睦月(5)
居間では鳴海先輩が後片づけを始めていた。
寿司桶に残されていたバランやガリの入ったアルミカップをよけたり、枝豆の殻を一つにまとめたり、空のアルミ缶を揃えたりと、実に細々とやっておいてくれた。
おかげで私が戻った時、既にテーブルの上は整然としていて、さっきまで前後不覚の酔っぱらいがいたとは思えないほどだった。
「ありがとうございます、先輩。助かりました」
私がお礼を言った時、先輩は残りのビールを一息に空にしていたところだった、そしてもう一本増えた空き缶を卓上に置いてから、気遣わしげに尋ねてきた。
「よかったらもう少し手伝おうか。洗い物くらいなら」
「いえ、いいですよ! お客様にそんなことはさせられないです」
慌てて私はかぶりを振る。先輩の気持ちは嬉しいけど、今日はこちらが先輩をお招きしたのだし、そこまでさせるのはもったいない。
ただでさえ、あの兄に付き合わせてしまった後だ。
「むしろすみません。何て言うか、兄が大変ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない。気にするな」
先輩は私の謝罪に軽く笑むと、言い含めるように続ける。
「それに、今日は楽しかった。こんなに楽しく酒が飲めたのも初めてかもしれない」
「本当ですか? 兄が一人で騒いでただけで、うるさくなかったですか?」
「気にならなかった。歓迎されているとわかったからな」
穏やかに答える鳴海先輩からは、あまり酔いの気配は感じられなかった。もちろん少し頬が赤いようだし、全く影響がないというほどではないのだろうけど、兄と比べればまるでけろりとしているように見える。
先輩はお酒に強い人なのだろうか。
「手伝いが要らないなら、そろそろお暇しよう」
そう言って、先輩は立ち上がる。
足元に不安は一切なく、着てきたコートを手に取って袖を通そうとする。騒がしく過ぎていった時間がもう終わりなのだと、私もその姿を見て悟る。
それでも、名残惜しかった。悪あがきがしたくなった。
「先輩、よかったら紅茶を入れましょうか」
反射的に私は呼び止め、コートの袖に片腕だけを通した先輩が怪訝そうな顔をする。
「いつもは先輩に入れてもらってるので、今日は私がごちそうしようかなって……」
なぜか後ろめたさを覚えつつ、私は続けた。何となく口実めいていることは自分でもわかっていた。でも、もう少しだけ一緒にいたかった。
鳴海先輩は半分だけコートを着た状態で、少し考えていたようだ。けれど直に苦笑を浮かべた。
「いや、止めておこう」
「そうですか……残念です」
「悪いな、俺も今日は酔っている。ここに長居するのもよくないだろう」
その答えに私は落胆しつつも、どこか信じがたい気持ちでもいた。
改めてコートを着込む先輩はもたつくこともふらつくこともなく、ボタンだって掛け違えもせず器用に填めていく。
酔っぱらいの比較対象があの兄だというのもあるかもしれないけど、先輩がそれほど酔っているようにはどうしても見えなかった。
私が黙って見守っていたことに、先輩はコートを着終えてから気づいたらしい。
途端に顔を顰められた。
「そんな顔をするな。帰りにくくなる」
「なら、もう少しいてもいいですよ」
「そうはいかない。酔っ払いと二人きりになんてなるものじゃないぞ」
先輩は咎めるように言った。
「酔っ払ってるんですか、先輩」
確かめるつもりで私が問うと、先輩は少し困ったような顔をする。
「見てわからないか」
「あんまり……。兄ほど酷くないからかもしれませんけど」
それで先輩は軽く嘆息すると、立ち尽くす私につかつかと歩み寄った。
肩に手を置かれたと思った次の瞬間、驚くほど力強く抱き締められた。
厚手のコートに額からぶつかった私は、事態を把握するのに手間取った。
生活感に溢れた自宅の居間の光景と、さっきまでの飲み会の痕跡とが意識の外へと消し飛んでしまって、思考は全て先輩の存在だけで埋め尽くされた。先輩の腕の中にいること、先輩が私の髪に顔を埋めていること、私の首にかかる吐息がアルコールのせいか、妙に熱く感じられること――全部現実だとわかっているけど、理解が追い着かない。
分厚いコートの生地越しにでも、不思議と先輩の体温が感じられた。この向こうに先輩の身体があることも、同じようにわかった。痩せているけど貧弱ではない先輩の体躯は、しっかりした骨組みを薄い皮膚で覆ったような頑強さで、今も私をしっかりと支えてくれている。
「せ、先輩……」
ただ、強く抱き締められると苦しい。私が絞り出すような声で呼ぶと、腕の力が少し弱まった。
「苦しかったか。済まない」
「いえ、あの、もう大丈夫ですから」
少なくともこうされるのが嫌ではなかった。自分の家の居間にいるということさえ忘れてしまいそうになるほどだ。
私はいつだって先輩と一緒にいたかったし、抱き締めて欲しいと思っている。受験生の身分では難しいことだとわかっていても、本当は毎日でも会いたい。毎日、先輩の体温と感触と、存在そのものを恋しいと思っている。
「今日は本当に楽しかった」
私を抱き締めたまま、囁くような声で先輩は言う。
「お前の傍で酒を飲むのも悪くない。いい気分になれる」
そんなもの、なんだろうか。私にはやはりまだよくわからない。
お酒の力で、先輩と兄はわかり合えたのだろうか。
それだって今は判然としないけど、少なくとも二人はお互いに悪印象を持たなかったようだ。今日のところはそれで十分かもしれない。
ただ私は、私の気持ちはざわざわと落ち着きがなかった。先輩に抱き締められながら、つい余計なことまで考え始めていた。
先輩にも、兄にも、可愛いと言われたことを急に思い出してしまった。
恐る恐る顔を上げると、先輩も私の髪から顔を離し、こちらをじっと見下ろした。
お酒のせいだろうか。普段は苛烈な光が宿るその双眸が、今は熱っぽく潤んでいる。それでも私だけを見ていることは、いつもと変わりがない。
先輩の目に、今の私は可愛く映っているだろうか。
黒々とした瞳を見上げたところで、そこに映り込む自分の姿がわかるはずもない。でも先輩は少ししてから、ふっと表情を緩めた。
「早く、お前と一緒に酒が飲めたらいいな」
期待を込めような先輩の言葉を聞き、私は頷きたくて仕方がなかったけど、こわごわ答える。
「でも私も、あまり強くないかもしれませんよ。どうも家系みたいなんです」
「そうなのか」
「はい。兄だけじゃなく、両親もそんなに強くないので、私も多分……」
そう告げると、鳴海先輩は今度は声を立てて笑った。
「それはそれで見てみたいな。お前ならそれも可愛い」
笑いながら言われると、本気なのか、それともからかわれているのかわからなくなる。私をからかう先輩なんて、少し前までは想像もつかなかった。
私が真意を探るべく先輩を見つめると、先輩はまた楽しそうに笑った。そうして私の前髪を片手でかき上げ、私の目を覗き込む。
至近距離から見る先輩の眼差しは熱っぽくても真っ直ぐで、射抜くように強くて、私の心臓を危うく止めかけてしまった。
「……あ」
息を呑み、思わず目をつむった途端、先輩の薄い唇がそっと額に触れたのがわかった。柔らかくて温くて、ほんの少し乾いた感触が額をくすぐり、それだけで身体が痺れるように震えた。
「ほら、酔っ払ってるのがわかるだろう」
唇を離してから、先輩は更に笑ったようだ。
目を開くと、今度こそ納得できそうな、いつもと違う上機嫌の笑顔が見えた。
「だからそろそろ帰らないとな。これ以上二人でいると、次は何をするかわからない」
そんなこと、嬉しそうに言われても困る。
私が内心慌てふためいたのがわかったか、確かに酔っ払っている鳴海先輩は、相好を崩したまま語った。
「こんなに可愛い妹がいるのは、一体どんな気分なんだろうな」
「先輩!? な、何を言うんですかいきなり!」
「わかっている。お前が妹だったら、こんなことはできないからな」
先輩はそう言った後、私の髪を撫でながら言い添えた。
「……つくづくくだらんことばかり言ってるな、俺も。酔いが覚めたら後悔しそうだ」
例によって、私には酔いが覚めた後の気分だってよくわからない。
でもお酒の力の凄まじさは、今日一日でよくわかった。
もしも私が二十歳になったら、先輩とお酒を飲む時は気をつけようと思う。くれぐれも飲み過ぎないように。そして酔った先輩の言動に、本当に心臓が止まってしまわないように。
先輩から無事帰宅したと連絡があった一時間後、仏間の兄がようやく目を覚ました。
その時にはもう居間の片づけはすっかり済んでいた。私は洗い物を済ませ、空き缶も全部濯いで、寿司桶もきれいにした後で玄関先に置いてきた。それでか、起きてきた兄は恐縮しきっていた。
「申し訳ない……! 調子に乗りすぎました」
「そうだね」
私は素直にその謝罪を受け取っておいた。
とは言え兄は本日のスポンサーでもある。その酩酊ぶりをあまり責めるのもよくないだろう。
鳴海先輩も、楽しかったと言ってくれたのだし。
「鳴海さんは?」
がらんとした居間を見回し兄が尋ねる。
「もう帰ったよ。さっき部屋に着いたって」
「そっか、挨拶し損ねたな……」
「先輩、楽しかったって言ってたよ。こんなに楽しく飲めたの、初めてかもって」
兄が気にしているそぶりだったので、私は先輩からの言葉を伝えておいた。途端に兄はほっとしたようで、ソファーに沈み込むように腰を下ろす。
「楽しんでもらえたならよかったよ。つまんない気分で飲む酒ほど不味いもんはないし」
「じゃあお兄ちゃんも美味しく飲めたんだね」
嫌味のつもりはなかったけど、私がそう言うと兄は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「本当にすみません……! 以後、自重いたします!」
「その方がいいかもね」
あまりに大仰に謝られたので、私は思わず笑った。
兄がお酒に弱いのも家系なのだし、今後は是非とも気をつけてもらいたい。
その兄は、どこか神妙に笑う私を見上げていた。まだ酔いが残っているのか、目元は赤く頬も上気している。だけど表情は冷静で、やがてぽつりと口を開いた。
「そういえばさ、ヒナ」
「何?」
「お前の本棚にあった……文芸部の文集? あれ、読んだよ。今年度のやつ」
兄の言葉に、私は少し驚いた。近頃の兄はすっかり読書家となっていたものの、そういった素人の製作物まで読んでもらえるとは思わなかった。
今年度のと言えば、鳴海先輩の作品も載っているものだ。私はすかさず応じた。
「そうなんだ。ね、先輩のは読んだ? すごくきれいな文章だったでしょ?」
だけど兄は笑いながら首を横に振る。
「いや、お前のしか読んでないんだ」
「そうなの? もったいないよ、後でいいから是非全員分読んでよ」
「後でな」
そう言うと、兄は視線を落とした。自分の手の指先を気にするように見つめながら、やがて静かに切り出してきた。
「正直言うと、結構びっくりしててさ。お前の作品読んでみて」
「え……どういう意味で?」
まさか、感動してくれたのだろうか。私が期待しつつ聞き返すと、兄はすぐさま続ける。
「いや、こないだまで自分の名前も書けなかったヒナが、何か小難しいこと書いてるぞって思ったらさ。しみじみしちゃったんだよな。大きくなったなあって」
そういう意味のびっくりか。
私は多少気落ちしたけど、それ以前に兄の印象に残る私がことごとく小さすぎる事実に驚いていた。
「こないだって言うけど、それ、いつの話?」
「小学生くらいかな。『雛子』ってなかなか書けなかったの、覚えてるだろ」
覚えていた。私の名字はそれほどでもないけど、名前の方は小学生にはいささか画数が多くて、高学年になっても上手く書けずに苦労していた。いざ書けるようになってもバランスを取るのが難しくて、きちんと書けるようになるまで随分と練習を重ねる羽目になった。
本人が苦労するほどなのだから、他の人からすれば面倒くさいことこの上ない名前だろう。鳴海先輩はいつもきれいな字で私の名前を書いてくれるけど、それは考えてみたらすごいことなのかもしれない。
「黙ってたって、勝手に大人になっちゃうんだよな」
兄は溜息混じりに呟いた。
それは私に限った話ではないはずだ。誰だって大人になる。兄は私を置いてさっさと大人になって社会人になって家を出て行ってしまったし、かつては東高校の制服を着ていた鳴海先輩も、今では当たり前のようにお酒を飲んでいる。
私ももうじき、制服を着なくなる。そのうちにお酒を飲むようにもなるだろう。いつかはこの家を出て行くのだろうし、更に遠い未来では、私は書きにくい自分の名前を携えて、違う名字を得るようになるかもしれない。
ただしそうなったら、先輩を『鳴海先輩』とは呼べなくなってしまう。その時までに別の呼び方を考えておかなければいけないだろう。
「……幸せそうな顔しちゃって」
気の早い私を眺めて、兄がそう言った。
「おかげさまでね」
だから素直に答えたら、やっぱ生意気、と笑われた。




