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水無月(5)

 確認するような長い時間の後で、ようやく唇が離れる。

 ようやく――そう思ったのは嫌だったからではない。だけど私は混乱していて、激しい運動の後みたいに荒い呼吸を繰り返しながら、まだ目をつむっていた。目を開けるのが、怖かった。

 今のキスに心を掻き乱され、身体の力が抜けてしまって、でも不思議と気持ちがよくて、その全てを認めるのが怖かった。


 鳴海先輩も、その時、呼吸を乱していた。 

 だけど先輩の方は戸惑っていないようで、改めて両手で私の頬を捉えた。

 あの器用そうな指が私の皮膚に触れていると思うと、それだけで眩暈がするようだった。いつも私に対して言葉を繕わない先輩が、まるで本に触れるように柔らかく、優しい触れ方をしてきた。あの本になりたいと思ったことだってあった――ページを繰るように指先が、少しだけ頬をなぞる。

 促されるように目を開くと、鳴海先輩は至近距離から私を見ていた。先輩の眼差しはいつものように真摯で、でもどこか焼け焦げるような眼差しでもあって、見慣れた顔にもかかわらず、私は言葉を失っていた。

 見つめ合う距離は本当に近い。

 吐息が掛かりそうなくらいに近い。

 だから私は息を殺して、失くした言葉も取り戻せないまま、じっと目の前の表情に見入っていた。

 先輩も私を見つめている。両手で私の頬に触れ、眉間には皺を寄せ、酷く険しい顔つきをしながら、何かを探すように丁寧に視線を定めている。先輩の探しているものは見つかるだろうか、私がそれを持っていたらいいのに、と密かに願う。

 触れられた頬が熱い。それとも、先輩の手が熱いのか。触れているところから融け出してくっついてしまいそうなくらいに熱い。

 すぐ近くにある薄い唇の温度を知っている。もう一度、私に触れてくれることはあるだろうかと思う。それを待ち望んでいるような、だけど踏み込み切れないような、奇妙な躊躇を持て余していた。

 唇までの距離を失くしてしまうことも、今なら不可能じゃない気がする。

 その為に、私たちには何が必要なのだろう。


 いつしか雨音が聞こえなくなっていた。

 代わりに、そっと忍び寄るようなタイミングで先輩が口を開いた。

「雛子」

「……はい」

 名を呼ばれて答えた声は、やけにかさかさしている。

 先輩は表情を動かさず、重々しく私に告げた。

「もし俺が、お前の考えているような理想的な人間ではなかったら、お前はどうする」

 思いのほか難しい問いかけをされて、私は戸惑う。

 私の見ている先輩が、本質と違うなどということがあり得るだろうか。私は先輩のことをある程度は知っているつもりでいた。秘密の多い人だから、全てを熟知しているとは言い切れなかったけど、恐らく大方のところは知っているように思う。

 だけどそれでも、私の知らない先輩があるのだとしたら。

 むしろそれこそが先輩の本質なのだとしたら。

 例えば、先程のキス。私は鳴海先輩にそういう――知識があるとは思っていなかった。経験だってないだろうと思っていた。ない方がいい。私も、初めてだったから。

 だから酷く戸惑っていた。先輩がああいうキスをした相手は私だけだといい。他の女の人のことなんて知らない方がいい。そして私には、ちゃんと意味があってしたのだと思いたい。

 今の私は、その意味さえ知らないままだけど。

「どう……って」

 答えに迷う私の頬を、先輩の指が再度撫でる。

 張りついた髪をそっと払い、更に指先で梳いていく。壊れ物でも扱うようにそっと、優しく。途中で一瞬だけ耳の端に触れられた時、思わず身を竦めたくなった。

 そうしていても先輩は目を逸らさない。射抜くように私を見ている。

「失望はしないか」

 重ねて尋ねられ、私は息を呑んだ。


 私が先輩に失望することはあり得ない。

 その逆は大いにあり得るとしても――絶対にあって欲しくはないものの。

 だけど先輩にしてみたら、同じようなことを恐れているのかもしれない。私に失望されないか、落胆されてしまわないか。鳴海先輩のような人でも、そんな思いを抱くことがあるのかもしれない。

 私は先輩が好きなのに。

 何をされても構わないくらい好きだから、失望なんて絶対にしないのに。


 私の答えは明確に出ていた。

「私が先輩を嫌いになることは、絶対にないです」

 絶対に。

 そう告げると、先輩は軽く瞠目し、それから眉を顰めた。

「本当にか?」

 私は首肯する。

「本当です。びっくりは、するかもしれませんけど」

 新しい一面を見つける度に驚かされるのは、別に嫌なことでもない。

 むしろ知りたいと思う。鳴海先輩についてを、もっとたくさん、全てでもいい。知った上で先輩のどんな側面も、同じように受け止められたらと思う。

「驚くか。まあ、そうだろうな」

 先輩が独り言のように呟いた。予想はしていたというように、ただどことなく、落ち着かないそぶりで。

 だから私は、そんな先輩を安心させようと大急ぎで言い添える。

「あの、驚くと言っても、すぐに慣れられるように努めますから大丈夫です。むしろ私の方こそ、いろいろと至らないところだらけで、先輩にはさぞご迷惑をお掛けしているかと思いますが、今後は重々気をつけます。ですからできれば、愛想を尽かさないでいてくださるとありがたいです」

 随分と早口になった私の言葉を、先輩はぴたりと動きを止め、聞いていた。

 奇妙な沈黙が数秒間。

 その後で、先輩が目を伏せた。

「よくわかった」

 納得したような声音に、何がわかったのかすらわかっていない私は、

「は……はい? 何がでしょうか」

 気の抜けた調子で問い返す。

 先輩は溜息をつく。

「お前に打ち明けるのはまたの機会にする」

 するりと両手が、私の頬からあっけなく離れた。さっきまであんなに大切そうにしてくれていたのに、諦めたみたいにためらいなく手放されてしまった。

 驚いて見上げれば、先輩は眉を顰め、呆れたような顔をしている。

「しかしお前は、本当に勘が鈍いな」

 急にそんなことを言われて、私は更に動揺した。

「そ、そうでしょうか。先輩のおっしゃるほどではないと思いますけど」

「いや、ある」

 溜息の後で先輩は、そっぽを向いてしまう。

 そしてぼそりと低く聞こえた。

「お蔭でこっちはいろいろとやりづらい」

 ぼやきのような言葉を聞いた私は、熱が引いてしまった先輩の態度を奇妙に思う。

 私が何か、おかしなことを言ったのだろうか。

 さっきまでの甘い空気はどこへ消えてしまったのだろう。今はどこにも見当たらず、あの大人のキスさえ、夢だったのではないかと思えてきた。


 私が帰路につく頃には、外は小雨模様となっていた。

 一人でも平気だと言ってはみたものの、先輩は駅までは送ると言って聞かなかった。

 私も一緒にいたくないわけでは断じてなかったから、今は二人、肩を並べて歩いている。濃紺と淡い水色、二つの傘にぱらぱら小雨が落ちてくる。

 汚れた制服はバッグの中だ。帰ったら急いで洗わなくてはと思うと、ずっしり重たく感じられた。

 これさえなければもう少し長い時間、先輩の部屋にいられたのに。

 今日みたいな日はもうちょっとだけ、二人だけでいたかったのに。


 私はまだ、あの甘い雰囲気を引き摺っていた。

 あの時、先輩の問いにもっと別の答え方をしていたら、私たちの間にはもう少し違う事態が起きていたのかもしれない。ただの予感だけど、そう思う。私は言葉の選択を誤ったのだろう。先輩はあれきり何も言及してこないものの、勘の鈍い人間なりにも察するものはあった。

 だからと言って、一度消散してしまったものを取り戻すのは容易くない。恋人同士であるはずの私たちが、ああいう空気に身を置く機会はちっとも多くなかった。

 そのせいか、鳴海先輩との距離は一向に縮まる気配を見せない。遅々として動かないというほどではないにしても、目視できないような、もどかしいほどの歩みだと自分で思う。かつての一方通行ぶりから比較すると、動きのある分だけでもましだとしなければいけないのだろうけど。


 名残惜しい思いで、隣の傘を盗み見る。

 濃紺の傘の下、先輩は頑ななまでの仏頂面でいたものの、私の視線を察知したのだろうか。不意にわかりやすく気まずげになった。こちらを見ずに口を開く。

「雛子」

「なんでしょう」

 すかさず問い返した私に、先輩はまず溜息を一つ。

 それから静かに語を継いだ。

「今から、くだらないことをお前に話す。黙って聞き流してくれ」

「え?」

 私は驚いたけど、すぐに先輩が話し始めたから、頼まれたとおり黙っていることにした。

「俺が高校生だった頃の話だ」

 淡々とした口調で先輩は言う。

 細く降る雨の中、何気ない調子で語る。

「あの頃、俺が何よりも一番考えていたのは、一刻も早く卒業してしまいたいということだった」

 私は傘の柄を握り締め、先輩が何を語ろうとしているかを理解する為、耳を傾ける。

「家を、出たいと思っていた」

 そして先輩は、雨音に染み込むようなトーンで言った。

「考えていたのはそんな、くだらないことだ。お前が勘違いしているような、高潔なものでもストイックなものでもない、本当にくだらないことだった」

 少し遅れてずきりとして、私は視線を足元へ落とす。

 街灯の明かりが映る水たまりに、靴先が細波を立てた。


 先輩の実家や家族についての話は、まだちゃんと聞く機会もなかった。

 他のどんな話題より、先輩が最も語りたがらないことだから、私もあえて詮索する真似はしないようにしていた。ただ、電車で帰ることのできる距離に実家があるという事実と、それほど近くても寄りつきたくない場所であるらしいこと、そしてそれでも昨年のお盆と年末年始には帰省したという話だけは知っていた。

 あまり幸せではないのかもしれないと、私は漠然と察しつつある。


 今も詳しくは語らないまま、先輩は更に言葉を続けた。

「つい先程も、実にくだらないことを考えていた」

 私は隣の傘に視線を戻す。

 先輩の横顔は、真っ直ぐ前を見つめている。何でもないような顔をして、淡々とした声で言う。

「お前は、髪を結んでいないのも似合うな」

 あまりに平坦な調子で言われたので、一瞬、誰の話をしているのかわからなかった。

 気づいてからはひたすら慌てた。先輩の言う『先程』を思い出して、余計に動悸が激しくなる。

 もしかして、あの時のことだろうか。

 あの時、先輩はそんなふうに、私について考えていた?

「え、あの、そうでしょうか」

 私はまだ生乾きの、だけど既に結んでしまった髪に触れて、急いで尋ね返す。

「先輩は、髪を下ろしている方がお好みですか」

 何かが似合う、と言われたのは恐らく初めてだ。いい意味でも悪い意味でも言われたことはなかった。そしてこの場合は多分、いい意味なのではないかと思う。思いたい。

 確かめたくなった私の気持ちに、先輩は静かに答えてくれた。

「たまに見るなら新鮮でいいと思った」

「次にお邪魔する時は、結んでこない方がいいでしょうか」

「いや、いい。いつもの髪型も嫌いじゃない」

 先輩は、実に先輩らしい物言いでそう言うと、ちらと目の端で私を見る。

 愛想のない口調が後に続いた。

「ほら、くだらないことを考えているものだろう。お前の考えているような理想的な人間はどこにもいない。俺はこういう人間だ」

 私は黙って目を瞬かせ、先輩は手にした傘ごと肩を竦める。

「だからお前も、あまり難しく考え過ぎるな。この世に完璧な人間はいないし、失敗をしない人間も、出来ないことのない人間もいない。お前はお前ができることを、求められる通りにやってのければそれでいいはずだ」


 告げられた内容に驚いていた。

 先輩が『くだらないこと』だと言い切った考え事もそうだけど、普段はあまり語りたがらないようなその内容を私に明かしてまで、私の行き詰まった考え方を諌めてくれたことに、とても驚かされた。

 鳴海先輩のような人でも、時に脇道へ逸れるような考えを持つことがあるとのことだし、もしかしたらごくまれに、他の考えなくてはならない事柄を放り出してでも囚われてしまう思いを、抱くこともあるのかもしれない。先輩の言う『くだらないこと』を、どうしても考えずにはいられない時もあるのかもしれない。

 でも、思う。

 私は、私のまだ知らない先輩についての事柄を、この先全て知ってしまったとしても、先輩を嫌いになることは決してあり得ない。失望することも、落胆することもないと言い切れる。むしろ逆の可能性が恐ろしくて、この距離を縮めることには躊躇いもあるけど――こうしてゆっくりとでもお互いに歩み寄っていけたら、胸裏を打ち明けあっていけたら、いつか、全ての距離もなくなってしまうだろう。

 今も少しずつながら、確実に近づけたように思う。


 私は不思議なくらい、心が軽くなっているのに気づいた。

 駅までの距離はあとわずかだ。だから思い切って尋ねてみた。

「先輩。先輩は、去年の今頃のことを覚えていますか」

「去年?」

「そうです」

 問い返されて、私は頷く。

「去年の今頃、私は今日と同じように、先輩の部屋にお邪魔して、タオルをお借りしたことがあったんです」

 すると少しの間、先輩は唇を結んで押し黙った。

 傾いた濃紺の傘の下、険しい表情がやがて呟く。

「俺はあの頃から思っていた」

 すぐに私は尋ねた。

「何を、でしょう」

「お前は、髪を解いているのもよく似合うということをだ」

 ぼそっと打ち明けられた言葉は、予想外のものだった。

 一年前の出来事を先輩も覚えていたようだ。私にとってはとても印象深く、けれど時間にしてはごく短く、そして些細なやり取りに過ぎなかったあの雨の日のことを。

 先輩は困ったような顔をして言った。

「くだらな過ぎて、とても言えるようなことじゃなかった」

 私はそうは思わない。一年近くも秘密にしておくようなことではないはずだ。

 あの時、私の髪に触れてくれた理由が、今になってようやくわかった。


 鳴海先輩も、雨の日にはあの日のことを思い出し、感傷に囚われることがあるのかもしれない。

 あるいはこれから先、雨が降る度に今日のこの会話を思い出して、くだらないとぼやきながらも私について、ほんの一時でも考えてくれる機会があるかもしれない。

 そう思うといとおしくて堪らず、私はようやく、六月の雨を好きになれそうな気がした。

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