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文月(3)

 鳴海先輩は休憩を終え、早速仕事を始めた。

 大槻さんが店外に運び出していたのと同じ、本でいっぱいのケースを持ってきて、一冊ずつ本棚に差し込んでいく。どこにしまうのかを慎重に確認しつつ、でもきびきびと手早く作業を行う。その手際のよさたるや、思わず隣で惚れ惚れしてしまうほどだった。


 それにしても、古書店の本は毎日どれほど売られていき、そして仕入れられるものなのだろう。

 先輩は随分とたくさん棚にしまっているし、ケースにはまだまだ大量の本が棚に収められるのを待っている。見れば、店内の本棚のそこかしこにはぽっかり空きができている。まるでお金持ちがやってきて『ここからここまで』と鷹揚に棚を指差し、そのままお買い上げしていったみたいだ。

 でも先輩は先日、あまりお客さんの来ない店だと言っていた。大槻さんもさっき、同じようなことを話していた。それなら本棚のこの空き具合は妙だ。よほどの大口顧客が来ていった直後だったりするのだろうか。

「じろじろ見るな」

 真横から突然響いた低い声に、思わずびくっとする。

 どうやら先輩を見つめていたことに気づかれてしまったらしい。本棚の前で肩を並べた先輩は、私を一瞬だけ睨むと、またすぐに作業を再開する。

 私も許しを貰った以上、先輩の邪魔にはなりたくなかった。ひとまず目の前の棚から無難そうな本を抜き出し、客を装うつもりで開いた。でも先輩が隣にいて、真剣な横顔で本棚と向き合っている状況では、文面を追うのもままならない。

「……たくさん売れた後、なんですか?」

 本に目を向けたまま、恐る恐る会話を始めてみた。

 先輩には嫌がられるかもしれないと覚悟もしていたけど、意外にも軽く返事があった。

「いや、違う。単に棚の入れ替えをしているだけだ」

「なら、在庫チェックをしているんですか」

 すると先輩は小さくかぶりを振る。

「それもあるが、それ以上に本棚の整理が目的だ。俺たちが来るまで、この店の陳列は酷い有様だった」

 答えた後で先輩が、私たちのちょうど背後にあった本棚を指差す。


 そちらへ目を向けてみれば、確かに酷い有様だった。

 同じ棚の同じ段にハードカバーも文庫本も、新書もコミックも絵本も分類されることなく一緒に突っ込まれている。それなら出版社別、あるいは価格別に分けられているのかと言えばそうでもないようで、例えばいかにも高級そうな画集の隣には古雑誌が無造作に並んでいる。

 遠目に見たら何か浮かび上がってきそうな、モザイクアートのような光景だった。


「こんな惨状では、本に関する問い合わせがあってもろくに探せない」

 先輩は身を屈め、棚の下段に本を収めながら嘆く。

「だからこの度、人づてにバイトを雇ったということらしい。店番ついでに本棚の整理をさせるつもりだったそうだ。それにしたって、もう何十年もこの状態を続けてきたという店主の神経が俺にはわからんが」

 店内で堂々とそんな話をするからには、当の店主さんはここにはいらっしゃらないのだろう。アルバイトを雇おうという気になる前まで、店内はもっと雑然としていたのかもしれない。

 そして先輩たちのアルバイト期間が終わる頃には、このお店の本棚は見やすく、探しやすくなっていることだろう。先輩の働きぶりを見ていれば確信できた。

「もう少し経ってからまた訪ねてみたら、きっと見違えているでしょうね」

 私の言葉に、しかし先輩は首を捻る。

「どうだろうな。俺たちがいくら頑張ったところで、整頓された状態が何ヶ月持つか怪しいものだ」

「それなら先輩は、冬休みにも来なくちゃいけなくなりますか」

「ありえそうで嫌だ」

 皮肉っぽく笑んだ先輩は、そこでさっと立ち上がる。いつの間にか空っぽになってしまった透明ケースを片手に提げると、私に向かってこう言った。

「そういうわけだから、お前も読んだ本は所定の位置に戻すように。客として来たんであっても、そのくらいは協力してくれ」

 そして私の背後をすり抜けるようにして店の奥へ消えた。あとはもう本棚の陰になって見えなくなってしまったけど、また新しい本を運んできて、今度は別の棚に詰め始めたようだ。店内にはそれからも絶え間なく、先輩がきびきびと作業を続ける音が聞こえていた。


 私はしばらくぼんやりした後、手にしていた本が経済学について書かれたいかにも難しげな本だったことに気づいて、粛々とそれを所定の位置に戻した。読書家を自称する私でも、これはちょっと専門外だ。

 ともあれ、鳴海先輩のお仕事の一端を拝見できたのは嬉しかった。本好きなだけあって、本を扱う手つきは丁寧で優しい。そして仕事がスピーディなのも素敵だ。おまけに先輩は意外とエプロンが似合う。背筋がぴんと伸びた細身の身体に、シンプルなデニムエプロンは実にしっくり馴染んでいる。

 もしこんな書店員さんがいる本屋さんがあったなら、私は毎日通ってしまうかもしれない。そしてそれを目ざとい先輩に見つかれば、きっと仕事の邪魔をするなと叱られる――想像でさえも今とそれほど変わらないのが、残念ではある。


 先輩のご厚意に報いるべく、せっかくだから私も何か買っていこうと考えた。

 それに名目上はお客さんとして来ているのだから、手ぶらで出ていくのも申し訳ない。少額でも売り上げに貢献すれば、先輩も喜びこそしなくても、嫌な顔はしないでいてくれると思う。

 私は店内をゆっくりと移動して、手当たり次第に本棚を見て回った。

 よさそうなものがあれば棚から抜き出し、数ページぱらぱらとめくってみる。

 どうせ買うなら好みの本がいいし、好みの本と言ってもどうせならきれいなものを選びたい。古書店では本の内容や装丁のほか、本の状態も気にしつつ見なければならない。そうなるとなかなか、これという本は見つからない。

 そうしてぼんやり立っていると、外の本棚の整理を終えたのか、店内に戻ってきた大槻さんがふとこっちへ近づいてきた。私が本を探すのを見て、声をかけてくる。

「雛子ちゃんは、いつもどんな本読むの?」

 もしかしたら私好みの本を探してくれようとして、そう聞いたのかもしれない。

 ただ、その質問はなかなか答えにくい。

 学校の先生やクラスの友人、はたまた親戚のおじさんおばさんにまでよく聞かれる問いでもあるものの、『どんな本』と聞かれて一言で答えられるようなものではなかった。


 小説であればそれなりに、幅広く読む。

 書店を賑わす話題の新作も、名作と呼ばれる古典文学も読む。日本人作家の書く価値観は共感しやすいものが多いし、海外作家の作品は異文化との出会いの場だと思う。

 児童文学はとても好きなジャンルだし、あまり凄惨でないなら推理ものも楽しいし、友人たちが好むような甘い恋愛小説だって面白い。その中には特別好きで、新刊が出る度に購入している作家もいる。知らない作家の作品でも、あらすじや装丁に興味を惹かれればとりあえず手に取ってみる。

 それでなくともこの世界には、小説だけに限定しても星の数に匹敵するほど多くの本が存在しているのだから、一生かかっても全ては読み切れないだろう。せめて一冊でも多くの本を読み、そして私にとって好きな本がどんどん増えていけばいいと望みながら、いつも書店や図書館を巡っている。

 そんな私にとって先の問いは、何とも答えにくいものだった。『何でも読みます』というのは間違いなく誤りだけど、実際それに近いくらいには幅広く読んでいるのも事実だ。好きな作家の名前でも出せばいいのだろうけど、こういう時にぱっと浮かぶ名前は、大抵が全作品読破している作家ばかりだった。

 特定のジャンルを答えるにしても、そのジャンル自体が非常に種類豊富な場合、更にどのような本であるか説明を尽くさねばならないのが難だった。


「一番好みなのは、児童文学系です」

 そして今も、私の答えを聞いた大槻さんは、どことなく怪訝そうにしていた。

「ああ……何か、絵本みたいなの?」

「いえ、もうちょっと上の世代向けの……」

 そう付け加えると、ますますわからないといった様子で首を傾げる。なので私も早めに説明を尽くすことにした。

「中でも海外の児童文学が特に好きなんです」

「へえ。じゃあ、例えば……トム・ソーヤー的な感じの?」

「あ、そうですね。その辺りだと赤毛のアンとか、あしながおじさんなんかが好きです」

「なるほど、何かちょっとわかってきた」

 大槻さんは納得した様子で、店内をさっと見回した。それから一方の棚を指し示す。

「確かあっちにそれっぽいのが……この間、鳴海くんが並べてたの見てたんだ。案内するよ」

 手招きをしながらそちらへ歩き出す大槻さんを、私もいそいそと追う。

 案内された先には、色褪せた函入りの本が数冊並んでいた。世界文学全集と銘打たれたそのシリーズは世界各国の名作を国ごと、地域ごとにまとめたもののようだった。背表紙に並ぶタイトルはややメジャーなものが多く、ほとんど既読の作品ばかりだ。でも海外文学は訳者によって趣が変わるから、既読でも読んでみる価値はある。

「ありがとうございます、大槻さん」

 お礼を言い、私は早速一冊抜き出そうとした。ところが文学全集というだけあって一冊当たりのボリュームも容赦ない。片手で取ろうとしたら危うく落としかけ、慌てて両手で受け止める羽目になった。やはりずっしり重い。

 紙製の函から本を引き出せば、古い洋書のような分厚い表紙が現われた。かなり年代物のようで小口は変色し、ところどころに染みも見受けられた。シリーズは全巻揃っているのだろうか、もし揃っていたならかなりの希少価値になりそうだけど。

 ひとまずページを開いた私に、傍にいた大槻さんが心配そうに尋ねてくる。

「重たい?」

「……すみません、ちょっとだけ」

 文化系人間の貧弱な腕にはなかなか厳しいボリュームだった。この本が出た当初、世の読書家は皆、これだけの重量に耐えられるほど鍛え上げていたのだろうか。私にはとてもじゃないけど立ち読みは無理だ。家で、机の上に置いて読むならどうにか。

「謝ることないよ。むしろごめんね、こんだけ分厚いと女の子にはきついよね」

 大槻さんはそう言うと、私から文学全集を受け取り、箱にしまって本棚へ戻した。そして私の方をしげしげと見て、ふと嬉しそうにする。

「雛子ちゃんはこう、いかにも文学少女って感じするもんな」

 眼鏡をかけているからか、それもよく言われる言葉だった。私もちょっと笑う。

「見た目でわかる感じですか?」

「うん、いい意味でね。日陰で読書をするのが似合うような、可憐なお嬢さんのイメージ」

「そんな、誉めすぎですよ」

 そのイメージには慌てたけど、大槻さんは首を横に振り、どこか遠い目をして続ける。

「文学少女と比べるとさ、楽器を演奏する女の子って、ちょっと逞しいんだよな……。だから余計、雛子ちゃんが眩しいって言うか、鳴海くんが羨ましすぎるって言うか」


 吹奏楽は文化系クラブの体育会系だと評されている。

 大槻さんが所属している大学の楽団がどれほどハードなのかは知らないけど、楽器だってそこそこの重さがありそうだし、結構鍛えられるものなのかもしれない。

 とは言え、大槻さんの今の呟きには、隣の芝生は青く見えるということわざを当てはめた方がいいような気もした。文学少女も決して可憐というほどではないし、最近はことわがままになってきたと言われたばかりだ。


「そりゃこんな可愛い子がバイト先に訪ねてきたら、彼氏も仕事に集中できなくなっちゃうよね」

 大槻さんはにまにまと笑いながら続ける。

「今も、こっちの会話に聞き耳立ててたりしてね。俺たちが仲良くしてると気が気じゃないだろうし」

 先輩ならそうかもしれないな、と私が思った拍子、

「いいから仕事しろ、大槻」

 店内のどこからか、鳴海先輩のぶすっとした声が聞こえてきた。

「あ、やっぱ聞き耳立ててた?」

 明るく聞き返す大槻さんとは対照的に、先輩は不機嫌さを隠そうともしない。

「立てるまでもなく筒抜けだ。少しは真面目にやれ」

「今、ちょうど可愛いお客さんの接客中だったんだよ。しょうがないだろ」

 弁解めいた言葉をどう受け取ったか、その後わずかな沈黙があり、

「……なら、俺が代わってやる」

 先輩はそう言った。

 狭い店内を意外なほどの速度で移動し、私たちのいる本棚の前まで近づいてきた先輩は、大槻さんを一瞥してから私に向き直った。器用そうな大きな手に数冊の文庫本を持っており、それを私に向かって差し出す。

「お前の好きそうな本をあらかじめ選んでおいた」

「え……」

 私は戸惑った。鳴海先輩なら確かに、私の好きな本がどういうものかは知っているだろう。だけどわざわざ事前に選んでおいてくれたなんて、古書店の店員さんにしてはちょっとサービスがよすぎやしないだろうか。嬉しすぎて、即時に反応できなかった。

「何それ。『俺の方が彼女の好みの本を知ってるんだぜ』アピール?」

 大槻さんが茶々を入れてくる。

 先輩はあからさまにむっとしたようだったけど、私に対してはあくまで淡々と話をする。

「それを全部買えというわけじゃないからな。気に入ったのがあったら、暇潰し用に買っていけ」

「わかりました。じゃあ……」

 手渡された文庫本のタイトルを確かめようとした時、更に先輩が言った。 

「そして買ったら店を出て、この通りの五軒先にある喫茶店へ行け」

 一瞬、文脈が掴めなかった。

 私が視線を上げると、鳴海先輩はいつものように、どこか呆れたように私を見下ろしている。

「あと一時間ほどでバイトも終わる。それまで待っていられるな、雛子」

 別に大したことを言われたわけでもないのに、心臓が速くなった。

「は……はい、今日は、まだ平気です」

 どうにか頷けば、先輩も小さく顎を引く。

「俺も終わったらすぐに行く。その為にもお前は、早めに買い物を済ませてくれ」


 もしかしなくても先輩は、こうなることを見越していたんじゃないかという気がした。

 私がお店を訪ねてきて、結果的に『遠目に見ているだけ』という約束を破ることになって、そして先輩の仕事を邪魔してしまうと予想していたのかもしれない。その為に私の好きそうな本を選んでいたのだとしたら、実に用意周到だと思う。

 でも、邪魔になるから出て行け、とストレートに言われるよりはずっといい。

 むしろそうやって、いろいろ読まれてしまっていることがなぜか嬉しい。

 それに期せずして、短い時間ながらもデートの約束を取りつけることができたのだし――。


 嬉しさのあまり、私は先輩セレクトの文庫本を三冊も購入してしまった。

 そして先輩がレジを打つ姿を間近で観察する権利も得た。先輩の手は一つのミスもなくキーを打ち、愛想こそないものの『お会計、三百五十円でございます』とあの声で言っていただいた。お金を手渡す際は私の方が緊張してしまって、百円玉をカウンターに落っことしもしたけど、先輩は軽く笑いながらそれを拾ってくれた。お会計が済んだ後はやはりいつもの淡々とした声で、ありがとうございました、も言ってくれた。

 こんな書店員さんのいるお店なら、毎日だって足を運ぶのに。


「ちょっとお二人さん、レジ挟んで見つめ合うのやめてくれます?」

 大槻さんには鋭い指摘をもらって恥ずかしかったけど、私は気分よく古書店を後にした。

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