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序章:春はすぐ傍に

 学校で、作文の宿題が出た。

 テーマは『十年後の自分』だ。


 その日の放課後、私は原稿用紙を携えて鳴海先輩の元を訪ねた。

 先輩が暮らす部屋は通学路の途中にある。駅前通りの少し手前、閑静な住宅街の一角に佇む単身者用のアパート。その一階に部屋を借り、たった一人で住んでいる。

 私は先輩の『彼女』だから、その部屋を訪ねていくことを許されていた。先輩から合鍵を貰っていて、それをいいことに何かと口実を見つけては通っている。歓迎されない場合もあるものの、概ね受け入れてもらえているようだ。


 私がチャイムを鳴らすと、鳴海先輩はドアを開け、いつも通りの仏頂面を覗かせる。

「どうした、雛子」

 そう尋ねる時の目つきは、およそ恋人に向けるものとは思えないほど鋭い。

 だけど私は、先輩のその目が好きだった。

「先輩、お邪魔してもいいですか」

「ああ。好きにすればいい」

 素っ気ない了承の後、鳴海先輩は腕を伸ばして玄関のドアを大きく開ける。

 私はその腕をくぐるように、先輩の部屋に今日も忍び込んだ。


 1Kの小さな部屋には、先輩が書きものをする時の机と、古い本がぎっしり詰まった本棚と、小さな座卓があるだけだ。

 シンプルを通り越して殺風景な部屋の中、鳴海先輩は座卓を挟んで差し向かいに座る。私よりずっと背が高く、それでいて痩せぎすの先輩は、とても姿勢よく美しく座ってみせる。形のいい眉を顰め、鋭い双眸で私を見据え、薄い唇を引き結んだその表情は、この世のどんな男性よりも素敵だと思っている。

 だけど鳴海先輩に言わせれば、私の目が悪いからそういうふうに見えるのだそうだ。実際、私は眼鏡を必要とするほど視力が低い。だけど先輩が素敵なのは事実だ、間違いなく。


 ともあれ私は、この度の訪問に理由を先輩に告げた。宿題の作文の話を、鳴海先輩はにこりともせず、その分とても真剣に聞いてくれた。

「――それで是非、先輩の意見も伺いたいなと思ったんです」

「聞いてどうする」

 用向きを一通り聞いた鳴海先輩は、不機嫌そうに問い返してくる。

「聞いてはいけませんでしたか?」

「こういう文章はお前の方がよほど得意だろう。いちいち俺に聞く必要もあるまい」

「得意というほどではないですよ。読書感想文なら好きですけど……」

 私は高校で文芸部に所属しており、今年度からは部長になった。読書感想に創作にと、文章はそれなりに書き慣れている。原稿用紙一、二枚の作文に難航するようなことはないはずだった。

 だから要は、単なる口実だ。鳴海先輩の部屋を訪ねてこうして話をする為の。

 それともう一つ、作文を口実にして先輩に尋ねたいことがあった。

「先生から聞いたんです。東高校の三年生は、毎年四月に『十年後の自分』について書くんですよね」

 私が本題を切り出すと、鳴海先輩は会話を打ち切るように手元の文庫本を開く。

「ということは先輩も書かれたんですよね、この作文」

 先輩は答えない。

 だけど浮かべた渋面が何よりの答えだった。

「先輩はどんなことを書いたんですか?」

 私が畳みかけると、先輩は文庫本から顔を上げずに言った。

「だから、聞いてどうする。俺のは参考にはならんぞ」

「そんなはずないです、だって鳴海先輩の作文ですよ」

「読んでもいないのになぜ断言できる」

「作文はないですけど……先輩の文章はよく読んでますよ、一番のファンですから」


 作家志望の鳴海先輩が書く小説を、私はかれこれ二年も読ませてもらっている。

 先輩もかつては東高校の文芸部員であり、端正かつ繊細な筆致は当時から私の心を惹きつけてやまなかった。現在は大学の文芸サークルに所属しているそうで、そこで書いたものを私にも読ませてくれるのが幸せだった。

 ただ私は先輩の熱心なファンを自称しているのに、これまで作文や論文といった作品を見せてもらう機会は今までなかった。さすがに二年前の作文が手元に残っているということはないだろうけど、先輩が『十年後の自分』というテーマをどんな切り口で書いたのか、是非知りたい。


 もっとも先輩はこの話題を続けたくないようだ。

 私にも、座卓の上で広げている原稿用紙にも関心を払わず、手にした本をきつく睨みつけている。

「優秀作品は文集に掲載されるとのことですけど、先輩の作品、載ってたりしませんか?」

 私は追い込みをかける。

 集められた作文は校内選考の後に市教委へ提出され、文集に掲載されることもあるのだそうだ。鳴海先輩ほどの人なら東高校の代表として選出され、華々しく文集を飾っている可能性もあるだろう。

 ところが、

「そんなはずはないな」

 鳴海先輩はそこで、きっぱりと否定した。

 そして面を上げて私を見据えると、一つ溜息をついた後で続けた。

「俺はその作文を書かなかった」

「そう……なんですか?」

「書けなかった、と言う方が正しいか」

 言い直された言葉に私は驚いた。

 かつて文芸部に所属していて、文章を書き慣れていて、いつも私の心に響く美しい小説を作り上げる先輩が、たかだか原稿用紙一、二枚の作文を仕上げられないなんてあるだろうか。

 驚く私の顔を、先輩はどこか苦々しげに見ている。

「自分の話なんて書いてもつまらんだろう。お蔭で筆が乗らなかった」

「先輩ならたとえ筆が乗らなくてもすらすら書いてしまうんじゃないかって……」

「それは買い被りすぎだな、俺も書きたくないことまでは書けん」


 書けなかった、書きたくなかった。

 作文に対して先輩が口にするのは後ろ向きな言葉ばかりだった。先輩のように生真面目な人が、教師から課せられた宿題を疎かにするとは思えない。でも先輩が私に嘘をついているようにも見えなかった。

 それよりも気にかかったのは今の先輩の表情だ。先程までの仏頂面とは違う、繊細な少年のようにも見える苦い面持ち。薄い唇を引き結び、いつもは鋭い目を伏し目がちにして、酷く辛そうな顔つきに見えた。

 先輩にそんな表情をさせるほど、『十年後の自分』とは書けない、書きたくならないテーマなのだろうか。


「……でも、先輩には夢がありますよね?」

 私は食い下がるように問いかけた。

「それなら夢の話を書けばよかったのはないでしょうか。十年後には作家になっていたい、とか」

 すると鳴海先輩はなぜか少し笑った。

「見ず知らずの他人に触れ回る話でもないだろう。何人かに打ち明けておけば十分だ」

 鳴海先輩は夢に向かって日々研鑽を怠らない人だ。

 私は先輩が書き上げてきた物語をこれまでいくつも、いくつも読ませてもらったし、先輩が夢に近づけるよう一読者として助言もしてきた。どうして作家を目指すのか、どうして物語を綴るようになったのかはまだ教えてもらったことがないけど、それは普段ストイックな先輩ですら捨てきれない大きな夢であり、欲求なのだと思っている。

 それを私に打ち明けてくれたということは、きっと誇りに思ってもいいのだろう。

 だけど少し、胸が痛い。

「なぜそんな顔をする」

 先輩が私の顔を見て、今度は困惑したように眉を顰めた。

「人にずけずけと尋ねておきながら、急にしおらしくなるのはお前の悪い癖だ」

「すみません、あの……」

「大体、俺はお前を落ち込ませるような話をした覚えはない。作文は書けなかったと言っただけだ」

 恐らくそれは先輩なりのフォローなのだろう。

 でもそのフォローこそが、逆に先輩にとって『十年後の自分』がどれほど悩ましいテーマであったかを私に想像させる結果となってしまった。


 私は鳴海先輩の背負うものをまだ知らない。

 恋人として部屋に入れてもらうほどの仲でありながら、鳴海先輩が頑なに話そうとしない話題がある。それは一人暮らしの先輩のご実家のこと、ご家族のこと、そして子供時代のことだ。その手の話題に差しかかると、鳴海先輩の口は途端に重くなる。

 私は先輩のことを何でも、どんなことでも知りたいと常々思っているけど、それを先輩に尋ねることはできずにいた。

 尋ねれば先輩は、きっと先程のような繊細な表情をするのだろう。

 好きな人に対する好奇心と探究心は果てしなく、私は鳴海先輩のことなら何でも知りたいという強い衝動を常に抱えている。だけど無神経に触れてしまってから急に後ろめたい気持ちになって、胸が締めつけられるように痛んでくる。


「お前は、書けないわけでも書きたくないわけでもないんだろう」

 罪悪感から黙り込む私を見かねてか、先輩がそう切り出した。

「なら、書けばいい。何なら書き上がったものを見てやろう」

「先輩……」

 思いがけない申し出に、とっさに感謝の言葉すら出なかった。

 鳴海先輩は優しい人だ。私以外の人はちっともそう言ってくれないけど、私は確信している。いつもの仏頂面からは一見わかりにくい優しさも、先輩が背負うものがそうさせているのかもしれない。

 私は先輩のことをろくに知らないけど、この先教えてもらえるかどうかもわからないけど、密かに思っていることが一つある。

 いつか私が、先輩を幸せにしたい。

「……じゃあ私、書きます」

 私は痛む胸を張って宣言した。

「先輩が書けなかった分まで、十年後の夢を書きます。だから見ていてください」

「わかった」

 鳴海先輩は思いのほかすんなりと頷いた。

 でもその顔が腑に落ちたようではなかったから、私は説明を添える。

「先輩のことも書くって言ったんですけど……」

 途端に先輩は目を剥いた。

「は? なぜ俺がそこに出てくる」

「だって十年後の自分ですよ。私の十年後には先輩がいてしかるべきなんです」

「だからと言って俺を、学校の作文に出す必要はあるまい」

「あります。私の夢は先輩の、糟糠の妻ですから」

 好きな人のお嫁さんになること、それは女の子にとってごくありふれた夢の一つだ。

 十年後の私は二十七歳。結婚していてもおかしくない年頃だ。そしてできることなら――絶対に、その時も先輩の傍にいたい。

 先輩に、私を好きでいて欲しい。

 今だって、付き合っていても『好きだ』と言われたことはないけど。

「待て、それは書くな。作文だぞ」

 鳴海先輩はすっかり慌て、私を咎め立ててきた。

「学校に提出する文章に部外者の名前を載せるのはよくない。考えればわかることだろう」

「でも私、書きたいんです。嘘を書くのは嫌なんです」

 今の私にはまだ、先輩を幸せにする力がない。

 だからせめて、作文の中だけでも先輩を幸せにしてあげたかった。

 でもそんな私の気持ちは全く伝わらなかったようで、先輩は私を止めようと躍起になっている。

「そこは弁えて取り繕え。明け透けに書くのが正しいものではないぞ」

「だって先輩の分まで書いていいって言ったじゃないですか」

「俺の名前を出していいとは言ってない」

「では、いいと言ってください」

「言うわけがない。――おい、話が途中だ、書き始めるな!」

 先輩の許可が貰えそうにないので、私は目の前の原稿用紙にペンを走らせ始めた。

 タイトルと名前を記したところで先輩が私の右手をぎゅっと握り、

「書くなと言っているだろう。そういうものは内に秘めておけ!」

 叫ぶようにそう言った。


 先輩の手は指が長くてきれいで、でも骨張っているせいでごつごつした感触だった。大きな手のひらは温かく、ペンを持つ私の手を包み込むように握っている。力を込められたのは一瞬だったけど、その時、心臓が止まるかと思った。

 ちょうど書き終えた私の名前の上で、私の手は先輩の手に囚われるがままになっている。

 そのまま、しばらく動かせなかった。

 動けなかった。


「……いや、違う。違うからな」

 やがて鳴海先輩が、私の手を握ったまま口を開いた。

「今のは止めようと思って握ってしまっただけだ。わざとでもなければ、そういう意味でもない」

 二倍速みたいな早口の弁解だった。

「わ……わかってます。あの、私もびっくりしただけで……」

 再び動き出した私の心臓もいやに速く、応じる声もすっかり震えていた。顔が赤いのも見ればわかるだろうけど、先輩は目を逸らしているのでまだ気づいていないのかもしれない。

「手を離すぞ、いいな」

 いちいち断らなくてもいいのに、先輩はわざわざ言って、私の手から自分の手を剥がそうとした。

 私が黙っていると、指を数本浮かせた後でまた戻して、それから不服そうに尋ねた。

「なぜ返事をしない。離しにくくなるだろう」

「別にその、離さなくてもいいかなって思って……」

「馬鹿を言うな。手を離さなければ作文は書けまい」

「書いても、いいんですか? 私が思う通りに」

 ずるい言い方かなと思ったけど、鳴海先輩は思った通りに私の右手を強く握り直した。


 しばらくの間、私達はタイトルと名前だけが書かれた原稿用紙の上で、手を繋ぎ続けていた。

 作文には書けないことが今、原稿用紙の上にある。本当は書きたいけど先輩がいいと言ってくれそうにないから、一足先に胸の中にだけしたためておこう。

 私は先輩を幸せにする。


 四月の西日が部屋に差し込んでいて、そのせいか先輩の手は、とても温かかった。

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