葉月(5)
「先輩」
決然と、私は先輩を呼んだ。
私は離れるつもりも、終わらせるつもりもなかった。
不安にとらわれるくらいなら、私を信じていて欲しかった。
私たちが一緒にいた一年と八ヶ月は、曖昧ではなく、はっきりとした輪郭を持って存在しているはずだ。無為に過ごしてきたわけでもなく、お互いに悩み、苦しむ期間を経て、確かな感情を培ってきたと私は思っている。
だけどそれだけでは、先輩は、信じられないと言うだろうか。
「大丈夫だと、言ってください」
私が見上げた先で、先輩は不安を追い払うようにかぶりを振った。
「大丈夫だ」
願ったとおりの言葉を口にした後、いつものように仏頂面になった。
でも、心なしか私を見つめる目が優しい。笑ってはいないけど、とても優しい。こうして見ると少しだけ、澄江さんに似ているかもしれない。
私はいつの間にか呼吸を止めていたことに気づき、ひとまず息をつく。全身が緊張で強張っている。握り締めた手のひらに自分の爪が食い込み、痛いくらいだった。
「同じ轍を踏むつもりはない」
自らを戒めるような口調で先輩は続け、そしてふと目を伏せた。
「昔は……違った。壊れてしまうにせよ、長くは続かないにせよ、どうでもいいと思っていた」
私は黙って目を瞬かせた。
「初めのうちは、単に話し相手が欲しかった。それもできるだけ従順な奴がいいと思った。自己主張をあまりせず、それでいて馬鹿ではなく、趣味は合うが可能なら俺とは違う意見を言えるような感性の持ち主。それからあまり騒がしくなく、必要のない時には滅多に口を利かないような奴。――その条件に、お前は合致していた。そういう奴を、傍に置こうと思って、そうした」
そこまで言ってから、先輩は口元を綻ばせた。
「もっとも、傍に置いてみてからわかった。その他の条件はともかく、お前はあまり従順な女ではなかった。それどころか時々、子供のようにわがままになる」
そうでしょうか、と反論したくなったのを堪えた。わがままであることに自覚はあった。
「だが、お前にわがままを言われるのは嫌いじゃない」
だから先輩がそう言った時、私は再び瞬きをした。
「お前の笑う顔も、嫌いじゃなかった。控えめで、誰かに遠慮でもしているような笑い方をする。初めはその顔も鬱陶しくないからいいと思っていたが、ある時、それは違うと気づいた」
先輩は照れているかのように、ためらいがちに語る。
「好ましい、のだと思った。お前の笑う顔が」
にわかに鼓動が速さを増した。私は目のやり場に困り、だけど先輩からは逸らせずに、そのまま見つめていた。
「お前の幼いところも、あまり従順ではないところも、いくつかの事柄に関しては驚くほど無知なところも、いささか落ち着きに欠けるところも。お前の欠点すら、今は、好ましいと思う」
欠点ばかり論われても悪い気がしなかった。むしろうれしかった。先輩が私のことをよく知ってくれている。それでいて好意的に受け止めてくれてもいる。
「そのことに気づいた時、初めて失いたくないと思った。だから、俺は」
先輩はようやく、私を見た。
眼差しは真っ直ぐだ。先程のように不安に囚われてはいない。揺るがず強く私を見つめている。
「お前を失わずに済むように、お前を、ずっと傍に置いておけるように、できるかぎりのことをする。その為には何が必要かも考えている」
ふと、先輩の手が持ち上がる。
握り合わせていた私の手に、優しく添えてきた。先輩の手のひらは潮風よりもひやりと冷たい。長くて器用そうな指がゆっくり折り畳まれて、私の手を包む。
引き寄せられるように、自然と顔が近づいた。
「お前を失いたくない」
至近距離から先輩が囁いた。
「お前を離すつもりもない。これからも、俺の傍にいろ。ずっと、俺から離れるな」
命令口調だ、と思った。
それが不快ではないのは、先輩の言葉だからだ。私が先輩の言葉の真意を読み取れるようになったからだ。ある種洗練されていない、鋭いばかりの言葉から、その裏側に潜む本当の気持ちを、私がちゃんと理解できるようになった。
あるいは、理解できるようにしてくれたのかもしれない。
先輩が、私の為に。
「はい」
私も迷うことなく頷いた。
それから、可能な限り笑って告げた。
「私も、先輩が好きです。だから絶対に離れません」
先輩は笑んでいるように見えた。ごく微かな、曖昧な笑みだったけど、間違いなく私に向かって笑ってみせた。
「後悔するなよ」
「後悔なんてしません。これまでも、一度としてしたことはありません」
私の回答を、先輩はどんな思いで聞いただろう。
「お前は本当に物好きだ」
呆れた口調の先輩は、私の手をじっと眺めている。
「だがお前のような物好きがいるから、俺の気も変わった。……感謝している」
私も、同じ思いだった。先輩に対して、今は感謝の気持ちでいっぱいだった。秘密を打ち明けてくれたこと、それでも尚、大丈夫だといってくれたこと。そしてその後にくれた温かい言葉の数々――全てがうれしかった。あいにくと私は語彙が貧弱で、その感謝をどう声に出して伝えていいのか、伝えきれる気もしなかったから、後はひたすら先輩を見つめ続けた。
先輩もそれ以上は何も話さなかった。
お互いに言葉を必要としていないのかもしれない。月明かりの下、長らく無言で見つめあった。
私は、先輩が好きだ。
そのスケールを表すのは難しいけど、とても好きだった。先輩のいない時間が、未来が、想像できないくらい大好きだった。
散歩からの帰り道、月明かりと水銀灯の光の下で、私たちはほとんど口を利かなかった。
だけど手は繋いでいた。そうして歩調を合わせて寄り添う間も、私はずっと先輩のことを考えていた。片時もぶれることなく、一心に、隣にいる人のことだけを。
私が先輩を好きなのは今に始まった話じゃない。いつからかはっきりとはわからないけど、でも自分で驚くほど好きになっていた。それからは何があろうと、先輩に何を言われようと、私は指摘されたとおりのわがままさで脈々と想いを育んできた。
今までのいつになく、今が、一番強く先輩を想っている時間だ。他のことは考えられない。胸のうちが先輩のことばかりで溢れている。
きっと、私は先輩の全てを好きでいられるだろう。全てを受け止められるだろう。頑迷さも、利己的な側面も、生真面目過ぎるところも、愛すべき不器用さも、それから――私に対して抱いている不安も、何もかも。
だから先輩が思い煩うことなんて何もない。先輩はただ、行くべきと思う道を真っ直ぐに進んでくれたらいい。
その時、今みたいに私の手を引いてくれたら、他に願うこともない。
澄江さんの家まで戻ってくると、先輩は鍵を開け、静かに私を招き入れた。
居間に入ると、自然と時計に目がいく――午後八時半を過ぎていた。
ちょうど、先輩も時計を見ていた。それで何か思い出したのか、ふとこちらを見る。
「雛子、お前はなるべく早く寝ろ。明日の朝も早いぞ」
「ええと……そうなんですか?」
予想はしていたけど、どのくらいの早さだろう。内心身構える私に、先輩は低い声で語を継ぐ。
「五時に起床することとなっている」
「五時、ですか? 何かご予定があるのでしょうか」
「いや。澄江さんがいつも起きる時間だ。年寄りだからな、無闇に早い」
早寝早起きが徹底されているということだろう。私はそろそろ驚かなくなっていたから、素直に頷いた。寝坊は絶対にできない。
「わかりました」
私の答えが望むものだったからか、先輩は満足げに顎を引いた。
「わかればいい。それでは、風呂に入ってから休め」
「え? も、もうですか?」
今度は声に出して驚いてしまった。
だって高校生でも寝るには早い時刻だ。思わず飛び出した声を、先輩は咎めるように眉を顰め、私は口元に手を当てる。居間からふすまを一枚隔てた向こうの部屋は、ずっと静まり返っていた。
トーンを落として問い直す。
「もう就寝時刻になりますか、先輩」
「そうだな。明日のことを考えたなら、夜更かしは勧めない」
先輩はきっぱりと言った。だけど……。
「まだ九時前ですよ。さすがに早過ぎます」
ここ数年、用もないのにこんなに早く寝つくことなんてなかった。
それは先輩だって同じはずだ。たまに夜遅く電話をかけてきてくれることがあるけど、大抵が午後十時過ぎだった。せっかくの旅行なのに寝てしまうのはもったいない。
「早くはない。そんなことを言って、お前は明日、ちゃんと起きられるのか」
先輩は重大な懸案事項だと言わんばかりに指摘してくる。
「大丈夫です。目覚ましをかけますし、そもそも今くらいの時間なら夜更かしとは言いません」
すかさず反論した私は逆に尋ねた。
「それとも、先輩はもうお休みになられるおつもりですか?」
「いや」
先輩は堂々と首を横に振る。
「俺はこれから読書をする」
「読書ですか……先輩は夜更かしをなさるご予定ですか?」
「多少はな」
不遜に言われればやり返さずにはいられない。
「私の夜更かしは駄目で、先輩は夜更かしをしてもいいなんて、おかしいと思います」
だけど先輩も石頭なので、その程度の反応なんて押し切る気のようだ。
「俺は二十歳だからいい。お前は子供だ、夜更かしはさせられん」
さっきまでの穏やかな空気はどこへ消えてしまったのだろう。二十歳の先輩が口にしたのはまるで子供じみた理由で、私も何だか子供っぽい気分になる。何が何でも逆らいたくなる。
「そんなの、ずるいです」
「ずるくはない。大体、お前は夜更かしをして何をするつもりだ」
問われて、一瞬言葉に詰まった。
何を――なんて、考えてもいなかった。
だけど考える前から決まっているようなものだった。今の私が考えられることなんて一つしかない。
「あの、それは……その、先輩のお傍にいたいなって」
「は?」
先輩は怪訝そうな声を立てる。彼女に対して、いささか冷たい態度ではないかと思う。いつものことだけど。
「お話がしたいんです。まだ話し足りない気分なんです」
私はそう訴えた。嘘偽りのない、心からの想いだった。
「先輩の傍にいて、もう少しだけお話がしたいんです。他愛もないお喋りだけでいいと思っています。せめて、もう少しだけ」
話したいことが明確にある、というわけではない。ただ、この時間を終わりにはしたくなかった。先輩の傍にいられる時間を、もうしばらく続けて、繋ぎ続けていたかった。先輩のことしか考えられない、今だからこそだ。
「俺は読書をするつもりだ」
珍しくやんわりと、だけど困惑の色は隠さずに先輩が言った。
それだけではこちらも引くに引けない。
「では、邪魔にならないようにしますから、お傍に置いてください」
先輩が話をする気にならないなら、それでもいい。私といるより本を読みたい気分だと言うなら、邪魔をするつもりはなかった。ただ、私を傍に置いていてくれたら。隣にいることは許して欲しかった。
「どうして、そこまでこだわる」
しかめっ面の先輩に上手く伝えられそうにはない。
だけど、だけど私は。
「どうしても、先輩と一緒にいたいんです。今夜はそういう気分なんです」
目を逸らされそうになって、私は背伸びをして先輩のその顔を追いかけた。斜めの角度で見つめ合う姿勢になる。
時計の針の音が響く居間で、至近距離から視線をぶつける。見上げた仏頂面はキスできそうなほど近い。きっと、そう簡単にはしてくれないだろうけど。
「お願いです。もう少しだけ、夜更かしを許してください」
「明日、起きられなくなったらどうする」
「そうならないようにしますから。先輩、お願いです」
先輩は、どうして頑ななのだろう。どうして、私に夜更かしをさせまいとするのだろう。私が子供であるように扱いたがるけど、実際の私は先輩が思うほど幼くはないはずだ。
今は他のことも目に入らない。先輩のことだけなのに。
「わがままな奴だ」
先輩が忌々しげに呟く。間髪入れず、私は応じた。
「でも、そういう私のことが嫌いではないって、言ってくださいましたよね?」
「……それとこれとは話が違う。早く寝た方がいいから、お前の為に言っている」
本当だろうか。少し切ない気分になって、私はぼそりと零した。
「先輩の意地悪」
途端、先輩は気まずそうに顔を背ける。
「意地悪で言っているんじゃない」
「では、どうしてですか」
「それは俺の方が聞きたいくらいだ」
切り返されて、むっとする。先輩はわからず屋だ。私の方には、どうして、なんて尋ねられる理由はない。一緒にいたい。もう少し傍にいたい。それだけのことなのに。
私は苛立ちを抑える為に、深呼吸を一つした。それから背けられた横顔に、囁きかけた。
「今は眠れる気がしないんです」
他のことは何も考えられないから。先輩のことしか、考えられないから。
「絶対に寝つけないと思います。眠ってしまうのがもったいないくらいなんです。だからもう少しだけ、先輩のお傍にいたいんです」
わがままだと言われたからには、とことんわがままに振る舞ってやろうと思った。先輩がわかってくれるまで。首を縦に振ってくれるまで、私は一歩も引くつもりはない。
先輩はこちらを見なかった。
視線を逸らしたままで、考え込むように唇を結んでいた。どこか逡巡しているようにも見えた。




