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師走(4)

 クリスマスカードが届くとすぐ、鳴海先輩はまた連絡をくれた。

 クリスマスイブの、ちょうど一週間前のことだった。

『お前からの手紙が届いた』

 電話で聞く声はぐっと復調していて、咳もかなり取れていたようだ。ただしそのせいでどことなく不機嫌そうなそぶりも窺えてしまった。

 私は恐る恐る聞き返す。

「気に入りませんでしたか、先輩」

『貰ったものを貶すつもりはないし、メッセージそのものは嬉しかった』

 と前置きした後、先輩は困り果てた様子で続けた。

『だが、どうしてこのカードにしたんだ。開く度に音が鳴るのが困る』

「いけませんでしたか? クリスマスと言えば、クリスマスソングです」


 この季節を迎えてからというもの、街中のどこでも耳にしていた。駅までの道を歩いているだけでも、カードを買いに足を運んだ文具店でも、大槻さんと入ったコーヒーショップでも、全ての音楽がこぞってクリスマスの訪れを祝福していた。それが私の耳に残り、カードの選定に多大な影響を及ぼしたようだ。

 鳴海先輩には、開くとメロディが流れるカードを送った。

 雪が降り積もった小さな家と一面の銀世界、そして夜空にきらめく冬の星が描かれたカードは、クリスマスらしいシンボルこそ存在していなかったけど、温かな明かりの点った窓辺が柔らかく、優しく映った。先輩ならサンタクロースやツリーよりも、こういったシンプルな情景の方が好みだろうと思った。

 カードを開くと電子オルゴールが曲を奏でてくれる。曲目は『ウィンターワンダーランド』、まさに冬の恋の歌だ。


「いい曲だと思いませんか」

 私が問うと、先輩は熱のない声で答える。

『悪くはないが、一人で聴くには明るすぎた。かえって寂しくなる』

「そんなものですか」

『そうだ。おまけに文面を読み返したくても、開けば毎度音が鳴るんだからな』

 言いながら先輩は件のクリスマスカードを開いたようだ。

 途端、電話越しに明るく幸せなメロディが響いてきた。何だかよくわからないけどおかしく思えて、私はつい笑う。そうしたらつられたのか、先輩も少しだけ笑った。

『ほら見ろ。こんな曲、一人で聴くものじゃない』

「本当ですね。二人で聴くと楽しいです」

 幸せそうな曲調に合わせて、私はカードにも前向きなメッセージをしたためた。

 ――今から予約をさせてください。来年のクリスマスは必ず一緒に過ごしましょう。

 それはもう叶えられない願いではないけど、完璧に叶える為には私にも鳴海先輩にも努力が必要だった。私はなるべくなら志望校に入学していたいし、先輩には風邪を引いていて欲しくない。その努力がお互いに実ったら、来年は史上最高のクリスマスを迎えられるに違いなかった。

『来年のことを言えば鬼が笑うと言うものだが』

 ぱたりと曲が止み、先輩がカードを閉じたのがわかった。

『お前は、もう来年のクリスマスの話をするのか。気の早い奴だ』

 そう言うからには先輩も、閉じる直前まで私のカードに目を向けてくれていたのだろう。閉じた後は物音もしなかったから、先輩の部屋のあの机の上に置いておいてくれるつもりなのかもしれない。いつでも読み返せるように。

「しょうがないんです。クリスマスは誰だって気分が浮かれます」

 私ははにかみつつ答える。


 手紙は未来へと送られるものだ。書いた時の気持ちをそのまま未来へ送り届けるものだ。

 あのクリスマスカードを書いた時、私の気分はまさに浮かれていた。病み上がりの先輩が電話をくれて感激したのもあるし、先輩が快方に向かっていることを確認できてほっとしていたからでもある。だから思いきって、来年の約束をしてしまおうと考えた。

 私の気持ちは今も、カードを書いたその時と何一つ変わっていない。だけど先輩の無事がわかって落ち着きを取り戻したこと、それにたった今、先輩から気の早さを指摘されたのもあって、早まっただろうかと今更のように面映さを感じた。

 それはもしかすると、先輩だって同じだったのかもしれない。風邪が治って、私に報告も済んで、そうしてようやく穏やかで健やかな日常が戻ってきたその最中にこんなカードを受け取ったら。

 初めてカードを読んだ時の先輩の顔を、見てみたかったと思う。


「来年の約束、してくれますか」

 私は先輩に尋ねた。

 思ったよりも素早く、先輩は答える。

『ああ。約束しよう』

「ありがとうございます、先輩。ついでに再来年もお願いします」

 お礼と共に更にお願いをしてみたら、溜息をつかれた。さすがに呆れられたかと思いきや、先輩はぼそりと聞き返してくる。

『来年と再来年、それだけでいいのか?』

「いえ、ずっとです! これから毎年ずっとでお願いします」

 指摘を受けて私は言い直した。


 同時にそんな未来のことを、先輩もまた同じように考えていてくれたことが、とても嬉しかった。

 これから何年経っても、来年以降のクリスマスは全部一緒に過ごしたい。クリスマスだけじゃなくてもいいけど――いつか三百六十五日全部、一緒にいられるようになれたらいいけど、それは今の私にとっては遥か先の未来で、想像するのはまだ少し難しい。


『全く。クリスマスで浮かれられる日が来るなんて、思いもしなかった』

 鳴海先輩がぼやいた直後、電話の向こうからは再び冬の恋の歌が流れてきた。電子音の楽しげなメロディを聴いていると、気が早いということもないように思えてくる。

 むしろ私たちは、もっと未来について、これから必ずやって来る幸せな日々について、堂々と思いを馳せていていいのかもしれない。

『この曲のせいだ。こんな曲をお前と聴いているから、雰囲気に流されて、クリスマスも悪いものじゃない気がしてくる』

 先輩もクリスマスらしい旋律にすっかり感化されているようだ。声から少しばかり戸惑いの色も感じられた。

「そうです、クリスマスはいいものなんです」

『らしいな。二十年と八ヶ月生きてきたが、初めて知った』

「一足先にサンタクロースが来た気分はどうですか、先輩」

 我ながら気障な言い回しだと思った。でも許されるだろう、クリスマスなんだから。

 先輩はどう思ったのか、珍しく声を立てて笑った。

『サンタクロース? お前がか?』

「はい。メッセージと、クリスマスソングがプレゼントです」

 だとすればあわてんぼうのサンタクロースも目じゃないくらい、気の早すぎるサンタだろう。クリスマスまでまだ一週間もあるのにプレゼントを送って、そのプレゼントでは来年の約束をしようとしていて。

『サンタのくせに、自分で届けに来ないのか』

 その言葉は責めるようにも、冗談交じりの口調にも聞こえた。

「本当ですね。郵便屋さんに頼んじゃいました」

『じゃあ、それも来年だな。来年は届けに来てくれ』

「はい、もちろん」


 言われなくてもそうするつもりだったけど、改めてお願いされるのも嬉しいものだ。

 会って渡せるなら来年のプレゼントはもっといい品を考えよう。先輩の喜びそうなプレゼントを、来年のクリスマスまでに聞き出しておこう。


 気の早すぎる新米サンタが来年の過ごし方を考え始めた時、鳴海先輩がふと呟いた。

『何にせよ、俺のところにサンタが来たのは初めてだ。幸せなことだな』

 それは本当に幸せそうな、しみじみとした呟きだった。

 とっさのことで、私は何と返事をしていいのかわからずに息を呑んだ。

 でも先輩はそんな私を見越したかのように、間を置かずに口を開いた。

『お前にも今年は来るな、サンタクロースが』

「……いえ、来ません。もうかれこれずっと来てないですよ」

 いくらかの後ろめたさを覚えつつ、正直に答える。


 うちのサンタクロースは七年前、当時小学五年生だった私に正体を看破された結果、廃業となった。実はその二年ほど前から怪しい怪しいと思っていたのだ、本物のサンタクロースが私の欲しい絵本を間違って買ってくるはずがない。恐らく日本のどこの家庭にもありそうな、ありふれた話だった。

 でもありふれた話は残念ながら、誰もに等しく与えられる話というわけではない。

 せめて先輩にもこれからは、ありふれているけど幸せな思い出がたくさんできればいいと思う。

 それにしても、初めてのサンタクロースからの贈り物がカードだけというのは、とても物足りない感じがして悔しい。その話を知っていたらもう少し何か考えたのに。

 私はそういう気の回らなさが迂闊というか、これこそ勘が鈍いというものなのだろう。これまでに聞いた話を繋ぎ合わせただけでも、敏い人なら十分、想像がついただろうに。


『そうか。大人になると来なくなるというからな』

 先輩は何事か納得したそぶりで続けた。

『だが、心配するな。今年は来るぞ』

「サンタがですか? 私のところにも?」

『ああ。子供扱いするわけじゃないがな』

 含んだような物言いに私は、先輩がカードの返事をくれるのではないかと淡い期待を抱いた。

 だけど聞き出そうにも先輩はそれ以上は教えてくれない。直にわかるとだけ言ってあとは黙秘を貫いていた。こういう時の口の堅さは相変わらずなので、サンタについての詳細を知るにはもう少し待たなければならないようだった。


 そうして事の詳細は十二月二十四日、クリスマスイブの午後に明らかとなった。

 この日、東高校の生徒たちは既に冬休みを迎えており、私は受験生らしく自宅にこもって勉強を続けていた。両親が仕事で出払っている為、学校にいるよりも余程静かで集中できた。


 昼食の後、再び机に向かってしばらく経った頃のことだ。鳴海先輩から電話がかかってきた。

 私が電話を取ると、挨拶もそこそこに先輩は言った。

『プレゼントを用意した。三分でいい、出てこられるか』

「えっ?」

 一息に言われたので、何から聞き返していいのかわからなくなる。プレゼントというのは今日の日付を踏まえればクリスマスプレゼントなのだろうし、先輩が私にくれるものだろう。でも、出てこられるかというのは――。

『都合が悪ければ郵便受けにでも入れていく』

 先輩は更にそう続けた。その背後で車か何かが走り抜けていくような音が聞こえた。

 はたと気づいて自室の窓から下を覗くと、ちょうど車が走り去っていった自宅前の路上には、コートを着込み、携帯電話で通話をしている様子の人影があった。片手に紙袋を提げた、あのすらりとした立ち姿、見間違えようがない。

「先輩……! ど、どうして、ここに?」

 突然のことにうろたえる私の耳には、先輩のきまり悪そうな声が聞こえてくる。

『サンタはプレゼントを届けに来るものじゃないのか。それに倣っただけだ』

「その為にわざわざ、ですか?」

『正直な話、プレゼントはほとんど口実だ。単にお前の顔を見たかった』

 そう言われたら飛び出していくしかない。


 私は即座に部屋を駆け出し、無人の居間を抜けて玄関へと出た。靴を履きながらドアを開けると、寒さのせいか頬を紅潮させた先輩が我が家の門の向こうに立っていた。

 先週まで風邪を引いていたせいだろうか。心なしか先輩は少し痩せたように見えた。でも元気そうだったし、相変わらず背筋は真っ直ぐで姿勢がよかった。


 私を見た先輩は耳に当てていた携帯電話をすっと下ろし、笑いたいような、笑うのを恥ずかしがっているような複雑な面持ちをしてみせた。

「お久し振りです、先輩」

 玄関のドアを後ろ手で閉め、私は先輩に近づいていく。足元が覚束ないのは冷たい風が吹いているせいかもしれない。私も笑っていいのかよくないのか、わからない気分だった。

「ああ。随分と久し振りのような気がするな」

 白い息を吐きながら先輩は頷いた。

 本当はこんなやり取りすらすっ飛ばしたい気分だった。私は先輩に駆け寄ろうとひとまず門をくぐる。と、迎えた先輩が思い出したように眉を顰めた。

「外へ出るならちゃんと着てこい。風邪を引く」

 そうだった。突然の展開にコートを着てくるのを忘れていた。

 でも今はちっとも寒くない。先輩の元気そうな顔を見られただけで、安堵で胸がいっぱいになって、寒さも風の強さも何も気にならなくなってしまった。

「寒くないから平気です」

 私は先輩の前に立つと、胸を張って正直に答えた。寒さを口実に、目の前の人に飛びつきたい気持ちもあったけど、ここではご近所の目もある。実行に移す勇気はなかった。

 すると先輩は提げていた紙袋から何かを取り出した。ベージュとブラウンのチェック柄をしたフランネルと思しき大きな布地だった。先輩はそれを一度広げてから、私の肩を包むように羽織らせた。

「一応、商品名は膝掛けだったんだが」

 私を暖かく包んだ後、先輩は生真面目な口調で語る。

「しかしこういう使い方でも問題あるまい。風邪を引くなよ、くれぐれも」

「はい……」

 夢見心地で返事をしてから、これがプレゼントなのだという事実に気づいた。慌ててお礼を言う。

「あ、ありがとうございます。でもすみません、私はカードしか送ってないのに」

「気にするな。高いものではないし、そもそもこれもただの口実だ」

 先輩は小さくかぶりを振る。そして私をじっと、検分するように強く見つめてきた。

「サンタになればお前に会えると思った。思いつきで行動したまでだ」

 ふわふわと柔らかいフランネルは包まれていると心地よく、冬の外気温もどうでもよくなった。私はそれが風に吹き飛ばされないよう両手で掴んで押さえながら、まだ信じられない思いで目の前に立つ先輩を眺めていた。


 クリスマスイブの日に、今年も、先輩と会えた。

 私はクリスマスに特別な思い入れはない。ないけれど、この日が世間一般の恋人たちにとってどんな意味合いを持つのかはよく知っていた。

 言ってしまえばそれらも全部口実なのかもしれない。誰かと一緒に過ごす為の、誰かと幸せを共有する為の口実。先輩はそういった通例、前例に則って、クリスマスを正しく利用して、私に会いに来てくれたのだろう。

 とても素敵なサンタクロースとして。


「サンタさんがこんなに格好いい人だなんて知りませんでした」

 私が調子に乗って先輩を誉めると、先輩は照れ隠しのように顔を顰めた。

「ふざけたことを言うな。こんな仏頂面のサンタでは見栄えのいいはずがない」

「ふざけてないです。先輩は本当に格好いいんですよ」

 否定はしておいたけど、実際今の先輩はわざと仏頂面を作っている状態だから、写真に撮って見せたところで『ほら見ろ』と言われるだけだろう。文化祭の時の帽子屋さんの写真だって格好よくはあったものの、笑顔では撮らせてもらえなかった。いつか仏頂面ではない先輩を写真に納めたいものだ。

「それを言うなら……」

 何事かを言いかけて、先輩は溜息をつく。私を見る目がほんの少し鋭くなる。

「この間、大槻が言っていた。お前はこの先、大人になったら、きっときれいになるだろうと」

 大槻さんは一体何を言うのだろう。

 私は面食らったけど、意外にも先輩は真顔で続けた。

「俺もそう思う」

「……そうでしょうか」

 誉められたのだろうとは思う。でもこういう誉め方は何と言うか、現実的ではない気がした。私が大人になったら――成人するという意味でならあと二年先の話だけど、その時、ちょうど今の鳴海先輩と同い年の私がどんな姿でいるかなんてイメージもできない。

「お前が眼鏡をかけていようと、外そうと、俺はどちらでもいい」

 予想通り、鳴海先輩はどちらでもいいらしい。そう言われて、私は大槻さんに言われたいくつかの、真偽不確かなエピソードを思い出す。あの人をまるっきり信じていないわけではないけど、本当のところはどうなのだろう。

「お前がいくつになっても、どんなふうに変わっても、俺はお前の心が離れないよう努力をする。それだけだ」

 先輩はきっぱりと、でもそこはかとない不安を覗かせながら言い切った。

 私の知らないうちに、大槻さんとの間にどんな会話が交わされたのかはやはりわからない。

 だけど先輩が何を不安がっているかはわかるので、私は答えのつもりで告げる。

「私は、当面は眼鏡のままでいようと思います。先輩が探しやすいように」

 そこで、鳴海先輩は目を眇めた。

「大槻め……また余計なことを喋ったな。後で会ったら文句を言ってやる」

 忌々しげに呻いてから、先輩は微笑む私を横目で見た。私が嬉しそうにしているのが気に食わないとでもいうように鼻を鳴らす。

「お前も早く家へ戻れ。しつこいようだが風邪には気をつけろ、お前にはあんな思いはさせたくない」

「もう、戻らなきゃ駄目ですか?」

「当たり前だ、そんな格好で出てきておいて。それに、俺も今日は用事がある」


 鳴海先輩はこれから、大槻さんのところのコンサートに行くのだろう。

 今年は一緒に行けないのが寂しいけど、思わぬプレゼントも貰ったし、何よりとびきり素敵なサンタクロースに会えた。今年も素晴らしいクリスマスになった。


 だから私は、お別れの挨拶代わりに叫んだ。

「メリークリスマス、先輩!」

 途端、先輩は目を丸くした。

「俺は真似はしないぞ、雛子」

「どうしてですか? まさか、恥ずかしいんですか?」

「当たり前だ。そんな挨拶、したこともない」

 先輩はそう言ってから、歳相応の諦観めいた苦笑を浮かべる。

「だが……来年辺りは普通に言うようになっているかもしれないな。我ながら、浮かれると何をするかわからん」

 それなら来年は、是非とも言わせてみせよう。

 来年の私はまだ眼鏡をかけていると思うけど、先輩の言うようにきれいになっているかはわからないけど、先輩のことはずっと好きでいると思う。きっと何度も惚れ直しているとも思う。それはもう、確信できる。

「どんどん浮かれてください。私はそういう先輩が見たいです」

 期待を込めて私は言った。

 それで先輩はまたしても意外そうに目を見開く。

 そして少しの間、逡巡するように黙った後、ふと手を伸ばしてきた。

 器用そうな手が、私の片方の手を取って、軽く持ち上げる。そのまま口元に持っていったかと思うと、先輩は一度目を伏せて、私の指先に素早く口づけた。

 私の手がかじかみそうなほど冷えていたせいか、先輩の唇はほんのり温かく感じられた。

「……手が冷たい」

 そんなことをしておきながら、先輩の声からは動揺が窺えなかった。私の手をすぐに離し、自分のしたことがおかしいとでもいうみたいに短く笑った。

「ほら、早く戻れ。サンタが風邪を持ってきたなんて、洒落にならんぞ」


 先輩と別れてから玄関に入ると、たちまち眼鏡が白く曇った。

 いつもは憂鬱でしかない視界不良を口実に、閉じたばかりの玄関のドアに背を預け、目を閉じた。肩にかかるフランネルの布地まですっかり冷えて、冷たかった。だけど今の気分にはちょうどいい。まるで熱が出たみたいに頬や耳や、指先が熱い。心臓もどきどきとうるさかった。

 私がそのうちきれいになると、先輩は言ったけど。

 それが本当なら先輩は、一体これからどうなるんだろう。今以上に素敵な人になってしまうのかもしれない。今よりもっと、私をどきどきさせるようになるのかもしれない。そうなったら私は、果たして太刀打ちできるだろうか。


 わかったことが一つ。

 浮かれ気分の先輩は、とてつもない脅威である。

 来年のクリスマスまでに私は、心臓を丈夫にしておく必要がありそうだ。

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