をつく男も、びくりっ、と肩を跳ねさせた。見ると、また別の男が立っていた。その男の容姿は、すでに車内にいる目の前の男と似通っている。恐らく同じ種族なのだろう。も、もうだめだ……。凉太の身体から、がくりっ……と力が抜けた。
外に立っている男は、車内の男と毛布にくるまれてぐったりとしている凉太を交互に見たあと、眉間にしわを寄せて男に言った。
「速やかに保護しろ(・・・・)と言ったはずだ……何をもたついている?」
ん?保護?もう死んだふりしようかな、と思っていた凉太の耳に、自分にとって願ってもない幸福な言葉が飛び込んできて、凉太は閉じていた目を、ぱちくり、と開けた。
「す、すみません、隊長!ただ、その……自分は、こんな小さくて可愛い生き物を見るのは初めてで、動揺してしまいました」
か、可愛いって……。謎の照れくささに、凉太は顔を赤くする。学校の女子や親戚のおばさんたちに言われたことならあるが、全く見ず知らずの人から言われたのは初めてだ。
『隊長』と呼ばれた男が車内を覗き込んできた。凉太の姿を見ると、わずかに驚き、「渡り人か……」と、つぶやいた。どうやら、隊長の方は渡り人の姿を知っていたようだ。
「その子は“渡り人”だ。か弱いから、力加減に気をつけろ」
隊長からの注意を受け、男は慎重に凉太の方へ腕を伸ばし、優しく声をかけてきた。
「もう、大丈夫だ。俺たちはここに捕まってた人たちを助けに来たんだ。何もひどい事はしないよ」
信じていいのだろうか?判断できず、凉太は怯えながら男と隊長を交互に見た。すると、男が毛布にくるまれた凉太の身体を、ゆっくりと抱きあげてきた。その手はとてもおっかなびっくりで、乱暴には感じなかったが、間近で見つめてくる男の顔力はなかなかの迫力だった。
体格の差は歴然で、凉太は男の片腕で充分に持ち上げられてしまう程だったが、男はあえて凉太を両手で優しく抱いていた。まるで、道端で子猫を拾い上げるときのように。
「…………はぁ~」
男はしばし凉太の顔を見つめたあと、大きくため息をついた。凉太は身体を固くして、とろけた顔をしている男を見つめ返す。案外、初めて人間に抱き上げられた子猫とは、こういう気持ちなのかもしれない……と、凉太は今まで自分が抱っこしてきた友人宅の猫たちに、心の中で『なんか、ごめん……』と謝った。
「さあ、引き揚げるぞ」
隊長からの命令を受け、男は大股で車内を移動した。三歩ほどで出入り口までたどり着き、そー……と、降りる。腕に抱いているか弱い生き物に、負担をかけないようにそうしているのだということは、凉太にも分かった。
抱き上げてからというもの、男はずっと大きな手で凉太の頭を優しく撫でていた。もう大丈夫だぞ~、怖くないからな~、と、ずっと小声で話しかけてくれている。さっきまで張りつめていた凉太の心が、単純な話だが、じんわりと解けた。
外から見ると、やはり凉太が乗せられていたのは牛車だった。やはり、あの一本角の牛に似た生き物が六頭、車の前や横にのっしりと座っていた。その横に、クァーデゲンと凉太を競り落とした王様風の醜い男が、仲良くす巻きにされた状態で地面にのびていた。
ここはどこだろう?凉太は視線だけで辺りを見回す。天井はごつごつとした岩でおおわれ、あの美しいガラス天井はない。ここは洞窟のような通りで、道幅は牛車一台がやっと通れるほど。……悪いことをしている人たちが、その後ろめたさから目をそらすように、こそこそと事をやり遂げようとしている心情が、この狭くて暗い牛車の通り道からにじみ出ていた。
牛車のそばには、凉太を抱き上げている男と隊長のほかにも、ゴリラに似た姿をした男が三人ほど立っていた。男たちは光る腕輪を巻いていて、その腕輪に向かって何か話している。そのうちの一人が隊長に近づき、凉太にとって幸いなことを報告し始めた。
「他の隊からの報告です。捕らわれていた奴隷たちは全員解放。“海の穴”の制圧、完了しました」
「よし、こちらもマス・クァーデゲンを捕らえた。これより撤退し、合流地点へ向かう!」
隊長はそう話しながら、す巻きにしたクァーデゲンを肩に担いだ。別の男が王様風の男を軽く蹴とばしながら、「こいつはどうします?」と尋ねる。隊長は「放っておけ」と言い、男は素直に従い、隊長のそばへ駆け寄った。
あれほど居丈高で、自信に満ちあふれていたクァーデゲンが今は沈黙し、縄でぐるぐる巻きにされて巨大なゴリラに似た男に、まるで段ボール箱のように担がれているのは、何となく目をそらしたくなる光景だと、凉太は思った。
ゴリラに似た男たちは足早に洞窟を通り抜け、出た先は凉太も見たことのある場所だった。しかし、ここへ連れてこられた時とは、その様子はかなり変わっていた。
海の穴の中央に位置する最も巨大なドーム型の街から四方へ伸びていた橋は全て落ち、代わりに長い渡し板が一枚だけ架けられている。木と土でできた壁に沿うように建っている大中小の鳥の巣からは灯りが消え、輝いているのは中央の街だけだ。
ほんのわずかに、争乱の名残のような、石くずがぱらぱらと落ちるような音がするだけで、”海の穴”は静まり返っていた。ゴリラに似た男たちは街の中央に集まっており、皆が似たような形の衣装を身に着けている。ゲームなどに出てくる古代のバイキングのようだと、凉太は男にしがみつきながら思った。
ゴリラに似た男たちに取り囲まれるように、街の住人たちは一ヶ所に集められていた。中には縄で腕を縛られている人もいたが、ほとんどの人が拘束はされていない。それでも、皆一様に不安そうにゴリラに似た男たちを見上げたり、お互いに顔を見合わせ小声で話をしていた。
彼ら街の住人の話し声が、凉太の耳にもわずかに届く。
『まさか、こんなことになるなんて……』
『クァーデゲン様は無事なのか?』
『反逆者たちに襲撃を受けるなんて……』
『とても平和な街だったのに、これから海の穴はどうなるのかしら?』
平和な街?どこかの誰かが、優しい母親のような声で言った言葉に、凉太は、ぞっ……とした。この街に住む人たちの価値観が全く理解できなかった。人を物として売り買いする街が、平和な街だなんて……。
「ラブさん。マス・クァーデゲンを捕らえました」
す巻きにしたクァーデゲンを担いでいた男が、ゴリラに似た男たちのなかでも一際、身体が大きく、威厳のある男に近づき、淡々とした口調で報告した。
「おう、よくやってくれたな。彼らの近くに下ろしてやれ」
“ラブさん”と呼ばれた男と隊長である男の会話から察するに、ラブさんの方が彼らのなかで高い地位にいることが分かった。しかし、ラブさんは少しも偉ぶったところがなく、溌剌とした笑顔と、低く落ち着いた声は凉太に安心感を与えた。
ラブさんに指示された通り、隊長が住人の前にクァーデゲンを、ドサッと音を立てて下ろす。すると、前の方にいた住人たちは息を呑み、立ち上がったり悲鳴を上げたりした。海の穴の主の無残な姿に、住人たちは一様に大きなショックを受けているようだった。
隊長が下がり、代わりに前へ出てきたラブさんが、住人たちに向かって大きな声で告げた。
「見ての通り、あなた方の王は無事だ!危害を加えるつもりはない!我々は奴隷解放団!この海の穴に捕らわれていた人々を解放する!」
その声はとても高らかに、この薄暗い穴に響き渡った。大地を震わせる男の美声に、凉太は身体の底から希望がわき上がる感覚を得た。男の存在感はそれほど凄まじく、住人たちも皆、圧倒されていた。
しかし、やはり中には気の強い者もいる。腕を後ろ手で縛られている男が大声で抗議した。
「そんな横暴が許されるか!反逆者どもめ、恥を知れ!」
男に続くように、他の住人たちも口々に『そうだ、そうだ!』『お願い、子どもたちだけは助けて!』と、ゴリラに似た男たちに懇願したり、威嚇したりした。対して、ゴリラに似た男たちは極めて冷静で、彼らの言葉に答えることなく、動き始めた。
よく見ると、ゴリラに似た男たち……奴隷解放団のなかには、ゴリラに似た男たち以外の種族もいるようだった。長いローブをまとった人、髪もヒゲも立派に蓄えた、とても小柄だが厳つい人、姿は地球の人間に最も近いが 身体の大きな人……。
ローブをまとった人たちは集めている住人の四方に立ち、持っていた黄金色の錫杖を両手でかざし、何やら呪文を唱え始める。どうやら、彼らは魔法使いのようだ。住人たちの上にドーム型の黄色い模様が現れ、何が起こるか分からない住人たちは悲鳴を上げる。しかし、何かが起こることはなかった。
住人たちは、どうやら黄色に輝くドームに閉じ込められただけのようだ。何となく、凉太は、ほっ……として、ため息をついていた。
「この結界術は二時間後に解ける!そのあとは、あなた方の好きにするがいい!」
ラブさんの言葉に、住人たちの反応は様々だったが、奴隷解放団はそれに構うことなく撤退の用意を始めた。皆、大量の木箱を担ぎ、一本しかない渡し板を迅速に渡っていく。凉太は、あの木箱に解放された奴隷たちが入れられているのだろうか?と一瞬、思ったが、それにしては箱が小さいし、運んでいる男たちには『生き物を運んでいる緊張感』がないので、すぐに違うと分かった。では、何だろう?と考えている間に、凉太は男に抱かれたまま、気づくと目の前にラブさんが立っていた。
「ラブさん、見て下さい!俺とビービー隊長が保護したんです。渡り人ですよ」
近くで見るラブさんは、やはりとても大きい人だった。それに、眉間にしわを寄せて、とても厳しい表情をしている。毛布の隙間から覗き見ていた凉太は、少し怖くて顔を伏せた。
「おう、サント。お疲れさん!……これが、渡り人?」
ラブさんは、まず部下に労いの言葉をかけてから、その部下が腕に大事そうに抱えている毛布に目を向けた。すぐに触れることはせず、ぐいー、と覗き込んできた。
「……顔はガガチに似てるが、随分と小さいな。話せるのか?」
「えっとー……どうでしょう?しゃべってるところは、まだ聞いてないっす」
ラブさんに尋ねられて初めて、サントは、まだ腕の中の渡り人から言葉を聴いていないことに思い至った。サントは、そぉ……と、凉太の顔を覆っている毛布をめくった。
凉太は、自分を抱いてくれているサントに、キュッとしがみついた。彼は優しくしてくれたが、このラブさんもそうとは限らない。だから怖かった。何だそれは、捨ててこい!と言われるかもしれない。そしたら、きっとサントは命令に従わなければいけない立場にいるだろう。そうなるのが怖くて、凉太は震えながらラブさんを見つめた。
「自分……めっちゃ懐かれてます!」
そんなこととはつゆ知らず、サントは歓喜の声を上げる。しかし、ラブさんは構わず、凉太の目を、じ……と見つめながら、小さな声で話しかけてきた。
「おれの言葉が解るか?」
凉太は、しっかりとラブさんの目を見つめながら、ゆっくりうなずいた。それに応えて、ラブさんも、しっかりとうなずいてくれた。そして、優しく微笑んだ。
(あ……父さん)
ラブさんの笑顔は凉太に、今は遠くにいる父親を思い出させた。遠くというのは、もちろん地球に、という意味だ。毎日、夕方六時過ぎには必ずと言っていいほど帰宅する父は、日本の大企業の下請け工場で長年、働いている。仕事に必要な物を大きなリュックサックに詰めて、青色の作業着をまとって家をあとにする父の背中は、凉太が高校生になっても変わらず大きく映り、行きよりもちょっとだけ汚れて帰ってくる父の笑顔は、厳ついけれど穏やかで……。
見えない力に引き寄せられるように、凉太の両手は毛布からゆっくりとラブさんの方へ伸びていき、同時に大きく見開かれた両目からは大粒の涙があふれ落ちた。
少し驚いた顔を見せながらも、ラブさんは凉太の両手を受け止めてくれた。サントも驚いていたが、凉太がラブさんの方へ行きたいのなら……と、手を離してくれた。
サントの腕には抜け殻のような毛布が残り、凉太はラブさんの鎧にしがみついて泣いた。声を上げて、小さな子どものように泣いた。
サントは驚き、あたふたしていたが、ラブさんは黙って凉太の身体を優しく撫でつづけてくれた。何も言わなかったが、その手の温かさから、ラブさんの優しさは充分に伝わった。
「サント。俺たちも撤退するぞ」
「あ、はい!」
狼狽していたサントはラブさんの命令に、ピシッと身体を伸ばした。サントはすぐさま撤退の列に加わり、ラブさんも続いて歩きだす。その背中に、恨みがこもった男の呻き声が突き刺さった。
「意味のない、ことを……」
その言葉の内容には何とも思わずとも、ラブさんは振り返った。そこには、結界術の中で街の人に介抱されながら立ち上がる、クァーデゲンがいた。クァーデゲンはうつむいていて、ラブさんの方を向いてはいなかったが、その言葉が彼に向けられたものであるのは確かだった。
「商いというものは、需要と供給、いつの時代も。奴隷を求める者がいる限り、この文化が潰えることはない!貴様らのやっていることは、邪悪なヒトの本質に逆らう無意味な行為だ」
クァーデゲンの激しい言葉に、ラブさんは冷静に返した。
「だから何だ?理性を鍛えればいいじゃないか」
クァーデゲンはゆっくりと顔を上げた。その顔は苦くゆがめられていた。ラブさんは泣いている凉太がクァーデゲンと目を合わせないよう、手で顔を覆ってくれた。
「お前みたいな甘ったれでも、本気でやる気になれば成長できるさ」
ラブさんの平然とした物言いに、クァーデゲンは目を見開き、うなだれた。
ラブさんに目を覆われていた凉太には何が起きたか分からなかったが、クァーデゲンが静かになったことに、安堵の息を吐いた。
クァーデゲンはそれ以上、何か言うことはなく、ラブさんは大きく身をひるがえし、クァーデゲンら街の人々に背を向けて歩きだした。その背中にどれほど罵声をぶつけられても、二度と振り返ることはなった。
奴隷解放団の撤退は速やかに行われ、最後に渡し板を外して完了した。
巨大な洞窟を抜けると、中学校の体育館のように広く開けた場所に出た。天井と壁は……見当たらない。それらがあるはずの場所には海が広がっていた。見えない透明の壁がそこにはあって、海面がゆらゆらと波打つさまは、とても幻想的で美しかった。
海で覆われた広場には、たくさんの人が集まっていた。多くの人が泣きながら抱き合っている。悲しいのか、と凉太は不安になったが、よく見ると多くの人が笑顔で泣いていた。
彼らの手首と足首には傷があった。昨日今日ついた傷という雰囲気ではなく、長年の拘束でついた手枷と足枷の痕だった。奴隷たちの生活がいかに過酷なものだったか、その傷痕がしっかりと物語っていた。
しかし、なかには泣いていない人たちもいた。ぼう然と、ただ、あらぬ場所を見ていた。その目には何の感情もなく、希望も絶望もありはしない。まるで、土でできた人形のようだと、凉太は密かに戦慄した。
彼らを見た凉太が、恐ろしいと感じていることが伝わったのだろう。ラブさんが小声で教えてくれた。
「……奴隷たちは、最後はああなるんだ。感情が消え失せ、何もしゃべらず、食事もほとんど摂らなくなる。痩せ細って死んでいくわけだが、自らの死にも無関心になる」
ああなってからでは、もう他人には救えない……。
凉太はさらに、ゾッ…とした。人であった生き物が、人でもなく、生き物でもなくなっていく。それが奴隷。堪らなく恐ろしくて、凉太はラブさんの腕にしがみつきながら震えた。
救えない人だったものたちでも、こうして解放するのか……。
凉太は何だか少し空しい気持ちになった。たとえ助け出しても、救われないかつて人だった者たち。それでも、こんなところで最期を迎えるよりはまだましなのかもしれない。凉太は自分の目から新しい涙があふれるのを感じた。
悲しみや恐怖からの涙ではなく、あの者たちを想っての涙だった。こんな悲しいことが現実に起こるなんて、この世界はなんて……なんて、恐ろしいのだろう。
はらり、はらり、と涙を流しながら、凉太はラブさんの腕のなかで気を失った。筋肉を弛緩させる薬の入った泡で洗われながら、無理に動いた結果、身体が限界を迎えたのだ。意識の奥底で凉太は願った。
どうか、目が覚めたら学校の教室で居眠りをしていますように……と。
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つづく