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卯月(3)

「で、で、実際のとこはどうなの?」

 より一層早口になった大槻さんが問い詰めてくる。

「あいつ、あの面構えで『愛してる』とか平然と言っちゃうの? 柄じゃなさすぎるけど」

「いえ、言いません。ちっとも」

 私は恐る恐る否定する。

 そんな台詞は交際を始めてからの一年四ヶ月のうち、一度として聞かされていない。

「そうだろうね。愛を囁く鳴海くんって高速移動ができるパンダみたいなもんだろうし。……いや、パンダはあれで結構凶暴だって言うからな。向こうの方がもっと希少か」

 先輩がパンダと比較されている。

 どうフォローしていいのかわからないので、私は曖昧に首を傾げておいた。確かに可愛らしいのは先輩もパンダも一緒だと思う。だけど先輩は凶暴ではなく、生真面目で厳格なだけだった。

「じゃあますます想像できないな。あいつ、何て言って告白してきたの?」

 大槻さんが追及してきたけど、さすがに私は、その件には答えられなかった。

 言えるはずがないそんなこと。いくらなんでも恥ずかしい。

「秘密、です」

「えー、駄目? そこが知りたいのに!」

「いえ、あの、とても言えません」

 もごもごと弁明したものの、私にはアイスティーの恩がある。そのことにふと思い当たって考え直す。

 それでも真実を打ち明けられそうにはないので、答えられる分だけ答えておいた。

「一言でしたから、大槻さんがびっくりされるようなことではないです」

「一言?」


 短く、『俺と付き合え』とたった一言だけだった。

 鳴海先輩が高校卒業を控えた十二月、文芸部の部室に二人きりだった。酷く寒い日で、それでも先輩の声は震えることなく、まるで命令のように私に響いた。

 正直に言えば、その言葉だけが私の心を動かしたわけではない。

 それはただの引き金で、私はもっと前から先輩に惹かれていた。あのすらりとした姿勢のいい立ち姿、何よりも雄弁な鋭い双眸、よく引き結ばれている薄い唇と尖った顎。文芸部でも誰とも打ち解け合わない孤高の人が、私とは本について、創作について、時々話をしてくれた。皆の目を盗むようにひっそりと、私たちは文芸部らしい交友のひとときを持っていた。

 あの頃、鳴海先輩の目に私がどう映っていたかはわからない。部内でも話しやすい一年生だと思っていたのか、私の読書についての姿勢を評価してくれたのか、それとも――女の子として、多少なりとも興味を持ってくれたのか。

 わからないまま、私たちの交際は一年を過ぎていた。

 私にとっては、先輩が私を選んでくれた、そのことを何より大事に思っている。


「先輩は、そういう人なんです」

 私が説明を避けると、大槻さんは思考が追いつかないというようにぽかんとした。

「え、じゃあ雛子ちゃんは、その時以外にそれっぽい台詞って言われてないの?」

「そうですね」

 それ以外は、ほとんど何も。

 私のことを好きだと言ってくれたことさえない。

「それでいいんだ? 雛子ちゃん、健気だなあ」

 呆れたように息をついた大槻さんが、その後で小さく手を振った。

「いや、鳴海くんが駄目だって言ってるわけじゃないんだけど。何つうか、あんな不器用な奴と上手くやってくにはそれなりのこつって言うか、ノウハウでもあるのかなって思ってたからさ」

 それから柔らかく微笑み、また尋ねてきた。

「雛子ちゃんは、言葉にして貰えないと不安になることとか、ない?」

 的確な問いだった。

 大槻さんの言うように、先輩のような不器用で無愛想な人と付き合っていくにはそれなりのこつが必要だ。言葉は決して少なくないし、痛いほど鋭いこともあるのに、時としてまるで本音が見えない。そんな先輩の本音を見抜く能力を、私はまだ身につけてはいなかった。

「それは……不安なのは、たまにあります」

 私は頷きながら、打ち明けた。

「でも、あの、先輩の本心を読み取るのも、結構楽しいんですよ」

「ああ、それはあるね」

 深く、大槻さんが頷き返してくる。

「何と言うか、先輩は本当の気持ちも教えてくれないような人ですけど、それでも上手く言葉の裏を読むことができると、先輩の気持ちがわかって、すごく嬉しくなるんです。はっきり言葉にして貰わなくても大丈夫なくらい」

「なるほど」

「まだ、こつなんてものはないですけど……先輩についても知らないことだらけですけど、時間をかけて少しずつ、知っていけたらいいなと思ってます」

「そっかあ」

 にっこり微笑まれると、途端に私は口にした言葉が恥ずかしくなった。大槻さんの笑みは嫌味のないからっとしたものだったけど、私の思いがはっきりと伝わったのがわかる。そうすると面映くなる。

「俺も覚えとこ。何せ素直じゃない奴だから、友情にもたまに不安があってさ」

 冗談めかした台詞が続いて、今度は私も笑ってしまった。

 鳴海先輩は誰に対してもそういう人、のようだ。


 そう言えばとふと思う。

 私と先輩の、いわゆるところの『馴れ初め』はごく素っ気ない、淡々としたものだけど、大槻さんと先輩はどんなふうに仲良くなったのだろう。

 正直、それも想像しがたいことだった。好き嫌いが激しい上に頑固な鳴海先輩にとって、大槻さんのような陽気でお喋りな人は正反対の存在のはずだ。大学以外の接点があるようには思えないし、同じ大学の同期生だったとしても、そこにお二人の親しくなるきっかけは浮かんでこない。


「大槻さん、私からも質問、よろしいですか?」

 言葉を交わして慣れてきたせいか、質問は思いのほか簡単にできた。

「ん? どうぞどうぞ」

 愛想よく応じる大槻さんが、私の緊張も取り払ってくれる。

 鳴海先輩もこうして緊張を解いていったのだろうか――先輩の場合は緊張よりも、理論武装の方が相対する上で厄介そうだけど。いくら人当たりのいい大槻さんでも、先輩の武装解除には相当の時間がかかったのではないだろうか。

「大槻さんは、先輩とどんなふうに知り合われたんですか?」

「俺?」

 聞き返してきた後、大槻さんは首を傾げる。

「どうだったっけ……確か入学してすぐ、俺が構内で迷ってた時に彼が通りかかってさ。捕まえて、道案内して貰ったんだ。それが最初だったと思う」

 そう言って大槻さんは、思い起こすように笑い声を漏らした。

「ああそうだ、俺その時、年上の先輩に声かけたつもりでいたんだよ。あんまり堂々として姿勢よく歩いてるし、落ち着いてるし、入学したてなのに構内のことちゃんとわかってるしさ。それで聞いてみたら同期の、しかも同い年だって言うんだ。どう見てもこないだまで高校生って感じじゃないのにだよ? それはもう、こんな風変わりな奴、仲良くなっとかないともったいないって思うよ」

 情景が浮かんでくるような説明だった。

 大学の構内を、いつものように姿勢よく歩く鳴海先輩。足早な歩き方に、小柄な大槻さんが駆け寄っていく姿も浮かんだ。初めて言葉を交わした瞬間から友人になってしまうまで、それほど時間を必要としなかったのかもしれない。

「まあ、それからは特別なこともなかったかな」

 大槻さんがひょいと首を竦めた。

「あの通り、変わってるし石頭だけど面白い奴だからさ。気がついたらあれこれ構いたくなってて。また普段口が堅いくせに詰めが甘いんだよな。一度うっかり、彼女がいることを漏らしちゃってさ、しくじったって顔してたけど。それからはもう、事あるごとに突っついてやってるよ」

 それも何となく想像できた。

 鳴海先輩は自身の個人情報をわざわざ触れ回る人ではないから、本当にうっかりと、一瞬の油断で零してしまったのだろう。私のせいで始終からかわれているのかと思うと申し訳ない気持ちになる。

 と同時に、少しだけ嬉しい。

 先輩が私の存在を、たとえ意図しなかった形でも友人に隠さずにいてくれることが。先輩の苦境を思えば勝手な喜びだろうけど、それでもだ。

「いかにも、先輩らしいなと思います」

 率直に述べた感想に、大槻さんもにやっとした。

「だろ? そりゃもう面白いよ。あ、雛子ちゃんにはちょっと申し訳ないかな、いつもネタにしちゃって」

「いえ、そのくらいは大丈夫です」

「鳴海くん、大学でのこと話してないの? しょっちゅう突っ込まれて焦ってるのに、雛子ちゃんのことで」

「ほとんど教えて貰っていないんです。だから大槻さんからお話伺えて、すごく楽しいです」

 私は心からそう告げた。

 先輩は何でも秘密にしたがるから、こんな機会でもないと見えない顔もある。

「結局、どこにいてもあんなふうにむっつりしてるんだね」

「そうなんですね……。にこやかな先輩の様子は、なかなか想像もつきません」

「つかないなあ」

 お互いに声を立てて、笑い合う。


 今更のように、私は大槻さんに好感を抱いた。

 この人は鳴海先輩を気に入っているようで、本当に好いているらしいことが伝わってくるから、私まで温かい気持ちになってくる。

 鳴海先輩のことをいろいろ言う人はいるけど、本質は真面目で、穏やかで、そしてとても魅力的な人だ。その魅力を知っている人が私以外にもいて、安心したような、ほんのちょっとだけ羨ましくなるような。

 私も早く大学生になりたい。先輩のいる大学へ入りたい。

 その前に済ませなくてはならない難関は、どうしても今から既に憂鬱だけど。


 ひとしきり笑った後で、大槻さんは思い出したように言った。

「今日はこれからデート?」

「え、ええ、一応は」

 私はゆっくり頷いた。

 デートには違いない。私の思惑と先輩の予定とが食い違っているだけだ。

 先輩の誕生日を祝う計画が胸裏に甦り、不意に緊張感が戻ってくる。上手くやれるだろうか。先輩に何か贈り物をしたい、その願いはちゃんと叶うだろうか。

「どこか行くの?」

「はい。買い物に行くんです」

 答えてから私は、この雰囲気に便乗するように、逆に大槻さんに尋ねてみた。

「あの、大槻さんは先輩に、何かプレゼントをされたんですか?」

「プレゼント? 何で?」

 きょとん、とする大槻さん。

 大学生ともなれば、友人同士で誕生日のプレゼントはしないものなんだろうか。怪訝そうな反応を、こちらも怪訝に思いながらも続けてみる。

「いえ、今日は先輩のお誕生日ですから、聞いてみたんです」

「えっ! 嘘、マジで!?」

 店内に響くような声が上がった。

 周囲のお客さんから視線を集め、大槻さんは慌てて口元に手を当てる。その後で、若干低いトーンで聞き返してくる。

「誕生日って、あいつが? 今日?」

「そうです」

「ってことは今日で二十歳? うわあ、誕生日まで先越されてるのか」

「ご存知じゃなかったんですか」

「ご存知じゃなかった。聞かないと何にも言わないんだな、全く」

 思っていたとおり、先輩は自分の誕生日すらも触れ回るような人ではないようだ。特別嬉しそうにもしていなかったし、そんなものなのだろうと思う。

「おめでとうくらいは言ってやったのに。何で黙ってるかな」

 苦笑いを浮かべた大槻さんは、髪をかき上げながら私に、

「じゃあ今日は、誕生日プレゼントを買いに行くんだ?」

「ええ、そうです。でも……」

「気を遣わなくていいって言われたとか」

「そうなんです。わかります?」

 大槻さんの話によれば先輩との交誼はもう一年になるらしいから、先輩の言動も実体験に基づき学習済みなのだろう。もしかすると私以上に知っている側面があるのかもしれない。

「そりゃさすがに、これだけ付き合い続けてればわかるよ。そうだろうな、鳴海くんならきっと、雛子ちゃんに無理させるくらいなら何もしなくていいって言うよな」

「そうですよね。だから、何を贈ったら素直に喜んで貰えるのかわからなくて」

 私たちは小さく頷き合った。

「うーん……難しいな」

 大槻さんは親切にもこの難問に頭を捻ってくれているようだ。

 唸りながらしばらく考え込んでいたけど、やがて眉尻を下げ、

「だったらもう、何も贈らないってことでいいんじゃないかな」

 と首を竦めたので、私は恐る恐る言葉を返す。

「何も、ですか。でもそれだとちょっと」

「いや、お金のかかるようなことはしなくていいんじゃない、って意味。お金かけなくてもプレゼントできるものってあるよ」

「お金のかからない贈り物……」

 例えば、何だろう。考えを巡らせてみる。


 鳴海先輩の好きなもの、あるいは事柄。今日を先輩にとって幸せな一日にする為、私ができること。私にしかできないようなことが――。

 あった。

 一つだけ、先輩の為にできる、先輩をとても幸せな気分にさせられるような贈り物が。


「わかりました」

 私は閃いて、そのまま口にした。

「それなら私、時間をプレゼントすることにします」

「時間?」

「はい。あの、二人で一緒に過ごす時間、です」

 これから先輩と会い、過ごす時間の一刻、一刻を、先輩のことを想い、先輩を幸せな気分にする、その為だけに使いたい。それは私にしかできないことだと思う。

「時間をプレゼント、かあ。さすが文芸部員、詩人だね」

 大槻さんが優しくそう言ってくれたので、私も思わずはにかんだ。

「そうですか? ちょっと、照れます」

 すると大槻さんは突然笑みを消し、しばらく私を眺めた後で大きな溜息をついた。

 脱力したように喫茶店のテーブルに突っ伏すなり、弱々しく一言、呟いた。

「いいよなあ、年下彼女、可愛くて……」

「え?」

 いきなり何事だろう。

 聞き返すと、再びがばっと身を起こして、

「雛子ちゃん。折り入って頼みがあるんだけど」

 低い声に、切実な響きが入り混じる。向けられる真剣な眼差しに、私は圧倒された。

「な、何でしょう」

「雛子ちゃんの友達を紹介してくれないかな。できれば背のあまり高くない子で」

 私はさすがに瞠目した。友人を紹介する、と言うのは、つまり。

「え、あの……それはもしかして」

「鳴海くんからかうの楽しいけど、時々自爆しちゃうっていうか。目の前であんなに幸せそうにされたら、一人寂しい俺には堪えてさあ……」

 それは、今までのどんな質問よりも反応に困る呟きだった。


 幸せそうな鳴海先輩なんて、他のどんな表情よりも想像がつかないのに、本当に大槻さんの前でそういう顔をすることがあるのだろうか。

 是非尋ねてみたかったけど、ぐったりしている大槻さんを追求するのも何となく、ためらわれた。

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