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葉月(3)

 陽が傾き始めた頃、先輩が一冊読み終えた。

 満足げに溜息をつき、顔を上げるや否や、手にしていた本を閉じて私の方を向く。私が何もせずに突っ立っていたのを見ると、訝しげに眉を顰めてみせた。

「お前、何をしていたんだ? ずっとそこで突っ立っていたのか?」

 長いこと傍にいたというのに、私の存在には注意すら払わなかったらしい。それでもいい、と私は答える。

「はい、少しぼんやりしていました」

 嘘だけど。本当は、先輩を見ていました。先輩が読書に熱中している姿をじっと眺めていました――とは言わない。

「本でも読んでいればよかったのに」

 先輩は呆れた様子でそう言った。

「黙って立っているのも退屈だったんじゃないのか」

 私を放ったらかしにしていたことなど棚に上げ、ささやかな気配りさえ見せる。

「そうでもないです。楽しかったですよ」

 私の回答に、先輩は奇妙な顔をした。

 だけど深くは追及せず、腕時計を見て話題を変える。

「もうこんな時間か」

 ここにお邪魔してから既に二時間は経過しているはずだった。書室の小窓からの陽射しは昼下がりから夕方の色合いに移行しつつある。

 先輩は読んでいた本を片づけると、私に言葉をかけてくる。

「夕飯の支度をする。手伝えるな」

「はい――え? 夕ご飯、ですか?」

 私は先輩の顔と腕時計とを見比べた。時刻は午後三時を回った頃で、先輩の顔は至って真面目だ。そもそも普段から冗談を言う人ではない。

「そうだ」

 先輩は頷き、次いで言い添えた。

「言わなかったか。この家の夕飯は午後四時だ。今から用意しなくては間に合わない」

「う、伺っていました」


 思い出した。確かに電車の中で聞いていた。

 とは言えこんなに早い夕ご飯は自宅でならそうないことで、私には気がかりがいくつかある。夕飯が午後四時なら就寝は何時くらいになるのだろう。夜中に空腹を覚えた場合、どのようにやり過ごせばいいのだろう。

 そして更に気がかりなのは、明日の起床予定時刻が何時であるかだ。


「昼食を早めに摂っておいてよかったな」

 先輩はごく当たり前のことのように言う。

「ところで雛子。料理はどのくらいできるようになった?」

「え、わ、私ですか? できる、というほどではないです……」

「以前から練習を始めていると言っていただろう。多少は戦力になりそうか?」

 重ねて尋ねられ、悪い意味で心臓が跳ねた。目下私の一番の得意料理はサンドイッチだ。そして先輩に言わせると、サンドイッチは料理ではないらしい。

「ええと、ほどほどには」

 私は控えめに答える。

 謙遜ではないのが悔やまれる。最近は受験勉強に追われて、台所に立つどころか家の手伝いをする回数も減っていた。大学受験が無事に済んで、落ち着いたら、もう少し本腰入れて取り組みたいところだ。

「ほどほどならまだ使いでがあるな。手伝えよ」

 口振りから察するに、先輩の方も私の腕前に期待してはいないらしい。安堵する反面、複雑な思いを抱きながら私は先輩と書室を出る。

 どうやら、先輩が夕飯の支度をするのはあまり珍しいことではないらしい。階下へ下りると待ち構えていたように、澄江さんがエプロンを差し出してきた。

「あなたが来てくれると何もしなくて済むから、楽でいいわ」

「お任せください。それとすみませんが、エプロンをもう一枚貸していただけますか」

 気安い口調で言った澄江さんに、先輩が頼む。

「構わないけど……もしかして、雛子さんも?」

 澄江さんはちらと私を見て、小首を傾げた。

「ずっと歩いてきてお疲れじゃないのかしら。雛子さんはお客さんなんだから、あんまり無理させるものじゃないわよ」

 その言葉はうれしかったけど、私はすかさず答えた。

「いえ、平気です。私もお手伝いします」

「そう? 寛治さんが無理に手伝わせようとしているんじゃない?」

 澄江さんの言葉に、

「そんなことは……」

「そんなことはありません」

 私が口を開いたのとほぼ同時に、先輩がぶすっとした声で言った。途端に澄江さんはおかしそうに笑い出す。

「なら、喜んでお二人にお願いしようかしら。待ってね、エプロンを持ってくるから」


 エプロンをお借りして、私は先輩と共に台所に立った。

 台所はあまり広くはなく、冷蔵庫と流し台の間は二人が擦れ違えないくらいだった。

 お蔭で私は何度か先輩の足を踏み、先輩はたびたび私の肩を掴んでは、押しやるように退けてみせた。それでも先輩は絶対に私を邪魔者扱いしなかった。

「先輩、何を作るんですか」

 まずお米を研ぎながら私が尋ねると、冷蔵庫を覗いていた先輩は諳んじるように答えた。

「筑前煮ときゅうりの酢の物、それに茄子の味噌汁だ」

「そこまで決めていらっしゃるんですか」

「いつもの献立だ。全て、澄江さんの好物だからな」

 材料は何もかも冷蔵庫に揃っていた。澄江さんが前もって買い揃えておいたようだ。先輩が何を作る窯で知っていたのか、連絡をしておいたのか――何にせよ仲睦まじいおばあさんとお孫さんの交流だ。

「ほら、次のお前の仕事だ」

 不意に目の前に差し出されたのは、袋に入った蒟蒻と大振りのスプーンだった。

 私が目を瞬かせると、先輩は厳かに命じてきた。

「お前に包丁を持たせるのは危険だからな。これで、蒟蒻を適当な大きさにしてくれ。そのくらいはお前でもできるな?」

「できます……」

 全くもって期待されていなかったようだ。私はスプーンを受け取り、まな板の上で蒟蒻を黙々とちぎり始めた。


 作り慣れているだけあって、先輩の料理の手早さは横目に見てもよくわかった。

 包丁の背でごぼうの皮を落としていく作業は慣れたもので、表情を変えることなく淡々とこなしている。きっと先輩なら包丁を持っても危険なことはないのだろう。包丁であの器用そうな指に傷をつけることなんて、まず起こり得ないのだろう。

 筑前煮を作り慣れている先輩は、調理法も材料も完璧に覚えているらしい。調味料の種類まできっちりと指定し、匙で量って用意した。具材を炒め、煮込んだ後は、私を鍋の前に置いてあれこれ細かい作業をさせてくれる。

「雛子、あくを取ったら酒を入れていいぞ」

「お酒? ええと、ど、どれでしたっけ」

「何と間違えるんだ。そっちの、小皿に入った透明な奴」

「あ、これですね。これと……お醤油もよろしいですか?」

「馬鹿、砂糖が先だ。醤油を先に入れる奴があるか」

「そ、そうなんですか? 知らなかったです」

「お前は今まで料理の何を学んできたんだ」

「すみません、勉強不足でした……」

 茄子を切る先輩にことごとくすげなくされ、私は項垂れる。

 すると、背後で笑い声がした。

 私は振り返り、台所の戸口に、澄江さんがこちらを覗き込んでいる姿を見つけた。澄江さんはうれしそうに笑み、細い目の中で光がくるくる躍っていた。

「仲が良くていいわね」

 冷やかすようにも聞こえる言葉に、私は答えに窮して先輩を見た。隣で先輩も詰まったらしく、視線を足元に落とす。

 それで澄江さんはますます楽しげに語を継いだ。

「若い人たちがいると、家の中が明るくなっていいわ。今日はまるで私の方が、あなたたちのお家にお邪魔したみたいね」

 私と先輩はろくな反応もできず、その後しばらく、黙って料理を作り続けた。湯気の立つ鍋の前で肩を並べていたせいか、頬が熱くて仕方がなかった。


 午後四時を少し過ぎた頃には支度も済み、テーブルの上に予定どおりの献立が並んだ。

 澄江さんは私を気遣ってくれたのか、

「私は一人で食べるから、合わせてくれなくてもいいのよ。お夕飯にしてはちょっと早いでしょう?」

 と言ったけど、私はあえてご一緒させてもらうことにした。

 せっかくだから、この家で過ごす全ての時間をじっくり味わいたい。先輩がこの家を訪れ、澄江さんの為に夕飯を作り、そして共に食卓を囲む温かなひととき。そこに私が踏み入ることを許されるのは、とても幸いなことだ。

 私の答えを聞き、澄江さんはほんの少し申し訳なさそうにしていた。

「ごめんなさいね。うちはいつもこんな時間なのよ」

 だけどその後、にこにこと食卓に着いた。喜んでくれたのだろうかと思うと、私もちょっとうれしい。

 先輩はと言えば相変わらずのワンマンぶりを発揮して、配膳もご飯やお味噌汁をよそうのも、全て一人でやり遂げてしまった。私が澄江さんといくつか言葉を交わしている間に、あっという間に。

「お手伝いしなくてすみません」

 慌てて私が告げると、先輩はいつもの仏頂面で、いいから座れと食卓を示す。

 それを見た澄江さんがまた笑っていた。

「いいのよ。寛治さんはそういう細々としたことが大好きな人なんだから。やりたいようにやらせてあげてちょうだい」


 確かにそうだろうなと、甲斐甲斐しいまでに立ち働く先輩を見て実感する。

 もし将来、私と先輩と一緒に暮らすようなことになったら――仮定として。そんな大それたことは、願望としても口に出すのは憚られる――様々な点において楽には違いないだろうけど、かえって気を遣ってしまうことも多そうだ。その辺りはお互いに折り合いをつけていかなくてはならない。――もちろん仮定だ、あくまで、もしもの話。


 そんなことをぼんやり考えていたので、

「……雛子」

 先輩に名前を呼ばれた時は、跳び上がりそうになるほど驚いた。

「は、はい! なんでしょうか」

 勢い込んで返事をする私に、先輩は訝しげな顔をする。

「何をやっているんだ。席に着けとさっきから言っているのに」

「そ、そうですよね……。すみません」

 私はもごもごと弁解をしながら、示された席に着いた。先輩は隣に座る。澄江さんは食卓を挟んで向かい側に座っていた。

 声を揃えていただきますを言ってから、夕飯を食べ始める。

 筑前煮もきゅうりの酢の物も、それから茄子のお味噌汁も、落ち着いた味でとても美味しく感じられた。食べ始めると余計に食欲が湧いてきて、外がまだ明るいことなんてちっとも気にならなくなった。

「美味しいですね、先輩」

 私は隣の先輩に同意を求めたけど、先輩は淡々と応じる。

「いや、煮物はいまいちだな。いつもより少し甘くなっている」

「あらそう? とっても美味しくできてるけど」

 すかさず澄江さんが言葉を挟む。それでも先輩は気難しい顔をして、

「それに蒟蒻に味が染みていない。ちぎり方が大き過ぎたんだ」

「もしかしなくても、私のせいでしょうか」

 ぎくりとして尋ね返す。初めてのことで、どのくらいの大きさにしていいのかわからなかった。自覚があるだけに居た堪れない。

「どうだろうな」

 先輩は私の問いに、否定も肯定もしなかった。

「気にしなくていいのよ。ちょっと薄味なくらいの方が飽きが来なくていいんだから。それに若いうちは、そんなにお料理なんてしないものでしょう? 必要に応じて覚えていけばいいのよ」

 代わりに澄江さんが優しく慰めてくれた。

 私は恐縮しながら考える。そういえば料理を覚えようと思い始めたのも、先輩と一緒にいるようになってからだった。もっと言えば、先輩の気持ちが少しずつでもわかるようになって、私も先輩の為に何かしたいと考えてからだった。いささか不純な動機ではあるものの、必要に駆られていることには違いない。やはり受験勉強が落ち着いたら、こちらにも力を入れなくては。

「先輩はすごいですよね。私とあまり違わないのにちゃんとお料理が作れて」

 食卓に並んだ献立を見下ろし、私は深く感心する。私が一人でこれだけできるようになるまで、一体何年かかるだろう。

「そうねえ……」

 急に、澄江さんの笑みがなぜか曇った。

「寛治さんには昔から、そんなことばかりさせていたものね。お料理が得意だなんて男の人らしくないかしら」

「いえ、そんなことないです。素敵だと思います」

 私は否定しつつ、澄江さんの陰のある表情が気になった。先輩に料理を教えた人は澄江さんなのだろうけど、それがそんなにいけないことだろうか。男の人でも料理ができたら格好いいと思うのに。

 先輩は黙っている。一人、黙々と食事を続けている。

「そう言ってくれるお嬢さんがいると、ありがたいわね」

 澄江さんはどこか安堵したようだった。

「私がもう少し若かったら、小さかった頃の寛治さんを外で遊び回らせたり、あちらこちらへ連れて行ったりできたんでしょうけどね。私は昔から腰が悪くて、家に閉じこもってばかりいたのよ。お蔭で寛治さんもすっかり、お家の中が好きになってしまって」

「そうだったんですか」

 相槌の言葉にも困り、私はそれだけ言った。


 ここへ来る直前、先輩も『この町に昔住んでいた』と話していた。それは澄江さんと二人で、なのだろうか。澄江さんの他に、小さな先輩の面倒を見てくれる人はいなかったのだろうか。

 私は先輩の家族のことを知らない。

 知らないけど、先輩が背負っている孤独、物寂しさをふとした時に読み取れてしまうことがある。今もそうで、込み上げる切ない思いに私は箸を止めてしまった。隣の先輩は何も知らない顔で、一定のペースで食事を続けている。


 澄江さんの手も止まっていた。じっとこちらを見ること数秒、皺の深い顔がふっと笑んだ。

「ところで、結婚はいつ頃になるのかしら?」

 何気ない口調で問われた。

 だから私はその単語を上手く頭の中に入力できなかった。――結婚? 誰が?

 先輩が箸を落としたのか、木のテーブルの上で音が聞こえた。次いでいつになく慌てふためく声が隣で上がった。

「澄江さん!」 

「あら、時期は考えてなかったの? のんびりしてるのね」

 咎めるように澄江さんも先輩を見る。先の台詞は冗談なのかと思ったのに、どうやら本気のようだ。私まで反応に困ってしまう。

「そういう次元の話ではありません」

 先輩は早口で反論を開始した。

「何を言うんですかいきなり。いくらなんでも突拍子もない話です」

「そんなことはないわ。だってあなたたち、婚約はしたのでしょう」

 聞いていて眩暈がした。結婚の次は婚約。いや、正しい順序で行くなら逆だけど、ごくありふれた女子高生である私にとってはどちらも無縁、せいぜいが一人想像を巡らせてみる程度の単語ばかりだ。

「してませんよ。澄江さん、雛子はまだ高校生ですから」

 猛然と先輩が答える。額に汗が滲んでいるけど、もしかすると冷や汗かもしれない。

「あら」

 と、澄江さんは眉根を寄せて、

「ではあなた、婚約もしていないようなお嬢さんを旅行に連れ出したとでも言うの? それはあまりにも無責任ではないかしら」

 そう言ったので、先輩はうっと言葉を詰まらせた。

「雛子さんの親御さんだって心配なさるわよ、そんないい加減なことでは。ちゃんと挨拶もして、きちんとしたお付き合いをしていることを説明した上で連れ出すようにしないと」

 さすがに申し訳なくなって、私は恐る恐る口を挟んだ。

「あの、澄江さん。この度の旅行は、私がどうしてもとお願いしたもので、先輩に非はないんです。ですから先輩がいい加減だということは――」

「いいえ」

 途中でぴしゃりと、澄江さんが遮った。

「こういうことはきちんとしなくてはならないの。何かあった時、無責任に放り出してしまうような人間だと思われてはいけないわ。お付き合いしている以上はその点は、誠実でなくてはね」

 私に向かって言った後、澄江さんは再び先輩に視線を戻し、

「寛治さん。旅行から帰ってからでも時間を作って、雛子さんの親御さんにご挨拶に伺いなさい。いい加減なことをしていては、せっかくのいいご縁も立ち消えになってしまいますよ」

 語気を強めて言い聞かせた。

 先輩はどう思ったのだろう。しばらくの間逡巡していたものの、やがて低い声でぼそりと言った。

「……わかりました。考えておくようにします」

 完膚なきまでに言い負かされる鳴海先輩を見たのはこれが初めてかもしれない。さすがは先輩のおばあさんだ、と妙に感心してしまう。


 とは言え私も、『私の家を先輩が訪ねてきて、私の両親に挨拶をする』状況がどういうものを指すのかを考えたら落ち着かない気持ちになった。

 もしも本当にそういう日がやってきたら――ちょっとでも想像してみただけで眩暈がする。今はまだ仮定でしか考えられない、夢のようでとても面映い話だった。


「ええ。失礼のないようにね」

 頷いた澄江さんは、優しく笑んで言い添えた。

「せっかく素敵なお嬢さんとめぐり合えたんだから、ご縁は大切にしなくては駄目よ、寛治さん」

 その言葉に答える代わりか、先輩は黙って私を見た。私もずっと見ていたのでそこで目が合い、先輩はばつが悪そうな顔をする。

 下手なことを言っては先輩を追い詰めるだけだろう。そう考えた私は粛々と食事を再開することにした。

 旅行に際して無茶を言った罪悪感もあるし、上気した先輩がそのまま熱でも出しては困るから。

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