弥生(2)
後輩たちに別れを告げ、クラスメイトとの待ち合わせ先に向かおうと校舎を後にした時だ。
不意に私の電話が鳴った。
慌てて取り出して相手を確認すると、なんと、鳴海先輩からだった。
『……お前は黒板に何を書いているんだ』
先輩の第一声はそれだった。
挨拶よりも早く言われて、私はつい吹き出した。
「あ、写真、見てもらえました?」
『見た。出先で見るんじゃなかったといたく後悔した』
「どうしてですか?」
『どうしてじゃないだろう。あんな……ああいうものを見せられて、平然としていられるか』
盛大なぼやきが聞こえてくる。
ということはいくらかでも狼狽してくれたのだろうか。だったら嬉しい。
「一応、あの相合傘は私が書いたんじゃないんですよ」
私は前もって主張しておく。
鳴海先輩には部室の写真の他、C組の教室で撮ったものも送っていた。黒板に私が三色もチョークを使って記した、『先輩と同じ大学に行きます!』のメッセージと、その横に友人が描いてくれた、私と先輩の相合傘。残しておかないともったいないような気がして、ついつい携帯に保存してしまった。
それを先輩に送ったのは、いたずら心が半分、純粋な嬉しさが半分というところだ。
私は鳴海先輩と、そういう普通の恋人同士っぽいこととか、青春っぽいことをしたかった。クラスの友人に相合傘を描かれてしまうなんて、いかにもじゃないだろうか。
『あんなものを母校に残していくんじゃない』
鳴海先輩はそう言うものの、どうせあの黒板の落書きだって近いうちに全部消されてしまう。今日か明日かそれ以降かはわからないけど――卒業してしまった私が知ることももうないだろうけど、あの教室は四月から、別の生徒たちのものになる。有島くんや荒牧さんたちが使うようになるのかもしれない。だからあの落書きは私が取っておいて、先輩に見せたかった。
「気に入りませんでした?」
私が尋ねると、先輩は電話の向こうで溜息をつく。
『どう反応していいのかわからん。相合傘なんて書かれたのは初めてだ』
「そうですか。じゃあ、いい記念になりますね」
『なるか。俺にこんなに恥ずかしい思いをさせて、どういうつもりだ』
落ち着きのない様子の先輩が可愛くて、私は今の先輩の顔が見たくなった。だけど電話ではどうしようもないし、この後は約束があるから会いにも行けない。近いうちにデートの約束をして、先輩から直に感想を聞こうと思う。
『しかし、どうやらお前は元気そうだな』
ふと、鳴海先輩が言った。
私が今日、泣いているかもしれないと、気にかけていてくれたのだろうか。
「はい。先輩のおかげで笑顔で締めくくれそうです」
朗らかな気分で答えた私に、
『それはそれで気に入らない』
なぜか先輩は噛みついてくる。
「どうしてですか?」
『言っておくが、こっちは外であの写真を見たんだぞ。あんなものを見せられて普通の顔でいられると思うか?』
憤懣やる方ないといった様子で先輩は続けた。
『しかも運悪く、すぐ近くに大槻がいた。何を見ているのかとしつこく追及された上、わかったふうな顔で冷やかされた』
そしてしまいには電話ごと吹き飛ばしそうな溜息をつき、とうとうと釘を刺してきた。
『あいつは本当にうるさくて敵わん。四月からはあいつもお前の先輩になるのだろうが、だからと言ってまともに相手はするなよ。そしてたとえ根掘り葉掘り聞かれても迂闊なことは喋るな。あいつはちょっとしたネタでも小一時間は他人をつつき回せる才能がある。全く使い道のない、無駄な才能だ』
もしかすると、先輩はあの相合傘の写真のせいで、大槻さんに余程たっぷり冷やかされたのだろうか。それなら悪いことをした。
でもその瞬間、私からのメールを開いてしまった時の先輩の顔も、やっぱり見てみたかったと思う。その後、大槻さんにどんなふうにからかわれたのかも。四月からの大学生活では、そんな鳴海先輩の日常も垣間見られるといいのだけど。
私の知らない鳴海先輩が、あの大学で待っているような気がしてならない。
「四月から、改めてよろしくお願いしますね、先輩」
私は胸を張って、電話の向こうへと告げる。
『……ああ。待っている』
鳴海先輩は気を取り直したように答え、その後で言い添えてきた。
『卒業おめでとう、雛子』
言われて私ははにかんだ。鳴海先輩から祝福の言葉が貰えるなんて、二年前の私は考えもしなかっただろう。
「ありがとうございます。今度二人で、卒業パーティしましょうか」
『いいな。そうしよう』
私の誘いに先輩は、声でわかるほど嬉しそうに応じる。
『俺も近々、また会いたいと思っていた。時間を作ってくれないか』
先輩からの頼みとあらば絶対に断れるはずがない。私は張り切って答えた。
「こちらこそ、是非。私も先輩に会いたいです」
『そうか、よかった』
今度は安堵の溜息が聞こえる。
『次に画像を送ってくる際は、ちゃんとお前の姿も入れてくれ。そうでないとお前の顔が見たくて、堪らなくなる』
どうやら、私たちは同じことを考えていたみたいだ。
やっぱりどうせなら、顔が見たい。会って話したい。そう思う。
四月からはそれも今まで以上に簡単に叶うだろう。とは言え今はまだ三月、それも一日、始まったばかりの日で、入学式まではあと一ヶ月以上もある。それまでを無為に過ごすというのももったいないので、私は近いうちに先輩に会う為の時間を作ろうと心に決めた。
『いっそホワイトデーを口実に、お前を呼び出そうと思っていたくらいだ』
鳴海先輩もそう言ってくれていることだし。
卒業式が過ぎると、私の部屋からはいくつかの物が消えた。
例えば制服だ。東高校の紺セーラーは三年間着倒したせいでややくたびれていたけど、それでも貰い手は見つかるもので、近所に住む在校生の元へと引き取られていった。
引き取られる直前、クリーニング店でかけられた透明ビニールの中にある制服を見た時、さしもの私も多少の感慨を抱いた。もうこの服を私が着ることはないという事実が自身の成長を垣間見られたようで嬉しくもあったし、何かはわからないけど何かを失ったのだという自覚はあって、それが少しばかり寂しくも感じた。
それから大学受験で使用した参考書も、やはり近所の受験生に差し上げることになった。こちらは割ときれいに使っていたものなので先方にも大変喜ばれたようだ。お礼にと母経由で手渡されたそこそこの額の図書カードに、私の心はこの上なく浮かれた。もっとも私の趣味をわかっている母からは、先んじて『半分は学校用に使うこと』と釘を刺されてしまった。それでも、受験勉強中に発売されていた読みたかった本たちを購入するには十分な額が手元に残った。
そして、これは卒業とは直接関係のないことだけど、日増しに暖かくなっていく気温を受け、クローゼットの中身も入れ代わりつつあった。冬用のコートやマフラーや手袋は洗濯をされた上で次の冬までの眠りに就き、代わりにスプリングコートがお目見えした。まだ朝晩は冷え込みが厳しいけど、色のきれいな服を着たくなるのは春が来た何よりの証拠だ。両親から気が早いと言われても、私のクローゼットは一足早く春らしい彩りを迎えていた。
春物の服に着替えた後、私は参考書の分だけ空きができた自室の本棚を眺めやる。
本棚の空間はぽっかり穴が開いたみたいで寂しすぎた。参考書の隣に並んでいた本たちが、支えを失くして力なく倒れているのも悲しい光景だった。参考書の他はほとんどが文庫本ばかりという私の本棚に、隙間があるのはいただけない。せっかく背表紙を揃えてきれいに並べてあるのだから、景観を損ねる空間は早々に埋めておくべきである。
めでたく受験生としての日々も過ぎたことだし、好きな本でも買いに行こうと思っていた。ちょうど手元には図書カードもある。なかなか使う機会がやって来なかったお年玉もある。
寒さがほんの少しだけ緩み、街の風景がくすんだ冬色からパステルカラーに切り替わる春先は、買い物をしに歩いて出かけるのに最適な季節だ。
もちろん、デートに出かけるのにもいい季節だと言える。
三月十四日も、実に天気のいい日になった。
きれいな青空とぷかぷか浮かんだ白い雲が電車の窓から見えていた。駅へ着き、改札を抜けて出口へ向かうと、降り注ぐ日差しが頬に触れて暖かかった。春風に乗ってどこからか沈丁花の香りが漂ってくる。桜が咲くのはもう少し先だけど、木の芽は確かに膨らみつつある。
私は駅の出口に正面に立ち、駅舎の外壁に備えつけられた丸時計で現在の時刻を確かめる。
十時二十分だった。
約束の時間は十一時だったから、早く着きすぎたかもしれない。待ちきれなくてつい、早めに家を出てきてしまった。今日は春用のブーツも磨いてきたし、前髪だってしっかりブローしてきた。スプリングコートも晴れた日にはちょうどいい軽さで、私は先輩と会う前から既に浮かれていた。
心が弾みすぎてどこかへ飛んでいってしまいそうだ。春だから、だろうか。
それとも今日がホワイトデーだからだろうか。
鳴海先輩はこの日を口実にしたいと言っていたけど、今の私たちに会う為の口実が必要だとは思えない。ただ先輩は私にバレンタインデーのお返しをしたいようだったし、私としてもそういう意味のある日を意識した上で会う約束ができるのは、何だかいかにも付き合っているという感じがして素敵だと思う。ついおめかしだってしてしまう。
私は先輩を待つ間、見慣れた駅前の景色をぼんやり眺めていた。三年間通学に使ってきた駅だから、近隣の店舗もビルの広告も覚えてしまうほど見慣れている。そしてここは四月から通う大学への最寄り駅でもあるので、これからまた数年間はお世話になることになる。先輩の部屋にも程近いことだし。
そういえば、来月には鳴海先輩の誕生日がある。
四月二十九日、先輩は二十一歳になる。
去年の誕生日は何をしようか、何を贈ろうかずっと悩んでいた。先輩は私に散財させるのを嫌がっていたし、それ以前に自身の誕生日を祝ってもらいたがっているそぶりすらなかった。おかげで私は四月中ずっとあれこれ考え、悩む羽目にもなったけど。
さて、今年はどうしようか。あれこれ考え始めるにはまだ少し早いかもしれないけど、今から考えておいたって問題はないだろう。恋人の誕生日を祝うのは義務であり、権利でもある。今年は去年以上にその権利を、存分に行使したいところだ。
やがて、通りの向こうに鳴海先輩の姿が見えた。
私は先輩の姿ならどんなに遠くからでも見つけられる。あのすらりと立ち姿、距離があってもわかる姿勢のよさ、きびきびした歩き方、周りにどれだけ人がいようとすぐに目についてしまう。そして春先だろうと先輩はモノトーンが大好きなようで、今日は白い襟付きシャツの上に黒いカーディガンを羽織っている。鳴海先輩なら何を身に着けても格好いいはずなのに、着る物に関しては全く冒険をしない人だった。
横断歩道の手前で信号待ちをする先輩に向かって、私は大きく手を振った。
先輩もすぐにこちらに気づき、驚いたような顔をする。残念ながら手を振り返してくれることはなかったものの、信号が変わり人波が動き始めると、こちらへ駆け寄って来てくれた。




