卯月(2)
四月二十九日も、実に天気のいい日になった。
春半ばの空は紗が掛かったような薄い青色をしている。時折吹いてくる午後の風は暖かく、光溢れる街並みは眺めているだけで心が弾んだ。街路樹の葉はまだ若い色をしているものの、もうじき深みを増して、清々しい薫りがするようになるだろう。
待ち合わせ場所に選んだのは駅の出口正面だった。
普段から通学に使っている駅で、買い物に便利なのはもちろん、先輩の部屋や大学からもごく近い。先輩と出かける時は大抵ここで待ち合わせていた。
だけど今日の私は、心が弾みすぎてどこかへ飛んでいってしまいそうだった。春風に吹かれる前髪の傾きや、スカート丈が妙に気にかかり、度々手で触れて確かめてしまう。眼鏡のレンズはもう二度も拭いた。おろしたての春用のブーツは光沢が鈍く、もう少し磨いてくるべきだったと悔やんでいる。
緊張しているのかもしれない。
何せ、鳴海先輩のお誕生日を祝えるかどうかの瀬戸際にいる。
先輩の考えはあれからも変わっていないようで、私が特別なお祝いをするのではないかと懸念を抱いている様子だった。どうしてそこまで頑ななのかはわからないけど、気を遣われるのが嫌だというのは理解できなくもない。
ただ、私が先輩をお祝いしたいと考えているのは単なる気遣いや義務感からではなく、権利の行使であると考えている。私に当然許されるべきことであって欲しかった。私には先輩を祝う権利が確かにあり、望めばその通りにできるのだと、先輩に認めて欲しかった。
ささやかでもいいからお祝いがしたい。プレゼントを贈りたい。
願いはたったそれだけなのに。
待ち合わせの五分前、思わず溜息をついた時だった。
「雛子ちゃーん」
男の人の声が、私の名前を呼んだ。
駅前の人混みの向こうで、小柄な男性がこちらに手を振りながら駆け寄ってくる。レンズ越しにその人の顔を認めるまで、少しの時間が必要だった。
大槻さん。鳴海先輩と同じ大学に通う、同い年のお友達だ。
長袖のTシャツにふくらはぎ丈のチノパンという服装の大槻さんは、人懐っこい笑みを浮かべて私の前までやってきた。
「久し振り! あ、覚えてるかな、俺のこと」
「はい、お久し振りです。去年のクリスマス以来ですね」
私は頷いて応じる。
去年のクリスマス、大槻さんが所属する楽団でコンサートが催され、私は先輩に連れられて鑑賞に出かけていた。
その時まで私は、鳴海先輩がコンサートに出かけるなどと想像もつかなかったくらいだったけど、先輩が言うにはチケットを『売りつけられた』とのことで、無駄にするくらいならと足を運ぶ気になったのだそうだ。あくまでも先輩の弁明を尊重するならば、そういうことらしい。
そして鳴海先輩にチケットを売ったのが、他でもない大槻さんだった。
先輩のような人付き合いを好まない人にチケットを買わせるなんて、どんなに無謀で、そして商売上手な人だろうと不思議に思っていた。だけどコンサート前に大槻さんとご挨拶をした際、その陽気さと人懐っこさを知って、柔よく剛を制すとはこういうことなのだと納得するに至った。
性格的には正反対のお二人だけど、現在ではとてもいいお友達のようだ。
大槻さんは怪訝そうな顔をした。
「あれ、そんなに会ってなかったっけ? 何かいつも話に聞いてるから、会ってないって気がしないや」
「話に……ですか?」
私は私で釈然としなかった。
私のことを誰かに打ち明ける鳴海先輩の姿は、他の何よりも想像がつかない。大学で、先輩は大槻さんとどんな話をしているのだろう。
いたって明るく、大槻さんは言葉を続けた。
「あ、そだ。鳴海くんから伝言。ちょっと遅れるからって」
「え?」
そう言われるまで私は、この人がここに現れた理由を全く思いつけなかった
「大学で偶然見かけたんだけど、何でもちょうど帰ろうとしてるところを教授に捕まったみたいで、ものすっごく慌ててたからさ。どうしたのかなーって聞いてみたら、雛子ちゃんと約束があったって言うし。どうせ教授からは逃げられないだろうから、だったら俺、暇だし、雛子ちゃんに伝えといてあげるよってここまで来たわけ」
一息にそう言って、息継ぎをしてから、尚も大槻さんが語る。
「鳴海はあの爺さん……もとい、教授のお気に入りだからなあ。何かって言うと捕まえられて、雑用手伝わされてんの。今日も多分、資料の整理とかさせられてるんじゃないかな。だからあと三十分は来ないと思うよ」
今まで聞く機会もなかった、大学での先輩の様子がその話から窺えた。
「そうなんですか……」
先輩の遅刻は寂しいものの、同時にほんの少し愉快な気分にもなった。鳴海先輩が教授に声をかけられて慌てていたり、雑用を手伝わされている光景はどうにも想像しがたいし、何だかおかしい。とても可愛らしいなと思う。
鳴海先輩だってまだ十九歳――いや、今日で二十歳になったばかりだ。年相応の一面もちゃんと持ち合わせているし、私の知らないところでは人並みの青春を謳歌しているのかもしれない。やっぱり、どう頑張ってみても想像はできないけど。
私が輪郭のぼやけたイメージを巡らせていると、不意に大槻さんが言った。
「ってことで鳴海くんはご愁傷様なんだけど、雛子ちゃんは暇だよね? あと三十分くらいは」
「はい。暇と言うか……もう三十分待つつもりでいます」
素直に答えたところ、大槻さんからは満面の笑みが向けられる。
「だったらさ、ちょっとお茶でも付き合ってくれないかな」
一瞬、息が詰まった。返事をするのが遅れる。
「えっ、私とですか?」
「そう。雛子ちゃんと俺と」
いくら先輩の友人とは言え、大槻さんとは二度目の対面だ。
私は鳴海先輩と比べたら社交的な方だと思っているけど、同世代ならともかく、年上の人と一緒に過ごすのはさすがに気負いがある。もちろん大槻さんのことを悪く思っているわけじゃないし、先輩と親しい人なら信用してもいいはずだけど、二人だけで話すとなると尻込みしたくなる。
「一度じっくり話してみたいと思ってたんだよね、雛子ちゃんと」
私の驚きとは対照的に、造作もなく大槻さんは言ってのける。
「何たってあの鳴海くんの彼女でしょ? 何かこう、本人も謎すぎるけど彼女がいるって点もまた不思議な感じするし、話聞いても全く要領を得なかったから、一体どういう奇跡があって付き合うことになったのかなーって、気になってしょうがなかったんだ。その上相手は女子高生、しかも会ってみたら鳴海くんとは似ても似つかない可愛い子だったし。これはもう、彼のいない隙に話聞いておきたいってずっと思っててさ」
まくしたてられた内容を頭の中で整理すると、大槻さんは私から、鳴海先輩の話および私たちの関係についてを聞き出したいということのようだ。自分で言うのも何だろうけど、この人の疑問ももっともだと思う。
私からすれば、この人と先輩との関係、どのようにして友情を育んだのかという点の方が更に不思議だけど。
「待ちぼうけるのに三十分は長いよ。ちゃんと奢るからさ、付き合おうよ」
考え込む私に、大槻さんが重ねて誘ってきた。
「でも、先輩が早めに来るかもしれませんし」
用件はわかってもすぐには頷けず、私はためらう。
だけど誘いは更に続いて、
「大丈夫! 鳴海くんなら間違いなく捜しに来てくれるだろうし、約束しといて彼女待たせるような奴は、ちょっとくらいはらはらさせてやった方がいいんだって」
小柄なその人の、愉快そうだけど、同時に有無を言わさぬ笑顔を見て思う。
きっと先輩もこんなふうにチケットを買わされたに違いない。
私もその勢いに押され、三十分だけという約束でお付き合いすることにした。
大槻さんに連れられて、駅前の一角に建つ喫茶店へ入る。
先輩が通りかかってもわかるようにと、表に面した窓際の席を選んだ。差し向かいに座る大槻さんは、はきはきした声で言う。
「どれでも好きなもの頼んでいいよ。情報料だからね」
情報料という単語は引っかかったものの、ここで遠慮をするのはかえって失礼だ。私はアイスティーをお願いした。
注文を書き留めたウェイトレスさんが立ち去ると、私たちの周囲にだけ沈黙が落ちた。
喫茶店の内装は明るい色調で統一されている。流行のポップスが控えめな音量で流れる店内に、時折楽しげな女の子たちの笑い声が響く。客層は女性が多く、カップルと思しき二人連れも何組かいた。あまりきょろきょろしているわけにもいかないけど、視線のやり場に困っていた。何せ、大槻さんと二人だけで話すのは初めてだ。
大槻さんは先輩よりも背の低い人だから、目線の高さも私とそう違わない。お蔭で正面を向くだけで視線が合い、気まずさを感じた。
なのに大槻さんの横顔は平然としたものだ。楽しげな表情で窓の外を眺めている。どうやら気まずく思っているのは私だけで、そのことが余計に緊張感を掻き立てていた。
直に注文した飲み物が運ばれてくると、大槻さんは手早くストローの袋を切って、アイスカフェラテを一口飲んだ。
私はアイスティーにガムシロップを混ぜながら、大槻さんの手元に視線を留めている。鳴海先輩の器用そうな手とは違う、ごつごつと筋張った力強そうな手。楽器を奏でる人の手なんだろうと思う。
「じゃあ、何から聞こうかな」
弾む声に視線を向けると、人懐っこい笑顔と目が合った。
私が姿勢を正すと、その笑いがたちまち苦笑に変わる。
「そんなに身構えなくてもいいのに」
「いえ、そういうのではないんですけど……ごめんなさい」
これから尋ねられるのが鳴海先輩に関する事柄なのかと思うと、気恥ずかしくなってきた。
あまりべらべらと喋ってしまえば先輩が機嫌を損ねるだろうし――大槻さんがそれをネタに、先輩をからかおうとするに違いないから。だから話すにしても控えめに。できれば、お茶を濁す程度にしておこうと思う。
内心では身構えている私をよそに、大槻さんが首を傾げた。
「だけど驚いたよ、あの堅物にこんな可愛い彼女がいたなんて。高校時代からの付き合いなんだっけ?」
「はい、あの」
「そこは聞いてた、文芸部の先輩後輩だって話は教えてもらってたんだ。ってことはやっぱり、同じクラブで活動してるうちに自然と愛を育んじゃったとか、そんな感じ?」
「ど、どうでしょうか」
思わず言葉に詰まる。
鳴海先輩がまだ東高校文芸部に所属していた頃、私は当時から先輩を尊敬していたけど、同時に恐れてもいた。厳格な先輩の存在そのものに戸惑い、腫れ物にでも触れるように接していた。
今思えば確かに、憧れてはいたのだと思う。
でもその頃の私は、私自身の先輩に対する感情がどういうものか掴みきれていなかったし、まして傍に置いてもらえる未来は想像もしていなかった。鳴海先輩は私を――というよりも、自分以外の他人を必要としているようには見えなかったからだ。
先輩が実際に私をどう思っていたのかは、今でも明らかにされていない。
付き合いを始めてから月日が経っても先輩の態度に大きな変化はなく、例えば直截的に愛を囁いてくるような人ではなかった。先輩からそれらしい言葉を貰った記憶はおよそ乏しく、あったとしても酷く遠回しで、理解するのに時間が掛かるようなものばかり。そんな人が自らの恋愛感情の発露について、その経緯を打ち明けてくれるはずもない。
「ここは是非、馴れ初めを聞きたいなあ」
大槻さんは先輩と対照的で、ストレートな言葉を口にする人だった。
テーブルから身を乗り出すようにして、
「どっちから告白したの? やっぱ雛子ちゃんだよね? どんなふうに言った? ちゃんと一回で理解して貰えた? 鳴海くん石頭だから説明に手間取ったんじゃない? どんな反応を示すかも全く想定できないもんな。何かすっごい的外れなこと言いそうだし。で、告白の返事はすぐに貰えた?」
矢継ぎ早に問われ、私は答えに窮する。
大槻さんは勘違いをしていた。先輩と私の関係を想像するにあたって、恋愛関係を開始したのは私の行動がきっかけだったと考えるのは当然なのかもしれない。鳴海先輩はことそういう事柄について能動的な人には見えないだろうから、大槻さんがそう判断したのもわからなくはない。
でも事実として先輩はあの時、能動的だった。
先輩が私に何も言わなければ、今の関係が始まることもなかった。
「あの……」
正直に話すべきか、迷う。
恥ずかしさもあるし、そんなことをわざわざ人に打ち明けるのは行儀がよくない気もする。
でも弁解したい気持ちも少しだけ、どういうわけかあった。私は鳴海先輩を尊敬しているから、あの人が受け身なだけの男性だと思われるのが嫌だったのだ。
「違うんです、先に言ってくれたのは先輩の方で」
私がやっとの思いで口にすると、大槻さんがぱちぱちと瞬きをした。
すぐにその目は大きく見開かれて、
「え?」
驚きの声が上がる。
予想通りの反応に、私は次の言葉を迷う。
照れてしまって、自ら続きを話し出す気にはなれなかった。どうせ必要もなかった。
喫茶店の椅子に座り直した大槻さんは、再度身を乗り出してくる。驚きに満ちた表情の上に、引き攣ったような笑みを浮かべていた。
「本当に? え、マジで? 雛子ちゃんの方からじゃないの?」
「ええ、まあ」
「嘘だろー! 俺、あいつがそういうキャラだとは思ってなかったよ」
そうだろうと思う。
「まともに女の子口説いてる姿なんて全然イメージできないし。俺の知ってる限りじゃまずあり得ない。どんなんだったんだろう……ああもう、いっそその場に居合わせたかった!」
非常に悔しそうな大槻さんは、もし居合わせていたら、どうする気だったのだろう。
大槻さんの様子を見て、私はひたすら反応に困っていた。
頬が熱い。アイスティーを飲んでも冷めないくらいだった。