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後日談:同じ時を生きる幸福(1)

 大学からの帰り道、鳴海先輩が不意に言った。

「明日は、午後から用事がある」


 長かった夏休みも終わり、日毎に秋が深まっていくのを実感している。五限目まで講義を受ければ帰る頃には日も暮れて、外はすっかり真っ暗だ。

 鳴海先輩とは、時間が合う時は必ず一緒に帰っている。というより、たとえ合わなくても合わせるようにして一緒に帰っている、とするのが正しいかもしれない。私も先輩も常に鞄には愛読書が入っているから、長い待ち時間を苦でもなく過ごすことができる。だからというだけではないけど、気がつけばほぼ毎日、一緒に帰っていた。

 だから先輩はたった今、明日の予定を事前に告げてきたのだろう。


「わかりました」

 私が返事をすると、先輩は尖り気味の顎を静かに引いた。

「この通り、今時分になると随分暗い。気をつけて帰るように」

「はい」

「なるべく明るい道を歩け」

「わかってます」

「できれば一人ではない方がいい。誰か友人と一緒にでも――」

「大丈夫ですから、先輩」

 繰り返される注意に、私は思わず吹き出した。

 心配してもらっているのはわかる。だけど私だって小さな子供でもないのだから、そこまで念を押さなくてもいいのに。

 私に笑われて、鳴海先輩は眉を顰めた。ただ機嫌を損ねたというよりは、そう見せかけたくてわざと顰めたように見えた。その証拠に口元が少しほころびかけている。

「お前は俺をただの心配性だと思っているだろう」

「そんなことないです」

 先輩が私を気にかけてくれているのはわかっている。そして私は、それをとても幸せなことだと思っている。

 暗い夜道を歩く間、私達はよく手を繋いだ。今も先輩の大きな手が、長くて器用そうな指が、私の手をしっかりと包み込んでくれていた。温かい。

「明日って、何かご用があるんですか?」

 歩きながら私は尋ねた。

 もしかしたらまた古書店のバイトだろうか。船津さんの経営ぶりは相変わらずのようで、勤労の夏が過ぎた後も私達の元にはアルバイトを頼む連絡がちょくちょく入っていた。

 もっとも女子である私はあまり戦力ではないと思われているのか、私が一人で呼び出されることはまずない。そしてこの時期、大槻さんは楽団の練習が忙しいとのことで、ちょっと手伝いが欲しい時に真っ先に呼び出されるのは鳴海先輩だった。

「ああ」

 先輩は答えた後、ちらりと横目で私を見た。

 わずかな間にためらう気配が感じられたのは気のせいだろうか。

「どこかへお出かけですか」

「そうだ」

 私の問いかけに曖昧に答えた先輩は、一度息をついてから、

「墓参りに行く」

 と言った。


 驚いたというほどではなかったものの、私はその答えを意外に思った。

 少なくとも鳴海先輩の口から、その単語を聞かされたのは初めてだった。

 墓参りに行く――誰の、だろう。普通に考えれば先輩のご親族ということになるはずだ。私にとってはまだ知らないことばかりの、先輩と血の繋がりがある人達。


 私が黙ったからだろう、鳴海先輩は困ったように薄く笑んだ。

「そう気遣わしげにするな。祖父の墓参りだ、もう何年も前に他界している」

 鳴海先輩のおじいさん、というと、

「もしかして、澄江さんの……」

 尋ねるつもりで口を開けば、それを制する素早さで先輩は頷く。

「その通りだ。澄江さんに頼まれ、顔を見せに行くことになった」

「そうなんですか……」

 鳴海先輩のおじいさん、澄江さんの旦那さん『だった』人について、私はあまり深く知らなかった。

 知っているのは何年も前に他界していること、澄江さんとは離婚していること、そして――あの寂れた港町に建つ古い家に、本がいっぱい詰まった小さな書庫を作っていたこと。あの本は全て先輩のおじいさんのものだと聞いている。どうしてあの家にあるのかは知らない。

 それ以外の、例えば人となりや生前どのように先輩と関わっていたかなどという話を聞いたことはなかった。

「どんな方だったんですか? 先輩のおじいさんって」

 私は、思いきって先輩に尋ねてみた。

 すると先輩は少しの間思案してから、こう答えた。

「どんな人だったんだろうな。俺はほとんど話したこともなかった」

「先輩が小さかった頃に他界されたんですか」

「いや、一緒に暮らしていたこともある」

 鳴海先輩は淡々としていた。

 ご家族について話す時、先輩は普段見せないような感情の揺らぎ、少年のような繊細さを覗かせることがある。だけど今はそれもなく、先輩が自身のおじいさんについて言葉通りの印象しか抱いていないことを感じさせた。

「だから顔を見せてくるようにと言われても、墓前でどんな話をすればいいのか」

 先輩はそう言ってから、戸惑う私を見てわずかに目を細めた。

「いっそお前の話でもしようか。年下の、可愛い恋人ができたと」

 思わぬ言葉に私はとっさに呼吸を乱し、

「えっ、その、そういうのって――」

「冗談だ」

 鳴海先輩はあっさりと笑ってみせる。

 いつもの先輩らしからぬ冗談だ。もしかしたら勝手に気を揉む私を気遣ってくれたのかもしれない。

 だから私も、はにかみながら先輩に告げた。

「気をつけて行ってきてください」

「ありがとう。市内の墓地だから近場だがな」

「もし疲れてなければ、帰ってきてから連絡を貰えたら嬉しいです」

「わかった、なるべくそうしよう」

 私達は約束をして、その日はいつものように駅の改札前で別れた。


 翌日の私は少しばかり気落ちしていた。

 鳴海先輩に会えないまま昼休みを迎えてしまったからだ。

 午前の講義は受けると聞いていたけど、朝は時間が合わず一緒に登校できなかった。鳴海先輩に会えない日はどうしたってモチベーションに響いてしまう。その為だけに大学へ通っているわけではないものの、先輩に会える楽しみが私の刻苦勉励の日々の支えであったのも事実だった。


 そしてぼんやりしながら廊下を歩いているところを、大槻さんに見つかってしまった。

「どうしたの雛子ちゃん、元気ないね」

 その指摘にどきりとしつつ、私は姿勢を正して会釈を返した。

「こんにちは、大槻さん。別に普通のつもりなんですけど……」

「鳴海くんがいなくて寂しいんだね、わかるよ」

 私の言葉を聞き流し、大槻さんは得心した様子で頷いた。

 隠しきれている自覚もなかったので、私もそれ以上否定しないことにする。

「鳴海くん、お墓参りに行くんだってね」

 そう口にした時、普段は朗らかな大槻さんの顔に一瞬だけ影が差したように思えた。

「はい、そう聞いてます」

 私が答えた瞬間にはもう、気遣わしげな表情は霧散していたけど。

「だけどびっくりしたよ、見慣れない格好して歩いてるんだからさ」

 そして大槻さんのその言葉に、私の方も驚かされた。

「会ったんですか? と言うか、見慣れない格好って」

「雛子ちゃん見てないの? 駅で会ったんだけど鳴海くん、リクスー着てたよ」

 その言葉には私を打ちのめすほどの衝撃が起きた。

 鳴海先輩が、リクルートスーツを着ていた。

「法事ならともかく、お墓参りにスーツってところが鳴海くんっぽいよね」

 大槻さんが続ける話も、どこか遠く聞こえてくる。

「かっちりしてるって言うか、変なとこ生真面目って言うか――」

 事実、鳴海先輩はそういう人だ。

 だからこそ私は、先輩にはスーツが似合うだろうとかねてから思っていた。


 先輩が来たる就職活動に備えてリクルートスーツを購入した、という話は聞いていた。勤労の夏の間に貯めたお金で買うことにしたそうだ。

 私は鳴海先輩がスーツを着た姿を見てみたくて仕方がなかった。あのすらりとした長身痩躯には身体に沿うタイトなスーツがとても映えるだろうし、きりっと締めたネクタイは先輩の生真面目さをより引き立てることだろう。もともと凛々しい顔立ちの先輩にフォーマルな衣装が似合わないはずはない。


「……やっぱり、似合ってましたか?」

 つい気になって仕方がなくて、私は大槻さんに尋ねてしまった。

 大槻さんは一瞬目を見開き、

「ああ、似合ってたかな。って言うかあいつ普段着よりスーツが似合うよね」

「そんなにですか」

「もう一端の社会人みたいだったよ。就活飛び越えて就職したみたいな」

 聞けば聞くほど、見てみたかったと私は思う。

 そう思うのも不謹慎なのかもしれない。先輩はおじいさんのお墓参りに行っているのだし、そこにスーツを着ていくのはいかにも先輩らしい生真面目さだ。神聖とも言えるその時間に対し、私が興味本位で見てみたいなどと思うのはどうなのだろう。

 でも、

「俺もあと十センチ身長があったらなあ……鳴海くんはそこんとこずるいよね!」

 大槻さんが語るのを聞くにつけ、私の興味もまた募った。

 鳴海先輩のスーツ姿は一体どれほど素敵なのだろう。

「見てみたかったです」

 思わず興味のままに口にした私を、大槻さんはいい笑顔で見つめてきた。

「まだ見たことなかったんだ、雛子ちゃん」

「ないです」

「じゃあ鳴海くんにお願いしてみれば? 今度着てきてくださいって」

 そんなふうにせがんで、鳴海先輩は果たして聞き入れてくれるだろうか。鳴海先輩なら一笑に付して終わり、という気もするし、リクルートスーツを遊びに来ていくなど言語道断と私を叱るかもしれない。案外と『見せるだけなら』と聞き入れてくれるかも、というのはさすがに楽観的すぎるだろうか。

 ただ、もし仮に聞き入れてもらえるとしても、今日はその話をすべきではないだろう。お墓参りが済んだら連絡をすると先輩は言っていたけど、きっと疲れているだろうし、ゆっくり話をする時間だってないに違いない。もし先輩に話したいことがあるなら私はじっと耳を傾けるつもりでいるけれど、そうでないなら電話も早めに切り上げて、先輩を休ませてあげた方がいいと思う。きっといろんな思いがあるだろうから。

「頼めそうだったら頼んでみることにします」

 私が控えめに答えると、大槻さんは確信している口調で言った。

「まあ、雛子ちゃんのお願いを鳴海くんが聞かないとは思えないけどね!」

 大槻さんの中では、鳴海先輩は随分私に甘い人だと思われているようだ。

 鳴海先輩自身は、そんなことは断じてないと言うだろうけど。


 五限目の講義を終えた後、マナーモードにしていた携帯電話にメールが来ていたことに気づいた。

 相手はもちろん鳴海先輩だ。講義が終わったら連絡が欲しい、と記されていた。


 大学を出てから電話をかけると、すぐに繋がった。

「先輩、もう帰ってきたんですか?」

『ああ。さっき電車で戻ってきたばかりだ』

 そう語る先輩の背後では、ノイズにも似た雑踏と駅の誘導チャイムの音が絶えず流れていた。まだ帰宅はしておらず、駅構内にいるらしい。

「お墓参り、どうでした?」

 私が尋ねると、微かな溜息が聞こえた。

『どうと言われてもな……墓参りをどう形容していいのかわからん』

「すみません、無神経な問いでしたね」

『そうではない。特に何も思いつかないだけだ』

 素っ気なく言った後、先輩は声音を和らげて語を継いだ。

『ところで雛子、これから会えないか』

 予想もしていなかった問いかけに、私は驚きつつも即答していた。

「もちろんです。私も先輩に会いたいと思っていて」

 大槻さんに元気がないと言われる程度には、先輩のいない日を持て余していた。ただそれは会えないからというより、先輩が今日をどんな思いで過ごしたか、まだ知らないでいるからかもしれなかった。

『それはよかった』

 先輩は安堵した様子で呟き、

『お前の顔が見たかった。少し付き合ってくれ』

 そう言われて私は、嬉しさが込み上げてくるのを実感する。

「では、すぐに伺います」

『いや、俺がそちらへ行こう。夜道を一人で歩くのは危ない』

「そうですか? では……」

『すぐに行く。待っていてくれ』

 電話越しだからはっきりとは言い切れないものの、先輩の声に疲れの色は窺えなかった。暗さもなく、いつもの先輩らしい澱みのない口調だった。

「わかりました、待ってます」

 私はそう答え、それから電話を切ろうとして――、

「あ、あの、先輩!」

『どうした、雛子』

「つかぬことを伺いますが、今ってどのような服装ですか?」

『服装? ああ、墓参りに行った帰りだからスーツのままだ』

 何と言う僥倖。まさかこんなに早くに先輩のスーツ姿を見られる機会が訪れるとは。

「た、楽しみにしてます!」

 思わず本音を叫んだ私に、鳴海先輩はなぜか笑ったようだった。

『何をだ。よくわからんことを言うな、お前は』

 よくわからないと言いながら、どういうわけか先輩は、私が何を楽しみにしているか既に知っているようだった。

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