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葉月(6)

 奇妙な沈黙が室内を支配していた。

 外を歩いてきた時の穏やかさも、さっきの子供じみたやり取りも過ぎ去って、後に残るのは重苦しいく、じっとりと蒸し暑い空気だ。

 私は駆り立てられるように気が急いて、答えを待つ間はずっと胸が苦しかった。


 やがて、先輩は諦念を含んだ声で言った。

「わかった。お前がそこまで言うなら仕方あるまい」

 私ははっとした。

 今夜、残り少ない旅先での時間を共有しようと、先輩も思ってくれたのだろうか。幸せな予感に微笑みかけた時、だけど先輩は無情に続けた。

「お前が寝つくまで、傍にいてやる」

 私にとっては予想外の言葉を。

「え……? ええと、あの」

「今日は蒸し暑いからな。扇いでやってもいい」

 視線は合わせず、ぎこちない口調で紡いだ。

 私はその意味を測り切れず、混乱の只中にあった。これは、譲歩して貰えたのだろうか。私にとって好条件と言えるのだろうか。

 先輩は是が非でも私の夜更かしを許さないつもりらしい。私が寝つくまで傍らにいるというのも確かに傍にはいられることだろうし、望むとおり話だってできるのかもしれない――だけど、想っていたのとはかなり違う。

「やっぱり、夜更かしは禁止ですか」

 私は複雑な気持ちで尋ねる。

「そうだな。子供は早く寝るべきだ」

 ぶっきらぼうに先輩が応じたから、反射的に異を唱えた。

「私、先輩が思っていらっしゃるほど子供ではありません」

「わがままばかり言う奴が威張るな」

 ずるい言い方で反論を封じてから、先輩はなぜか肩を落とす。

「もっとも、わがままを言うだけならいい。ただ、あまり困らせないでくれ。お前が子供でいてくれないと、俺も……扱いに困る」

 絞り出すような言葉が聞こえてきた。


 困ると言われても、私は、先輩が好きだ。

 この気持ちはどうしようもないくらいに強い。子供でいることを望まれている私が、それをあえて拒み、先輩との間にまだわずか残った距離を縮めてしまいたいと思うのは、いけないことなのだろうか。

 言葉を貰えたのはうれしかった。でも、他のものも欲しいと思った。もう一つ、私たちの関係を肯定する確たる証が欲しいと思った。恋心は貪欲だ。私は、先輩の何もかもを受け止められる自信があった。

 それなのに。

 あとわずかの距離を縮められない私から、先輩は思いきり目を逸らした。


 結局、説き伏せられた格好の私は、おとなしくお風呂場を借りてシャワーを浴びた。

 そしてパジャマに着替え、髪を乾かしてから居間へ戻る。

 と、先輩の姿はそこにはなかった。代わりに階段と階上の明かりが点いている。私も足音を忍ばせ、二階へと上がる。


 先輩の姿は二階の、畳の部屋の方にあった。

 わざわざ私の為に布団を敷いてくれていた。蛍光灯の点る室内で気難しげな顔をしていた。私の足音を聞き付けているはずなのに、こちらには見向きもしなかった。

「先輩、済みました」

 私は声をかけてから部屋に入る。畳を踏み締めると、軋むような音がした。

「布団を敷いてくださったんですね。ありがとうございます」

 先輩の隣に膝をつき、感謝の言葉を述べたのに、先輩は私に背を向けていた。不自然な姿勢であらぬ方を見遣り、ぼそぼそと低い声を立てる。

「別に大したことじゃない。それより、早く寝ろ」

「……そうしますけど」

 私は先輩の思いのほか広い背中を見つめる。抗議の眼差しもこれでは届くまい。

「先輩、おやすみなさいを言わせてください」

「言えばいい」

「顔を見て言いたいんです」

 横から覗き込もうとすると一層背けられる。前に回り込もうとすれば俯かれる。どちらが子供かわからない抵抗ぶりだった。

「今は見られたくない」

 突き放すように先輩は言った。冷たい、拒絶めいた言い方だった。

 扱いに困るのだって私の方かもしれない。先輩は梃子でも動く気配がないから、やむなく私は溜息をつく。

「嫌ならしょうがないですね。……おやすみなさい、先輩」

 落胆した私が布団へ向かおうとしたその時、先輩が不意を打つようにこちらを振り返った。

「あ、先輩――」

 挨拶してくれるんですね、と喜びかけた私の身体は、磁石に引きつけられたように勢いよく動いた。

 先輩が、私を抱き寄せた。

 片手で、唐突に強く抱き寄せられて、息を呑んだ次の瞬間には、私は先輩の胸元に頬を押しつけられる格好になった。唐突で乱暴なやり方は、挨拶の代わりとは到底思えない。

「ど、どうか、したんですか」

 どぎまぎと問う私に、先輩の返答は素っ気ない。

「別に、どうもしない」

「そうですか……じゃあ、どうして」

「顔を見られたくないからこうしたまでだ」

 答えもまた乱暴だった。

 そんなのおかしい、と私は思ったけど、動揺しているから声にならなかった。おかしいけど、およそ論理が破綻しているけど、先輩がしたいからこうしたのだったらそれでいい。

 私もされるがまま、抱き締められたままでいた。薄いパジャマの布地越しには先輩の手の冷たさを感じる。耳元には先輩の心臓の音が聞こえる。速いのか遅いのかよくわからない、でも呼吸は少し落ち着きがない。


 遠いようで傍にあり、近いようで時々遠ざかるこの距離。

 本当に、いっそ縮めてしまいたかった。抱き締めてもらって傍にいるのに、どうしてこれ以上は近づけないのだろう。

 でも、思う。多分先輩も、この距離を縮めたいと思ってくれているはずだ。

 それをしないのは先輩が、私のことを子供だと捉えているからなのだろう。私が幼いままだから、躊躇いもするし、気遣いもしてくれるのだろう。

 そうでなければ、私たちの距離を限りなくゼロに近いものにしてしまうことはもはやたやすいことのはずだ。だって私には躊躇いも、迷いも何もない。先輩がいてくれたら不安なことはないと思っている。

 こうして抱き寄せられて、少しわかった。私たちの間にあるものは年齢の差だ。たった二つの歳の差が、私を子供に見せてしまう。本当は先輩が思うほど幼くも、純粋でもないのに。

 先輩は私が大人になるまで待っているつもりなのかもしれない。単に踏み切れないだけなのかもしれない。でもどちらにしても、今更先輩の想いを疑うつもりはなかった。

 今の先輩が十七の私を好ましいと思ってくれているのだから、私は先輩が望むように全てを受け止める。時々、先輩が呆れるようなわがままを言いながらも、でも、絶対に離れない。


「……先輩が好きです」

 衝動的に呟いたその一瞬、先輩の身体がびくりと硬直した。

 だけど、何も答えなかった。答える代わりに先輩は私を両手で抱え直して、以前よりかはいくらかスムーズに持ち上げた。あ、と思う間もなく敷いてあった布団の上に寝かされた。

 抱えて運ばれるとは思わなくて、横たえられる時の顔の近さも、先輩の肘が私の顔の横に一瞬置かれたことにも、いちいちどきっとした。

 それから先輩は、タオルケットをかけてくれた。その時表情を見てやろうと思ったのに、私が視線を上げるより先に、先輩は部屋の明かりを消してしまった。予告もなく暗くなる。何も見えない。

 私は黙って、携帯電話のアラームをセットした。画面のライトが眩しかった。アラームは明日の朝、五時に合わせる。それから眼鏡を外して、枕元に置く。

 暗がりの中で、微かに気配が動いた。畳を踏み締める音がした。先輩が傍に座ったようだ。すぐにそちらから風が吹いてきた。

「本当に扇いでくださるんですね」

 驚きながら私が言うと、むっとしたような声が聞こえた。

「嘘だと思ったのか」

「いえ。でも、冗談だったのかなって思ってました」

 本当は、口実なのかなとも思った。二つの意味で。私を早く寝かしつけてしまう為に、それから、私の傍にもう少しだけいられるように――半分は希望的観測だけど。

「そんなくだらん冗談は言わない」

 先輩は私の予想を一蹴した。吹いてくる風は柔らかく、涼しい。蒸し暑い夜にはうれしい心遣いだった。

「もしかして、私が寝入るまで扇ぎ続けるつもりですか」

 布団の中から私は尋ねる。

 数秒のタイムラグがあり、先輩は暗闇の中で答えた。

「いいからとっとと寝ろ」

 でも私は眠れる気がしていなかった。本当に、もったいないと強く思った。こんなに近くで先輩の優しさに触れていられる時間を、眠って手放すのは嫌だと思っていた。

 まだ目が慣れない。ぼんやりと白い団扇が動いているのが見えた。それを手にする手と、先輩の着ているシャツの色合いも見えたような気がした。だけど表情は見えない。目を凝らしても見えはしない。

 先輩は今、どんな顔をしているのだろう。どんな思いで、私の傍にいてくれているのだろう。

「先輩」

 私はそっと口にしてから、目を閉じた。目を閉じてもあまり変わらず、ほとんど何も見えない。

「私、本当に先輩が好きです」

 何度目になるかわからない言葉だけど、何度でも繰り返し伝えたかった。今日は不思議と言うのがたやすい。

 また少しの間があった。

「知っている」

 先輩らしい返答に私は少し笑った。更に、続けた。

「本当に大好きです」

 答えに窮したのだろうか、

「わかった。わかったから、いい加減寝ろ」

 先輩は溜息混じりに私を諭す。

 私は柔らかい風を浴びながら微笑み、それから呼吸を整えた。眠る為に――いや、眠ったふりをする為だ。

 どうせ眠れそうになかった。だけど先輩を長く引き止めておけない。先輩だって、私を扇ぎ続けるのは疲れるだろうし、今夜は読書をするつもりだと言っていたから、あまり付き合って貰うのも申し訳ない。

 だから、寝たふりをする。

「おやすみなさい、先輩」

 上手く、眠たそうな声を立てられただろうか。暗闇の中で目を閉じているから、先輩の反応は声でしか窺えない。

「ああ、おやすみ」

 短く、素っ気ない口調で、だけど私の欲しい言葉を先輩はくれた。

 そう言ってくれた時の表情を見たい、と密かに思った。それでも私は目を閉じ、眠ったふりをすることに集中した。

 先輩が見守ってくれている。だから暗くても、目を閉じていても、何も怖いことなどない。先輩が傍にいてくれたら、きっと不安なことだってないはずだ。

 鳴海先輩もいつか、そう思ってくれたらいい。

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