たいへんです!姫が豹変しました!
太陽の光がカーテンの隙間から漏れている部屋。
薄暗い部屋を微かに明るくする画面には、人の名前が上からスクロールしていた。
「なんだよ……これ」
画面に照らされた秋山夏八の頬を、一本の線が伝った。
「俺……生まれでぎで、よがっだ……」
ティッシュで涙とその他の液体を拭きながら画面に流れる映像を見ては再び溢れるものを拭う。
2日前から不眠不休でプレイしてきたRPGゲームのスタッフロールを見届け、酷使してきた眼球の疲れを感じつつ、俺は時計に視線を向ける。
月曜日の朝七時半を示す時計を見るのと同時に、
二日間の大冒険による疲労が全身を襲う。
「世界を救った勇者も学校は休めないか……」
漏れた声から自らの疲労を自覚しながら家を出る準備を行い部屋を後にする。
リビングに向かうと食卓に一枚のメモ書きと1000円札が置かれていた。
飯食うこと 母
食事代をポケットにしまい、冷蔵庫からゼリー飲料を取り出す。
ゆっくりと食事をとっている余裕はなさそうだ。
扉を開けると外は蒸し暑く、照りつける日差しが一歩踏み出すことさえ躊躇させる。
夏休みを間近に控えた七月上旬。
夏というのは恐ろしいもので、同じ通学路でも体力をじわじわと削られる。
不眠でゲームをエンジョイしていた現代病患者にとってはなおのことだ。
「ここは砂漠ステージか何かなんですかねー」
先ほどまでプレイしていたゲームのタイムリーな愚痴をこぼしつつ重い足取りで通学を始める。
汗を額に浮かべながら不健康な青年は文字通り、命からがら駅にたどり着く。
自動改札を抜け、ホームまでたどり着き、近くのベンチ椅子に腰を下ろす。
電車が来るまでの間は、こうして道中の疲労の回復に勤める。
全て日々の日課だ。
だから俺は知っている。
これから彼女が現れることも。
階段を下りてくる女の子。
俺の通う学校の制服を身に纏い、長く艶やかな黒髪をなびかせる少女。
春咲瑠美。
俺のクラスメイトでクラス一番の美少女。
誰にでも爽やかな笑顔を向け、男子はもちろん女子からも高い人気を得ている。
俺みたいな日陰者からしたら雲の上の存在。
ジュゲムの雲に乗ってでも届かないだろうな。
これが俺の日課。
彼女を見る度に現実を突きつけられる。
どんなにゲームをプレイしても。
俺が夢見た世界は、心踊る冒険は、胸ときめくヒロインは。
この世界の俺では届かない。
人知れず気を落としている内に電車がやってくる。
社内は満席で大抵目的地までは座れない。
これもいつものことだ。
ただひとつ違うことは、春咲瑠美。
彼女が隣にいることだ。
電車の人混みのせいで、本来なら犯罪レベルの距離での接近をはたしてしまっている。
なんか良い匂いするし、近くで見るとやはり美少女だ。三次元の女の子が二次元の女の子に敵うはずないと思っている俺でさえ、彼女ならやってくれると、スポコン漫画の監督みたいな信頼を抱かせるレベルの可愛さだ。
いかん。いかん。
これではただの脳内犯罪者だ。
脳内に響く「おまわりさん、あの人です」を振りほどくように別のことを考える。
春咲さんは電車に乗ってからスマホを操作している。
何をしているのだろう?
「……」
他人のスマホを覗くのは良くないと思うだろう。
当然だ。
だがしかし!
覗くなと言われると覗かれるのが男の、否、人間の本能ではないか?
こんなチャンス二度はないだろうに。
これはチャンスだ。
絶対に逃がすな!
……チャンスってなんだよ。
もう捕まれよ俺。
脳内でのボケとツッコミを現実における30秒ほどで終え、結局俺は作戦決行に打って出た。
背後からゆっくりと覗きこむ。
画面には下部にセリフ、その上にキャラクターと
よくあるノベルゲームの構図が写っていた。
キャラクターの名前はアリス。
セリフは「べ、べつにあんたのためじゃないんだからね!」とツンデレのテンプレート的なものが
表示されていた。
まあ、ツンデレは近年さまざまな変化球的工夫がされていて多様化の一途をたどっているけど、それゆえに俺としては源流となるべき場所の確保により尽力し、て?
…………………………………
ん?
んん?
えええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?
まてまてまてまて、ちょっとまて。
つい先ほど自分で思ったじゃん!
高嶺の花だって!
ギャルゲーやってんじゃん。
いつもおしとやかで秘密の花園に咲く花みたいな人で、静かに書斎で詩集とか読んでそうな春咲さんがギャルゲーって……。
驚愕の事実を知った俺の顔はかつてないほどに不審なものだっただろう。
おまわりさん、オレです。
思考がまとまらないなか不意に春咲さんが後ろを振り返る。
ゲームによって鍛えらた俺の反射神経をもってしてもこの距離で顔をそらせば確実に目線が会うのを避けたことがバレる。
ならば、顔などそらさず堂々と男らしく春咲さんに向き合おう。
……なに考えてんだオレ。
「えっと、秋山君、だよね?同じクラスの。」
「う、うん。春咲さ、さんお、おは、よう。」
会話をチャットやボタンに任せてきた人生の弊害がここになって現れた。
死にたい。
「う、うんおはよう。」
少しひきつった笑顔を向ける春咲さん。
優しさが逆に痛い。
とりあえず何か話さねば。
「今日はこっち側に乗ったんだね」
「えっ?」
驚きと若干の不信感を感じる声音。
なにをいってやがるんだ俺は。
これだと、一方的にずっと見ていたみたいにとられるじゃねーか。
ストーカーかな?
ストーカーだな。
うん。おまわりさん僕です。
「ええっと、車両のこと?」
「う、うん、いや、その、俺も毎日同じ駅から乗るからさ」
苦し紛れの言い訳にしか聞こえない弁解をする。
「ああ。そういうこと。私いつもは隣の車両に乗るんだけど、人でいっぱいで乗れそうになかったの」
「そ、そうだったんだ。残念だったね。 ア、アハハ、ハ」
「そ、そうなの。アハハ、ハ、ハ……」
「……」
「……」
静寂が痛い。
毒の沼の上で延々と十字キーを押しまくるくらい痛い。
何か話題は……。
あ、あれだ!
「春咲さんもギャルゲーとかやるんだね。」
「ふぇ?」
「え?だからギャルゲーだよ。さっきやってたでしょ?あれ嫁パラだよね?」
「……見た、のね?」
「え、う、う」
うんと返事をしようとした刹那。
俺の三次元に対する危険信号がフルスロットルで作動した。
春咲さんの眼が先ほどまでの誰にでも優しいものではなくなっていた。
闇落ちして師匠に牙を剥く某弟子に勝るとも劣らない鋭く冷たい目つきだ。クマはないけど。
「春咲、さん?」
これまでにない春咲さんの豹変ぶりに恐れを抱く俺に、春咲さんがゆっくり近づいてきた。
「な、なに?」
ゆっくりと近づき、耳元に顔がくる。
シャンプーの良い香りが鼻をくすぐる。
「ゲームのこと誰かに言ったら殺すから♪」
これまでと同じ優しい声音のはずなのに内容とのギャップが超天変地異すぎる。
落ち着いた声で、それゆえに、ただの怒声や罵声とは比べ物にならないほどの恐怖を、俺は感じた。
これが俺の人生初の女の子からの耳打ちとなる。
この先、俺がこの事を忘れることはない。
そしてこれが俺と彼女との、とてもとても残念な物語のスタートラインだ。