睦月(5)
台所へ行った兄は、アルミ缶を三本、両手で抱えて持ってきた。
二本はもちろんビールで、残る一本はごく普通のサイダーだった。
兄は一本目のビールを自分の手元に置き、二本目を鳴海先輩に手渡した後、私にはサイダーを差し出してくる。
「これ、ヒナの分な。乾杯するのに必要だろ?」
「別にいいよ、私は」
「そんなつれないこと言うなよ。仲間はずれにする気なんてないから」
「うん、じゃあ……ありがとう」
一応、お礼を言って受け取る。
お寿司とサイダーは合わない気もするけど、兄なりの気配りは理解できた。そういうことなら気分だけでも、二人に付き合いたいと思った。
「じゃ、乾杯といきますか」
兄が言いながらプルタブに指をかける。ぷしゅっと炭酸の逃げる音がする。鳴海先輩も黙って缶を開けていて、私も大急ぎでそれに倣った。
「はい、かんぱーい!」
声を張り上げる兄の温度と同時に、私たちは手に持った缶を突き出して軽くぶつけ合う。グラス同士の時とは違って、アルミ缶がぶつかる音はどこか間の抜けた響きだった。
味わうのはご飯が済んでからにしようと思い、私はサイダーを一口だけ飲んだ。
それから顔を上げると、兄も先輩もまだ缶に口をつけていた。
私は先輩がビールを、お酒を飲むところを初めて見た。先輩は身体つきこそ痩せているけど、今、ビールを飲む喉元は男の人らしくがっしりして見えた。喉仏がゆっくりと上下するのを、私はどこか落ち着かない気分で眺めている。
何だかすごく、美味しそうに見えた。
だけど本当に美味しいのだろうか。ビールは苦いものだとよく聞くし、むしろその苦味が売りなのだともいうし、匂いだけは嗅いでみたことがあるけどそのままお酒の匂いとしか感じられなかった。でもどうやら、兄も先輩もビールが好きなようだ。スーパーや酒屋でたくさん売られているのを見ると、同じように好きな人も相当多いのだろう。
一体、どんな味がするのだろうか。
「鳴海さん、意外といける口ですね」
兄はなぜだか嬉しそうに、先輩へと声をかけていた。やはりビールを飲みたかっただけなのだろう。表情が輝いている。
ようやく缶を置いた先輩は澄まして答えた。
「ええ。冬場に暖かい部屋で飲むのもいいものです」
「ですよね!」
身を乗り出さんばかりの勢いで同意を示した兄が、更にもう一口、二口、ぐいぐいと飲む。
大きく息をついた後、浸るように言った。
「いやよかった、ヒナの彼氏が酒飲める奴で! こうなったらもう、どんどんいきましょうどんどん! まだ何本か冷やしてありますから!」
一缶飲み終わらないうちから既にテンションが上がっているようだった。酔っているのかただはしゃいでいるのか、言動からはよくわからない。
「お兄ちゃん、飲むのはいいけど潰れたりしないでね」
今更遅いだろうけど釘は刺しておく。
しかし、兄は私の言葉を笑った。
「いいや、俺はいっそお前の彼氏を潰してやるつもりでいる!」
「絶対駄目!」
やはり兄は既に酔っ払っているのかもしれない。まだ口調ははっきりしているけど、心なしか目元をじんわり赤くしている。これは気をつけた方がよさそうだ。
「そうそう潰れたりはしませんよ」
鳴海先輩も軽く笑んで答える。先輩はまだ涼しい顔をしていて、酔ったそぶりはない。
と言うより、恐らく普通の人は現段階で酔うことなんてないのだろう。ビール一缶目で顔が赤くなる兄はやはり先祖伝来のお酒の弱さをしっかり継承しているに違いなかった。このまま行くと兄が先に潰れるであろうことは火を見るより明らかだ。
「潰れるまではいかなくても、ざっくばらんに話せる程度には酔ってもらわないと」
見守る私の懸念をかわすが如く、兄はまたビールを飲み、そして先輩に話しかけた。
「てか、どうなんですか。ぶっちゃけまだ二人の馴れ初めとか聞いてないんですけど、鳴海さんはヒナとどういう経緯があって付き合ったんですか?」
兄の方がざっくばらんと言うか、ずけずけと質問を始めた。
そんなことを聞かれても先輩は困るのではないだろうか。
別に人に話せないような経緯があるわけではないものの、そういう話は興味本位で聞いていいものではないはずだ。我が兄ながら何たる無神経、先輩が答えに窮するようなら先んじて叱ってやろう、そう思う私を尻目に、鳴海先輩は言った。
「高校の部活動で知り合いました」
淡々とした、冷静そのものの回答だった。
当然それは兄の求める答えではなかったようで、拍子抜けしたような顔つきの兄が眉根を寄せる。
「いや、それは聞いてましたけど……他に、何かないんですか」
「他にですか」
鳴海先輩は至って真面目に考え始めたようだ。
こういう問いを疎むでも、照れるでもなく答えようとするそぶりが意外だった。酔っ払いとは言え私の兄が相手だから、真面目に答えなければと思っているのだろうか。
「詳しくお話しするなら、最初のきっかけは私が読んだ本を雛子さんも読み終えていて、その感想を尋ねたことでした」
その言葉にはもちろん嘘はない。
ただ、先輩が今語った言葉だけでは、当時の私たちの間にあった空気や緊張感、目に見えない高い壁の存在などを読み取ることはできないだろう。
だからか兄はわかりやすく目を輝かせた。
「おお、いかにも文芸部カップルって感じ! それからそれから?」
突っ込んで聞く兄を私はそっと睨んでおく。兄が気づいて、まあまあと言いたげに片手を振る。
そして鳴海先輩も、よせばいいのに律儀に続ける。
「それからお互いに読書の感想を交換し合うようになったり、部で書いた作品を読んでもらうようになったりと……当時の私にとって雛子さんは、部内で唯一気軽に、そういった話ができる人でした」
唯一、なんて随分とはっきり言うものだ。高校時代の記憶を蘇らせた私はそこではっとしたけど、やはり兄には伝わらなかったようだった。にやにやされた。
「なるほど。青春って感じですね、いいなあ羨ましいなあ!」
「ええ。今思えばとても、思い出深い時間です」
冷やかしめいた声をかけられても先輩は動じない。むしろしみじみと、そして堂々と語る。
それを聞く私は反応に困り、とりあえず残りのお寿司を片づけ始めた。
最後に取っておいたえんがわを口に運びつつ、でも少しだけ、先輩の口からそんな言葉が聞けたのが嬉しいとも思っていた。
先輩があの頃のあの時間を、まだぎこちないばかりの交流しかできなかった頃の記憶を、大切なものだと思ってくれているなら。
「思い出か……。学生時代からのお付き合いとか、いいね。憧れちゃうね」
兄は溜息と共に呟いてから、ふと先輩をじろじろ見た。
「しかしやっぱり、鳴海さんって真面目なんすね。猫被ってんなら上手すぎるっつうか……」
言いながら、兄はそろそろ軽くなってきたビールの缶を大きく傾け、残りを一気に飲み干した。ふうっと息を吐き、すっかり赤くなった顔で笑う。
「これはもうちょい飲ませないとな。よかったらもう一本、どうです?」
「お兄ちゃん」
さすがに私が口を挟むと、兄はとろんとなった目をこちらに向けた。
「何だよヒナ、大丈夫だって。ほら、鳴海さんなんて全然酔っ払ってないだろ」
「先輩よりもむしろお兄ちゃんが大丈夫なの?」
「俺はもう全然」
兄がへらへらと答える。
「全然、何?」
私が突っ込んでも、次の答えはなかった。どうやら後に続けるべき言葉すら上手く考えられなくなっているようだ。
そうして兄は、ビールのおかわりを取りに行こうと席を立つ。
足取りはまだふらついていないけど、私は台所へ向かう背中をしばらくこわごわ見守った。
「……お兄さんは、お酒に弱いのか」
兄が居間から去った隙を見計らうように、先輩が私にそっと尋ねてくる。
即座に私は思いきり頷いた。
「はい。きっとあと一本が限度だと思います」
「そうか。少し気をつけて見ていよう」
鳴海先輩がそう言ってくれたので、私は少し安心した。
だけど気を抜いてはいられない。兄が二本目を飲み終えたらそこでお開きの宣言をしよう。大体お昼時から酔っ払うなんて、いくらお正月休み中でもちょっと浮かれすぎだと思う。夜、両親が帰ってくる頃までに酔いがすっきり抜けるはずもないだろうし、兄はどう弁明するつもりでいるのだろう。
「それと先輩、兄の質問には真面目に答えなくても大丈夫です」
もう一つ、大事なことだと思ったので私は言っておく。
すると先輩は目を瞬かせた後、ふっと目を細め、柔らかい顔つきになった。
「特に問題のあるようなことは言ってないはずだが」
「それはそうですけど。いいんです、兄は興味本位で聞いてるだけなんですから」
「興味を持つのも当然だろう。大切なきょうだいの話だ」
先輩は至極当然だというように言い切った。そして私が言葉に詰まると、残りわずかだったらしいビールをぐいっと呷り、兄と同じように深く息をつく。
「それならこちらとしても、お兄さんを安心させなければな。生半可な気持ちでここに来ているわけではないことを、きちんとお伝えしなければならない」
あくまでも真面目な主張だった。
もっとも今の言葉は私にとって、アルコールのように効果的に響いた。先輩がどれほどの覚悟を持って我が家へ来たのか、それほどまでに強い想いで来てくれたのかと思うと動悸が激しくなる。
どきどきと賑やかな心臓を鎮める為、私はサイダーを少し飲んだ。さすがに兄や先輩がビールを飲むのと同じようなペースとはいかず、缶はまだまだ重たいままだった。
二本目のビールを携えて戻った兄は、その後鳴海先輩と二度目の乾杯をし、そして開けたてのビールを割と早いピッチで飲み干していった。
二本の空き缶が兄の前に並んだ頃、兄はテーブルに頬杖をついて垂れ下がろうとする頭を支えている有様だった。それでもやたら饒舌で、鳴海先輩に対してあれこれと質問を浴びせかけた。
「彼氏の目から見たら、やっぱうちの妹でも可愛く見えるもんかな」
いつの間にやら兄は先輩に対し、敬語を使うのをやめてしまったようだ。兄も少なからず猫を被っていたのだと、私は今更のように思う。
「何か、俺からすれば結構生意気な妹だからさ。鳴海さんの前では可愛くしてんのかなって、心配で心配で」
兄はふにゃふにゃと気の抜けた声をしていた。鳴海先輩の、いつもと同じ平坦な口調とは対照的だった。
「俺にとっては、とても可愛いです。見た目もそうですが仕種や言動も、全部」
それでも鳴海先輩は、私がその場で跳び上がりそうなことを平然と言ったし、一人称が普段通りの『俺』に戻ってもいた。ビールを二本飲んで、先輩も少しは酔ってしまったのだろうか。あるいは先輩なりに兄に心を開いたのか、定かではない。
「そうだろうなあ」
兄がそこで、うんうんと頷く。
「可愛いんだよ、鳴海さんといる時のヒナは。何だか急に大人になったようでさ」
そうだろうか。兄の言葉に私はぎょっとしたけど、兄はあながち冗談でもないそぶりだった。
「妙に幸せそうな顔するし、随分優しい話し方するようにもなったし、鳴海さんのこととなると真剣すぎるほどだし。もう俺の妹じゃなくなったようにさえ思えて、少し寂しいくらいでさ……」
おかしなことを言っている。私が妹じゃなくなるなんてあり得ないのに。
私が思わず呆れると、兄も眼鏡越しにこちらを見た。どことなく寂しげに微笑む。
「五つも離れてるからか、どうしても子供っぽさしか目につかなかったんだけどな。妹が可愛い女に見えるってのも複雑。喜んでいいのか寂しがっていいのかってとこだよ」
兄はそう零した後、私に向かってビールの空き缶を軽く振ってみせる。
「ってことで可愛い妹よ、ビールのおかわりを許してくれたまえ」
「……そういう魂胆だったんだ」
珍しく誉められたから何事かと思えば。私は兄を冷ややかに見てやったけど、兄は意に介するそぶりもないまま枝豆をのろのろ口に運んでいる。いつの間にか小皿に枝豆の殻が山と積み上げられていた。
「大丈夫ですか、お兄さん。そろそろお開きにした方がいいのでは」
見かねてか、鳴海先輩が口を挟んでくれた。
ほっとする私とは裏腹に、兄はそこでにまにまと笑みを浮かべる。
「おお、早速俺をお兄さんと呼んでくれちゃいますか。光栄だなあ」
「あ……そういう意味では。すみません、失礼でしたね」
落ち着いて詫びる先輩を押しとどめるように、兄は静かにかぶりを振った。
「いいっていいって。こういうのはさっさと慣れとくに限るし、むしろこれからは俺を本当の兄だと思ってくれて構わないよ。じゃ改めて『お兄さん』って呼んでみようか! はい!」
駄目だ。これはもう完璧に酔っ払っている。
私が先輩の様子を窺った時、ちょうど先輩も私を見ていた。目配せをされただけで『どうする?』と尋ねてきたのがわかった。これだけの酔っぱらいを前に、他に考えるべきことなどないだろう。
「お兄ちゃん、先輩の言う通りだよ。そろそろお開きにしようよ」
すぐに私も兄に対して声をかけた。
頬杖をついた兄は黙っている。こちらを見向きもしない。
「お兄ちゃんってば。ちょっと酔っ払いすぎだよ」
私は再度促しながら、兄の肩に手を置いた。
その拍子、頬杖をついていた兄はバランスでも崩したか、つうっと手から頭が滑り落ちて危うくテーブルに衝突するところだった。間一髪のところで兄ははっと身を起こし、私を焦点の合わない目で見やる。
「ヒナ、俺は鳴海さんならいいと思うよ」
「……急に、何?」
唐突な発言だった。私が聞き返すと、兄は寝惚けたような口調で続ける。
「どんな男連れてきても別に、反対する気はないんだけどさ……うん。でも鳴海さんはいいと思う。お前をこんなふうに変えてくれる奴なんて、他にいないかもしれないんだから」
言い終えるが早いか兄はテーブルに突っ伏した。最後の方はむにゃむにゃと、聞き取りづらい言葉だった。それでも私は戸惑い、何とも言えない気分で兄を見つめる。
しかし、やがて聞こえてきた兄の寝息に、慌てて揺り起こしにかかった。
「ここで寝ちゃ駄目! お兄ちゃん、部屋まで行くよ!」
揺り起こした後も兄は千鳥足で、とてもではないけど階段を上れる様子ではなかった。
やむなく私は先輩に一言断ってから、兄を支えて一階の仏間に連れて行った。
「お布団敷く?」
そう尋ねた時、兄は既に畳敷きの床に寝転がっていた。畳に頬を擦りつけながら、ろれつの回らない口調で答える。
「いい。冷たいの気持ちいい」
全くもう。こんなになるまで酔っ払っておいて、どれほど大人だというのやら。
私は大いに呆れつつ、兄にタオルケットだけをかけてあげると、先輩を一人残している居間へと取って返した。




