霜月(5)
かくして私は哀れなアナスタシアから、チープで庶民的なハートの女王へと舞い戻った。
それは同時に、文化祭初日の終わりが近いことも意味していた。
着替えた後で巡った校内の模擬店はさながらバーゲンセールの終了後のように閑散としていて、かろうじて売れ残った焼き物類が投げ売り同然の価格で販売されていた。私と鳴海先輩はそれらを適当に購入し、昼食にすることにした。
教室に戻れば、うさぎ耳のカチューシャを首に引っかけ、もはやうさぎであることを放棄した有島くんと、まだアリスらしさを完璧にキープした荒牧さんが待っていた。二人はできればクラスの方にも顔を出したいと言っていて、この後は初日終了まで、私が文芸部の留守番をする予定となっていた。
「部長のお芝居、見に行きましたよ! とっても様になってました!」
荒牧さんは前に宣言していたように、シンデレラの劇を見に来てくれたらしい。熱心な感想を聞かせてもらった。
「特に王子様に手を振りほどかれて床に倒れる場面、真に迫る演技でした!」
「……そう見えた?」
鳴海先輩もそんな様子だったけど、どうやら観客の皆さんには私が転んでしまったシーンが突発的な事故ではなく、台本通りのものだと映っているらしい。
それなら幸いとばかりに私は事実を封印し、荒牧さんには感想へのお礼だけ告げておいた。ありがたいことに、鳴海先輩もそ知らぬふりで黙っていてくれた。
そうして後輩二人を見送った後、私と先輩はお茶会席に購入してきた食べ物飲み物を広げ、向かい合わせに座って食事を始めた。
いつの間にか廊下を歩く人影も減りつつあった。大抵の来客は校内を一通り巡れば帰ってしまうだろうし、こんな時間まで残っている人は吹奏楽部のステージが目当てで、そのまま体育館に流れてしまったようだ。さっき覗いた模擬店も後片づけに入っているところが何軒かあった。文芸部の展示にも、ようやく例年通りの閑古鳥が帰ってきた。
私としても少し疲れていたし、とてもお腹が空いていたから、今こそ閑古鳥を歓迎したい気分だった。誰もやってこないのをいいことに、張り切って文化祭らしいメニューを堪能した。投げ売りされていただけあってどれもすっかり冷め切っていたけど、空腹は最高の調味料というだけあって、問題なく美味しくいただけた。
「先輩はどうしてお昼を食べなかったんですか」
私は食べながら先輩に尋ねた。
鳴海先輩はなぜ当たり前のことを聞くのか、と言いたげに答える。
「お前の緊張がうつった。あんな状態で食事が喉を通ると思うか」
「そうだったんですか……ごめんなさい。心配をおかけしました」
「全くだ。そのくせお前はいざ本番となれば、人の気も知らないで楽しそうにしていた。見ているだけの俺が一人でやきもきしているというのも、考えてみればおかしな話じゃないか」
不服そうな様子で先輩は語るけど、手に串に刺さったいももちを持っている姿ではまるでそぐわない。丸い形の、甘辛そうな醤油だれが塗られたいももちを食べる姿がまた物珍しくも可愛くて、私は思わず笑ってしまう。
「なぜ笑う」
先輩は私の反応にむっとしたようだった。私は慌てて弁解する。
「違うんです。先輩と文化祭メニューって、何か面白い取り合わせだなって」
「それで何がおかしい」
「おかしいって言うか……。何でしょうね、貴重な感じがするんです」
思えば去年も、先輩は私に差し入れをしてくれただけで、ここに来て何か食べていくことはなかったし、何か文化祭らしい食べ物を購入していったという話も聞かなかった。一昨年なんて私と先輩はほんの一言、二言交わすのが精一杯で、先輩が三日間の文化祭をどう過ごしたか、全くと言っていいほど知らなかった。
だから今、目の前でいも餅を食べる鳴海先輩は、ものすごく貴重な姿を晒しているように見える。お祭りらしいジャンクフードを各種買い込んで、それをこんな、不思議の国のセットに囲まれたところで食べているなんて。すっかり文化祭を堪能しているようだった。
「写真撮ってもいいですか?」
私の問いに、先輩は顔を顰めた。
「人が食べているところを撮るな。後にしろ」
「残念です。じゃあ、後でまたあの帽子を被ってくれますか?」
「あれか……。仕方ないな、一度だけだぞ」
最近の鳴海先輩は私のわがままにも寛大だ。思ったよりたやすく許可をいただけたので、食べ終わったら早速写真を撮ろう。
私はうきうきしながらシナモン味のチュロスを頬張った。さくさくと歯ごたえがあってとても美味しく、一本きりしかないのを惜しみながら食べる。もう一本売れ残っていたらと思わずにはいられない。売り子の生徒にも最後の一本ですからと、かなり値引いてもらった商品だった。
「随分美味そうに食べるな」
すると先輩が、私の食べているチュロスに目を留めた。
「シナモンが効いてて、でも甘すぎなくて美味しいです。よかったら食べますか?」
私が勧めると、先輩は抵抗を示すように眉を寄せる。
「物欲しそうにしたつもりは……。催促したようで悪いから、いい」
「一口くらいいいですよ。私の食べかけで、嫌じゃなければですけど」
「それは別に、気にしない」
そう言いつつも少しためらった後、先輩は私の手からチュロスを受け取った。初めて食べるものなのか怪訝そうに見つめてから、ぱくっと一口かじりつく。そして直に、なるほどという顔をする。
「確かに美味いな。このくらいの甘さなら食べやすい」
「ですよね。もっと売れ残っていたらよかったんですけど」
「売れ残らなかった理由がわかるな」
先輩は微かに笑うと、ありがとうと言いながら私にチュロスを返してきた。それから自分の食べていたいももちの串を見つめた後、慎重に切り出す。
「お礼にと言うのも何だが、俺のも食べるか?」
「いただきます!」
私は全くためらわずに先輩からいももちを受け取り、一口ご馳走になった。醤油だれを絡めたいももちは適度に弾力があり、柔らかくて冷めていても美味しい。醤油だれの予想通りの甘辛さもよかった。
「もちもちですね」
「それはそうだろう。餅というくらいだからな」
「すごく美味しいです。食べさせてくれてありがとうございます、先輩」
私もお礼を言った。
鳴海先輩はそれを、困ったような苦笑を浮かべて聞いている。
「あまり行儀のいいことではないが……こういうのもたまにはいいか」
「そうですよ。むしろ分け合って食べるのがお祭りの醍醐味です」
文化祭で何か食べるのに、お行儀まで守るのはなかなか難しいことだ。郷に入っては郷に従えという言葉もあるのだし、先輩の言うように、文化祭においてはこういうのもいいと思う。
「それは知らなかった。どうりで、一人で食べても美味く感じないはずだ」
合点がいったというように頷いた先輩と、私はそれからもお昼ご飯を分け合って食べた。先輩はいろんな食べ物を美味しそうに食べていて、私まで本当に美味しく感じた。
食事を終えた後、私たちは最初に約束したように、お互い写真を撮り合うことにした。
「嫌なことは先に済ませてしまいたい」
鳴海先輩が憂鬱そうに言ったので、まずは私が先輩の写真を撮らせてもらうこととなった。椅子に座った先輩に帽子屋さんの奇妙な帽子を被せると、先輩はわざとつばを引いて目深に被り、顔を隠そうとする。
「往生際が悪いですよ、先輩」
「……わかっている。冗談だ」
意外にもそこで、先輩は笑った。笑いながらシルクハットのつばを摘んで持ち上げ、傾きを正した。
カメラモードにした携帯電話を持つ私は、その先輩の笑顔を捉えようと身構えた。だけどすぐに笑みは消え、まるでこちらの思惑を読んだみたいに仏頂面を作られた。
「もう少し笑ってもらえませんか」
「俺の作り笑いは酷いぞ。とても見せられたものじゃない」
「なら、自然に笑ってください」
「無理を言うな。嬉しくもないのに笑えるか」
駄々を捏ねる口調で言われたので、私は鳴海先輩の笑顔を諦めた。笑っていなくたって先輩はやはり素敵だし、生真面目な顔であの帽子を被っているギャップもなかなかいい。これはこれで貴重な思い出になりそうだった。
私が撮り終えると、攻守交代とばかりに先輩は席を立ち、さっさと帽子を脱いでしまった。
そして私を椅子に座らせ、長いシフォンスカートのひだを整えたり、ブラウスの襟元を直したりと、まるで本職のカメラマンみたいにきめ細やかな下準備を始めた。
「先輩は几帳面ですね」
されるがままの私の言葉に、先輩は真面目な調子で答える。
「どうせならいい写真を撮りたいからな」
それはわからなくもないけど、先輩は自分が撮られる際は協力的でもなかったのに、撮る側に回るとこんなにも細やかになるんだからおかしい。私が笑いを噛み殺していれば、先輩は私の顎の下で結んだリボンに手をかけた。ハートの女王の為に、ボール紙と金の折り紙で作った冠だった。
「これは外してもいいか?」
先輩が尋ねてくる。
「どうぞ」
さすがに安っぽい出来だったから、気に入らなかったのかもしれない。私が頷くと先輩の長い指がするするとリボンを解き、たちまち冠が頭上から外された。
冠を下ろした後、先輩は少し上の位置から私を見下ろしつつ、前髪を整えるように指先で梳く。あまり力を込めない指のかすめるような感触が、逆にとてもくすぐったい。一度指が滑るようにして私の耳に触れた時、つけていたイヤリングが揺れて微かな音を立てた。
「大槻の言っていた通りだ。髪型が変わると、雰囲気まで変わるな」
先輩が私の目を覗き込む。
真っ直ぐな眼差しが目の前にあるとわかると、場違いにどぎまぎしてくるから困る。ここは学校だし、今は二人しかいないとは言え、いつ誰が来るかもわからない教室の中だ。おかしなことを考えたり、思い出したりするのはよくない。
でも意識してしまうと、かえって頬が熱を持ち始めて焦った。慌てて口を開いた。
「何ならいつも、この髪型にしましょうか」
すると先輩はゆっくり首を横に振る。
「いや、いつものも悪くない。それに俺は、いろんなお前が見られる方がいい」
一瞬だけ目を細めた先輩が、やがて私の傍から離れた。少し距離を置いた真正面の位置で王子様のように跪き、携帯電話のカメラを向けてくる。
「撮るぞ。少し笑え」
愛想のない物言いだった。
緊張も手伝ってか私が思わず吹き出すと、すかさず棘のある声が飛んでくる。
「笑いすぎだ。ほんの少しでいい、いつものように笑っておけ」
そうは言われても、いつも自分がどんなふうに笑っているのか、私にはよくわからない。ただ笑いすぎだとは自分でも思うから、なるべく控えめに笑おうと努めた。
シャッター音が教室に響いた。
三回、立て続けに撮られた。すぐに先輩は画面に目をやり、写り具合を確認しようと操作を始める。満足いく出来のものがあったんだろうか。そこでふと、表情を和ませた。
近頃よく見るようになった、柔らかくて、どこか嬉しげな顔つきだ。
私はその顔を撮りたい衝動に駆られたけど、携帯電話に手を伸ばす前に、先輩がこちらを向いた。
「いいのが撮れた。見てみるか?」
「是非お願いします」
先輩が撮った写真を見せてもらう。携帯電話の四角い画面の中、つるつるしたサテンのブラウスと淡いピンクのシフォンスカートを身に着けた私はごく控えめに微笑んでいた。一歩間違えば証明写真のようなすまし顔は可愛さとは無縁で、いたって真面目そうに、そして落ち着き払っているように見えた。
「撮り直しますか?」
あまりに可愛げがないので、私はつい先輩に聞いた。被写体が悪いといえばそれまでだろうけど、それにしたってもう少し笑った方はまともに写るんじゃないだろうか。
ところが先輩は笑んで答えた。
「俺はこれがいい」
「そ、そうですか? 私はちょっと、どうかななんて……」
「知らないのか? お前は俺といる時は、いつもこういう顔をしている」
言われて私はもう一度、先輩が撮ってくれた私をつぶさに検分した。
いつも、こんなに可愛げのない顔をしているのだろうか。何と言うか、世の中の全ての事象は理屈で説明がつくとでも言いたげな、利口ぶっているような表情だ。
「こんな顔、してるんですか……。何かがっかりです」
「なぜだ。可愛いじゃないか」
鳴海先輩はあっさりとそう口にして、私の呼吸を止めた。




