神無月(7)
それから起きたことは、私にとって驚きの連続だった。
例えば、鳴海先輩は思っていたよりも手早く私の服を脱がせてしまった。
先輩の指はすらりと長くて器用そうだといつも思っている。だけどその指がこういう局面においても、私のカーディガンやブラウスのボタンを器用に外せるのだとは想像もできなかった。想像、なんて、したこともなかった。
私の中の鳴海先輩は、潔癖かつ清廉、女の子のことにはあまり興味がない人だったからだ。
だけど現実の鳴海先輩はそうではなかった。私を膝の上に座らせて、背後から回した手であっさりとボタンを外した。そうして最初にカーディガンを、その後にブラウスを丁寧に剥ぎ取った。
剥き出しになった肩に十月の空気は少し涼しい。だけどそこに先輩の唇が触れた時、私の肌がざわっと粟立ったのは、寒さのせいではなかった。
「寒いか?」
鳴海先輩が囁き声で尋ねてくる。その吐息が首筋をかすめて、また身体が震えてしまう。
「さ、寒くないです……」
「だが、鳥肌が立っているぞ。ほら」
そう言って、先輩の手が私の肩から二の腕を撫でる。硬い手のひらは空気に晒された肌に熱いくらいで、声が出そうになるのを必死に堪えた。
「違います。これは、寒いわけじゃないですから」
否定する私の顔を、先輩は真横から覗き込む。眼光鋭いその瞳は、今は私の本心を見極めようとしているように見えた。
そうすると私も、嘘をついているわけではないのに後ろめたくなって、俯いた。
鳴海先輩に知られるのが恥ずかしい。
先輩の手が私に触れる度、気持ちよくて、もっと触って欲しくなることを。
「雛子」
私の名前を、どこかねだるように先輩が呼んだ。
そして指の長い先輩の手が私の胸に、下から掬い上げるように触れた時、私は堪えきれずに声を漏らしてしまったし、先輩は逆にぐっと堪えるような短い息をついた。
「……思っていたより、すごいな」
そんな呟きも聞こえてきて、私は困惑しながら聞き返す。
「どういう、意味ですか」
鳴海先輩はそこを聞き返されるとは思っていなかったらしい。一瞬言葉に詰まってから、渋々といった様子で答える。
「その、胸の大きさの話だ。いい形だとは思っていたが、想像以上だった」
私の想像の中では潔癖の極みのような存在だった鳴海先輩の、その発言は衝撃的だった。
クラスの男子には無遠慮な子もいて、他人の胸をしげしげと見てくることがある。私はそういう視線を馬鹿馬鹿しいと思いつつ受け流していた。高校生男子というものは得てして子供だ。視線のあからさまさ、隠そうともしない様子は実に間が抜けている。
その点、鳴海先輩は私の胸をしげしげと見たりはしない。それは大人だからというより、ただ単に関心がないからなのだろうけど――それでもクラスの男子の無遠慮さよりはよほどいいと思ってきた。
その先輩が。
「想像、したことあるんですか」
「あって悪いか。俺が聖人君子でないことくらい、もう知っているだろう」
「悪くなんか……」
ない。ちっともない。
ただ私にとってはとても意外で、驚きだっただけだ。鳴海先輩は私にちゃんと関心があって、私の知らないところでも私について想像してくれていたということが。
嬉しいというのも妙かもしれない。でも私は、鳴海先輩なら嬉しい。私はずっとそういうふうに、先輩にだけは見てもらいたかった。
「気になるならそう言ってくれたら、私、先輩ならよかったのに……」
それで思わず訴えると、鳴海先輩は鋭い双眸を驚きに見開いた。
そしてすぐに私の頭を掴んで振り向かせると、何も言わないまま唇を奪ってきた。噛みつくようなキスはいつになく荒々しくて、直に舌先が唇を割り、咥内に捻じ込まれた。
そういうキスを、私は既に知っていた。
六月の、あの日も雨だった。
だけどあの時はその意味もわからず、今思えば妙な空気が私たちの間に満ちていたのを、台無しにして白けさせたのも私だった。
今は違う。今こそわかる。
鳴海先輩はあの頃から、私を女の子として、関心を持って見てくれていた。
口の中を蹂躙する舌が熱い。私の中に入り込んできて何もかも溶かしていくその熱を、今日の私は当たり前のように受け入れ始めていた。
驚くことだらけだった。
怖いと思う余裕さえなかった。
鳴海先輩は優しかった。それに私よりもずっと落ち着いていた。先輩自身はそう思っていなかったようだけど、少なくとも初めてのことにまごつく私をずっと支えてくれた。何度も抱き締めてくれて、事あるごとに私の名前を呼んでくれた。
私も何度となく呼び返した。先輩、なるみせんぱい――出会ってからもう数え切れないほど口にしてきたその呼び方を、今日ほど狂おしい思いで告げたことはなかった。先輩、先輩になら私は何をされても構わないし、めちゃくちゃにされてもいいんです。優しくしてくれなくていい。先輩がしたいように、したいことを全部好きなだけしてくれたらいい。
そう思っていたのに、鳴海先輩は本当に、本当に優しかった。
驚くことはまだあって、潔癖かつ清廉だと思っていた鳴海先輩は、避妊の為の道具を持っていた。もちろんなければ困るものだけど、常にきれいに整頓されている先輩の机の引き出しからそれが出てきた時は、正直、ショックだった。
でも鳴海先輩は、どちらかと言えば観念したように教えてくれた。
「これは以前購入しておいたものだ。おかしな誤解はするな、お前の為に買った」
ともすれば想像を暴走させそうになる私に、言い聞かせる口調で続けた。
「こういうものが必要になると思い、備えておいたことがあった。俺はお前を大切にしたいし、好きだからな。いつかはこういう日が来るだろうと考えていた」
そこで先輩は気まずげに息をつく。
「だが、以前尋ねただろう。俺をどう思っているかと。その問いに対する返答を聞いて、お前にはまだ早かったと思い直し、ずっとしまい込んでいたという話だ」
そういう思いも、私は今日まで何も知らなかった。
先輩が私を真剣に想い、大切にしたいと思ってくれていたこと、できればもっと早く知りたかったくらいだ。そうしたらこんな回り道を辿ることもなかったのに――ある意味とても、私たちらしいスローペースぶりだけど。
「まさか、こんなに早く使うことになるとはな……」
鳴海先輩がそう呟いたのを、私はひどくくすぐったい思いで聞いていた。
何の心配も要らなかった。
先輩はどこまでも、最後まで本当に優しかった。
「今日は最高の誕生日になりました」
私は先輩の胸に寄りかかり、幸せな気分で呟いた。
先輩は壁に背を預ける形で、床の上に足を伸ばして座っている。そうして私を片手で抱き締め、もう片方の手では私の髪を撫でてくれていた。雨は弱いまま降り続いていて、お互いに黙った時だけ微かな雨音が聞こえてきた。
「こんな過ごし方でよかったのか。せっかくの誕生日なのに」
私の髪を撫でながらも、先輩はどこか気遣うようにそんなことを言う。
だから即座に言い返した。
「極論を言えば私は、先輩と一緒ならどこで過ごしても楽しいんです」
「それは安上がりで結構なことだ」
「おまけに今日は嬉しい言葉もいただけましたから。最高です」
「……今になって言われると、急に恥ずかしくなってくるな」
先輩は照れたようだけど、私はあの言葉をずっと、生涯忘れないだろう。もちろん今日のことだってずっと忘れない。人生の新たな一ページとして必ず書き加えておかなければならない。当然、そのページにも鳴海先輩の名前が並ぶことになるはずだった。
「寒くないか、雛子」
不意に先輩が尋ねた。
「大丈夫です」
十月下旬、しかも雨の日では室温はそれほど上がっていない。だけど私は先輩にぴったりくっつくように寄り添っていたから、先輩の体温のおかげで全然寒さを感じなかった。
「先輩は寒いですか?」
逆に聞き返すと、先輩は深く息をつく。
「俺も温かい。むしろ壁が冷たくて心地いいくらいだ」
先輩の身体はまだしっとり汗ばんでいて、でもそれを不快だと思うことはなかった。それどころかずっとこうしていたいと思う――残念ながら今日も門限はあるし、いつかは離れなければならない運命だった。だから先輩さえよければもう少しだけ、こうしていたい。
「だが、布団を敷くべきだったようにも思う」
真面目に反省している様子の先輩がちょっと面白い。首を捻りながらぶつぶつ言っている。
「こういうことはタイミングがわからないものだな。結局、言い出せなかった」
それは私も同じで、開けっ放しのカーテンを気にしつつも結局言い出せないままだった。
外はまだ明るく、白っぽい光に溢れている。朝からずっとこんな調子で、止みそうで止まない雨の日だった。
雨の日にまた一つ、忘れがたい思い出ができた。
とは言え、幸せながらも少々気恥ずかしい思い出になるのかもしれない。今はまだこうして普通に寄り添っていられるけど、後で思い返す機会があればじたばたとのた打ち回ることになりそうな気がする。
私はすごく緊張していたし、当たり前なのかもしれないけどちっともスマートに振る舞えなかった。むしろスマートさの対極にあった。
「こういう時の為に、もっと恋愛小説を読んでおくべきでした」
私の言葉を聞いた先輩は微かに笑った。
「恋愛小説か。俺はあの手の本が書店で幅を利かせているのがずっと疑問だった」
「先輩の好みじゃないですもんね」
「ああ。他人がくだらんことで一喜一憂しているのを読んで、何が面白いのか」
私からすればそれこそが恋愛小説の醍醐味だけど、先輩の読書傾向は知っているし、この先も読まないジャンルだろうなと思う。
ただ、鳴海先輩は淡々と続けた。
「だが恋愛小説が多くの人間に読まれるその理由は、ようやくわかった気がする」
興味を持って私は面を上げる。
先輩もちらりと私を見て、真面目な顔で更に語る。
「それはな。恐らく恋愛というやつが、人生において避けがたい事柄だからだ」
「避けがたい……まるで災難か何かみたいな言い方ですね、先輩」
「似たようなものじゃないか。いつも突然やってきて、人を散々振り回す」
そんなふうに語りながらも、先輩は優しく私の髪を撫でている。私が体重をかけて凭れかかっていても文句一つ言わない。ずっと抱き締めてくれている。
「運よく遭遇せずにいられる人生もあるのだろうが、いざ遭遇してしまえば誰にとっても避けがたく、逃れがたいものだ。こちらの意思なんかお構いなしで日常生活にまでずけずけと影響を及ぼし、睡眠と思索の邪魔をする。多くの者が同じようにそういう目に遭うからこそ、恋愛小説は興味を持たれるジャンルなんだろう」
先輩の言うことにも一理ある。
私にとっても先輩への想いは避けられないもので、気がつかないうちに強く惹かれていた。それが恋愛感情であるとはっきり自覚するまでには思いのほか時間がかかってしまったし、私たちの間にも紆余曲折、些細ないざこざがあったりもしたけど、それも含めてとても平凡な、ありふれた恋をしている。
「一度そういった憂き目に遭ったなら、後の選択肢は限られている。諦めるか、選び取るかだ」
いつものような熱のない口調ながらも、先輩はしっかりと私を見据えていた。
「避けがたく、抗えない感情だったとしても、最後には俺自身がお前を選び取った。そう思いたい」
その言葉に私は頷く。お互いに、間違いなくそうだ。
「選んでくれてありがとうございます、先輩」
「こちらこそ。……選んでもらった以上、後悔はなるべくさせないよう努める」
「大丈夫です。私は先輩といて、そういう意味で後悔したことは一度もありません」
「含んだ物言いだな。どういう意味でなら後悔したことがあるというんだ」
それも今となっては些細なことだ。
六月の雨の日、もっと違う答え方ができていればよかった。
あるいは八月のあの晩、先輩にキスしてもらった時、寝たふりなどせずに起きてしまえばよかったなんて、少し思ってみただけだ。
だけど過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。今がとても幸せなのだから、あれはあれで私たちにとって必要な過程だったと思うことにしよう。
ともあれ鳴海先輩は私の『後悔』が大変気になっているようだ。意味ありげに睨んでくるので、私は話を逸らすつもりで切り出した。
「先輩、お腹空きませんか」
すると先輩は私を抱きかかえたまま腕を伸ばし、座卓の上に置かれていた腕時計を掴んだ。文字盤を確かめてから答える。
「いい時間だ。弁当もあることだし、一緒に食べるか」
「はい、いただきます!」
私は張り切って返事をした。
それで私の身体をそっと離した先輩は、傍の床に落ちていた黒いTシャツを拾い上げ、さっと素早く身につけた。その後でまるで少年のようなはにかみ笑いを浮かべた。
「しかし、弁当を作ってしまってよかったのか悪かったのか、わからないな」
呟いたその声は、少なくとも後悔しているようには聞こえなかった。




