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弥生(4)

 私はおよそ三週間ぶりに先輩の部屋を訪ねた。

 その約三週間のうちに、見慣れていたはずの先輩の部屋にはある変化が起きていた。

「……買ったんですか」

 少しの逡巡の後で私は、室内の変化について先輩に尋ねた。

 触れようか触れまいか迷ったけど、こんなに大きくて目についてしまう家具を無視するのは難しかった。気づかないふりをしているのも不自然なことだろう。

 先輩は開き直ったような態度で応じる。

「買った。何か問題があるか」

「全然ないです」

「なら気にするな。本来ならあってもおかしくはない家具だ」

 確かにそうだと私は思う。

 以前私は、この部屋に寝具の類が見当たらないことをずっと不思議に思っていて、かつては先輩が勉強机で寝ているのではないかとさえ考えていた。それでなくても先輩の部屋はいつもきれいに整頓されていて、居心地がいいと思う反面、どこか生活感がないようにも感じていた。


 ところが今日、先輩の部屋にはベッドが置かれていた。

 下に引き出しがついた木製のチェストベッドだ。几帳面な人らしく、ベッドカバーは数センチのずれもなくかけられていたし、枕もへこんではいない。さながらカタログに載る見本のように整ったベッドだった。

 セミダブルサイズと思しきこのベッドが出現したことで、先輩の八畳の部屋はいくらか手狭になっている。だけど先輩の言うように、これでようやく必要な家具が全て揃ったのかもしれない。少なくともここにあることについて違和感はない。

 違和感こそないけど、個人的に思うことはある。

 まさか本当に買ってしまうとは。


「どうせなら収納にも役立つ品がいいと思って、これにした」

 私の視線を振り切るように、鳴海先輩はきっぱりと言った。思わず私が押し黙ると、今度は気まずげに睨んでくる。

「黙るな。俺としても、魂胆が見え透いているのは自覚している」

 そう言われて、こちらはどんな反応を返せばいいものやら。

 それでなくとも先輩の部屋に来ることについては緊張していたし、ぎくしゃくした浮ついた空気が互いの間に漂っていることもわかっていた。加えてこの新しい家具の存在が、私たちの会話を一層ぎこちないものにさせてしまう。

「ね、寝心地は、どうですか」

 私は落ち着かない気分のあまり、実に当たり障りのない質問を口走った。

 先輩もそわそわしながら答える。

「まあまあだ」

「そうですか……。あの、よかったですね」

「ああ」

 そこで一旦沈黙が落ち、私たちはしばらく硬直しながら見つめ合う。

 気まずい。

 会話が弾まないのもそうだけど、こうして黙り込むのも変な空気に感じられて困る。

 次に何を言おうか私が思いつくより早く、先輩が苛立ったように口を開いた。

「そう身構えなくてもいいだろう。さっきも言ったが、今日はそういうつもりでお前を招いたわけでもないし、これを買ったから呼んだのでもない」

 私も先輩を疑っているわけではない。それに、たとえ今の言葉が嘘であったとしても特に困ることもない。だけどどうしても意識してしまうのは仕方ないはずだ。正直、先輩が簡明直截な物言いをするせいでもある。


 ただ、そういう意識をどうにか振り払って考えれば、今までになかった物が置かれた先輩の部屋は新鮮に見えたし、何だか今まで以上に居心地よく見えたのも事実だった。

 ベッドを置く為にか、本棚は勉強机のすぐ隣に並べられていて、椅子に座ったまま手を伸ばそうと思えば届く位置にある。今までは部屋の中央を陣取っていた座卓は少し窮屈そうにも見えたけど、二人で差し向かいに座るのに支障があるほどではない。

 それに何より、この部屋には今までになかった感覚が、より顕著に存在するようになっていた。


「生活感があるっていうのもいいと思います」

 しばらくしてからようやく、私は感想らしい感想を述べた。

 予想外の意見だったのか、先輩がきょとんとしてこちらを見る。

「生活感? 今まではなかったか?」

「そうですね、あんまり……」

 先輩はあると思っていたのだろうか。私は笑いを噛み殺しながら続ける。

「でもこうして、家具が一通り揃ったら、先輩がここで暮らしているんだということがわかっていいと思います。少なくとも私は、何だかほっとしました」

 鳴海先輩がここで寝起きして、ご飯を作って食べて、真面目な人らしく机に向かって勉強したり書き物をしたりして――そういった生活のサイクルが浮かんでくるような部屋になったということだ。

 以前のこの部屋は機能的でこそあったけど飾り気はなく無機質で、そして先輩がここで暮らしている想像ができないような、そんな寂しい部屋でもあった。

 ちょうど部屋の窓からは、お昼時らしい春の日差しが降り注いでいて、室内を温かく照らしていた。私にはこの部屋全体に血が通って、ほんのりと体温を持ったようにさえ感じられた。

「……そういうものか」

 鳴海先輩は私の言葉を理解したのかどうか、釈然としない表情をしていた。ただ毒気を抜かれた様子もあって、やがてその面持ちから険しさが和らいだ。

「お前がそう言ってくれて、俺もほっとした。どうやら取り繕う必要もなかったな」

 それから先輩は台所へと足を向けつつ、私に声をかけてきた。

「飲み物を用意してくる。紅茶でいいな」

「はい。ありがとうございます、先輩」

「礼を言うのはこちらだ」

 先輩は、さっきまでとは打って変わった穏やかな微笑を浮かべる。

「すぐに持ってくるから、座って待っているといい」

 更にそう言い残して、先輩は台所に消えた。

 直にお湯を沸かす音が聞こえてきたから、私も勧められた通り床に座った。

 今でも緊張していないわけではなく、むしろ先輩に微笑みかけられた途端に心臓がうるさくなったように思う。それでも、とても幸せだった。


 鳴海先輩が台所で紅茶を入れている間、私はぼんやり辺りを見回していた。

 新顔のベッドはもちろんとして、この部屋には他にも真新しいものがいくつかある。それはここに来る途中で立ち寄ったパン屋さんの袋とその中に入っている焼きたてパンいくつかもそうだし、買ってきたばかりの春服が入った紙袋もそうだ。それから、ずっと読みたかった本が詰まった書店の袋もそう。

 私は手を伸ばし、袋から購入してきた文庫本を一冊取り出す。試しにぱらぱらめくってみたけど、緊張のせいか内容が頭に入ってこない。今日買ってきたのはハッピーエンドが約束された物語ばかりだった。受験勉強で酷使した頭を休めるのに、まずはこういう優しいお話を読もうと思っていた。でも、今は自分の幸せを噛み締めるのがやっとで、文字を追うだけの余裕もない。


 物語の終わりはなるべくならハッピーエンドがいい。

 私はそう思っている。

 そして、私と先輩が迎える結末も、同じように幸いなものであればいいと思う。


 もっとも今の私は、自分の終わりなんてまだ考えられない。

 物語に必ず終わりがあるように、人の人生にもまた終わりがあるものだというけど、たかだか十八歳の私に自らの人生の終焉まで考えが及ぶはずもない。

 ただ、物語の中で一つの章が終わり、次章へと移りゆく時のように、私にも一つの区切りがつこうとしている予感はあった。私は高校生として過ごす日々を無事に終えることができた。もうじき大学生としての新たな生活が始まる。そんな中で先輩と過ごしてきた時間を振り返ると、いろんな出来事があったとつくづく思う。

 顧みればきりがないほど、私が過ごしてきた過去の記憶は幸いに満ちていた。辛いことや悲しいことが何もなかったとは言わない。でも、心に残っているのは春の日のように温かな想いばかりだ。

 だから私と先輩は、この区切りの上でハッピーエンドを迎えられたのだろう。

 この章においては、と言葉を添えるとまるで思わせぶりで、つくりものの物語ならこの後とんでもない苦難に見舞われそうだけど――言ってしまえば人は、誰しも先のことなどわからないものだ。それでも私は、今日のこの気持ちを忘れない。今こそ幸せな結末の只中にいるのだと実感した今日のことを。その記憶さえあれば私は、これから何があっても、何もなくたってひたすら鳴海先輩を想い続けられることだろう。


 しばらくすると先輩は、湯気の立つカップを二つ手にして戻ってきた。

 一旦それらを卓上へ置き、すぐに台所へと取って返す。次に持ってきたのは細いリボンがかけられた大きな箱で、先輩はその箱を私に手渡すと、こう言った。

「開けてみろ。好みのものが入っているかもしれない」

「ありがとうございます」

 私はお礼を述べた後、リボンを解いて包装紙を剥がし、この近くにある洋菓子店の名前が印字された箱を開けた。中には先輩が言っていたようにマドレーヌやクッキー、パウンドケーキなどが隙間なく詰め込まれていて、眺めただけでも本当に美味しそうだった。

「好きなものばかりです」

 素直な感想を打ち明けると、先輩はまた笑った。

「それはよかった。いろいろ買いすぎてしまったが、喜んでもらえたなら嬉しい」

 そして私に紅茶を勧めながら、

「遠慮なく食べてくれ。それは全部、お前の物だ」

 と言ってもらったので、遠慮なくいただくことにする。

「お菓子に囲まれての卒業パーティなんて、幸せです」

 私は早速お菓子に手を伸ばした。先輩はこちらを眺めて首を竦める。

「パーティにしては、あるのはお菓子とパンだけだ。質素すぎないか」

「そんなことないです。私、先輩にお茶を入れてもらってお菓子を食べるのが好きなんです。私にとっては最高のパーティですよ」

 それを聞いた先輩はどこか不服そうにもしていた。

「言えばもっと、何か用意しておいたのに」

 だけど私が満足そうにしているのを察してか、やがて微かな苦笑いと共にティーカップを持ち上げた。

「まあ、お前がいいと言うなら……乾杯でもしておくか」

「あ、いいですね」

 私も追随してカップを手に取る。熱い中身を零さないように、目の高さよりも低い位置でぶつかった二つのカップは、きん、と澄んだ音を立てた。


 それから私たちはささやかに、お菓子とパンと紅茶で卒業パーティを始めた。

 先輩は甘い物が苦手なので、お菓子は全て味見をせずに買ってきたそうだ。だから評判を頼りに店を選んで、それが少々不安なのだと言っていた。その評判はどうやら間違いのないものだったらしく、洋菓子はどれも味がよかった。マドレーヌはしっとりしていたし、紅茶味のクッキーは香ばしく軽い風味で、くるみの入ったパウンドケーキの生地はきめ細やかでふわふわだった。


 でも私が一番気に入ったのは、ピンク色の袋で個包装されたいちごのブッセだ。ふんわりとしたケーキ生地の中に、つぶつぶした食感の甘酸っぱいストロベリークリームがサンドしてあって、とても美味しい。

「私、これが一番好きです。びっくりするくらい美味しいですよ」

 言いながら二つ目のブッセの袋に手を伸ばすと、先輩は買ってきたパンを食べながらどこか満足そうに顎を引く。

「気に入ったものがあってよかったな」

 私がいくら美味しい美味しいと誉めても、先輩自身がお菓子に手を伸ばすことはなかった。それでも私が食べる姿を見て嬉しそうにはしてくれていたし、私としても先輩の明るい表情を見られるのが嬉しい。

 近頃の先輩はよく笑うようになったし、その笑い方も実に素直で、心の内を隠さずにいてくれているようだった。私としても先輩の笑顔も素敵だと思っているから、見せてもらえるのは幸せだった。

 ただ、心臓には悪い。

 先輩が屈託なく笑うと、こんな顔もしてくれるのかと驚いて、どぎまぎする。

「しかしお前は、そんなに甘い物ばかり食べて、よく口が甘ったるくならないな」

 今も先輩は何の陰りもない笑顔を浮かべている。私の旺盛な食欲、及び無類の甘党ぶりを感心しているようにすら見える。

 その呟きや呟かれた内容自体に甘さは皆無だったけど、私は忘れかけていた緊張感を呼び起こされ、思わず身を竦めた。

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