3日目
彼は昨日の約束のとおり、砂浜で細身の男を待った。だが、今日は男が来るのが遅かった。そして男の顔には昨日までのようなにこやかな笑顔はなく、陰鬱とした様子を悟られまいとする、ぎこちない微笑みしかなかった。
彼は男の様子を怪訝に思った。男はただ疲れているだけだろうか。それとも何か心に傷が残るような痛みを感じたのだろうか。昨晩何かあったのか?
男は一言二言彼と会話したあと、森の中へと歩き始めた。すると全く黙り込んでしまった。彼らの間には会話はあまりなかったが、それでも全く何も話そうとしないというのはさすがに変だった。彼は男に何かあったのかと尋ねた。男は最初はなんでもないの一点張りだったが、やがて観念したように静かに話し出した。
「きのう、あなたが、あいたいと、いっていた、こどもが、きょうの、あさがた、なくなりました」
男の声は、平板で淡々としたものだった。感極まることもなく、事実だけを自動的に述べているようだった。
彼は男の言葉にショックを感じた。昨日の楽しみが全て崩れ去ってしまった。それも全く予期しないことで、そして最も悔やまれることで。
彼は涙を流すことはなかった。さすがにほとんど接点のない子供だ。一度でも遊んでいたら思い入れもあるかもしれないが、姿をちらっと見ただけでは心をしぼませるほどの感傷はない。しかしそのことはなぜか彼に罪悪感をもたらしたのだった。
彼は男にお悔やみの言葉を述べた。そして男に、調査が始まる前に祈りを捧げさせて欲しいと言った。男は驚いた様子で彼の顔を見た。その顔は憔悴していた。人口が数十人しかいない村だ。他人の家の子供であっても、我が子と同じように思っているのだろう。そうなるのも仕方あるまい。彼は男に自分の亡くなった母のことを話した。そして身内を亡くすことの悲しみへの共感を示し、彼を慰めた。
やがて二人は村へと着いた。村は昨日とは打って変わって息が詰まりそうなくらいの陰鬱な雰囲気に包まれていた。陽光もどこか弱々しいものに思え、浜辺に打ち返す波も喪服を着た淑女のように静かな悲しみを纏っているようだった。
亡くなった男の子は、その子の住んでいた高床式の家の中で、小さな敷物の上に寝かされていた。もともと色白だったように思える顔は、血の気が引いているためにさらに白くなっていた。遠目から見たときには分からなかったが、その男の子はかなり痩せ細っていた。昨日この子が彼に姿を見せたのは、この子のとってはかなりの重労働だったのかもしれない。それがこの子供の最後の力を振り絞って試みたことだったのかもしれない。
彼は男の子に祈りを捧げた。できるだけ丁寧に、誠実に捧げた。さっきは彼にもたらされなかった涙が彼の頰を伝った。この子供の最後の思いはどのようなものだったのだろうか。彼は考えただけで胸が締め付けられる思いがした。
彼はもう少しここで祈っていたい気もしたが、調査のこともあったので、男を介して亡くなった男の子の家族にお悔やみの言葉を述べ、男とともにその家を出た。
高床式の家の玄関口の階段を降りつつ、彼は男に、
「今日は調査をしても大丈夫なのですか?」
と尋ねた。
村は葬式の準備で忙しいだろう。それに喪に服す期間であるべきだ。そのような時に村人を連れ出して発掘の手伝いをさせるのはさすがに不謹慎で、慎むべきだ。それに、彼自身今は調査をする気は湧かなかった。
「いいえ。だいじょぶです。ちょうろうには、きょかをとっていますし、あなたはひとりで、ちょうさするようですから」
「それならば有り難いのですが……本当はこのようなときは調査はしたくはないのですが、いかんせん今日がここにいる最終日なもので。もう一度確認しますが、本当に大丈夫なのですか?」
「はい。きにしないでください」
彼は砂浜で見せた無理矢理作ったような微笑みで言った。
彼は男とともに遺跡へと向かった。そして遺跡に着くと、迎えの時間を約束し、男にすぐに村に帰るよう言った。そして、もし準備が忙しくてなかなか迎えに来れそうになかったら、遅れても構わないということも加えた。
男は小走りで帰っていった。やはり忙しいのに無理をしているのかもしれない。
彼は一瞬、すぐ帰って——浜辺沿いに歩けば男の村にまでなら行くことは出来る——男の手を煩わせないようにしようかとも思ったが、わざわざ案内をしてくれたのに十分な調査もせず帰るのは申し訳ないと思った。彼はやはり、約束の時間まで調査をすることにした。
彼は昨日と同じく遺跡の周りをぐるっと一周した。そして昨日書いたメモと齟齬が無いか確認した。加えて昨日見つけた腕輪を確かめ、その掘削を始めた。
掘削は五分ほどで終わり、そこからは遺跡の周りを回りながら祭壇の近くの適当な場所を選んで、地層がどのようになっているかを確認する掘削を始めた。
彼は何かが出てくることを期待したがなかなかめぼしいものは出てこなかった。とはいえ今は試掘の段階だ。腕輪が出ただけでも十分だろう。彼はあと五センチ掘ったら、調査は終わりにしようと思った。約束の時間まではあと三十分ほどだ。掘り終わったころには丁度良い時間だろう。
彼は調査の終了を決心してからさらに三センチほど掘った。すると彼の握っている移植ごての先になにか硬いものが当たった。
——?
彼はそれをこての先で軽く突いた。こては石に当たったときの鈴のような甲高い音は立てず、少しくぐもった音を立てた。彼は遺物かもしれないと思い、その"何か"を慎重に掘った。それは段々と白い石灰質の土の中から顔を出してきて、彼の見慣れた形を示した。
(ヒトの頭蓋骨の一部か……)
彼は埋まっている様子の写真を取ると、それを土から取り上げた。そしてしげしげと眺め始めた。骨の大きさは十センチくらいで子供のものと思われ、頭蓋骨のうち、右目の眼窩周辺と右の上顎骨のようだった。そこまで古いものとは思えないが、この遺跡が使われていた頃の、二、三百年前くらいのものではないかと思われた。
彼はその人骨をプラスチック製の遺物ケースに入れ、その人骨の周辺も探ってみた。するとその子供のものと思われる骨がまだ埋まっているのがわかり、場所と深さをメモしておいた。今日、掘るには時間が足りない。そのうえ人手も少なすぎる。彼はその人骨たちの上に、保護のために掘った土を埋め戻すと、屈んだまま掘っていたために固まった腰をほぐすようにしながら、立ち上がった。
彼はその子供に思いを馳せた。その子はいかにしてここで死んだのだろうか。それともここは墓でここに埋められたのだろうか。いずれにしろ、その命は短くして絶たれたことに変わりはなかった。彼の脳裏にふと、あの亡くなった村の子供の顔が浮かんだ。青白く、蝋人形のように生気の無い顔。その顔が彼が掘り出した頭蓋骨にぴたりと重なり、レントゲン写真ようになった。そしてまたその顔は夢の中の彼女へと移り変わっていき、同じような姿になった。彼ははっとしてそれをかき消した。あの美しい彼女に死のイメージは重ねてはならない。彼は慌てて、まるで何かを誤魔化すように村の方を見た。
村の方からは、細身の男が彼のもとへ向かって歩いてきていた。彼はここぞとばかりに辺りに散らばった道具の片付けを始めた。そうこうしているうちに男が彼の側へやってきて、男は彼に今日の成果を聞いた。彼はすぐさまここから離れようと思い、男に歩きながら話すことを提案した。
彼は男に子供の骨が出てきたことを話そうとはしなかった。彼の頭からは、消そうとしていたあのイメージが離れなかったのだ。気を張っていればそれは現れることはなかったのだが、気を抜くとすぐさま浮かび上がってきた。まるで麻薬の誘惑であるかのように、捨てようとしても襲ってくるのだ。
彼はうわの空だった。頭の中はみんなその心象の消去に専念していて、口は勝手に語っていた。だが彼はなぜ自分がこんなにもそれに拘っているのかがわからなかった。彼女に死のイメージは重ねてはならない。自分の中でそういう内容は決められていたのだがなぜかその理由は分からなかった。
ふと、細身の男が独白のように言うのが聞こえた。
——あのこも、このしまに、よいびょういんがあれば、たすかったらしい、のですが。
英語で話していたから、たぶんそのことを男は彼に伝えたかったのだろう。彼にはもう、話の文脈は読めていたなかった。しかしその一言だけは聞き取れ、彼の心に潜り込み消えなかった。
(忘れさせてくれ!)
彼は自分自身に言い放った。彼女は決して死のイメージ結びついてはならない。彼女がそれと結ばれた途端、その美しさは消えてしまうのだ。あの子供の死も消えなければならない。理由は分からないがそれが彼の答えなのだ。そうでないと彼がこの環礁で見つけた感動は全て崩れ去ってしまう。
——それはあなたを滅ぼすこと。
頭の奥から、まるで泉から水が湧きだすように声が聞こえた。
(!?)
彼は辺りを見回した。しかし彼女の姿は見当たらない。彼の隣を歩く細身の男が怪訝そうに彼を見ているだけだ。
彼は寂しがる子供のような顔をした。そしてまだ頭に残っているかもしれない彼女の名残を探った。彼は必死だった。
——あなたを滅ぼしたくないもの。
彼が見つけたのはその言葉だった。そしてそのあと彼女が見せた美しいとしか言いようがない微笑みだった。するとそれとともに彼の頭の中にあったものが全て崩れ去った。子供のイメージも彼女の像も、全てジグゾーパズルのように崩れ落ち、破片となって真っ暗な空間の中に積もった。
彼はその闇の中に新たなものが生まれているのに気がついた。それは細胞。現代のほとんどの生物よりはるかに小さく、核も持っていなかった。それはだんだんと分裂していき何百にもなった。さらにそれは進化をし、カンブリア紀のアノマロカリスの姿になり、石炭紀のメガネウラになり、ジュラ紀の恐竜の姿へとなった。そして最後には猿となり、人となった。
人は文明を作り上げた。世界中へ航海を始め、産業も起こした。やがて産業革命が起こり、世界中で科学が発展していった。やがて彼のイメージはとある病院の手術室へと移る。
その手術台の上には一人の女性が寝そべっていた。彼女はお腹が大きく膨れ上がり、妊娠しているようだった。彼女の顔はぼやけていて見えない。
彼女の横には医師が立っており、メスを握っていた。医師はメスを彼女のお腹に当て、それを切り始めた。帝王切開らしかった。
しばらくすると彼女の子宮が開かれた。中にいた赤子は足を産道の方へと向けていて、逆子だった。
彼はその赤子が誰なのかに気がついた。それは自分、彼自身だったのだ。
同時にぼやけていた女性の顔が一気にクリアとなった。そしてその顔に彼は驚愕した。あの夢の中ででてきた彼女だったのだ。あれは自分の母親だったのだ。自分が幼い頃に亡くした母親……。
(文明は善だったのか)
彼は思った。自分が今まで守ろうとしていたのは原初への憧れだったのだ。全てが美しく、全てが幸せだったように見える原初への。
彼は帝王切開で産まれたたと聞く。逆子だったらしい。もし彼が原初世界の人間だったらここに居ただろうか?
原初は生であるとともに死でもあったのだ。生に溢れた生活をする分、死もそこに重なるように入っていたのだ。
今の文明は原初に比べれば死からはだいぶ離れている。だが同時に生とも離れている。労働者として歯車となる機械的な人生に、生が感じられるようには思えない。
原初と現代という二つの項を比べ、彼はひとつの納得へと至った。世界はまだ過渡期であるのだ。今の今まで桃源郷が存在したことはなかったのだ。いつでも現在はどこかに欠陥があり、修繕を施す必要があった。進歩は永遠の実験であり、永遠の理想追求である。理想に至ることは絶対にない。しかしその追求が肝要なことなのだ。
彼は清々しい気持ちで男との村への道を歩いた。そして村に着くと、彼は村の子供の葬式を手伝い、それをこの環礁との最後の別れとした。




