第1話 真夜中の少女
小春日和の暖かな日差しと、髪を撫でる程度のそよ風が心地よい五月のとある休日。弘恵は庭先で花壇に水遣りをしていた。家の中では中年太りになりかけの夫が、ソファーの上に寝転んで旅番組を見ている。
『何を一生懸命見ているのかしら。どうせ行かないくせにっ!』
と、弘恵は心の中でつぶやく。
そんな彼女の隣では、今年四歳になる娘が、僅かに散らばる水しぶきを気持ちよさそうに浴びている。
「ねぇママ、こっちの子にもお水あげて」
「そうね。ちゃんとこの子にもお水、あげなきゃね」
そう言って弘恵は娘が指し示す方へ、シャワーホースを向けた。
「そいつ、大きくなったな」
先ほどまでテレビを見ていた夫が、リビングの窓際から弘恵に話しかけた。
「そうね。あれから五年だものね。この子も成長するわよ」
弘恵はホースの先を見つめて、ふっと回想し始めた。
――それは五年前の秋、弘恵が十五年振りに開催された同窓会に参加するために、生まれ故郷に戻った時の出来事だった――。
その日、久しぶりの旧友との再会に羽目を外してしまった弘恵は、かなり酒の量が進んでいた。話題は専ら『三十路前の恋人探し』で、彼氏彼女のいない同窓生を中心に話が盛り上がる。
そんな中、弘恵は一つ年上の彼と社内恋愛が成就し、結婚に向けて秒読み段階だった。
「いいなぁ、弘恵は。婚約出来て。私なんか彼氏すらいないよ」
小学校時代に仲の良かった量子が言う。
「俺もだぜ。仕事もそこそこできるし、貯金もあるのに彼女だけがいねぇ」
「直弥、そういえば弘恵のこと好きだったんだよね」
「そんなこともあったなぁ。あれだけアプローチしたのに振り向いてはもらえなかったけどよ」
「そうなの? なんかアプローチされたっけ? 私泣かされた覚えしかないけど――」
弘恵は首を傾げる。
「確かに泣いてたな。何故だっけ?」
当の直弥も覚えていないらしい。
泣いた覚えはあるが、何故だかその理由が分からない。そんな子供の頃の淡い恋愛話をしているとどこからともなく
「そいうえば美代子は?」
という会話が聞こえてくる。それに対して幹事らしき人物が
「実家に連絡したけど返信なかったよ」
と返答していた。
その後、飲み会は結婚組と未婚組に分かれての大激論大会へと発展する。弘恵はそんな同窓生の狭間に立ち、ついつい飲み過ぎてしまい、かなり心地よい気分に出来上がっていた。
同窓会も十一時前には終わり、弘恵はみんなと別れて、駅前に予約したホテルへと向かう。
昼の照り付けるような日差しで温まった道も、夜になると丁度過ごしやすいくらいにまで気温が下がっていた。弘恵は千鳥足気味にヨタヨタと歩きながら、虫が飛び交う街燈が照らす路地を抜けて行った。
『ん、路地?』
弘恵はここで初めて気が付いた。駅までの道にこんな路地は通らなかったはず――。
目の前には、工事現場のフェンスに囲まれた敷地の中に、葉をつけた大きな木が立っている光景が目に飛び込んできた。なんか見覚えがある木と風景。でもどことなく違和感が――。そう思って周囲を見回すと一瞬でそこがどこか理解できた。
「ここって… …、私が昔住んでた場所じゃないっ!」
そう、そこは弘恵が生まれてから、今の街に移住するまでの十五年間を過ごした場所だった。かつての癖で気が付かないうちに歩いて来てしまっていたようだ。とはいえ、自分の生家がなくなっているのはもちろんのこと、周囲の家もことごとく取り壊されており、区画一体が更地に化していた。隣接する区画に残るかつてのご近所さんの家がなければ分からなかったところだ。
それともう一つ、目の前に佇む大きな木――。
記憶の片隅に残るその木も、その場所が生まれ故郷の土地だと立証する手がかりになっていた。
弘恵は工事フェンスに囲まれた区画をぐるりとまわった。フェンスの立て看板には「大型マンション建設予定地」と書かれている。おそらくどこかのゼネコンが区画ごと買い取ったのだろう。日付からして着工予定日は明日のようだ。
かつての実家の場所がマンションに変わってしまう複雑な思いを胸に抱きながら区画に沿って歩く弘恵の前に、麦わら帽子に白いワンピースを着た小さな少女が現れた。その子はフェンス内の大きな木をジッと見つめてただ立っていた。時刻は十一時半を過ぎている。小さな女の子が独りで出歩く時刻には非常識な時間だ。弘恵は一瞬で酔いが冷め、女の子に近づくき声をかけた。
「どうしたの、こんな時間に。迷子になっちゃったのかな?」
少女はその声に反応して、無表情でこちらを向く。何も話さない。
――警戒しているのかしら。知らない人だものね――
と、好意的に解釈する弘恵。
「大丈夫よ。心配しないで。お家はどこ?」
少女は相変わらず無表情だったが、人差し指を突き出して一言言った。
「ここ」
「ここ?」
弘恵はこの区画に少女の思い出の家があったのだろうすぐさま悟った。自分の今の思いとオーバーラップし、少女の気持ちが痛いほど分かる。きっと両親と過ごした思い出の場所なのだろう。少女にとっては新しく引っ越した家は、未だに馴染めずに、つい様子を見に戻ってしまったのかもしれない。
ただこんな時間にこれ以上、少女をこの場所にいさせるわけにもいかなかった。
「そう、ここなんだ。でもね、もう遅いから帰ろうよ。お姉ェさんが送って行くから」
弘恵は少女の手を取った。しかし、その手を握った瞬間、なんかとても懐かしい感覚を弘恵は体感した。その感覚はもしかしたら少女にも通じたのかもしれない。掴んだ手を離すと、少女は弘恵を見上げながら言った。
「私、明日死んじゃうの」
「えっ死んじゃうってどういうこと?」
予想もしなかった少女の発言に血の気が引く弘恵。そんな彼女に少女は握りしめた手を差し出して来た。
手には何かを握っているようだ。
「コレ、あげる」
「あげるって?」
弘恵は少女の差し出す手を、おもむろに握り返していた。少女が手を開くと、眩いばかりの光の粒が手の中から溢れ出した。
そして、弘恵の意識はそのまま遠のいていった――。
第二話に続きます… …