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長月(3)

 翌日の授業は、寝不足のせいであまり頭に入ってこなかった。

 放課後もよほど眠そうな顔をしていたのか、後輩二人には心配そうにされてしまった。

「部長、受験勉強大変なんですか?」

 眉根を寄せる有島くんの問いに、私は内心猛省する。

 この時期の三年生の寝不足顔は、誰だってそういうふうに捉えるものだろう。なのに私と来たら、およそ受験生らしくない煩悶を抱えて眠れぬ夜を過ごしたというのだから、肩身が狭かった。

「そういうわけじゃないんだけど……」

 嘘をつくのも心苦しかったし、正直に言えるはずもないから曖昧に濁しておく。

 すると荒牧さんが、セーラー服の胸ポケットからガムを取り出した。

「よかったらこれ、食べてください。すっきりしますよ」

 そして素早い動作で私に手渡してくれた。

「貰っちゃっていいの?」

 突然のことに思わず聞き返すと、彼女ははにかみながら頷いた。

「はい、是非」

「わあ……ありがとう。いただくね」

 この子はなんて親切なんだろう。私はお礼を言い、早速いただくことにした。

 少し辛めのミント味のガムは、重たい頭と瞼にはてきめんに効果を発揮した。私はたちまち冴え渡った気分になって、もう一度荒牧さんにお礼を述べる。

「おかげで目が覚めたみたい。助かったよ」

「いえ、お役に立ててよかったです」

 小さな声で返事をする彼女に、一層爽やかさを覚えた。


 眠たいからとぼんやりしている暇はない。それこそこの時期は授業だって大切だし、受験勉強ももちろん大切だ。それに部活動にとっても、文化祭前という重要な局面を迎えている。寝不足のせいで体調を崩しでもしたら馬鹿げているだろう。

 大体、今更悩むようなことだってないのに。

 かつてのように、鳴海先輩の素っ気ない態度に落ち込んだり、何を考えているのかわからなくて悲しい思いをしているわけじゃない。先輩がこの上なくわかりやすい言動を取ってくれたのだから、私はそれを悩むべきではない。幸せじゃない時ならともかく、幸せで仕方がない時ですら考えすぎて寝不足になるなんて、おかしいことじゃないだろうか。

 そうは言っても昨夜の先輩の言葉は記憶どころか耳に焼きついて離れず、半日以上が過ぎても私はまだ動揺していた。鳴海先輩の存在が頭から出ていかないので寝つくこともできなかった。今も、思い出せば心臓が忙しなくなる。

 もっとも、先輩のことが頭から出ていかないのは今に始まった話ではない。昔からそうだった。昔と違うのは、恋愛をしていれば普通に起こるらしい状況に度々陥るようになったというだけだ。つまりは私の寝不足も動揺も、考えてばかりの現状だって、もしかしたら恋愛中における女の子として実にありふれた状態に当てはまるのかもしれない。

 今が受験生という身分でなければ、もう少し堪能できていただろうに。


「さっきのガム、そんなに美味しかったですか?」

 昨夜の出来事を噛み締めていた私に、有島くんが怪訝そうな顔をする。

「え、どうして?」

「部長、随分にこにこしながら食べてるから。グルメレポーターの表情って言うか」

 どうやら内心が顔に出ていたようだ。

 にこにこ程度ならまだしも、だらしのない顔になっていなかっただろうか。私は慌てて唇を引き結ぶ。ついでに眼鏡の位置を意味もなく直してみた。

「お口に合いました? よかったらもう一つどうぞ」

 美味しそうな顔にはなっていたらしく、荒牧さんは嬉しそうにガムをもう一つ差し出してくる。

「うん……ありがとう」

 せっかくなのでありがたく受け取った。どちらにしても気を、そして口元を引き締める為にも、私にはもう少しミントが必要だと思った。いや、いっそのことワサビくらいかじっておくべきかもしれない。

「荒牧、俺にも一個ちょうだい」

 有島くんが出した手に、荒牧さんは快くガムを一つ乗せてあげていた。

「はい、どうぞ」

 それから彼女は自分でも口に放り込み、しばらくの間、図書室の隣にある文芸部の部室は穏やかな沈黙に包まれた。


 私の個人的な悩み、あるいは幸せなどはさておくとして。

 鳴海先輩のことで、後輩たちにいい報告ができるのは部長として幸いだった。他の当てがないのはいささか残念だけど、それはもう仕方がないことだ。

「OBに寄稿をお願いする件だけど、一人に了承貰えたよ」

 私の報告を聞くと、後輩二人はぴくっと反応して、すかさず身を乗り出してきた。

「早速頼んでくれたんですか? ありがとうございます、部長!」

「もうお話取りつけたなんて、さすがです、部長!」

 いつになく大はしゃぎの後輩たちに誉められ、私はちょっとそわそわする。

「いや、結局その人にしか頼めそうにないから、そこまで誉めなくても……」

 そもそも寄稿をお願いする状況だって、私が新入部員を勧誘できていたら必要なかったものだろうし。諸先輩がたとも在学中からもっとコミュニケーションを取っていれば、こういう時に依頼を持ちかけられる程度には仲良くなれていたのかもしれない。


 私も一時期は、皆が鳴海先輩を理解しないのならやむを得ないと思っていたことがあり、私自身まで遠巻きにされている状況も黙って受け入れていた。

 だけどたとえ生意気と思われても、他の文芸部の先輩たちには、鳴海先輩について理解してもらえるよう言葉を尽くすべきだっただろうか。私がきちんと話をすれば、もしかすれば理解してくれた人もいたんじゃないだろうか。

 その思いは後悔というほどではないものの、胸のうちにわだかまっている。


「一人でも十分すごいですよ。ありがたいです、南無南無」

 有島くんは私に向かって拝むように両手を合わせると、すぐに顔を上げて続けた。

「で、その先輩って? 俺らの知ってる人ですか?」

「ううん、一昨年卒業した人だから。私が一年の時に三年だった人なんだ」

「へえ、じゃあ大学生とかですか」

「そうだよ。鳴海先輩、っていうんだけど」

 私がその名前を口にすると、途端に有島くんは目を瞠った。荒牧さんも口を軽く開き、あ、と小さく声を上げた。

「知ってます、その人」

 真っ先に有島くんはそう言った。見開いた目をきらきらさせている。

「新聞で見ました、賞取った時。俺、その時の切り抜き取ってありますよ」

 私と同じことをする人がいたんだ。こちらも少々驚いた。

「うちのOBって話は聞いてて、すげえなって思ってたんですよ。俺もあやかりたいなって」

「私もその時の新聞、見ました。去年ですよね」

 荒牧さんが真面目な顔で頷く。

「鳴海先輩って、この間、部長に貸していただいた文集の作品も、とても素敵な方でしたよね。きちんとまとまりがあって、文章表現もとても美しくて……そんな先輩とご一緒できるなんて、すごく光栄です」

 どうやらかなり好感触のようだった。

 二人と鳴海先輩は直接の面識はなかったはずだし、いかに先輩が校内ではいろんな意味で有名人だったと言えど、さすがに卒業後に入学してきた後輩たちまでは知らないだろうと思っていたのに。しかも二人は鳴海先輩にいい印象を持ってくれているようで、ひとまず一安心、といったところだ。

「うわ、そんなすごい人に寄稿してもらえるんですか! これは負けらんないな……」

「私たちも頑張らないといけないね、有島くん」

「だよな。原稿もそうだけど、こうなったら製本もとびきりいい出来にしないと」

「表紙、箔押しくらいしないと格好つかないかな……部長はどう思います?」

 後輩たちが口々に言うので、私は自分が誉められた時よりもずっとそわそわした。

 うちの兄に打ち明けた時もそうだったけど、鳴海先輩のことをまず誉めてもらえる機会というのが、これまであまりなかった。東高校ではとかく怖いとか、高圧的だとか、冷たいなどと言われるばかりの人だったから、一応は先輩の彼女であった私に対してすらいい評判は届かない有様だった。

 でも、こうして好意的に見てくれる人もちゃんといる。そのことがとても嬉しい。

 できればもっと大勢の人たちに理解してもらいたい。鳴海先輩が紡ぐ作品の美しさ、素晴らしさと、先輩が持ち合わせている心の温かさ、優しさを。

 もちろん張り切っている後輩たちの頑張りだって、無駄になって欲しくない。したくない。部長として、皆の作品がより多くの人の目に留まるように尽くしたいと思う。

 その為にも私だって、負けてはいられない。

 いい作品を仕上げよう。そしてとびきりの文集を作り上げよう。

「じゃあ今日は、決められるところ決めちゃおうか。表紙のレイアウトと、目安としておおよそのページ数と」

 私もここぞとばかりに部長らしく、威勢よく切り出した。

 そしてしばし、後輩たちと有益な議論の一時を過ごした。


 東高校では、部活動の終了時刻は午後六時と定められている。

 試合やコンクールがある部活動は、その直前になると特例としてより遅くまで残る場合もあるらしい。文化祭の準備にしても、十一月に入れば届出を出して居残りをするクラスもちらほら出てくる。とは言え九月の今はそこまで差し迫ってもいないし、文芸部の活動自体は帰宅後もできるものがほとんどなので、私たちはあまり遅くまで残ることもなかった。

「鍵は私がかけてくから、先帰っていいよ」

 軽く掃除を終えた後、私は後輩二人に声をかける。

「じゃあ、お先に失礼します」

「ありがとうございます、部長。お疲れ様です」

 二人が会釈をしてから立ち去っていくのを見送り、私は部室に鍵をかけた。更に司書室に立ち寄って先生に挨拶をしてから生徒玄関へ向かった。


 九月も半ばとなると日が落ちるのが早い。生徒玄関には既に蛍光灯の明かりが点っており、夕暮れらしく薄暗い無人の空間をぼんやり浮かび上がらせていた。戸が開いているせいか秋風の吹き込む不気味な音が続いていて、私は何となく急かされる思いで上履きを脱ぎ、外靴に履き替えた。

 その時だった。

「雛子」

「わっ」

 いきなり低い声に名前を呼ばれ、しまおうとしていた上履きを危うく落としかけた。

 聞こえたのは知らない人の声ではなかったけど、だからと言って驚かずにはいられない。だって誰もいないと思っていたのに。

 無人、だと思っていた生徒玄関には人影があった。まだ開放されている大きなガラス戸の傍にひっそりと佇む長身痩躯のその影は、蛍光灯の白っぽい光の下で眩しそうに目を細めていた。片手に読みかけの文庫本を手にしていたので、人を――つまり私を待っていたのだとすぐにわかった。

 一瞬、私はその人が、東高校の学生服を着てはしないかと錯覚してしまったけど――あいにくと黒い長袖のシャツを着ていただけで、制服姿ではなかったし、そもそもその人は既に高校生でもなかった。

「思ったより遅かったな。掃除をしていたのか」

 鳴海先輩はそう言いながら本に栞紐を挟み、それを自分の鞄の中へ丁寧にしまった。

 それから顔を上げ、私をやはり眩しそうに見た。

「……先輩」

 驚きに心臓が跳ねたのは一度だけで、その後は別の意味で早鐘を打ち始めた。

 何せ鳴海先輩とは昨夜のやり取りもあったし、顔を合わせるのも一ヶ月ぶりだった。たちまち私は何を言っていいのかわからなくなり、手のひらでスカートのプリーツを伸ばしてみたりする。

「あの……ここに、いらしてたんですか」

 恐る恐る尋ねると、鳴海先輩は短く、そして無愛想に答える。

「気が向いたからな」

「もしかして、私を待っていてくれたんですか?」

「お前の靴がまだあったし、部室の明かりが点いていたから、そうした」

 どことなく噛み合わない会話の後、先輩は私から目を逸らした。きまりが悪い時、言いにくいことがある時の先輩の癖だった。

「それに、近頃は日が暮れるのも早くなってきた。お前を一人で帰すには不用心だからな。駅まで送っていってやる」

「まさか、その為にわざわざ……」

 東高校まで迎えに来てくれた、ということだろうか。

 私が呆気に取られていると、鳴海先輩はたちまち顔を顰める。

「おかしいか。こっちだってついでだと思って来たまでだ」

「お、おかしくはないです。むしろ嬉しいです」

 もちろん嬉しい。


 でも、何と言うか、あんまり先輩らしくない行動のようにも思うし、ある意味思いつめた時の先輩らしいやり方でもあるような気がする。

 この人はこうして時々、私を驚かすような可愛い行動を取る。わざわざこんな時間に、学校まで迎えに来てくれるなんて――ついでに、というところは少し引っかかったものの。と言うより、一体何のついでなのだろうか。


「お前が昨夜、会いたいと言ったんじゃないか」

 この期に及んでも言い訳がましく、しかめっつらの先輩が言う。

 そういう口ぶりが私にはややおかしい。

「私のわがままを聞いてくれた、ということですか」

「そうだ」

 鳴海先輩は投げやりに頷くと、一足先に踵を返した。

「……ほら、帰るぞ。教師に見つかるとうるさい」

「あ、待ってください」

 私も慌てて後を追う。

 急いで隣に並ぶと、高い位置にある先輩の横顔を見上げてみる。校舎の外は街灯の明かりにまんべんなく照らされていて、こんな時刻でも先輩の気まずげな表情がよくわかった。ずっと見ていたら、歩きながら睨まれた。

「あんまり見るな。突飛なことをしたとは思っている」

「突飛なんて、そこまでじゃないですよ」

 私が否定しても先輩は不満げだ。

「だが、風変わりなことをするとは思っただろう」

「そんな、私は嬉しかったって言いました」

 それは確かに、わざわざ学校まで来てくれるのはいいけど、もし行き違いになったらどうするのだろうという懸念はなくもない。鳴海先輩は要らない電話を受けたくないからと携帯電話を持たない人なので尚更だ。こういう時、先輩が携帯を持ってたら連絡し合えていいんじゃないかな、と私は思うのに。

「でももし先輩がメールできたら、事前に連絡がもらえて便利だと思いました」

 そう告げると鳴海先輩は一瞬眉を顰めたけど、すぐに思い出したようにうっすら笑んだ。

「それならお前もさっきのように、声を上げて驚くこともなかっただろうな」

「……あれは忘れてください」

 思わず拗ねたら、先輩はどこか勝ち誇ったような顔をする。

 それがちょっと腹立たしかったので、仕返しに私は先輩の手に自分の手を伸ばして、隙を見て捕まえてみた。先輩は手を引っ込めかけたけど、すぐに観念したのか先輩の方から手を繋ぎ直してくれた。

 器用そうな大きな手が私の手を握り締めている。秋風にずっと吹かれていたからか、ひんやりと冷たい。長い間、生徒玄関で待っていてくれたのかもしれない。そう思うと胸が締めつけられるようだった。


 駅までの道は残念ながら、そう長くはない。

 でも私はこの時間を、久し振りに先輩と過ごせる一時を、じっくり味わっておこうと思った。

 そしてできれば、次のデートの約束でもできたらいいんだけど。昨夜は『考えておく』としか言ってくれなかったけど、今日はわざわざ会いに来てくれたくらいだし、どうだろう。少しは先輩の考えも変わっているといい。

 その内心を窺おうと見上げた横顔は、心なしか緊張しているように映った。

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