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後日談:読書家の休日(1)

今回は鳴海視点です。

 子供の頃から、海は眺めるだけの場所だった。

 母校の小学校から澄江さんの家までは、海岸沿いの道を歩いて帰っていた。一人きりで眺める夕暮れの海には胸が痛むほどの物寂しさを覚えた。世界と繋がる広い大海原も、非力な子供にとっては行く手を阻む檻でしかない。どこかへ漕ぎ出していく気概も持てぬまま海を眺めているだけの日々だった。

 あの港町を離れ、戻ってきた故郷も海の見える町だった。だが通学路や休日の行動範囲内に海岸はなく、海を眺める機会は全くと言っていいほどなくなってしまった。潮風の匂いや波の音は嫌いではなかったが、感傷や郷愁を味わう為にわざわざ海を見に行く趣味もない。そこに多少、子供時代の記憶を封じておきたいとする意思もあるのかもしれない。海を見ればあの頃の鬱屈を思い出しそうな気がしていた。

 だが今の俺は一体どんな酔狂か、砂浜に座り込んで大海原を眺めていた。


 まだ午前中だというのに、海水浴場は人でごった返している。

 ぎらぎらと照りつける日差しの下、既に波間に揺られる大勢の人間の姿が見える。水飛沫を上げて泳ぎ回る少年少女、浮き輪を抱えた幼児が波打ち際へ駆けていくのを慌てて追う親、砂浜をかき氷片手に闊歩する若者達――連中の誰もがためらいもなく水着を着て、灼熱の太陽光線の下で肌を晒している。

 かくいう俺も例外ではない。

 高校時代から水泳の授業でのみ使用しているサーフパンツをはき、上半身は無防備にも何も着ていない状態で砂浜に座っている。途中で背中がじりじりと熱くなってきた為、慌ててタオルを羽織ったが、八月の日差しは薄いタオルをも突き通して肌に伝わる。直火でじっくり炙られているような気分だった。

「……熱い」

 低く呻いたのは独り言だ。今のところ、返事をしてくれる相手はいない。

 なぜなら雛子は今もって着替えを終えていないのか、一向に俺の前へと現れないからだ。


 当然だがここへは彼女と一緒にやってきた。

 駅前で落ち合い、そこからバスに揺られること三十分、終点にある海水浴場前で降りた。海に入る前に着替えをする必要があり、更衣室は男女で分かれているから、その前で一旦別れた。

 雛子は更衣室に入る直前、どこか恥じらいながらこう言った。

『私の方が時間かかると思うので、先輩は先に行っててください』

 よって俺は五分で着替えを済ませた後、砂浜に敷くビニールシートを抱えて一足先に海へと出向いた。そして日陰のない砂浜にシートを敷き、膝を抱えて一人座り込んでいるという状況だった。

 更衣室前で彼女と別れてから、何分が経過しただろう。

 彼女はまだ現れない。


 俺は左手首に巻きつけた腕時計を確かめようとして――そこにいつもの腕時計がなく、更衣室のロッカーの鍵が巻かれているのを見て思わず溜息をつく。

 愛用の腕時計を塩水に浸けるのはもってのほかだから、着替えや貴重品と共にロッカーへ置いてきたのだった。もちろん携帯電話も同様だ。雛子といる時にあんな物は鳴らない方がいいのでそちらはむしろ清々している。しかし時刻を確かめる方法がなくなってしまった為、どこかに据えつけの時計でもないものかと俺は辺りを見回した。

 砂浜には同じように敷物の上に座っている海水浴客が何十組か。そのうちの何割かはご丁寧にパラソルまで立てている。彼らの座っている位置より後方には海の家と呼ばれる掘っ立て小屋が三軒並んで立っており、どこも行列ができているようだ。店頭では何か海産物でも焼いているのか、灰色の煙と共に腹の空くいい匂いが漂ってきた。

 現在の時刻を求めてしばらく辺りを見回したが、あいにく時計は見当たらなかった。ただでさえ周囲の人間は全員水着だ、あまり落ち着きなくきょろきょろしていては変質者のレッテルを貼られる恐れがある。俺は現在の時刻を知ることを諦め、再び膝を抱えて座り込んだ。


 それにしても遅い。

 雛子は何をしているのだろう。時間がかかるとは言っていたがかかりすぎではないだろうか。女の水着の方が面積が広いとは言え、たかが一枚二枚脱いで着るだけでこんなにもかかるのはどうなのだろう。普段の彼女は着替えに時間をかける方ではなく、俺の前で服を着る時は目にも留まらぬ速さで身に着けてしまうのだが、今日は一体どうしたことか。水着というのはそこまで手間がかかるものなのだろうか。

 普段なら一人きりでいて心細いなどと馬鹿げたことを思いはしないのだが、長らく縁のなかった海水浴場に、しかも半裸で一人座っているのは何とも心許ないものだった。まして海水浴が初めての俺は、先に来たところで何をして待っていればいいのかわからない。こんな時に文庫本でも持ってきていればと思わなくもないが、本が濡れるのも砂まみれになるのも嫌なものだからさすがに今日は置いてきた。

 お蔭で大層手持ち無沙汰だ。黙って座っていると、タオルを被った背中がそろそろ焦げつきそうだった。


 そうこうするうちに首の後ろが早くもひりひりし始めて、俺は思わずそこへ手を当てる。手のひらに熱を持った自分の首筋の感触が伝わり、せめて上着でも持ってくればよかったと思う。

 時を同じくして、座る俺の上に太陽光を遮る影が差しかかった。

「先輩、お待たせしました」

 雛子の声だ。ようやく現れたようだ。

 しかしいくら何でも遅すぎる。文句を言うつもりはなかったが、更衣室で何をしていたか尋ねる権利はあるだろう。そう思って顔を上げた俺は、すぐに言葉を失った。

 彼女は先日購入した水色のビキニを着ていた。

 着ているとは言っても水着が身体を覆う面積はごく小さく、しなやかな手足はもちろんのことながらほっそりとした白い首筋も、ガラス玉のようになめらかな肩も、女らしく柔らかい腹まで惜しげもなく晒していた。長い髪は海水に浸からないようにか高い位置に結い上げており、銀フレームの眼鏡だけがいつも通りだ。籐編みの手提げを持った手には俺と同じようにロッカーの鍵を巻きつけている。

「遅くなっちゃってすみません。更衣室、結構混んでて……」

 雛子はそう言うと微かにはにかんだ。

「水着、おかしくないですか?」

 おかしいはずがなかった。

 いや、非日常的であるという意味ではおかしいのかもしれない。この海水浴場に居合わせた他の人間と同様に、彼女も水着という半裸に近い格好でいる。本来ならよもやそんな格好を外でするなど全力で制止したいところだが、場にふさわしい服装だからだろうか、海辺で見る彼女の水着姿は実に可愛かった。

 先日一緒に買いに出かけたその水着も、店内で試着してみせた時にはいささか際どいもののように見えたのだが、真夏の太陽の下ではむしろ健康的な色気を感じる。ここでは肌を晒すことこそが正しいのだと痛感させられるようだ。正直に言えば、来てよかったと思ってしまった。

「なかなか、よく似合うな。驚いた」

 俺が率直に誉めると、雛子は怪訝そうにしながらも微笑んだ。

「そうですか? よかったです」

 そして敷物の上に、俺と並んで腰を下ろす。


 隣に座られたせいだけではないが、自然とそちらへ視線が引きつけられた。

 きれいな鎖骨の下にある丸みを帯びた胸は水着に覆われていたが、彼女が身動ぎをする度にふるふると揺れて、たびたび目を奪われる。女の胸に男が魅力を感じるのはそれが自分にないものだからとするのが一般的な考え方だろう。俺にとっても彼女の胸のふくらみは魅力的であり、理想的だった。しかしあれが自分にも備わっていればいいとは思わない。俺自身のものではなく、雛子のものだからいいのだと思う。なぜかはいちいち説明するまでもない。

 しかし水着というのも奇妙なものだ。半裸でありながらこの場にいる姿はとても自然に見える。それでいて一糸まとわぬ姿よりもある意味非常に興味深い。彼女の水着は幾重にも重ねたフリルで覆われており、それが彼女の身体を普段以上に素晴らしく見せている。


「あの、先輩」

 雛子がどこか思いつめたような声で俺を呼んだ。

 俺が顔を上げれば、彼女もこちらを向いておずおずと続ける。

「何て言うか、私の……顔も見てください。胸だけじゃなくて」

 図星を指された俺は思わず息を呑み、そして狼狽した。

「わ、悪かった。別にお前を蔑ろにしていたわけではないが、その、つい目が」

「私も、嫌ではないんですけど」

 彼女は頬を赤くしながら視線を落とす。

「あまりにもずうっと見ているから、さすがに恥ずかしいかなって……」

 そこまで言われるほど見入っていただろうか。俺は深く反省した。

「わかった。以後気をつける」

「あ、いえ、余所見をされるよりはずっといいんですけど」

 雛子が慌てたように言い添えてくる。

「それはない。心配するな、俺はお前しか見ていない」

「……あ、ありがとうございます」

 俺の言葉に彼女が俯き、賑やかな浜辺には場違いな沈黙が俺達の周囲にだけ落ちたところで――せっかく海に来たのに座って話しているだけというのも妙だと思い、仕切り直しのつもりで口を開いた。

「雛子。話しておいた通り、俺は海水浴に来るのも初めてだ。お前のやりたいことに付き合うから、まず何をするのか言ってくれ」


 海のある町で生まれ、育ったというのに、海で遊ぶのは初めてだった。

 海なのだからまずは泳ぐものなのだろうが、泳ぐにしても授業のように黙々と泳げばいいのか、二人で泳ぐ努力をすればいいのか、あるいは波打ち際にいる連中のように水をかけ合うところから始めればいいのかわからない。

 ひとまずは雛子が一番楽しいやり方で海水浴を楽しめたらと思っている。


 それで雛子は俺を安心させるように微笑むと、

「じゃあまずは、これです」

 持参してきたかごから、雛子は白いプラスチック製と思しき小さな容器を上下に振りながら取り出した。見たところ、化粧品のようだった。

「それは何だ」

「日焼け止めです。先輩、塗りました?」

「いや。塗った方がいいのか?」

「当然です。背中がひりひりしちゃいますよ」

 雛子は心なしか得意げに頷いた。

 俺は生まれてこのかた日焼け止めなる品を購入したことがない。あまり出歩くことがないせいだが、しかし彼女に言われるまでもなく既に背中や首の後ろはひりひりと痛みを持ち始めている。今からでも塗って、症状の進行を抑えるべきかもしれない。

「わかった。では後日買って返すから、今日のところはお前のを貸してもらえないか」

 そう申し出たところ、雛子は妙にうきうきとして、

「よかったら、私が塗りますから!」

 止める間もなく日焼け止めの蓋を回し開けた。

 無論、俺はぎょっとした。

「お前が塗る? どういう意味だ」

「そのままの意味です。ほら、一人だと塗るの大変ですし」

「馬鹿なことを言うな、恥ずかしい。そのくらい自分でできる」

「でも背中とか、届きにくいところもありますよね?」

 何をはしゃいでいるのか。他人の身体に日焼け止めを塗りたがる彼女の心情は理解できないが、背中に塗りにくいというのもまた事実だった。そこで雛子には背中に塗る分だけを任せ、その他の箇所は自分で塗ることにした。

 彼女の持ってきた日焼け止めはさらさらとした白い液体で、肌の上に広げるとたちまち馴染んで無色になる。お蔭でどこまで塗ったのかわかりにくかったが、ひとまず腕や脚や首などに満遍なく塗っておいたつもりだ。


 一方、雛子は俺の後ろへ回り込んで背中に塗り始めたようだ。彼女の手は柔らかく、少し冷たくて心地よかった。

「あ、もう既に日に焼けちゃってますね。痛くないですか、先輩」

「少しな。これ以上焼けないことを祈ろう」

「全くですね。先輩は、焼けると黒くなる方ですか? それとも赤くなります?」

「そうだな、どちらかと言えば黒くなる方だ」

「私は赤くなって、すごく痛くなる方なんです」

「お前は色が白いから、日差しにも弱そうだ」

 そんな会話を交わしながら、俺は目をつむって、背中に触れてくる彼女の手の感触に集中する。

 他人の手の感触などほとんど知らない人生を送ってきたが、それでも雛子の手が触れる時、心から労わるように触れてくれていることくらいはわかっていた。その優しさがいつからかとても心地よいものになっていた。赤の他人にこんなふうに触れられる機会があるとは思いもしなかった。幸せだった。

「先輩の背中ってやっぱり大きいですね」

 雛子はそう呟いた後、後ろから俺の顔を覗き込んできた。

「はい、おしまいです」

「もう終わったのか、早いな」

 名残惜しいという気持ちはあったが、それを口にすればますます何をしに来たのかわからなくなる。俺は彼女に礼を言い、次いで尋ねた。

「雛子、お前はもう塗ったのか?」

 どうやら彼女はその質問をされると想定していなかったようだ。軽く目を瞠ってからもじもじと答えた。

「大体は塗ったんですけど、背中だけは……」

「なら、よければ手を貸そう。そこへ座れ」

「はい。よろしくお願いします」

 初めからそのつもりでいたのかは定かでないが、雛子は俺と場所を入れ替え、こちらへ背を向けて座った。やや猫背気味に思えるのはこちらが塗りやすいようにと配慮してのことだろうが、もしかすると気恥ずかしいのかもしれない。自分で言い出しておきながら。

 俺の方も多少の下心がなかったと言えば嘘になる。そうして向き合った彼女の背中は身体の他の箇所と同じように白く、すべすべしていた。そして思いのほか小さかった。

 これではすぐに塗り終えてしまいそうだ。俺は彼女に気づかれぬよう苦笑してから、日焼け止めの容器を開け、中身を少し自分の手に取った。そしてその手で彼女の背骨辺りに触れると、たちまち彼女がびくっと身体を震わせた。

「どうした、冷たかったか?」

 その反応に俺が眉を顰めていれば、雛子は俯き加減になって答える。

「い、いえ、ちょっとくすぐったかっただけです。大丈夫です」

「じっとしていろ、すぐに済む」

 くすぐったいなどと言われると、逆にくすぐってやりたくなるから困る。

 しかし俺はその衝動に逆らい、粛々と彼女の小さな背中に日焼け止めを塗った。手を広げて塗れば大して時間もかからなかった。彼女はそれでもくすぐったそうに何度か身動ぎをしたが、塗り終えると緊張を解いて笑みを浮かべた。

「ありがとうございました、先輩」

 彼女は日焼け止めの容器をしまった後、かごからもう一つ何かを取り出す。

 黒いゴム紐、のように見えた。高校時代の雛子がいつも髪を束ねていたあのゴムによく似ていた。

「すみません、もう一つお願いしてもいいですか?」

「何だ」

「これで、私の眼鏡のつるを結んで欲しいんです」

 雛子が俺にゴム紐を差し出し、どことなく悔しげに笑みながら続けた。

「今日は潜ったりはしないつもりですけど、それでも落としたら大変ですから」


 彼女の視力がとても悪いことはよく知っていたが、水泳となると更なる不便さがあるようだ。

 全く泳げないわけではないらしいのに水泳の授業を嫌がっていたのも頷ける。それならなぜ今回、海へ来たがったのかは腑に落ちないが――もしかすると水泳の授業と海で遊ぶことは、似て非なるものなのかもしれない。

 俺は言われた通り、彼女の眼鏡のテンプルにゴム紐を結びつけて頭の後ろへ通し、もう片方のテンプルにも結んで簡単には落ちないようにしてやった。


 雛子は自分で眼鏡に触れてその具合を確かめた後、安堵した表情になる。

「これでばっちりです。じゃあ、そろそろ泳ぎましょうか」

 そう言うと彼女は素早く立ち上がり、俺に向かって手を差し伸べる。

「先輩、まずは波打ち際まで行きましょう。ほら早く!」

「そんなに急かすな」

 差し出された柔らかい手を掴むと、俺もようやく立ち上がった。

 途端に雛子が俺の手を握り締めたまま、波打ち際めがけて駆け出す。ぐいと手を引かれた俺も焼けつく熱さの砂浜へと踏み出し、不安定な足場の中を導かれるようにして海へと向かっていく。

 直に彼女は一足早く海の中へと駆け込んで、目映い水飛沫を撥ね上げた。

 それからとびきりの笑顔で振り返り、

「先輩も来てください! そんなに冷たくないですよ!」

 言われなくてもあと数歩で海の中だ。はしゃぐ雛子の顔を見て、俺はつられて笑った。

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