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如月(5)

「……な、何ですか」

 見つめられる緊張感から、私はどもり気味に尋ねた。

 すると鳴海先輩は一度目を瞠ってから、何気ない口調で答える。

「いや。考えていただけだ、お前のいる大学生活がどんなものかを」

 そう言われると気になる。先輩の想像の中で、私はどんな大学生になっているのだろう。

「私、ちゃんと勉強してましたか?」

「どうだろうな。そういう想像はしなかった」

「じゃあ一体どんな想像をしたんですか」

「いちいち言うまでの話でもない。そのうち全部、現実になるだろうからな」


 何て思わせぶりな言葉だろう。

 だけどそれが先輩の望む大学生活だというなら、私は是非叶えたいと思う。

 お互いに理想的で、幸せで、ささやかだけど満ち足りた日々を送れたらいい。高校時代には得られなかったありふれた青春風景を、遅まきながらも二人で手に入れられたらいい。


「先輩にも喜んでもらえて嬉しいです」

 私もしみじみと呟く。

「受験中も大変お世話にもなりましたし……今度じっくり、お礼をさせてください」

「大したことはしていない」

 先輩はきっぱり言ってから、軽く肩を竦めた。

「だが更に正直に言うなら、俺はお前が受験生ではなくなったのも嬉しい」

「あ、それは私もです」

 ちょうど飲んでいたティーカップが空になり、私はそれを傍の座卓に置いた。それから両腕を高く上げて伸びをしてみる。今日の開放感はひとしおだった。

「もう、受験生活が長くて長くて。飽きが来ていたところだったんです」

 受験生として過ごした期間は窮屈で息苦しかった。両親を始め、周囲の人たちにはいろんな点で気を遣わせてしまったし、私自身も気を引き締めてばかりの日々を送り続けてくたびれていた。そろそろ少しくらい羽を伸ばしても罰は当たらないだろう。

「そうだな。長かった」

 先輩も万感込めて頷いていた。きっと鳴海先輩にも思うところがあるのだろうと、私は申し訳ない気持ちになる。

「先輩にもご迷惑をおかけしました」

「迷惑でもない。あまり気にするな」

「でも、私に会えなくて寂しかったですよね」

「ああ」

 半ば冗談のつもりで言ったことにも素直に頷かれ、私が墓穴を掘った気分でいると、先輩はその虚を突くように私の唇に自らの唇で触れた。

 柔らかい。少し温い。でも今日も味はわからなくて、顔が離れた時、唇の端に吐息がかかったのがくすぐったかった。

 唐突な行動に出た先輩を、私は多分、目を丸くして見つめていることだろう。

 先輩は私の顔を見て、さもありなんという表情を取った。

「雛子」

 そして先輩は固まる私の名前を呼び、一度溜息をつく。ためらったのか、呆れているのか、緊張しているのかはわからない。居住まいを正してから、にこりともせずに続けた。

「こんな日にこういうことを言うのも、それこそ無粋かもしれない」

 改まったような物言いに、私も背筋を伸ばしたくなった。

 一体、何の話だろう。

「だがお前に、どうしても頼みたいことがある」

「頼み、ですか? 私にできることなら……」

 何だか重そうな話だ。私は思わず身構えたけど、先輩はそれを制するように口を開いた。

「そう構えないでくれ。お前にはきちんと断る権利がある」

 その後、熱っぽい口調で告げられた。

「お前が、欲しい」

 慎重に、問いかけるように、重々しく告げられた。


 はっきり言って、予想もしていなかった頼みだった。

 たちまち私の体温が急上昇して、心臓がばくばくとうるさい音を立て始める。それ自体は先日、バレンタインデーにも聞いていた。額面以上の意味がありそうな、そもそも額面からしてどうとでも解釈できるような言葉だった。

 それなら今日のは、一体どういう意味だろう。


「先輩……えっと、それって」

「その、お前が嫌じゃなければだ」

 蒸発しそうな勢いで発熱する私に気づいてか、先輩も真っ赤になって慌てふためく。

「こんなことを無理強いするつもりはないし、それでお前に愛想を尽かされるくらいならもう言わない。こんなことをしなくてもお前の気持ちは確かめるまでもなくわかっている。拒まれたからと言ってそれを疑う気だってない」

 まくし立てるような弁解を、私はどんな態度で聞いていればいいのだろう。

 鳴海先輩はこれでも、至って、驚くほど真剣なのだから。

「俺も、お前が好きだ」

 真面目な顔つきで言った後、先輩は私を真っ直ぐに見る。

「だが好きだという気持ちから、そういうものを切り離すことができなかった」

 少し、苦しげな告白に聞こえた。

「これは、以前も話したな。俺はいっそお前を精神的にだけ愛せたらと思っていたが、俺のような未熟な人間には到底不可能だった」

 前に、聞いていた。

 先輩が、その身体すら不要だと思い詰めていた時のことだ。

 私は先輩にそこまで思い詰めて欲しくなかった。寂しい思いもして欲しくなかった。だからあの日、あの時は――。

「むしろ不可能だとわかったあの日から、そういった衝動はより一層エスカレートしたように思う。あれからお前と会う度に、いつも淡い期待を抱いていた。お前をいとおしいとと思うのと同時に、お前に触れたいという気持ちも燻り続けていた」

 そして薄い唇を噛み締めるようにして一瞬黙った後、更に言った。

「お前が受験生のうちはもう黙っていようと思っていた。だからと言って今日、こうして切り出すのも現金と言うか、厚かましいことこの上ないだろうが……やはりお前といると考えてしまう。今日のお前は特別可愛いから、余計にな」

 先輩はとんでもないことをさらりと言った。

 ただし口調の割に表情は追い詰められた人のように硬く、余裕もなく、やはり真面目だった。正座の姿勢から少しだけ身を乗り出し、隣に座る私の両手をぎゅっと握った。痛くもない程度の力ではあったけど、私は、答えるまでは逃げられないような予感を抱いた。

「限界が来る前に、お前の気持ちを尋ねておこうと思う。聞かせてくれ」

「な……」

 当然のことながら、私は答えに詰まった。

 嫌だとか嫌ではないとかいうそれ以前の問題で、こんなに答えにくい問いなんてあるだろうか。何だかとてつもない事柄の決断を委ねられたような気がしてならない。

「そういうこと、そもそも、どうして聞くんですか」

 急な体温上昇のせいか、私の声はからからに干からびていた。それでも問い返さずにはいられない。そうでなければ先輩の言葉にも答えられない。

 なのに先輩はその疑問が不思議だという様子で目を見開く。

「お前が言ったんだろう。『次そう思った時は、私に聞いてみてください』と」


 ――そうだった。言っていた。

 なぜそんなことを言ったのか。もちろん、私も先輩のことが好きだからだ。

 そういうことで先輩には思い詰めたり悩んだり、自分自身が私にとって有害だなどと思って欲しくなかったからだ。

 私にとって鳴海先輩は、三年の高校生活の間ずっと追い駆け続けた相手であり、憧れであり、理想であり、可愛い人でも大好きな人でもある。

 そしてこれからまた、大学まで追い駆けていこうとしている人に対して、心にもない答えは告げたくなかった。


 ただ、何と答えるか、その具体的な文脈には少し悩んだ。

 次からはもういっそ聞かないでください、とも言いたいところだけど、そうすると鳴海先輩は、それはそれで素直に実行しそうな予感がするので困る。


「あの、先に一つ、仮定の話として聞いておきたいんですけど……」

 私は、膝の上にある自分の震える手と、それを握り締めている先輩の大きな手とを見下ろしながら切り出した。

 さすがにこういう状況で、先輩の顔を見て質問をする度胸はなかった。

「何だ」

 短い返答の中にも、先輩が背負う張り詰めた空気は感じ取れる。私たちはお互いに緊張している。

 私の言葉一つで先輩はとても傷ついたり、落ち込んだり、あるいは救われたような気持ちにだってなれるだろう。

 責任は重大だ。迂闊なことは言えない。嘘もつきたくない。

「もし……」

 手だけじゃなく、声も震えた。

 寒くないのに、むしろ暑くてしょうがないくらいなのに。

「もし、私が、これからは聞かないでくださいってお願いしたら」

 言いながら、そろそろと視線を上げてみる。鳴海先輩の薄く開いた唇が見えた。

「先輩は……どうしますか」

 更に視線を上げると、先輩が瞬きをするのも見えた。こちらが息苦しくなるほど真面目な顔をした先輩は、私の問いをやはり真摯に考えているようだった。

 しばらくしてから当たり前だと言わんばかりの口調で答えた。

「それなら、次からは聞かないようにする」

 思った通りの回答に、私はますます反応に困る。


 鳴海先輩からすれば、それが私の望みならそうするのだろうし、私を困らせようという意図は微塵もないだろう。

 でも、私は困る。先輩に問われて素直に答えるのも難しければ、これから先ずっと何も聞かれないままというのもきっと心臓に悪いはずだ。かと言って、このまま黙っていては先輩が誤解するだろう。私が拒絶の意思を示したと読み違えられてしまう。


「あの、私は……」

 とりあえず嫌がってはいないことを伝えるべく、私は少し笑んでみた。

 ただ自分で思うほどには上手く笑えていなかったようで、口元が引きつるのが感覚でわかる。おかげで先輩には気遣わしげな顔をされてしまった。

「べ、別に、嫌なわけではないんです。ただ、何て言うか」

 おまけに暑い。暑すぎる。耳なんか火がついているのではないかと思うほど燃え盛っていて、そのせいか口の中がやけに渇いている。

「自分で言っておいて何ですけど、答えるのが、は、恥ずかしくて」

 答えはちゃんと存在している。私の心の内にある。

 でも言葉にするのは非常に難しくて、勇気が出なくて、どうしていいのかわからない。何も言わなくても伝わってくれればいいのに、と甘えたことを思ってしまう。

「だからあの、今も、聞いてもらったのに、どう答えていいのか……」

 困り果てた私はそこまで言うと、ひとまず長く息をついた。

 駄目だ。喉が詰まったみたいに言葉が出てこない。

 それなら以前試みたように目で伝えられないものかと、私は先輩を見つめてみた。でも自分で何が言いたいのかまとめられていないのでは、伝わるものもないだろう。現に先輩は弱ったような顔つきで私を見ている。

「……雛子」

 目の前に座る先輩が私を呼んでも、私はろくに声も出せないところまで追い込まれていた。


 先輩は、それでも私の言葉を待っている。

 辛抱強く、私がちゃんと答えるまで待っていてくれるつもりのようだった。

 なのに私はぐずぐずと目の前の人を見つめて、口を開く勇気は持てないばかりだ。

 先程からずっと先輩の顔も真っ赤だし、かさついて見える唇から漏れる呼吸はやはり震えていた。私を見る目はずっと真っ直ぐだけど、いつもよりも少しだけ、瞬きが多いような気がする。

 もしかして、鳴海先輩も恥ずかしいのだろうか。その時思った。

 恥ずかしくて逃げ出したくなる気持ちを堪えて、その上であんなふうに言ってくれたのだろうか。だとしたら。

 思った瞬間、心の内で絡まり合っていた何かがするりと解けた。私が持っていた、特に揺らぐこともぶれることもなく存在していた先輩の問いに対する答えが、雁字搦めの拘束を解かれて飛び出してきた。


「私も、先輩が好きです。大好きです」

 出せないと思っていた声は、思っていたよりも強く発せられた。

 先輩が言ってくれたように、私もはっきりと口にした。

「だから私、先輩になら何をされてもいいです」

 今の言葉が許容ではなく、願望であることが、ちゃんと伝わるだろうか。

 鳴海先輩は黙っている。まだ私に言いたいことがあるとわかってでもいるみたいに黙り、でも私の両手からゆっくりと手を離す。瞬きを止め、私をじっと見つめたままで。

「だから……」

 私はもう一度、改めて笑った。

 本当のことを言うと、泣きそうだった。私は先輩の前だとおかしいくらいに涙腺が弱い。でもこんな時に泣くのはそれこそ誤解を招くだろうから、無理やりにでも笑っておいた。ぎこちなく引きつっていても、悲しい顔をしているよりはましなはずだ。

「わ、私でよければ……あの、先輩の好きにしてもらえたらって……」

 最後に何と言おう。もっと直球で、直截的なことを言わなければいけないだろうか。私はうろうろと迷いながらもそれらしいことを言いかけた。

 けど、結局、最後まで言う必要はなかった。

「もういい。わかった」

 先輩は私を制すると、柔らかく微笑む。


 それからまごつく私に近づき、抱き締めようとするみたいに片方の手をそっと、私の背に添えた。

 そしてもう片方の手は私の肩に置き、力を込めて押してきた。普通なら勢いよく倒れるところも、先輩が支えてくれたおかげでゆっくりと傾いだ。新幹線のリクライニングシートよりも慎重に、私は床に押し倒された。

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