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卯月(1)

 私の目下の悩み事は、来週の日曜日のことだ。

 四月の二十九日は、鳴海先輩のお誕生日だった。

 好きな人のお誕生日を祝いたいという意思は、恋する女の子なら誰もが持ち合わせているものだ。特に去年、私は訳あって先輩と交際をしていながらお誕生日を祝うことができなかった。

 今年こそは私なりに、想いを込めたお祝いがしたいと意気込んでいる。


 いつものように先輩の部屋を訪ねた折、私はその件について切り出すことにした。

「先輩、質問があります」

 すると、黙って読書をしていた鳴海先輩が顔を上げる。眼光鋭く私を見やる。

「どうした、改まって」

 お互い、久し振りに声を発した。先輩の部屋で二人きりで過ごす時、私たちはあまり言葉を交わさない。鳴海先輩は書き物か読書をしていることが多く、私も同じように愛読書を持参したり、あるいは三年生らしく受験勉強をして過ごす。歓談に花を咲かせることは滅多にない私たちだけど、二人きりの静かな時間を共有できるだけで、少なくとも私は十分幸せだった。

 だけどひとたび会話が発生して、先輩が私へ視線を留める時、私はきまって緊張を覚える。穏やかな時間を壊してしまうことに対する罪悪感だ。

 そして今も、私は先輩の読書のひとときに割って入った。邪魔をしたことに後ろめたさを抱きつつも、ちゃんと用件があるのだからと思い直し、自らを奮い立たせた。

「是非、先輩のご意見を伺いたいのですが」

 切り出した私を見て、先輩は本を閉じ、居住まいを正した。

「何だ」

 私も合わせて姿勢を正すと、座卓越しに先輩の顔を見上げる。

「来週の日曜日は、先輩のお誕生日ですよね?」

 すると先輩はもう一度眉根を寄せ、整頓された机に置かれた卓上カレンダーに目をやった。直後、その目を瞠る。

「そう言えばそうだったな」

 平坦な声が発せられたので、私は予想外の反応に戸惑った。

「もしかしてお誕生日をお忘れでしたか」

「いや、先月までは覚えていた。国民年金の照会が来ていたからな」

 先輩は愛想のかけらもない口調だった。覚えていた理由も味気ないというか、この人らしい。

「お前、よく覚えていたな」

 薄い唇から紡がれる無感情な言葉は、どうやら私を誉めてくれたらしい。

 ただあまりにも抑揚のない声だったので、察するところ、自分の誕生日に思い入れがないのだろう。先輩は、ご自身の価値観から判断した些事に関しては驚くほど無頓着な人だった。

 困惑したものの、とりあえず話を続けることにする。

「先輩、もうすぐ二十歳になるんですよ」

「そうだな。年金手帳が届いたら、手続きを済ませてこよう」

「いえ、それもありますけど」

「他に何かあるのか?」

 そこで先輩は、推し量るように私を見た。

「まさか、裁判員制度についてか? それについての是非を、お前と論じるつもりはないぞ」

「……私もあまり、その気はないです」

「そうか。ならいい」

 ほとんど表情を動かさずに応じる辺り、あくまでも先輩にとっては、国民の義務と権利だけが関心事のようだ。

 鳴海先輩は誕生日が嬉しくはないのだろうか。

 百歩譲って喜ばしくはなくとも、一つ歳を重ねるという事実に心動かされることがないのだろうか。この分では私に祝って欲しいとか、プレゼントが欲しいといった意思も持ち合わせてはいなさそうだ。私に恋人としての義務と権利が与えられるかどうか、雲行きが怪しくなってきた。

 だけど、権利とは戦って勝ち得るものだ。

「私は、先輩のお誕生日のお祝いがしたいんです」

「要らない」

 私の提案に、先輩は素早く答えた。

 予想できていたとは言え、つれない回答だった。

「駄目……でしょうか? 先輩にご迷惑はかけません」

「迷惑かどうかの問題じゃない。俺の誕生日なんて祝ってどうするんだ」

 先輩の表情は実に訝しげだ。

 どうするも何もないと私は思う。大好きな人を祝いたい気持ちがある、それだけで理由としては十分なはずだった。今年は特に、去年何もできなかった分まで含めてお祝いがしたい。たったそれだけのことなのに。

「せっかく節目のお誕生日ですし、私もお祝いしたいんです」

「要らないと言っている」

「何かさせてください」

「何もしなくていい。その方がありがたい」

 私と先輩の意見は平行線を辿るばかりだ。

 静けさを共有している時はとても近くに感じられるこの人が、意見がぶつかる時にはまるで遠い存在に思えるのが不思議だった。


 でも鳴海先輩は、決して冷たいだけの人ではない。

 それはこの部屋を見てもわかる。きれい好きな先輩は常に室内を清潔に保ち、床の上に何かを放っておいたり、机の上を散らかしておいたりしない。本棚の本はいつも行儀良く並んでいるし、クローゼットの扉は封印されているかの如くぴたりと閉められているし、玄関と居室の間にある台所はいつでもきれいに片づいている。そこにはいつも買い置きの茶葉があって、私が尋ねる度に美味しい紅茶を入れてくれる。

 室内にベッドはなく、布団が敷かれているのも見たことがないので、もしかしたら先輩は毎夜机に向かいながら眠っているのかもしれない。私に気を遣って、見せないようにしているだけかもしれないけど――真相を確かめる機会は、目下訪れていない。

 何にせよ、ちり一つなく清められたこの部屋は、集中の妨げになりそうなものも存在せず、私はいつも静かに過ごすことができた。ここにはおもてなしの心が溢れている。先輩は冷たいそぶりでいながら、私をいつも迎え入れる備えをしてくれている。


 生真面目で無愛想、神経質なほど潔癖で、気位の高い人だけど、一緒に過ごす時間は温かく、とても優しい。それが鳴海先輩という人だ。

 私にとっては誰よりいとおしく、大切で、そして目標となる人でもある。

 だけど他の人から見れば、そして先輩ご本人から見ても私は、およそ珍しい限りの物好きということになるらしい。

 今もきっと先輩は、私のことを他人の誕生日ごときで大騒ぎしたがる浅はかな物好きだと思っているのだろう。それなら貫くまでだと、私は開き直って打ち明けた。

「ずっと考えていたんです。先輩のお誕生日には私から、何かお祝いはできないかって。それで……」

「それでさっきから難しい顔をしていたのか」

 腑に落ちた様子で先輩が呟く。

 気取られていた事実に私はうろたえた。思案に傾げた頭の中身まで見抜かれたわけではないだろうけど、他でもない鳴海先輩のことばかり考えていたから、本人に指摘されると落ち着かない心地だ。

「気づいていたんですか」

「何か考え込んでいるようには見えていた」

「先輩は読書に夢中で、こちらを見ているとは思いませんでした」

「たまたま目に留まっただけだ。ページをめくる合間にな」

 素っ気なく言って、先輩は首を竦めた。

「そんなくだらないことで頭を悩ませる必要もない」

 無機質なトーンで私の思案を切り捨ててくる。

「いいえ、くだらなくないです」

 こちらとしても考え抜いた末の提案なのだし、今更そう易々と退くことはできない。とことん食い下がるつもりでいた。

「だって、他でもない先輩のお誕生日ですよ」

「だから何だ」

「去年は何もできなかったから、今年は何かしたいと思うんです」

「どうしてそうなる。去年は何もしなかったのだから、今年も何もしない。それでちょうどいい話だ」

 ちょうどよくない。


 先輩の物言いからすると、来年以降も特別なお祝いは要らないと言うことにならないだろうか。

 来年、二十一歳の誕生日も、再来年の二十二歳の誕生日も、この先ずっとお祝いを許してもらえない予感がする。それでは困る。お祝いの前例を作り、毎年の誕生日祝いが当然だと思って貰わなくてはならない。

 先輩がこの先もずっと、私と一緒にいたいと思ってくれるならの話だけど。

 そうではない可能性は、今は考えたくなかった。


「先輩には欲しいものってないんですか?」

 私は尚も食い下がって尋ねた。

「普段なかなか手が出ないものだとか、貰うと嬉しいものだとか……物じゃなくてもいいです。私にして欲しいことがあるなら、この機会に言ってください」

 すると先輩は目を眇め、たしなめる口調で答える。

「欲しいものはあるが、それはお前に貰うものじゃない」

「例えば何ですか? もし私にできることなら――」

「自己研鑽と執筆の為の時間、疲れず睡眠も要らない身体、夢の出来事を覚えていられるだけの記憶力、先日古本屋に売りに出されるや否や姿を消した絶版のトルストイ全集。思いつく限りではこんなところだな」

 羅列された項目は、確かに私があげられるものではなかった。強いて言うならトルストイ全集だけは可能性がなくもないけど、そういうものが高校生のお小遣いで入手できるお値段でないことは私にも想像がつく。

「もっと現実的な希望をお願いします」

 私がねだると、鳴海先輩はいい加減疲れた様子で溜息をつく。

「お前は来月、修学旅行があるんじゃないのか」

「え……まあ、あの、そうですけど……」

 今度は私が言いよどんだ。

 東高校の卒業生である先輩は、母校の行事予定もちゃんとご存知のようだった。三年生は五月の半ばに修学旅行に出かける。私たちの年度も他の年と同様、来月に修学旅行を控えていた。

「旅行に備えるなら、あまり散財しない方がいい」

 年長者らしい言い聞かせるような口調だった。

 そうなると私は反論の言葉を探すのが難しくなる。

「それは、そうかもしれません。でも」

「でも、何だ」

「ええと……そのくらいの予算は前もって組んでありますから」

「予算か」

 先輩が低く笑った。

 呆れたような視線を向けられ、思わず俯く。それでもぼそぼそと言い返した。

「本当です。以前から、今年こそはお祝いしようと考えていて」

「そんなに前から考えていたなら、なぜ話してくれなかった。気遣いは無用だとはっきり言ってやったのに」

 だから今まで黙っていたんです。

 事前に相談したところで、先輩は絶対にいい顔をしないだろうとわかっていた。まさかここまで拒まれてしまうとは思ってもみなかったけど。

 私はいよいよ挫けそうになってきて、恨めしく先輩を見る。

「プレゼントくらいはさせてください」

「気を遣うな」

 すげなく一蹴されてしまった。

 気まずい空気のまま、しばしお互いに黙り込む。


 私は明るく日の差す窓に目を向けた。

 四月の半ば、昼間のうちはぽかぽかと暖かく、よく晴れた過ごしやすい日が続いていた。こんな穏やかな季節に先輩が生を受けたなんて、とても素敵な運命だと思う。木々が芽吹き、爽やかな風が吹いて、服も心も軽くなり始める時季。色とりどりの花が次々と咲き始め、いくつもの命が、そしていくつもの心が生まれる季節が今だ。

 降り注ぐ日差しも優しい四月を、私もいつになく優しい気持ちで迎えていた。

 でも先輩は他の季節と変わりなく過ごしているように見える。先輩にとってこの時季は、特別の感慨もなく受け流してしまえるものなのだろうか。それとも私が知らないだけで、先輩でもひっそりと悟られないような感慨深い思いを抱くことがあるのだろうか――。


 そっと視線を戻すと、ちょうど先輩もこちらを見た。

 目が合うと作ったような仏頂面が浮かんで、先んじるように言ってくる。

「考えを改めたか。いい加減、わがままはよせ」

 まるで私の方が駄々を捏ねているような言い種だ。

 頑固さで行けば先輩の方が数倍勝っているくらいなのに。お蔭で私も必要以上の強硬さを発揮しなければならなくなる。

「いえ、諦めきれません」

 語気を強めて私は言い、即座に尋ね返した。

「先輩は、それでは二十九日は一体どのように過ごすおつもりですか」

「所用で大学に顔を出す」

 特に手帳を確かめることもなく、先輩は答えた。

「大学……。もしかして先約がおありでしたか?」

「いや。本当に用があるだけだ」

 用と言われてしまえばそれまでだけど、そんな日に何か予定があるなんて、たとえ先輩のような生真面目な人でも気になってしまう。

 口を噤む私を見て、先輩は面倒くさそうに付け足してくる。

「特に祝う予定はない」

「ないんですか。あの、全くですか?」

「全くだ」

「ご実家に帰る予定は……」

「それもない」

 二十歳になる節目の誕生日なのに、本当にたった一人で過ごす気でいるのだろうか。

「誕生日だからと言って大騒ぎする必要もないだろう」

 淡々とそう言って、先輩は小さくかぶりを振った。

「お前も余計なことは考えるな。俺もいつも通りに過ごすつもりでいる」

「でも……」

「気を遣われるのは好きじゃない」

 きっぱりと拒絶され、私は押し黙った。


 この気持ちを、ただの気遣いだと評されるのは心外だ。

 先輩にはわからないのだろうか。好きな人の誕生日を祝いたいという切なる願い。

 鳴海先輩だって、去年の私の誕生日には贈り物をくれたのに。去年の十月二十二日の放課後、先輩は私を東高校の校門前で待っていてくれた。そして私の欲しい物を尋ね――と言うよりほぼ無理矢理聞き出すようにして、その通りの品を贈ってくれた。

 あの時に貰ったアクセサリーは、あまりにもったいなくて、机の引き出しにしまい込んだままだった。あの時の気持ちが嬉しかったからこそ、私は何もせずにはいられないと思っていた。今年こそは私も先輩の誕生日を祝いたい。


「でも、先輩は去年、私の誕生日を祝ってくれましたよね。プレゼントをいただきました」

 記憶を辿りつつ私が切り出せば、先輩の眼差しが一瞬だけ泳ぎ、にわかに動揺したように見えた。

「それは俺の方が年上だからだ。そのくらいの気は遣う。だが年下に気を遣われるのは嫌だ」

 どこまで頑固な物言いだろう。私はむっとする。

「年少の者は年長者を祝ってはいけないという決まりがあるんですか?」

「決まりはない。だが不要と言っているものを押しつけてくるのはそれこそ要らぬ気遣いだ」

 けんもほろろの先輩に、私も説得の言葉が尽きてきた。

 こうなったらもはや強硬手段しかない。

「……では二十九日、少しでも空いてる時間はありませんか」

「用事は昼過ぎには済む。午後からなら空いてはいるが、何をする気だ」

「修学旅行の買い物をしたいと思っているんです。実は旅行鞄がなくて」

 嘘ではなかった。今年就職した兄が家を出ていく際、共用していたドラムバッグを持っていってしまったのだ。新調しなくてはいけないのは本当で、私は全く嘘はついていない。

 ただし嘘ではないだけで、口実ではある。

「ちょっと見て歩きたいので、先輩にも付き合っていただけたら嬉しいです」

 我ながら見え透いた手だと思っていたけど、意外にも鳴海先輩は態度を軟化させた。

「それなら付き合ってやってもいい」

「いいんですか? ありがとうございます」

 ほっとする私に対し、先輩は真意を見抜いたように釘を刺してくる。

「ほら見ろ、そういう必要な買い物があるじゃないか。俺に何か寄越すよりも、自分の為に金を使え。その方がよほど有意義だ」

 その忠告に対し、私は無言で澄ましておいた。


 幸い、先輩を買い物に連れ出す口実は有効に働いた。既に真意を見抜かれているとしても、何も言われないうちは素知らぬふりをしていよう。そして鞄を買うついでに、何か贈り物を選べたらいい。

 先輩のお誕生日を祝う権利を、私はどうにかして勝ち取りたいと決意していた。

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