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弥生(5)

 私も鳴海先輩の全てを知っているわけではない。

 先輩には私に話していないこともあるだろうし、見せたことのない顔だってあるのかもしれない。私も先輩という本をもっと読んでみたいと思っているし、現にこの一年で、二十歳になった先輩の物語を思いがけないほどたくさん読ませてもらえたような気がしている。

 そのページの中で、鳴海先輩は本当に素敵だった。少年のような衒いのない笑顔にはいつも見とれてしまうし、私を失うことを恐れて浮かべた苦悩の表情を目の当たりにした時は、この人には決して寂しい思いをさせないと心から誓えた。先輩言うところの見え透いた魂胆というやつだって、それはそれで普通の男の人らしくて、悪いことではないと思う。少なくとも私は、まだ平然としていられるわけでもないけど、それでも何の興味も持たれないよりはずっといいと考えている。

 これから先、まだ私の知らない先輩を知っていくにつれ、私の心臓はどこまで持つだろうか。それは既に差し迫った課題となっている。今の私はどぎまぎしすぎて、先輩の言葉にまともな反応もできていない。


 黙りこくる私を不審に思ったのだろう。先輩が眉を顰める。

「どうした? 喉でも詰まったか」

「……いいえ、何でもないです」

 私は慌てて答えると、食べかけのお菓子を口に放り込んだ。きちんと飲み込んでから話題を変える。

「そういえば先輩、もうすぐ二十一歳になりますね」

 すると先輩は一瞬考えた後、思い至らなかったというように目を見開く。

「ああ、そうだったな。もうすぐだ」

「はい。もう来月の話ですよ」

「月日が経つのは早いな。ついこの間、年金の手続きをしてきたと思っていたが」

 溜息交じりに呟いた後、先輩は懐かしむ口調で続けた。

「去年もお前と、こんな話をした覚えがある」

「そうですね。先輩のお誕生日をどう祝うか、考えていたことを思い出します」

「あの時はくだらん押し問答をしたな」

 先輩はかつての私たちを笑い飛ばしたけど、私はあの時のやり取りがくだらなかったとは思っていない。当時の私たちにとっては、お互いの内心を理解しあう上で必要なコミュニケーションの手段だった。そして私はああいう会話であっても、鳴海先輩と話をするのが好きだった。

 ただ、この件に関しては、今こそ素直な気持ちを聞いてみたいと思う。

「今年のプレゼントは何がいいですか?」

 私が尋ねると、先輩は眉を顰めた。聞き飽きたと言わんばかりの顔つきだった。

「今年もその話をするのか」

「もちろんです。大事なことですし、私にとって興味深いことでもありますから」

 私は強く主張する。

 もっとも、こちらの主張は随分な呆れ顔で受け取られた。

「前に言わなかったか、お前がいればいい」

 そしてさらりとそんなことを言うから、私は息を呑むしかない。

「それは、聞いてましたけど……」

 先輩の意思は去年のうちに教えてもらっていた。でもそれでは去年と似たようなものだし、私が去年の誕生日に貰ったものに比べたら随分と手軽な気がしてならない。

「今年は、せっかくですから手抜きをしたくないんです。そういう安上がりなものじゃなくて――」

 反論しかける私の言葉を、先輩はひと睨みで制した。

「そう軽んじられるのは心外だな。俺にとっては何より大切なものだ」

 心臓が大きく跳ねる。

「他には何も、なくてもいい」

 先輩はまるで念を押すように呟くと、両目でじっと、真っ直ぐに私を見据えた。


 いつもは鋭い眼光が宿る先輩の目が、時々ふと柔らかい眼差しをすることがある。

 ちょうど今もそんなふうに、目だけで微笑んでいるように見える。私はかつてその目を、とても大切なものを見るようだと感じていたけど、今の言葉によればその読みはあながち誤りでもなかったようだ。

 でも、こういう時に、何と返事をすればいいのか。


「本当に……それで、いいんですか」

 私は震えながら聞き返す。

 別に怖いと思っているわけでも、寒いわけでもない。心臓がどきどき速いのと、上手く呼吸ができていないせいで声が自然と震えてしまうだけだ。

「ああ。楽しみにしている」

 先輩は静かに顎を引く。

 その直後、薄い唇が照れたような笑みを浮かべた。

「誕生日が楽しみだというのも、これが初めてかもしれないな。待ち遠しいと思ったことはこれまで一度もなかった。なのに今は、早く四月が来ればいいのにとさえ思う」

 そうして先輩は、何か思いを巡らせるように睫毛を伏せた。

 繊細そうな思案顔はそれでもうっすら微笑んでいて、浮かべた考え事が幸せな、いいものばかりだろうと推測することができた。

「ありがとう、雛子。お前のおかげで、俺はこれまでになく幸せだ」 

 そんなふうに言われたら、どう答えたらいいのだろう。

 いろんな感情が一気に湧き起こり、胸が詰まった。


 私は鳴海先輩を幸せにしたかった。

 今以上に、もっと幸せにしたかった。もう二度と寂しい思いはさせたくなかった。先輩にとって誕生日やクリスマスや学園祭や、その他様々なカレンダー上の行事全てが、これからは何もかも楽しくてしょうがなくて、その日が来るのが待ち遠しくなるようなものになればいいと思った。

 誕生日を祝うこともそうだけど、恋人を幸せにするのは当然の義務であり、権利だ。


「……こんなものじゃないですよ、先輩」

 私は震える声で、先輩の言葉に応じた。

「これからもっと幸せな日々がやってきます。先輩の日常が、いい思い出だけでアルバムが埋まってしまうような毎日になるんです。私が、必ずしてみせます」

 先輩を追い駆けていくからには、追いついて隣に並んで一緒に歩いていくからには、必ず成し遂げよう。

「だから……楽しみにしててくださいね」

 そう言いながらも私は、何だか泣けてきてしょうがなかった。せっかく威勢のいいことを言ってみたのに、世にも情けない涙声では格好つかない。視界がみるみる滲んで、先輩の姿も見えなくなる。

「どうした、雛子。なぜ泣いている」

 先輩が明らかに困惑した声を上げた。

 でも当然だろう。私だってこんな時に、幸せなのに、どうして泣いてしまうのか訳がわからないくらいだった。いつの間にか涙は頬を滑り落ち、顎まで伝っていた。

「多分、嬉し泣きです」

 涙の雫を手で拭いながら、私は答えた。

「先輩の前だと、嬉しさでも泣けるんです。不思議ですよね」

 よくよく考えれば当たり前のことでもあるのかもしれない。鳴海先輩はいつだって私の心に多大な影響を及ぼし、些細な言動で私を揺り動かしてきた。私はいつでも先輩のことを追い駆けていたし、その一挙一動をずっと、長らく見守ってきた。そういう人が温かい言葉を、嬉しい気持ちをくれた時、他の誰のすることよりも強く響いてしまうのは不思議でもないように思う。

「嬉しいのなら別に、泣かなくてもいいだろう」

 先輩のうろたえる声が近づいてきたかと思うと、滲む視界は人影に覆われた。

 そして次の瞬間、私は先輩に抱き締められていた。温かい腕に引き寄せられ、ぎゅっと包まれる。私は先輩の胸にもたれかかり、その心臓の音を聞く。

 何となく、そうしてくれるだろうという予感があった。だから本当にしてもらえて安心していた。

「ごめんなさい。卒業式で泣かなかったから、これはきっとその分です」

 私は先輩の腕の中で泣きながら笑う。

 二週間も持ち越して、今更泣くなんて滑稽だ。自分でもおかしいと思う。


 逆に言えば今になってようやく、実感が持てた。

 私は一つの区切りを終えようとしている。それも最上の形で、溢れんばかりの幸せと共に。ハッピーエンドには涙だってつきものだ。そういうことだろう。

 これからやってくるのは願っていたことが全て叶う未来だ。鳴海先輩と再び一緒に過ごす、以前よりもずっと楽しい学校生活。私はその中で先輩を幸せにしていくことだろう。今だってできているのだから、これから先も必ず叶えられるはずだった。


「じゃあせめて、泣くか笑うかどちらかにしろ」

 先輩が困り果てたようにぼやいたので、私は今度は声を立てて笑った。

 笑い声はしっかり聞き取られていたらしく、先輩は私の肩を掴み、自分から軽く引き剥がしてから顔を覗き込んでくる。

「全く忙しい奴だ。早く泣き止め、せっかくの好物がしょっぱくなるぞ」

 呆れたそぶりの先輩も、私を見て笑っているようだ。声でわかった。

「努力します」

 私は言って、目元を拭う前に眼鏡を外した。でも涙を払う前に、眼鏡を持った手は大きな手に優しく掴まれた。目に映るものの全てがぼやける景色は、やがてぼんやりした影に遮られる。何も見えなくなるからと、私はいっそ目をつむってしまった。

 すぐに唇が、柔らかい何かで塞がれた。

「……ほら。涙の味がする」

 唇が離れた後、先輩が溜息交じりに呟いた。

 私はまた笑って、眼鏡をかけ直す。たちまちクリアになった視界のすぐ目の前に、面映そうな顔の鳴海先輩がいた。

「しょっぱかったですか」

「ああ」

「チョコレートの味はしませんでした?」

「するはずがないな」

 間髪入れずに答えた先輩は、その後で私を、非難するように見た。

「今日は思い出させるな。忍耐力を保ちたい」

 今の言葉がどういう意味かと考える前に、先輩は自ら語を継いだ。

「そういうつもりで呼んだのではないと、さっき言ったばかりだからな。あっさり撤回しては信頼を損なう。お前もなるべく協力してくれ」

 どうやら鳴海先輩は、自分で言い出したことをいたく気にしているようだった。

 でも私は、先輩を信じている。今までもずっと。これから先何があっても必ず、先輩を信じてついていこう、先輩を幸せにしようと決めている。前言を翻すくらいで損なわれるような生半可な信頼ではもはやない。

 つまり先輩が幸せになれるのなら――様子を見て、もしその方がいいようなら、遠回しにさりげなく、先の言葉の撤回を勧めてみようと思う。


 私の人生を一冊の本にするとして、この先一体どれほどのページが綴れられるかなんて、誰にわかるはずもない。

 でも私の高校三年生という章においては、どのページにももれなく先輩の名前が書いてあったはずだ。読み返してみるまでもなく、そうだった。私はどんな事柄においても、最終的に鳴海先輩について考えが行き着くようにできていた。

 そして恐らくこの先も、私の未来に連なる何十、何百、あるいはそれ以上ある白紙のページには、これからも絶えず先輩の名前が記されていくことだろう。

 ひとまず、私の高校三年生の章はもうじき終わる。間違いなくハッピーエンドで幕を閉じる。だけど残りわずかな白紙のページにさえ、いつでも、いくらでも、先輩の名前を記す用意はできていた。


「私、先輩が好きです」

 すっかり泣き止んだ私がそう告げると、鳴海先輩は目を瞬かせた。

「何だ、急に。脈絡もないことを言うな」

「……そうでもないですよ、先輩」

 遠回しすぎてわかりにくいかもしれないけど、先輩は私よりも勘が鈍くないだろうから、多分そのうちに伝わることだろう。

 現に先輩は少し考え込んだ後、はたと気づいたように顔を赤くした。だけどしばらくしてから目を細め、薄い唇を解いて、柔らかい表情を私に見せてくれた。

 春がようやく訪れたような、温かく穏やかな笑顔だった。

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