弥生(1)
朝起きて、真っ先にカレンダーをめくった。
お正月に変えたばかりの新しいカレンダーも、あっという間に三枚目だ。
その一番最初の日、三月一日には大きく丸がつけられていて、数字の下には私の字で『卒業式』と書いてある。書いた当初は実感なんて何もなかった。当日の朝を迎えても実感は、あるような、ないような。
それでも今日は、三月の始まりの日だ。
私にとっては――私だけではなく東高校に通う全ての三年生にとっては、三年間の締めくくりの日でもある。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、私の部屋に細い光の線を描いている。それはちょうどカレンダーの隣にかけられていたセーラー服とスカートの上を縦断していた。三年間着続けて身体に馴染んだ制服も、恐らく今日が着納めだ。今までありがとう、という気持ちを込めてきれいにアイロンをかけてある。おかげでスカートのプリーツはいつになくきっちりしていた。
部屋のカーテンを開けると、春らしい柔らかな日の光が視界いっぱいに広がった。思わず目を眇めつつ空を仰ぎ見る。青空にうっすらと、刷いたような雲が浮かんでいる。
門出の日にふさわしい、よく晴れた日のようだった。
暦の上ではとっくに春を迎えていても、まだまだ冷え込みは厳しい。
私は紺一色のセーラー服の上にコートを着込み、マフラーを巻き、手袋をして家を出た。
今日は仕事を半日だけ休んだ両親も一緒だった。スーツを着てよそゆきの装いをした両親と共に、電車に乗って東高校を目指す。親と歩くのが恥ずかしいなんていう年頃はもう過ぎていたものの、それでも途中でクラスの友人に出会った時は何となく照れた。友人も両親を連れていたからか、私と同じように笑っていた。
卒業式前のC組の教室は今まで以上にざわめいていた。教室の後ろには今日の為に同伴した父兄がずらりと並び、教室に入りきらず廊下まで列をなすほどだった。その上、父兄の誰も彼もがよそゆきの姿をしている。
私たち卒業生はそういう家族の姿に照れるばかりで、教室にいるうちはちっとも厳粛な気分になれなかった。机の上に一つずつ置かれた名札つきのコサージュを胸元につけても、何となく浮つくばかりの気持ちでいた。
名札に記された卒業生の名前は、在校生が式前に書いておく決まりとなっている。私も去年、書いたから知っている。『柄沢雛子』と女の子らしい丸い文字で書かれていたけど、『雛』の字だけが少し大きくなっていて、難しかっただろうなと書いてくれた子に申し訳なくなる。これを書いてくれたのはどんな子だろう。字に見覚えがないから有島くんや荒牧さんじゃないことはわかる。他に親しい二年生はいないから、誰かわかったところでどうしようもないけど、そんなことにまで思いを馳せたくなる時点で私は、多少は感傷的になっているのかもしれない。
卒業式に出席する在校生は二年生だけで、だから有島くんたちとは後で会えるかもしれない。もし会えたら、最後に一言、挨拶をしていこう。
それからふと、私も、鳴海先輩の卒業式に出てみたかったと思う。
当時私は一年生だったし、特に委員や役員も務めていなかったから、ほとんど蚊帳の外の扱いだった。一部ではわざわざ卒業生に会う為にこっそり登校した同級生もいたと聞くけど、私はそこまではできなかったし、先輩からボタンも貰い損ねていた。出て行ったところであの頃の先輩がボタンをくれるとは到底思えないものの、私もそういう青春らしい光景には、それなりに女の子らしく憧れていたのだ。
せめてあと一年早く生まれていたら卒業式にも出られたし、二百人近くいる卒業生の中からたった一つだけある当たりを強運で引き当てられれば、コサージュの名札に『鳴海寛治』と記せたかもしれないのに――なんて、こんな日でも結局、私の思考は先輩についての事柄に行き着いてしまう。
だけど鳴海先輩の卒業式はとっくに過ぎてしまったし、私の卒業式も今日一日で終わる。
同級生にも、一つ違いにもなれなかったけど、四月からはまた同じ学校に通えるようになる。その事実は寂しい過去を補って余りあるほど素晴らしく光り輝いている。そうすると自然と、私の背筋も伸びた。
胸を張っていようと思う。
きっと先輩も、二年前の卒業式では胸を張っていたに違いないからだ。
やがて担任の工藤先生が黒スーツ姿で現れ、軽い挨拶の後で私たちを廊下に並ばせた。私たちは整列して、式場である体育館へと向かう。
吹奏楽部が奏でる『威風堂々』のメロディに合わせて入場すると、壁にぐるりと張られた紅白幕が目に飛び込んできた。
結論から言うと、私は卒業式では泣かなかった。
鳴海先輩にやきもちを焼かせない為に頑張った、と言えたらよかっただろうけど、あいにくとそれ以前の問題だった。
卒業証書の授与が済んだ辺りからクラスメイトたちが一人、また一人と泣き始めて、私はそれを気遣ったり慰めの言葉をこっそりかけたりするうち、流れに乗り遅れてしまったのだった。こういう時の涙はうつるものと思っていたのに貰い泣きの気配すらなく、泣けないのがもったいないような気さえしてならない。
卒業が寂しくないわけではない。C組はとても楽しくていいクラスだったし、いい友達もできたし、思い出だってたくさんできた。でもその友人たちとは卒業後も会う約束をしていたし、卒業式の後はクラス全員でカラオケに行く話もまとまっていたから、まだ寂しさよりも楽しさ、晴れがましさの方が強くて、だから泣けなかったのだろう。
もしかするとこの寂しさも、ずっと後になってから募り始めるのかもしれない。今の私にはまだわからないようなタイミングで、ふと切ない気持ちを覚える日がこれからやってくるかもしれない。
その時、鳴海先輩が傍にいたら、私は泣いてしまうだろうか。
もしそうなっても、先輩なら半ば呆れつつも優しく受け止めてくれるだろうけど。
卒業式後、うちの両親は仕事があるからと先に帰っていった。
私はクラスメイトたちと共に教室に残り、名残を惜しむように他愛ない話をしたり、写真を撮り合ったり、散々泣いた後の友人を慰めたり、卒業直前に付き合い始めたクラス内カップルを冷やかしたりした。
思い出の詰まった教室を離れがたくて、お約束のように黒板に落書きもした。友人が多少美化した先生の似顔絵を描いたので、私はその下に今日のスーツ姿を描き足した。片方の手に教鞭を持たせたら、別の友人がもう片方に野球のバットを持たせてしまい、ちぐはぐな絵になって皆で笑った。
「『鳴海先輩大好き!』って書かないの?」
友人はそんなことも言ってきたけど、さすがにそれを母校の黒板に残していく度胸はない。
ただ何か書きたい気分にはなっていたから、代わりにチョークを三色使って隅の方に『先輩と同じ大学に行きます!』と書いた。そうしたら、名前を書かなかったせいでかえって皆から冷やかされて、隣に相合傘を描かれてしまった。
そんなふうに教室で過ごしていると、不意に見覚えのある姿が戸口に立った。
「柄沢先輩!」
「せんぱーい!」
呼ばれるのと私が振り向いたのはほぼ同時だった。
見れば、そこには有島くんと荒牧さんが立っていて、目が合うとどこか遠慮がちに手招きをされた。
私はすぐに黒板の傍を離れ、二人に駆け寄る。私を出迎えた二人は軽くお辞儀をして、声を揃えて言ってきた。
「ご卒業おめでとうございます」
「おめでとうございます!」
「ありがとう。わざわざ、言いに来てくれたの?」
後で会えたらとは思っていたけど、まさか二人の方から会いに来てくれるとは思わなかった。驚く私の前で有島くんは頷き、荒牧さんははにかむ。
「そうなんです。最後に一言、お祝いが言えたらと思って」
「プレゼントもあるんです。あの、卒業式っぽくないですけど……」
そう言うと、荒牧さんは自分の鞄を開けて小さな包みを取り出した。透明なセロファン紙の中に丸いクッキーを並べて、両端をキャンディみたいに絞って、水色のサテンのリボンで結んであった。外側には小さなカードが添えられていて、『ご卒業おめでとうございます』と荒牧さんの可愛い字で書いてあった。
「花束は以前贈ってましたし、被るのも何かなって荒牧と話してて」
すっかり低くなった声の有島くんが言うと、荒牧さんが短い髪を揺らして頷く。
「それに、先輩からはバレンタインにドーナツをいただいてましたよね。少し早いですけど、ホワイトデーのお返しも兼ねて、です。よかったら受け取ってください」
彼女の細い手が差し出してきたクッキーの包みを、私もはにかみながら受け取る。
「ありがとう……。私も先月、チョコにすればよかったな」
差し入れのつもりだったからドーナツにしていたけど、やっぱり後輩たちにもチョコを作って持っていけばよかったかもしれない。先月も思ったことを改めて考えていたら、荒牧さんは笑いながらかぶりを振った。
「いいんです。私までチョコ貰ったら鳴海先輩に悪いですから」
荒牧さんにまで先輩について言及されて、私はさすがに照れた。クラスの友人からも冷やかされた後なので余計に。でももちろん、悪い気はしない。
そしてプレゼントはすごく嬉しい。私は至らぬばかりの先輩だったというのに、なんて優しくていい後輩たちだろう。貰ったばかりのクッキーを眺めていたら、嬉しさに口元が緩んできて困った。最後まで、締まらない先輩のままではさすがに格好つかない。
「先輩、この後お時間ありますか?」
と、まだ聞き慣れない声の有島くんが尋ねてきた。
「少しなら……。お昼くらいから用事があるけど、それまでなら空いてるよ」
カラオケの約束は十二時からとなっていた。今日はどこも混み合うみたいで、あまり遅い時間には予約が取れなかったらしい。だからクラスの子たちもこのまま、制服姿でなだれ込むつもりだと言っていたし、私もそうしようと思っていた。どうせ今日で着納めなのだから。
ともあれ私が答えると、二人は一度顔を見合わせ、それから荒牧さんが語を継ぐ。
「よかったら部室に来ませんか。もうずっと来てないですよね、先輩」
「部室に?」
それは考えていなかった。
と言うより、もう入れないだろうと思っていた。
「……いいの?」
問い返せば、荒牧さんは制服のポケットからプラスチックの札がついた鍵を取り出し、どこか嬉しげに小さく振ってみせる。
「鍵ならちょうどありますから。是非来てください」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
最後に部室を見ておきたかった。教室と同じくらい――いや、一年きりしかいなかったこの教室に比べたら、三年間通い詰めたあの部室には膨大な量の思い出が眠っているはずだった。
次に来る時はもうOG訪問という形にしかならない。文芸部員として部室に足を踏み入れる、本当に最後のチャンスだった。
「よかった! 私も最後に、部室で先輩と写真が取りたかったんです」
はしゃぐように顔を綻ばせる荒牧さんの横で、有島くんが半笑いを浮かべている。
「すみません、先輩。ご存知でしょうけど荒牧は本当に少女趣味なんで、先輩と最後の思い出作りがしたいって言って聞かなくて」
彼はちょっと皮肉っぽいことを言うけど、私には荒牧さんの気持ちがすごくよくわかるので、当然お付き合いすることにした。
部室に足を踏み入れたのは、今年に入ってからは初めてだった。
図書室の隣にある小部屋には棚と折りたたみ式のテーブルとパイプ椅子があるだけで、言われなければ文芸部の部室だとわからないほど寂しく、殺風景な部屋だった。
ただ読書の為の部屋としては最適だった。図書室から漂ってくる古い本の匂い、適度に日差しが差し込む窓、校舎の隅にあるからこその静寂、そして想像力や集中力を妨げないだけの部屋の狭さ――私はここで何冊の本を、いくつの物語を読んできただろう。今となっては数え切れないほどの物語の記憶が私の中に蓄積され、目を閉じるだけですんなりと浮かんでくる。つくりものの物語たちが記された文字を追いながら、想像の翼を広げた記憶は、目で見た情景と変わりなく鮮明に、まざまざと思い出せた。
一方で、つくりものとは違う本物の思い出もたくさんできた。
椅子に腰掛けて読書に耽る鳴海先輩を、ただ目の端で捉えるだけだった日々。先輩と初めて本の感想を交換できた日のこと。先輩から、今にして考えると言葉不足にも程がある告白を受けた、一昨年の冬の話。
先輩が卒業してしまった後、寂しさを覚えながら過ごした去年の記憶。
今年は私もとうとう三年生になり、部長にもなって、いろいろと悩んだ。でも、いざとなればすんなり事が運んで、文化祭も文集作りもいつになく楽しく過ごせた。そんな今年の思い出も、ここにはまだ色褪せずに残っている。
「ほら荒牧、急げって。先輩は時間ないんだから」
有島くんが荒牧さんを急かし、荒牧さんはカメラの準備を始める。ベビーピンクのポラロイドカメラだ。こんなものまで可愛いのが彼女らしい。
「じゃあ部長はここに座ってください」
荒牧さんが椅子を引いてくれたので、私はそこへ腰を下ろした。後輩たちは私の背後に立ち、中腰で屈み込むようにして顔を寄せてくる。
「これで全員入るかな……? 一枚、撮ってみますね」
シャッターを切る音の後で、ポラロイドカメラから印画紙を引き出した荒牧さんは、それを乾かすが如くぱたぱた振り始めた。
やがて印画紙には撮りたての画像が浮かんでくる。私と荒牧さんと有島くん、三人で並んだ写真ができあがる。少し窮屈そうではあったけど、三人ともフレームアウトすることなくきちんと収まっていた。荒牧さんが一番いい笑顔で、有島くんは渋々付き合っていると言う顔をして、そして私は相変わらずの、何となく利口ぶったように見えるあの顔つきをしていた。
「ちゃんと入ってた。結構、いい写りじゃないですか?」
荒牧さんは上機嫌でポラロイド写真を眺める。
「うん、よく撮れてる」
私は頷き、今度は自分の携帯電話を取り出す。
「私も撮っていい? 最後だから、部室で写真撮っておきたくて」
後輩たちが快く頷いてくれたので、さっきと同じように、三人で並んだところをまず一枚。
それから、部室だけの写真も一枚。
写真には本の匂いも静けさも納めておくことはできないけど、私の心にはずっと残る。それこそ一度読んだ物語を読み返すみたいに、写真を見る度にここでの記憶を思い出すことができるはずだった。
撮ったばかりの部室の画像には、私の影がくっきり写り込んでいた。折り畳みテーブルの上とつるつるした床の上に、二つ結びの髪型がちゃんとわかるように影が伸びていた。
面白い写真が撮れたと、私はそれを鳴海先輩に送ってみた。卒業記念に撮りました、とメールで一言添えて。
それともう一つ、教室で保存した別の画像も送信してみた。
「ありがとう。おかげで最後にまた、いい思い出ができたよ」
私は改めて二人にお礼を言い、逆に二人から深々と頭を下げられた。
「いいえ、こちらこそ! 写真、ありがとうございました!」
「ご卒業本当におめでとうございます、先輩!」
物語的にはここで涙腺が緩んでほろりとしたら美しいのだろうけど、私はやはり口元が緩んでしまって、最後まで格好つかない先輩のままだった。こんな素直でいい子たちの先輩になれてよかったと思うし、二人のおかげでいい部長になれていたような気さえしてくる。
胸を張って、笑顔で部室を去ることもできた。




